no more words 03



太助と弟は、恵まれた体躯で軽々と籠を担ぎ上げる。
雪道を危なげなく進み、ゆきを不安がらせることはなかった。
そのゆきは稀に籠の庇を下ろしては、隣を歩く小十郎に話しかける。あれは何、これは、と目に入る景色について質問攻めだ。そのたびに太助たちはやや速度を緩め、「夫婦」の時間を作ってやっていた。
小十郎の屋敷に着いたのは夕刻だった。
正門からではなく裏門から入るよう、小十郎は太助たちに言いつける。
「まだ休暇中だ。変な噂になりたくねえ」
「そ」
ゆきにはそう説明し、妻は夫の言葉を何も疑わない。
「まだ籠から出るな。少し待っていろ」
言い置き、小十郎はゆきの前から消える。ゆきは黙って籠の中から動かなかった。
やがて戻って来た小十郎の後ろには、小十郎付きの侍女が従っていた。
「ゆき」
「何え」
「もう出てもいい。おこうに付いて行け」
小十郎が御簾を上げる。女中頭は主人の連れて来た女の美貌に瞠目したが、すぐに立場を思い出し、おこうでございます、と名乗った。
「俺は用を済ませてくる。おこうに着物を選んでもらえ。姉が嫁ぐ時に置いて行ったものしかねえが」
「お出かけかえ」
また拗ねるような声を出す。

小十郎は歯を食い縛りたくなる。

ただの、

──ただの、女だ。

「夕餉までには戻る」
心配するな。そう言うと、ゆきは微笑んだ。
小十郎も、やはり──死力を尽くすが如くの努力の後、微笑んでみせた。




言葉の通り、小十郎は夕餉に程良い時間に帰宅した。その頃にはおこうがゆきを粗末な着物から、奥州自慢の鮮やかな色で仕立てた打掛に着替えさせていた。
「おまえさま」
居室で待っていたゆきの美しさに、改めて目を奪われる。打掛と髪を整え、軽く紅を入れただけで、これほどまでに更に美しくなるものなのか。
見惚れていた小十郎に、ゆきは悪戯げに笑ってみせる。
「どうなすったえ、おまえさま」
「ふん」
小十郎は苦笑した。苦笑しながら言葉を探した。
最後までは。そう思った。

最後までは。
最後の瞬間までは。

「脱がすのが、惜しくなった」
「──なんてこと」
珍しく当意即妙な答えを導き出せなかったゆきは、僅かばかりに顔を赤くする。小十郎はゆきを抱き寄せ、何度も唇を重ねた。



最後の瞬間までは。


夫婦でいても、いいじゃねえか。



明日政宗様にお会いしたら、と小十郎は話した。腕の中でゆきは黙ってそれを聞いていた。
新しい着物を作ろう。奥州の反物は京にも負けない。お前には紅が似合う。
城下街も面白い。雪が降ったって市は開かれる。覗いてみればいい。何でも買ってやる。
政宗様もお前を気に入るよ。あの方は頭の良い女が好きなんだ。

いつの間にかゆきが眠り込んでいた。籠に揺られた疲労と、上等な寝具と夫の愛撫に眠気と戦うことを放棄したのだ。
明日、政宗様にお会いしたら。小十郎はまた呟く。
明日。
それから。
それから。



最後の瞬間まで。

夫婦でいよう。




翌朝、仕度をしたゆきは誰の目から見ても美しかった。小十郎の姉が残した打掛を着、おこうが髪を整え、紅を差して小十郎を見る。
「ゆき」
「何え」
「綺麗だな」
「わらわの役目であろ。おまえさまの主人に目通るなれば、気は抜けぬえ」
「だなあ」
小十郎は笑う。まるで自嘲のようだと、小十郎にしか分からない。
「おまえさまも、良い男振りだえ」
ゆきは嬉しそうだった。夫の正装を初めて見るのだ。おこうは夫婦の遠慮ない情の表現に、つい顔を赤くする。
「おまえさまの主人は、どのような方かえ」
「嫌なら」
おまえさまの主人、という言葉に、小十郎はできるだけ素っ気なく言う。
「頭は下げなくて、良いぞ」
「なにゆえ」
「お前は多分、誰にも頭を下げねえ女だったんだ」
「──そ」
おこうに渡された扇子を弄び、ゆきは思案する顔をした。
「ま、目通った時に決めようぞ」
「そうしろ。お前が何をしたところで、俺に咎めはねえ。好きにしろ」
「心の広い主なのかえ、政宗公」
そうでもねえさ。その言葉は言わなかった。
「城に上がるのかえ。なんどきに」
「ああ、いや、──うちに、政宗様がお越しになる。もうすぐだ。他にも一人」
「話が見えぬ」
ゆきが不満そうな顔をした。そうだろうな、と小十郎は思う。利発な女だ。自らが関わることなのに、知らない情報があることを厭うのだろう。
それはきっと──記憶を失う前から。
「お前を紹介するんだ。まだ祝言を挙げたわけでもねえ、お前を連れて城に上がるのは無礼だ」
「そ」
「準備してくる。おとなしくしていろ」
ゆきの返事を待たず、小十郎はゆきの部屋を出る。
廊下を歩き、中庭を見る。また雪が降り始めていた。

──なあ、お前。

雪は静かに降り積もる。幼い頃から見飽きた、飽きるという感覚すらも生まれぬほどに、当たり前のように存在する白い雪だ。

──最後まで。

「……夫婦で、いよう」

客人の到着が告げられたのは、その時だった。
奥向きの使用人が足早にやって来る。
「小十郎様」
「来たか」
「西の角を、今、お曲がりになられたと」
「出迎える」
小十郎は唇を引き結び、言った。
「中庭の間へお通ししろ。明智光秀公は結構な粋人って話だ、粗相するんじゃねえぞ」


最後の瞬間まで。
俺たちは、夫婦だ。




明智光秀という男は、噂以上に端正な顔立ちをした男だった。品もあり、この奥州では見かけない空気を醸し出している。伊達と言うより風流か、と小十郎は思う。
「このたび」
互いの紹介が済んだ後、光秀が口を開いた。
「何も何も、なかったこと。よろしいかと」
「じき、筆頭がお越しになる。その上で御返事しよう」
「構いませぬよ」
政宗が遅れるのは常だ。遅刻癖があるのではなく、一種の手法だった。待たされる方を苛立たせ、冷静さを失わせることを期待する。
だが、と小十郎は思う。
──この光秀、何刻、何日待たせようと──冷静であるだろうな。
光秀は悠然と茶を飲む。小十郎は特に口を開かない。光秀も話す気はないようだった。
──話したくもなかろう。俺とは。
光秀の噂は知っている。情報を集めるのもまた、小十郎の仕事だ。
思わず口の端を引き上げてしまった。──笑いの形に。

──お前、尽くしても尽くしても、いくさ以外じゃ主に袖にされているんだってな。

それを見逃す光秀ではなかった。その意味も瞬時に理解した。表情は変わらないまま、眼光に憎悪が籠もる。小十郎はいっそ心地よくそれを受けた。
だがすぐに、それも虚しいことなのだと思い直す。
「片倉殿。御風邪など、いかがですか。こちらは尾張に比べてだいぶ寒い」
「寒い地方にはそれなりの知恵がある。心配無用だ、明智の」
「これは余計なことを」
それきりまた、黙る。
雪の降りが強くなってきた。開け放たれたままの障子の向こうに見える中庭に、しんしんと白い雪が降りる。
入り込む冷気に、光秀は微塵も動かなかった。小十郎も動かなかった。
光秀の指先がすっかり冷える頃、政宗の到着が告げられた。

最後まで。小十郎は思う。強く思う。


最後まで。
俺たちは──夫婦だ。


「悪ぃ、待たせたな」
礼儀正しく平伏する小十郎と光秀にぞんざいに言い、政宗は火鉢が用意された上座にどかりと座る。外から用人が静かに障子を閉め、やっと冷気が遮られた。
「明智の、遥々ご苦労さん。奥州は寒いだろ」
「お言葉、ありがたく」
「堅苦しいのは嫌いなんだ、ヘイトってやつ。楽にしな」
ヘイトという意味が分からないのは小十郎だけではなかったが、敢えて口にしなかった。
それから政宗は早急に本題に入る。光秀の噂は聞いている。策に長け、また、口上も他の追随を許さないと言う。彼の言葉に翻弄され、本筋を見失い、結局は光秀の──織田の良き様に進められる話の何と多いことか、と。
光秀に話す暇を与えるつもりはなかった。
「今回の件、小十郎からざくりと聞いた。そちらさんは奥州に借りが出来たんじゃねえのかい」
「仰る通りに。信長公もお聞きになられますれば、伊達家には相応、それ以上の御礼の段ございますでしょう」
「小十郎の話じゃ、そうもいかねえ気がするんだよなァ」
「さて、それは何とも。信長公のご様子次第とも言えましょう」
政宗は黙る。
光秀がそれほど言を弄するつもりがないと見て分かった。それとも何か考えているのだろうか。
それとも──
「小十郎」
「は」
「お前のカミさん、連れて来い」
小十郎は深く頭を下げ、光秀を一瞥もせず、部屋を出る。
代わりに光秀を見たのは政宗だ。光秀の様子を窺う。驚くほどに、見事に平静を装っているのが分かる。
──これが魔王の片腕か。流石の鉄面皮だな。
「で、明智の。小十郎がカミさん連れて来る間に、話、進めようぜ」
「片倉殿の奥方様にご同席頂く由が分かりませぬが、政宗公のご意思なれば。──織田からは相応の御礼を。先も申した通り、信長公がお決めになられましょう」
「信長サンに決められんのかい」
「さて、仰る意味が不明にございます」
「──今の信長サンに、決められるかってこと。不安なんだよ。俺ァね。小十郎の話じゃ、結構な状態だって言うじゃねえか」
光秀は返事をしなかった。政宗はじっと返事を待つ。だが、魔王の片腕は何事かを決めたのか、それきり言葉を発することはなかった。
政宗は内心で溜息をつく。
「尾張の魔王、なァ」
光秀は返事をしない。
「信長サンも、大変な人生だなァ」




小十郎は廊下を急ぐ。最後まで。──最後までは。ただそれだけを思って急ぐ。途中、奥向きの女中に会った。
「頼む」
呼び止め、早口で言いつける。
普段は鷹揚な主の滅多にない鬼気迫る顔に脅えながらも、女中は素早く言いつけられたものを取りに行き、冷え込む廊下で待っていた小十郎に手渡す。
「本当に、これでようございますか」
「いい。ありがとう」
何にお使いに、と、女中は訊かなかった。訊けなかったのだ。昨日、小十郎が連れて来た女。
女中の中で一番口の堅いおこう以外の使用人は誰一人顔を見ていな い。近づくことを禁じられた。
片倉の屋敷の外に一言でも漏らせば厳罰に処すという触れもあった。
そして今、訪れているという客人と、奥州の筆頭。
訊いてはならな い。使用人全てがそれを理解していた。
小十郎は一足ごとに歯を食い縛る。ゆきの待つ部屋へ近づくごとに心拍数が上がり、眩暈がしそうなほどの──幸福感に襲われている。
「ゆき」
呼んだ時にはもう、障子を開け放っていた。おこうが驚き、ゆきが笑う。
「おこう、外せ」
おこうを追い立てるように部屋から出し、ゆきの前に座った。
「何え。慌てらして。何をお持ちかえ」
「祝言だ」
え、とゆきが首を傾げる。
小十郎は笑った。心から笑う。
「急ぎで、ここで」
「今、ここでかえ」
小十郎が持っているのは盃だ。夫婦となる時に取り交わす、あの──
ここには誰もいない。片倉小十郎の婚儀ともなれば、奥州のみならず、近隣諸国の重鎮が揃ってもおかしくはない。
だが小十郎は宣言した。
「夫婦だ」
「おまえさま?」
「最後まで。──俺たちは、夫婦だ」
ゆきはじっと小十郎を見る。
「最後まで、かえ」

ああ、そうだ。

小十郎は頷いた。
ゆきが微笑む。
「おまえさま」
そして夫に、手を出してみせた。
「盃を、おくれたも」

幸せだ、と。
小十郎は、思った。




──こりゃ、すげえ。
政宗は表情を変えないよう、少なからずの努力をする。
初めて見る「小十郎の妻」は、政宗の想像を遥かに超えていた。
美姫というだけではない。
ゆき自身は意識していないだろう。だが確実に──奥州筆頭をも威圧する、何かを持っていた。
──流石だな。
「小十郎」
「は」
「お前のかみさん、美人だなァ。紹介してくれよ」
「恐れ入ります」
背後にゆきを従えた小十郎は、主に向かって平伏する。光秀なぞ、見ない。
そしてゆきは──きつと顔を上げたまま、政宗を見ていた。やはりな、と、背後でその気配を感じている小十郎はゆっくりと姿勢を戻しながら思う。政宗も小十郎に目配せをした。苦笑の目配せだった。
だがその時、ゆきが動いた。
光秀が驚愕に堪え切れず身体を震わせ、政宗は「うっそ」と思わず小さく声に出してしまう。
ゆきが政宗に頭を下げ、言った。
「片倉小十郎が妻、ゆきにござりまする」
「──あ、うん、いい、いい。楽にしていいよ。頭下げなくていいから。ていうか、下げないで」
何か怖ェし。政宗の最後のそれは呟きだった。
妻だから、だ。小十郎は思う。そしてゆきを、いとしく思う。
頭を下げる気などなかったはずだ。記憶はなくとも、誰かに頭を下げる女ではないと──おそらく自分でも分かるほどに気位が高いのだから。
目の前の男が、「夫の主」であるから。
ゆきは頭を下げてみせたのだ。
「小十郎」
「は」
「祝言、正式にいつやるつもりだったんだ」
「先ほど済ませました」
「先ほど?」
「先ほど、でございます」
意味が分かった政宗は「やるねェ」と笑った。
笑いながらも、まるで自分が切ない目に遭っているかのような感情に襲われる。腹心の部下の今の胸中を想像するだけで──

身が、引き裂かれそうだ。

「片倉殿、如何なる意味ですか」
流石に光秀が口を開いた。小十郎は光秀を見ないまま、答える。
「如何なるも何も、そのままだ。俺とこの女は正式に夫婦になった」
「認められません。戯言を」
光秀の声は冷静だ。だが政宗は見た。膝の上に置く拳が震えている。
「許されることではありません」
光秀は言った。遂にその名を口にした。
「織田上総介信長公、お返し頂きましょう」
小十郎は身動きひとつしない。
政宗は脇息にもたれ、小十郎を見る。
ゆきを見る。
ゆきは状況が把握できていないのか、夫を見、光秀を見──最後に、政宗を見た。
ぞくり、と、政宗の背筋に寒気が走る。
「記憶がないってのは、本当なのか」
自らを励ますと言っても良かった。政宗は意図的に笑ってみせなければならなかった。
「嘘みたいだな。──その、眼」
暑いはずもない。それなのに政宗は汗をかいている。
脂汗だった。
どういうことだ。ゆきの目はそう言っている。
「魔王の目ってやつか」
たばかりは許さない。真実を求める目。
いくさ場でも、この目なのだろう──政宗は深く、心に刻み込んだ。
「ゆき、じゃ、ねえな」
小次郎は主の言葉に返事をしなかった。だから政宗はそのまま続けた。
「信長サン、あんた、尾張に帰る時間だよ」