ゆきは表情を消した顔で夫の背を見る。
「おまえさま」
小十郎は返事をしない。ゆきはやや大きな声を出した。
「おまえさま、たばかりは堪忍え」
「嘘じゃねえ」
小十郎は背を向けたまま言う。
「お前は──織田上総介信長だ。尾張の国主だ」
「戯言。わらわがそのような。冗談でも笑えぬ」
「そこの御仁は明智光秀公、お前の腹心の部下だ。連れて帰ってもらえ」
「おまえさま」
「休暇は仕舞いだ。尾張は遠い、道中風邪に気をつけろ」
「──おまえさま!」
「信長公」
堪り兼ね、光秀が言った。
「隠密に、奥州をご覧になられたいと。御妹君お市様が仰られたのが先月の事でございます」
「黙りやれ。うぬに物申す許し、与えておらぬわ!」
「申し訳ございません。が、光秀、続け申す。──隠密にと。信長公、お市様をお連れになり、わたくしを入れ数名の供にて奥州へ極秘でお入りになられたのでございます」
夜半、賊に襲われ、情けなき事ながらも、我ら散り散りとなり。
信長公のご命令にて、わたくしはお市様をお守り申し上げましたが、
気づけば──信長公のお姿がなく──
「……数日に渡る捜索の後、先日そちら、片倉小十郎殿にて御救助の由を知り、まことにまことに奥州殿にはかたじけなく、本日、御迎えに上がった次第にございます」
「たばかりぞ」
「真にございます」
「慎め、たばかりに貸す耳なぞないわ!」
「信長サン」
政宗が言う。内心、この気迫が毎日じゃ家臣も大変だな、俺、さっき頭下げられたのって一生忘れねえな、つーか伝説モンだな、とややふざけたことを思っていた。
そうでも思わなければ、目の前の現実の滑稽さ、酷さ、哀れさに精神を絡め取られてしまいそうだった。
「明智のが言ってんのは、本当だよ。明智のはあんたを迎えに来た」
奥州に迷惑料として幾らか払うって話もしに来たんだよ。政宗がそう言うと、女は激しく頭を振る。
「おまえさま。何ぞ仰いたもれ!」
「──言っただろう。お前は尾張の──」
「たばかりぞ! ──わらわはおまえさまの妻であろ! ゆきであろ!」
小十郎は長い、深い息を吐いた。背を向けたまま、ただ言い渡す。
「尾張へ帰れ」
分かったのは──あの夜、襲撃者たちが現れた時。
あの剣筋は奥州にはない。尾張の地方の型だった。
尾張の剣を使う複数の者たちが、小十郎を襲ってまで、いわば口封じをしてまで奪い返したかったもの。
そして知っていた。
極秘にしても漏れるものだ。
織田上総介信長とその妹お市、数日前、奥州に足を踏み入れたものの、上総介は行方不明、と。
最初は利用価値がないかと考えていた。
雪が熄めば山を降りる。それは嘘ではなかった。山を降り、政宗に相談するつもりだった。
それが──
それでも良かったのか。今となって自問する。
それでも──
背後にいる女の、
妻の、
何と、いとしいことか。
「おまえさま」
「明智の」
「おまえさま!」
「は、片倉殿」
光秀は努めて冷静な顔で返事をする。
悔しいだろう。小十郎は思う。
悔しいだろう、光秀。
目の前で。
記憶がないと言えど。
今の、姿。
お前たちの知る上総介からは想像もできねえだろう。
お前の渇望する女が、他の男に縋る姿を見るのは──どんな気分だ。
永遠に忘れられねえだろう。
ざまあみろ。
「信長公、御健康に委細異状なし。片倉小十郎の責において、筆頭、伊達政宗公にお任せいたす」
「かたじけのうございます」
「おまえさま、ほんに、もう──やめてたも。やめてたも!」
遂にゆきが背に縋った。違う、と小十郎は思う。思う努力をする。
これはゆきではない、と思う努力をする。
政宗が軽く咳払いをした。声が喉に絡むような錯覚を振り払いたかった。目の前の光景は余りにも哀れだった。
「なんつか、信長サン、やっぱまだ分かってねえからさ。──明智の、連れて帰ってやんなよ。諸々の請求は後でする。OK?」
「恐れ入ります。必ずや御返事申し上げまする」
何で。政宗はただ、心の中で呟く。
何で、こんなことに。
なったんだろうなァ。
小十郎にしちゃ、馬鹿な真似を──
「……とも、言えねえか」
「政宗公、他に何か」
「ノープロブレム。何でもねえよ」
──俺には分かんねえし、あの相手じゃ分かりたい気もねえが。
いいオンナ。
だったんだろうなァ。
「信長公も、良き御休みであらせられたかと存じます」
光秀が笑顔を作り──明らかに作った笑いだった──政宗に礼儀を尽くすため、口を開く。
「御存知の通り、始めは我らも手荒な真似をいたしましたが」
「おお、小十郎の立ち回りな。すげえもんだったろ」
「生憎、わたくしは場におりませんで、拝見する機会はなく」
いればよかったのだ。小十郎は嘲笑したくなった。
──いれば──斬ってやった、さ。
「その後は、家臣といたしましては。日にちが許します限り、稀にはお好きにお過ごされ、日々のお疲れを癒して頂ければと」
「明智のも苦労すんなァ」
小十郎は今だけは、光秀に同意できると思った。
自分も政宗に機会さえ訪れれば休んで欲しい、許されるならば休んで欲しいと常に思うからだ。
──俺が政宗様を思うほどには、あるいは、それ以上。
「最後だ」
「おまえさま」
「尾張に、帰れ」
──明智のは、お前を思っているのだろうさ。
光秀が用意していた籠が、いつの間にか中庭に置かれていた。国境までは確実に安全を保障する、と政宗は光秀に請け負った。
「信長公、参りましょう」
「断る」
「どうぞ、光秀めを困らせあそばしますな」
「知らぬ。うぬなぞ、知らぬ」
ゆきが夫の袖を掴む。小十郎は身動きひとつしなかった。そして言った。──光秀に。
「俺が振り払えば国の無礼に当たるだろう」
「──政宗公、此度の御礼、改めまして必ず必ず。御無礼許したもう」
光秀は深く政宗に頭を下げる。
そして動いた。小十郎が思わず構えたくなるほど素早く、無駄のない動きだった。
「下郎、離しやれ!」
「信長公、片倉殿に御迷惑ですよ」
帰りましょう。言い、光秀は掴んだゆきの──信長の腕を更に強く掴む。
「無礼者!」
光秀は主君の声に耳を貸さなかった。何をすべきか知っており、決断し、実行できる力を持つ男だった。
抵抗する主に閉口し、「御免仕る」と今までよりもやや大きな声で断ってから、端正な見た目からは想像できぬ膂力で主を抱き上げる。
「離しやれ!」
「御免仕ります」
「おまえさま!」
小十郎は動かない。
「仰ったではないかえ! 最後まで──」
そうとも。
小十郎は強く、強く思う。
最後まで。
「最後まで、夫婦だと、仰ったではないの!」
叫びに、光秀らしからぬ動揺が生まれた。思わず緩んだ力を、小十郎の妻はまるで女武芸者のような身軽さで──この時、光秀以外は「織田上総介信長」の技量を知らなかったのだ──光秀の腕から逃れる。
「信長公ッ!」
光秀の声に苛立ちと──嫉妬の色が滲んだ。その瞬間、小十郎は動く。
──馬鹿を言え。
光秀から逃れた「ゆき」を抱き締める。
──馬鹿を言え。そうだ。俺たちは──
おまえさま、と、しがみついた妻が震える声で言った。
分かってる。小十郎は答えた。
「おまえさま」
「分かってる。俺たちは──」
耳元で囁く。
「最後まで、夫婦だ」
妻が嬉しそうな微笑を浮かべる前に、その鳩尾に、一撃を叩き込んでいた。
信じたくない。そんな目で、妻は夫を見る。
夫はただ、強く妻を抱き締めた。
そのまま、女は意識を失った。
「明智の」
政宗が静かに言った。何を憎悪すれば良いのかすら分からない、そんな声だった。
「連れて帰りな。雪が道を閉ざす前に」
揺れる籠の中、女は目を覚ました。鳩尾に鈍い痛みを感じ、思わず呻く。
覚えている。すべて。
いっそ忘れられていれば良かったわ、と、誰に対してか憎々しく思う。
籠の横を歩くのは小十郎ではない。
光秀だと分かった。
だから言った。
「光秀」
「は」
冷静だが、主の様子を窺う声がすぐに反応する。
「市は無事かえ」
「お市様ご無事に、先に尾張へ帰られております」
「ならば良い。浅井への輿入れ前ゆえ、甘やかしたわらわが阿呆であったわ」
思い出されたのですか──光秀はそう訊きたいのだろう。だが敢えて問わないのは、主の声が不機嫌極まりないものだと感じているからだ。
「光秀」
「は」
「世話をかけたの。許してたも」
「何より何より、信長公、ご無事であらせられれば。光秀は満足にございます」
「黙り。つまらぬ男」
輿の御簾の間に指を入れ、僅かに外を見る。思ったよりも長く気を失っていたのか、国境に近い場所まで来ていた。
白い白い雪が山を覆っている。まるで白粉のようだった。その上から天が更に雪を落とす。
「ほんに」
呟いた。
「わらわが、阿呆であった。ハナから殴られておればよかったということじゃな」
痛む鳩尾に手を当てる。この痛撃で記憶が戻ったのだとしか考えられなかった。
「ほんに、まァ」
最後まで。
夫婦で。
雪山を見ながら、女の唇が動く。
誰にも届かぬ声が小さく小さく、澄んだ空気と、雪の中へ飲み込まれた。
──おまえさま。
まだ休暇は残ってんだ、好きにしな──主に言われ、小十郎は山へ戻った。
春になったら。考えながら歩む。
──政宗様を今まで以上にお守りする。情報も集め直す。まずぶつかるとしたらどこだ。
雪を深く踏み、ただ、歩く。
小屋の囲炉裏には種火が燻っていた。源次郎が入れておいてくれたのだろう。
寒さが思った以上に体力を奪っていた。囲炉裏の火を大きくし、火鉢の炭にも火を入れる。
寝具はひとつだけになっていた。草子も手習いの道具もない。
「源爺め、呆けが始まったか。忘れやがって」
折りかけの鶴が、忘れられたようにそこにあった。
「妻」が置いて行った場所にあった。
戻って来たら折るのだと言っていた。
手に取り、不恰好なそれを見て、笑う。
──最後まで。
「下手くそめ」
──俺たちは──最後まで──
ゆっくりと、時間をかけて、鶴の形を折る。
それを「妻」の座っていた場所に置く。
「死ぬまで、夫婦だ」
それきり小十郎は、主の存在以外を考えることを、やめた。