晴久は供を一人も連れずに出雲からやって来たと言う。これには小十郎も驚き、そして自分が晴久の部下の立場なら眩暈がするほどの恐怖だろうな、と呆れた。
吉と晴久と別れて城へ戻り、政宗に委細を話す。流石に政宗も驚いた。出雲の国主が何の連絡もなく他国へ現れるとは。一歩間違えれば政治的な大事件だ。
だが、吉を訪ねて来たと言う説明を受けると、納得したように息を吐いた。
「そういや、織田が出雲に援助したのは姐さんの時か。どこで繋がってるか分かんねえもんだなあ」
「俺も驚きました」
「姐さんと尼子、二人きりだろ。心配じゃねえの?」
半ばからかうような政宗の言葉に、小十郎は苦笑してみせた。吉のことを訊かれると、苦笑ばかりだと不意に思う。
「晴久殿は上の弟のようなものだとか。晴久殿も、きつを姉として慕っているようで」
「あらまあ、美形姉弟。そこに真田が入りゃ、目が眩むぞ」
「では、政宗様がお入りになれば更に大変なことになりましょうな」
「分かってんなあ。ところが俺は姐さんの『弟』にゃなれねえからな。遠慮しとくよ」
弟ってのは性に合わねえ。政宗は小さくそう続けたが、小十郎は聞こえない振りをした。政宗の言葉の力が心地よく、自分の声で消したくなかったからだ。
「先ほど晴久殿のご助力で、きつのあの手紙の解読ができました」
「解読って言葉があてはまるあたり、お前のカミさんがよく分かんねえ」
「政治さえ絡まなければ案外分かりやすい女ですがね」
「そんなもんかね」
俺には複雑怪奇でミステリアスだわ、と心の中で呟き、政宗は小十郎に話を促す。小十郎はざっと説明し、ようやく主君の悩みのひとつを取り除くことに成功した。
「ああ、なるほど。でもまあ、細かいことはお前んちで訊くよ。……訊かせてくれるって信じていいよな」
「……そこは何とか。俺が宥めすかします」
晴久が来なければ、割と素直に応じたかもしれない。だが来てしまった今、政宗を「可愛い上の弟との再会を邪魔する者」と認識すれば全ては終わりだ。
「何とも」
小十郎は政宗に頭を下げる。
「面倒な嫁で、申し訳ありません」
「や、別に。俺はそういうの、思ってねえし。こういうのも楽しい」
本気で吉に見下されているだとか、馬鹿にされているだとか──感じたことは一度もなかった。率直な女だ。言葉もきつい。だが傷付けるようなことを何も言わない。
試されているのが分かる。
そして自惚れても良いのなら、と思う。
自惚れても良いのなら、成長を待たれているのだろう、と。
冷たいあしらいも何もかも、いつかそれを覆してやろうという気になる。だから何をされようと、言われようと、傷ついたことは一度もないのだ。
妻をあくまで普通の女として扱う小十郎が戸惑うことを予想し、口にすることはない。
だが政宗は、得難い師を得たのだと実感していた。
「俺、楽しみになって来ちまったよ。今回の茶会」
「そうですか。俺は胃が痛いばかりですが」
最近本気で胃痛が多いんです、と小十郎が言う。政宗は遠慮なく笑ってしまった。
その夜、小十郎が心配していたほど吉は政宗に対して冷たくはなかった。いつもより豪勢な夕餉を整え、いつもより上等の打掛を着て政宗を出迎える。
「政宗様にはご機嫌ようならっしゃいまして」
「腕組みして突っ立ったまま無表情に棒読みで言われても嬉しくねえから、ストップ」
「玄関先まで出てやったことに感謝し。夕餉まで整えてやったわ。旦那様の御為ぞ」
「するする。夫を立てる姐さんに感動もする」
「これが限界だえ」
「限界超えられると俺が怖いから、気にしないでくれや」
政宗ももう慣れたものだ。また胃痛を覚えた顔をしている小十郎を尻目に、勝手知ったる片倉家へ上がる。使用人たちは平伏して出迎え、今日は旦那様が奥様をお叱りにならなかった、とやや安堵の溜息をついていた。先日、小十郎が吉を酷く叱ったことは皆が知っていた。
政宗を応接の間へ通す。予想通り、着流し姿の晴久が既にそこにいた。政宗が笑う。
「砂と風の色男、とんでもねえお忍びだなァ。一人で来たんだって?」
「先に挨拶くらいしやがれ。相変わらず無礼な野郎だ」
「いいじゃねえか、公式じゃねえんだからさ。お前なんか着流しじゃねえか」
断りもなく、政宗は左の上座に座る。晴久が既に右の上座に座っていたからだ。左の上座よりも下の扱いだが、ここは奥州、政宗を立てて当然だという顔だっ た。意外なことに吉も文句を言わず、それで小十郎は妻がいざとなれば常識を守る女なのだと改めて実感した。政宗に冷たく当たることを何とかさせたいと思うのもまた確かなのだが。
吉はおとなしく小十郎よりひとつ下座に座る。
夕餉の膳の味は折り紙つきで、久々に片倉家で食事をした政宗は首を傾げる。
「こんなに美味かったっけ」
「妻が来てから、少々料理法を変えたようで」
「姐さん、料理できんのかよ! 食う専門だと思ってた!」
政宗の本気の驚愕振りに、晴久が酒を噴き出した。
「あァ、何、晴久」
「い、いや、御免。いいから」
吉が世話を焼こうとし、晴久が胸元から懐紙を出して口を拭いながらそれを拒む。そして小十郎はなぜか自分が恥ずかしくなりながら政宗に白状した。
「剣の振り方を理論で知る者は多いですが、身についた者は少ないでしょうな」
「ああ、そういうことか。アンダスターン」
料理法を知っているからと言って作れるわけではない。死ぬまでに妻の料理を食べることがあるだろうか、食べてみたいものだが恐ろしい気もする、と小十郎は密かに切ない願望と恐怖を持っていた。
「この無粋な仔竜めが。晴久が驚いたではないかえ」
「伊達に向かって何てこと言うんだよ、姐さん。尼子だってこれくらいかわさねえと、ナイスガイになれねえぞ」
「俺は今のままで結構だ」
懐紙を仕舞い、晴久は苦笑している。吉が新しい酒を晴久の盃に注いだ。小十郎を放置しているわけではなく、客人をもてなす妻の立場としては正しい。無論政宗のことは完全に放置だが、これは小十郎がやればいいだけの話だ。普通の武家としては奇妙なことではあるが、どこかで折り合いをつけなければやっていられ ないと小十郎も諦めるしかなかった。そしてこれはこれで吉にとっても、そして政宗にとっても、不愉快なことではないのだろう、と最近分かるようになった。正確には、吉を叱り飛ばした日からだった。
「そういや尼子、お前、いつまでこっちにいるんだ」
「明日の朝に発つ」
「何しに来たんだ。どうせ来月、またこっち来るってのに」
呆れ返った政宗の声に、晴久は肩を竦めた。
「その来月の茶会のことで、きつが心配になったから顔見に来たんだ」
「何で姐さんを心配すんだよ、お前が」
「無粋な奥州で急に大々的に茶会なんぞやりやがって、きつに大変なこと無理矢理させんじゃねえかって思ったんだ」
「あー……」
思わず政宗は小十郎を見る。小十郎は咳払いをした。そこは甘やかさず、主催者として政宗に話してもらわねばならない。
「何でそう思うんだよ。俺が姐さんを虐待してるとでも言いてえのか、この親織田の伊達家イケメン当主が」
「思う材料は山ほどある。旦那さんの一族の一部がきつのこと嫌ってるとか、嫁入り道具が何もねえとか、持参金がねえとか、没落した織田家の厄介もんって言われてたとか。そういうのな、交易してると入って来るんだからな」
「さすがに」
吉が呻いた。
「恥じ入る気分だえ」
「お前は悪くねえ、気にすんな」
本気で恥ずかしがって袂で顔を覆った吉を、慌てて小十郎が慰める。だがその光景が晴久の気分を害した。
「気にすんな、じゃねえよ。解決したのかよ。伊達も、旦那さんも。持参金がねえから文句言われてるって噂で、俺、どれだけ慌てて銀贈ったと思ってんだよ。甲斐の虎なんて桐箪笥に着物詰め込んで若虎に届けさせて、三河の徳川だってすげえ装飾品だの何だの。他の国の連中も」
確かにそうだった。政宗と小十郎は顔を見合わせ、つい溜息をつく。あの時は旧い家臣の奥方たちが恐れおののき、また嫉妬し、各家の当主たちが大変な思いをしたらしく、城の中は男の嘆きに満ち溢れていたのである。小十郎としても居心地が悪い日々だった。己の不甲斐なさを諸将に無言で責められているような気がしていたものだ。
晴久は尚も続ける。
「そういうの、全部解決したのかよ。旦那さんは頑張ったってきつに聞いた。でも伊達は何した。お前が旦那さんの一族に一言注意して、きつに持参金代わりに何か渡せばよかったじゃねえか。それで対外的には全て解決だ。何でしなかった」
「wait、つまり待て。それ無茶苦茶じゃね? 何で俺が片倉さんちのことに口出すんだよ。他の家臣の家で同じことあったら、そのたびに同じことしなきゃいけねえじゃねえか。小十郎にやるのはかまわねえけど、それじゃ特別扱いになる」
「違う。お前、旦那さんが他の家臣と同じだとでも思ってんのか? 竜の右目ってのはその程度か。特別扱いでいいだろうが。何が悪いんだ。ついでに分かってんのか、織田の直系が嫁に来てんだ。世が世ならお前、伊達は家臣筋になるだろうが」
思わず政宗は言葉を失った。多弁な政宗としては珍しい。分かってはいたものの、敢えて目を背けていた痛いところを直截的に突かれた。だが政宗にも言い分はある。
「小十郎が特別なのは当たり前だろうが。今更言うまでもねえ。──姐さんが織田の直系ってのも確かにそうだし、うちが家臣筋ってのも親父の代で確定してる。だがな、姐さんのためを思えばこそだろうが」
「何がだよ」
「晴久、もうおやめたも」
「きつは黙ってろよ。俺が喋ってんだ」
「晴久──」
止めようとする吉に、小十郎が目配せをした。黙れ、という意味だ。吉は溜息をつき、口を閉ざした。夫が何をしたいのか分かってしまったのだ。
政宗が晴久を睨めつけるかの如くの視線を向け、再び口を開く。
「本能寺で死んだはずの『織田信長』が再挙兵して、そして唐突に消えた。これだけでもセンセーショナルだってのに、『共に従軍した』姫さんが奥州の軍師のとこに嫁に来た。しかも昔に既に結婚してたってんだ。この上、俺が何やかややったら姐さんがもっと好奇の目で見られるじゃねえか」
小十郎は政宗に「説明すること」の練習をさせようとしている。それが分かったからこそ、吉は黙らざるを得なかった。吉自身、政宗の説明下手には呆れることが多かったのだ。軍師である小十郎としてはどうしても成長して欲しい一面であり、国主同士である晴久が相手ならば、遠慮なく言葉を発することができる。小十郎からすれば今の晴久は「政宗のいい練習相手」だった。
「じゃあ何で今回、きつにこんなことさせる」
小十郎の思惑を知るわけでもないだろうに、口数がそれほど多くないはずの晴久は黙ろうとしなかった。腹に据えかねていた、とありありと顔に書いている。
「今の奥州であれだけのメンツ揃えてやろうって、お前、頭おかしいんじゃねえか。きつをアテにしてんのが見え見えなんだよ」
「姐さんに頼んだのはつい最近だ。マジで最初は考えてなかった」
「結局頼んでんじゃねえか。きつが無理矢理やらされるわけじゃないって俺に言うから、今回は見送るけど」
「見送る?」
「旦那さん」
晴久は息を吐き、今度は小十郎を見た。小十郎は嫌な予感に襲われる。たとえば、と思ったのだ。
──たとえば俺が晴久殿の立場なら。嫁いだ「姉」が、嫌なことを無理にやらされるのではないかと危惧したら。
「本当に無理にやらされてる、ってきつが言ったら、俺、きつのこと出雲に連れて帰るつもりだったから。そこんとこ、覚えといてくれよな」
──そうとも。俺でもそうするさ。
「駄目だから!」
政宗が半ば叫ぶように言った。
「小十郎が泣くから! それだけは全力で止める!」
「い、いや、さすがに泣きませんが!」
「っていうかそしたら、奥州と出雲が全面合戦だから! 覚えとけ、尼子!」
「帰る道々で上杉と武田と徳川、ついでに前田に言っといてやる。奥州伊達軍、どう足掻いたって出雲まで進軍できねえぞ」
「てめえ! 表出ろ、表!」
「すぐ腕力か、どこまで無粋なんだよ、てめえんとこは」
政宗と晴久の丁々発止を尻目に、さすがに慌てた小十郎が吉に囁く。
「早まるな。話し合おう。何でも言え。出来る限り改める」
真剣な夫の顔に、吉は扇子を取り出して開き、口元を隠した。それは笑いを隠す時の仕草だと、小十郎は知っていた。
「おまえさまがお泣きになられたら、失のうたわらわの良心も蘇るやもしれぬなァ」
「だからお前、早まるなと」
本気で焦る夫の様子に、吉はくすくすと笑う。嬉しそうに。
「おまえさまがお改めになられることなぞ、なァんも、ないの」
「おい」
「よいの、よいの。──晴久、そのへんで許しておやりたも」
「きつが言うなら」
「おい、許してもらうことなんざ何もねえぞ!」
熱くなる政宗の前で、晴久は今までの不愉快な顔はどこへやら、涼しい顔になって再び盃を取る。奥州は酒も美味いな、と思った。その態度に政宗はますます面白くないが、さすがに小十郎が止めた。最後は自分も冷静さを欠いたが、政宗の練習としてはいい時間を過ごせたと思う。
吉がくすくすと笑った。
「仔竜、次の膳を出してあげよ。わらわが一献注いでやろうではないの」
「……まじで? 何言ってんの、姐さん。何か盛ってんじゃねえだろうな」
「盛って欲しければ盛ってやろ」
「普通の酒でいいよ!」
「やかまし。ささと杯を出しや、わらわの気が変わる前に」
普段の吉からは信じられない申し出を訝しみつつ困惑しつつ、それでもどこか嬉しそうに杯を出す政宗と、満足そうな顔で注いでやる妻を見て、小十郎は我知らず微笑んでいた。妻が政宗のひとつの成果を素直に認め、妻なりに褒めようとしていることが嬉しかった。
「旦那さん、ま、一献」
「──おい、やめてくれ」
小十郎の隣に座り、晴久が酒を注ごうとする。いくら妻の弟のようなものとはいえ、立場的に小十郎は焦ったが、晴久は「まあまあ」と無理に注いだ。
そしてぼそりと呟く。
「伊達の練習に付き合ってやった分、いい土産選んでくれよな」
見抜かれていた。さすが「弟」だ──脱帽とはまさにこのこと、小十郎は苦笑いするしかなかった。幸村とは違った意味で吉が晴久を可愛がる理由がよく分かった。