Children of the light 04



少女はまた、身分の高い人々が住む区画の入口で小十郎に別れを告げた。小十郎も織田の屋敷へ向かうため、同じ方向だったのだが、おそらく少女が自宅を知られたくないのだろうと考え、暫しその場に立って見送ることにする。
「夜は出歩くなよ」
小言めいたことを言ってしまったのは性格の問題だ。小十郎は少年でありながら、それほど他人のことに踏み込まない方向に成長していたが、明らかに危険な目に遭いやすい真似を見るとそれにだけはつい口を出してしまうのだ。
少女は何かを言い返そうとした。「大丈夫」と言おうとしたのかもしれない。小十郎は予想したが、少女は一度開いた口をまた閉じ、視線を彷徨わせた後、「そうする」と小さく言った。彼女の子分や政秀が見れば驚愕の素直さだったと、小十郎には知るよしもない。
最初に送った時と同じように、少女はまた駆け出して行った。
「元気な女だな」
──泣いてるより、いいか。
呆れた後にそう思った。可愛い女は泣くべきではない。歳若くても、小十郎は既にそう思うようになっていた。
少女の姿が見えなくなってから織田の屋敷へ戻ろうとしたが、その必要はなかった。提灯を持った父が、少女が消えた方向から歩いて来たのだ。夜目でも小十郎を見つけ、驚いた声を出した。
「先に帰ったのかと思っていた」
「散策しておりました」
「ま、心配はしとらんが。甲斐の武田にだけは会わぬようにしろ」
「そうします」
過大ではないかと思うほどの噂でしか知らない武田信玄だが、その噂の一部は真実のはずだ、と小十郎は知っていた。大抵の場合、噂の元は真実だからだ。男女の色恋ともなれば真実が存在しないこともありそうだが、生憎、小十郎はそちらには興味がなかった。
「俺が会っても、あっちは歯牙にもかけないでしょうけどね」
「ふん」
父が鼻で笑った。
「当たり前だ。今のお前なぞ、彼奴からすれば赤子の手を捻るまでもないだろう」
いくら年齢より落ち着いているとはいえ、血気盛んな年齢の少年としてはやはり面白くない言い草だ。気分を悪くした息子に、父はまた笑う。
「時間よ、時間。お前は父よりは、多少ましな男になるだろうからな。少しは伊達家の役にも立てよう」
その時には甲斐の武田もお前を無視なぞせぬ、と、父は歩きながらも楽しそうに笑うのだった。
「話を煮詰めるには来週までかかりそうでな」
「そうですか」
まだしばらく奥州には帰れないようだ。小十郎は内心で溜息を押し隠した。父は役目があるから暇というはずもないだろうが、小十郎としては今日のように重要な話の時に外に出されるのなら何もすることがなく、暇でかなわない。
「俺は暇を持て余せばいいんですね」
「来週には祭りがあるそうだ。何かと賑やかだろう、父のことは気にせず楽しめばいい」
「……帰る頃に、ですか?」
ほとほとうんざりした、不貞腐れたと言ってもいい小十郎の声に父は笑った。同じ年頃の少年たちよりも大人びた息子だが、こういう時はまだ子供だと思い出す。それが少しばかり心地良かったのは親としての心なのかもしれない。
「お前くらい腕が立つなら、用心棒でも力仕事でも需要があるだろう。準備を手伝って小遣いでも稼いでおれ」
「俺は何をしに尾張まで来たんですかね」
旅先で小遣いを稼げ、と言う、武家とは思えぬ父の言い草に呆れる。だが暇を持て余す時間が安易に予測される以上、選択肢のひとつとして入れておくことにした。
「今日はいかがでしたか」
「ふむ、まあ──まだ何とも、な」
父はそれ以上語ろうとはしなかった。小十郎は「そうですか」と答えるに留める。誰が聞いているか分からないという懸念に加え、おそらく思ったよりも話が進まなかったのだろうと予測したからだ。来週までかかる、という父の言葉に急激に信憑性を感じた。
「……まあ、小遣いでも稼ぎますよ」
「そうしてくれ、父の晩酌代を稼いでおけ」
陽気に笑う父に苦笑し、小十郎は父と並んで夜道を宿まで歩いた。


翌日の昼前、子分たちが集まる市の定位置へいつも通りふらりと現れた吉を見て、周囲は「おや」という顔をする。いつもの簡単な小袖姿ではなく、上着となる桃色の表着を羽織っていたからだ。一枚纏っただけで普段の活発な姿はなりをひそめ、上流の姫君然とした雰囲気を漂わせる。いつも通り供をしている犬千代が得意気な顔をしていた。主が身分に相応しい格好をしているだけで周囲の視線が変わることが嬉しかったのだ。
「ひい様、珍しいね。どうしたんだい」
久蔵が感嘆を隠さない声で問う。吉は返事をせず、積まれた米俵の上に腰掛けようとする。少し高かったので一番大柄な小平太が手を貸した。指定席に座った吉の機嫌が悪いことは明白で、久蔵や小平太、小藤太はそれぞれ視線を交してから犬千代を見た。犬千代は肩を竦める。
「お屋敷のお稽古がつまらないっておっしゃって」
「何のお稽古さ?」
「ひい様、何でしたっけ」
「御所言葉」
短く憮然と答える態度に、内容は分からないがどうやら心底つまらないお稽古らしい、と子分たちは理解した。表着を着たままということは、師の目を盗んで抜け出して来たのだろう。久蔵が首を傾げた。子分たちの中では一番の物知りだ。
「御所言葉って、あれだろ。お内裏で帝がお話するような」
「そ。尾張には、いらない」
「いらないのにやるのかい?」
「かかさまが、京から女官崩れを呼んだのだもの」
「へえ、土田御前が」
ってことは妹姫さんもかい、と言い掛け、やはりやめた。吉は市の話をしたがらない。母のことも話そうとはしなかった。家の中であまり良い家族関係が築けていないことは噂になっていたし、こと、土田御前の市と信行への偏愛振りは有名だった。「ひいさんがちょっとおかしいのは、母上が冷たいから気を引こうとしてるんじゃないの」──領民の中にはそう言う者すらいた。
「あんなの、つまらない。端からいや」
「でも、ちょこちょこ西の言葉、使うようになってるよね。ととさま、かかさま、とかもそうでしょ」
「おでい、おかあ。それでいいのに」
吉は本気で不機嫌だ。米俵の上で足をぶらぶら揺らし、藁から漏れていた米粒を一粒拾って齧る。黙っておとなしく座っていれば深窓の姫君なのになあ、と子分たちは苦笑したくなったが、だからこそ自分たちは吉の子分であるのだということも分かっていた。
「でも、ひい様。ひい様なら京のどんな姫さんよりもきっと綺麗ですよ!」
犬千代が本音半分、励まし半分で言う。同意した他の三人も頷いた。京の姫など見たことがないが、彼らの狭い世界の中で吉以上に綺麗な娘はいない。この時、まさか自分たちが日の本で誰よりも広い世界に飛び出すことになろうなどと誰も考えてはいなかった。
「浅井の二の姫は綺麗だって。行商の翁が言ってた」
「じゃ、ひい様はとっても綺麗です!」
「浅井の二の姫が、とってもとっても綺麗かもしれない」
「じゃ、ひい様はとってもとってもとっても綺麗ですよ!」
少年ならではの犬千代の本気の言葉に、いまだ少女の吉は弾けるように笑った。久蔵たちも笑う。滅多に大笑いをしない吉を見て嬉しくて笑ったのだ。犬千代も嬉しくて笑う。吉が米俵から飛び降りた。
「一口香」
「はい?」
「一口香が食べたい」
「それなら中央の宿の前に──ひい様、今日の午後は天王坊じゃありませんでしたっけ?」
犬千代は吉の予定を把握している。毎週この日は天王坊へ行き、学問を叩き込まれるはずだ。
「行かなきゃ駄目ですよ。犬も午後、家で学問だからお供はできませんけど、ちゃんとお家から誰か連れて行って下さい」
「天王坊の時間になったら行く。今は一口香」
言うなり裾をからげ、駆け出した姫君を追い、少年たちも慌てて駆け出す。風に揺れて舞う表着が綺麗だ、と彼らは同時に思っていた。変わり者と言われる姫だが、彼らは彼女の傍にいられることを心から楽しんでいた。
珍しく機嫌よく子分たちとはしゃぐ吉の様子に市の人々は微笑する。表立って言うことはできないが、年々口数が少なくなる織田の娘を誰もが案じていた。変わり者やうつけと言われるものの、気取らず物怖じしない、破天荒でも実は自分の立場をよく理解している吉は、市の人々にとっては愛すべき存在だった。
それがいい、そっちは小さい、ふたつ欲しい──吉と子分たちは一口香を売る店の前で品定めをする。そのいちいちが大騒ぎだ。それでもうるさいと怒る者はない。通りすがりながら吉に挨拶したりからかったりする者すらいる。機嫌の良い吉には誰もがそうしたがるのだ。
一口香の店の向かいには宿があった。それほど高値の宿ではないものの、飯も風呂もしっかりした所だ。通りに面した木窓が僅かに開く。
開けたのは小十郎だった。
「……もう昼か?」
昨夜、宿に戻ってから父と晩酌をした。酔った父は小十郎に絡み、これからの片倉は、これからの奥州は、と長い話をしたものだ。付き合った小十郎は明らかに飲み過ぎ、昼前になるこの時間まで目が覚めなかった。
木窓の隙間から差し込む光に目をすがめながら店を見る。桃色の表着が目に飛び込んだ。こんな色を市の人間が纏うことは滅多にない。
──……あの娘か。
隣にいた少年に話しかけたのか、横顔がちらりと見える。昨日とは打って変わった笑顔だった。
「ふうん」
我知らず、小十郎も笑顔になる。
──笑った方が、可愛いな。
声をかけようかとも思ったが、周囲に人がいて躊躇われた。この時代、人前で男が女に気軽に声をかけて良いものではない。周囲の少年たちはそれなりに親しいか、家がつけた同年代の護衛だろうと思った。
そっと木窓を閉め、すっかり遅くなった朝の身支度をする。父は既に起きて出かけたようだ。おそらく織田の家だろう。息子を連れて行っても同席させられないと知り、置いていったに違いない。俺よりも飲んでいらしたのに、と、小十郎は舌を巻く思いだった。
裏庭の井戸を借り、顔を洗った。冷たい水で寝起きの気だるさが晴れると空腹を感じた。宿の朝食の時間はとうに終わっている。市で中食を取ることにした。まだ惣菜屋が品を出す時間ではないが、屋台に果物くらいはあるだろう。
身支度を整え、宿を出る。何とはなしに周囲を見回した。あの娘がいるのではないか、と期待した自分には気付かなかった。
昨日は気付かなかったが、確かに祭りが近いようだ。まだ数は少ないものの、普段の市には並ばないような華やかな品が並べ始められている。よく見れば商いをしながら祭り用の品を作っている店主や小僧が多かった。津島は賑やかで豊かな土地だ。これなら祭りも凄いだろうな、と小十郎は想像する。父の口振りからすると祭りを見られるか見られないかの日に帰ることになりそうだが、少しくらいは見てみたいものだ。奥州にはない祭りが見られるだろう。
路傍の店にあった蜜柑をふたつ買い、腰に下げた小さな袋に入れる。腹具合を考えればちょうどよかった。昨日はあの娘にひとつやったんだったな、と思い出した。それにしても、一日に二度も会った挙句、今日も見かけるとは妙に縁があるような気がする。不思議なことだがそんなこともあるのだろう、と思う。男女関係においてはいまだ成長していない小十郎は、およそ不埒ではない大人であっても色恋に縁付けたがりそうな出来事を、あっさりとそう結論付けた。
市には人が多い。津島の経済の発展が納得できる賑わいだ。特に祭りが近いとあっては人々も活気も増しているのだろう。奥州とは違う熱を感じ、若い小十郎は何となく焦りにも似た感情を抱いていた。その焦りの正体が何なのかはまだ分からなかったが、今少し年月が流れ、政宗という主が国を背負い、共に政治というものに携わった時、経済の発展が国力に通じると知るがゆえの焦りだ。奥州にはない、津島の、尾張の国力を感じているからこその焦り。今の焦りが自らの政治の才能の片鱗だとは気付きもしなかった。
「おっと」
背の低い中年の男が組み立てていた簡易な小屋の屋根の材木がぐらりと傾いだ瞬間、ちょうど傍を通った小十郎は素早く手を伸ばし、難なくそれを押さえる。
「ああ、──ああ、ありがてえ、危なかった!」
「気を付けて」
「そうするよ。旅の人かい」
「ああ」
「そうか。旅の途中に悪いんだが、それを固定してくれねえか」
「これを? ──釘は?」
尾張の外の人間だと一目で分かる風貌とはいえ、気さくに手伝う小十郎に男は破顔する。剣の稽古で鍛えた少年の身体は年齢よりも大人びて見え、力も強かった。
「この小屋は何なんだ?」
「祭りの休憩所さ。この辺りは全部、祭りの日には一杯になる。歩き疲れた奴が座るんだ」
小屋の組立てを手伝い終えると、男は小十郎に幾許かの小銭を渡そうとする。小十郎は慌てて断った。
「いらねえ。暇だっただけだ」
「暇だってんなら、余計にもらってくれよ。俺はあんたの時間を買ったんだ」
そんなことを言われたのは初めてだ。小十郎は半ば感心しながら、ありがとう、と言って受け取ることにした。質素な惣菜なら一品二品買える程度の小銭だったが、働いて金をもらう経験が初めての小十郎には新鮮で、なぜかひどく大事な経験をしたような気がした。
「そっちが終わったんなら手伝ってくれないか?」
二人のやり取りを見ていた別の男が声をかけてきた。彼も何かを組み立てているらしい。何かと問えば祭りの屋台だと言う。断る理由もなく、小十郎はやはり手伝うことにした。
旅行者の働き振りを見た周囲の人々が代わる代わる手伝いを頼む声を掛け続け、結局小十郎は昼過ぎまで手伝い続けることになる。手伝いをひとつ終えるたびに小銭か、小十郎があまり食べない菓子が渡された。全てが終わる頃には両手が一杯になり、手拭を風呂敷のようにして包むはめになる。
──図らずも、父上のおっしゃる通りに小銭稼ぎをしてしまったわけか。
手伝った中の一人の男が「昼を食べて行きなよ」と小十郎を誘う。先に買った蜜柑も持っているし、断ろうか迷ったが、男の妻と幼い子が弁当を持って現れたので断ることができなくなる。妻は小十郎に驚いたが、夫から話を聞き、多めに持って来たからぜひ食べてくれと笑顔で勧めた。
「刀持ちなのに手伝ってくれるなんてな。ありがてえよ」
「いや、俺こそいい経験になったよ。ありがとう」
「どこから来たんだい」
「ああ、奥州だ」
「奥州って言うと──」
奥州の話をしていると、いつの間にか周囲に人が集まっていた。近隣からの旅行者は少なくない土地だが、流石に北からの来訪は珍しい。父が商談で、という程度に留めながら、小十郎は奥州の話をした。土地から離れる機会がほとんどない彼らは楽しそうに聞きたがる。やがて小十郎はあの娘をまた思い出していた。
「あ」
その声に小十郎は顔を上げる。小十郎を囲んでいた人々も同様だ。彼らはすぐに「ああ」と笑顔になった。小十郎もつい笑顔になる。桃色の表着を羽織ったあの娘がいた。
「よう」
「……何をしているの」
周囲の人々は口を閉ざし、視線を交し合う。「ひい様と奥州の少年剣士が知り合いなのか」と言う顔だ。中には昨日、小十郎と「ひい様」が並んで歩いている姿を見ていた者もいる。人々の好奇心は最高潮だった。
「祭りの準備の手伝いをしていたんだ」
「ふうん──来週の」
「そうらしいな。お前も何かするのか」
お前、という呼び方に、周囲はまた視線を交し合う。この少年剣士は「ひい様」の身分を知らないのか、それとも同程度の身分であるのか、彼らには判断がつきかねた。よく見れば小十郎も、口の聞き方は粗野であるものの、立ち居振る舞いは上流の武家のものだ。
「祭りで?」
「ああ」
「ととさまに舞えと申し付かっているけれど、いや」
「舞? お前が?」
「いやだから、しない」
「いいじゃねえか。お前なら綺麗だろう」
その途端、吉の顔が真っ赤になった。小十郎は訳が分からないなりに慌ててしまう。何かまずいことを言ったのだろうか、と焦った。少年は自分の言葉があまりにも直截的で、ともすれば無礼だったと気付きもしなかった。周囲が不意ににやにやとし始めたことに、二人は焦る余りに気付けない。
「と、とにかく、いや! ──さよなら!」
「あ、おい」
真っ赤な顔のまま、吉は身を翻す。小十郎は弁当をくれた一家に「ありがとう」と早口に言うと、半ば走るように去ろうとする吉を追いかける。人々は今度は堂々と顔を見合わせ、一体何が起きているんだ、という好奇心を隠しもせず、ああだこうだと噂し始めたのだった。
足早とはいえ、小柄な吉の歩幅は狭い。小十郎はすぐに追いついた。
「おい、待て。変なこと、言っちまったか」
「知らない、──知らない!」
「知らないってことじゃねえだろう。俺が何かしたなら謝らせろよ」
「してない。驚いただけ」
吉は僅かに速度を落とす。小十郎は我知らず安堵し、並んで歩いた。
「驚いた、って。何に?」
「何でもない」
「何でもねえってこと、ねえだろう」
「……綺麗、って」
「は?」
「綺麗、って。言うから」
「ああ、──……ああ、うん」
思い出し、小十郎は僅かに赤くなって咳払いをする。なるほど、「女性」に言うにはあまりにも直截的だった。これは今後控えるべきだ、と学ぶ。
「思ったことを、そのまま言っちまったんだ。恥ずかしかったなら悪かった」
「犬にも」
「犬──ああ、犬千代か」
思い出し、小十郎は頷く。
「犬にも、綺麗と言われたけれど」
「ふうん?」
「でも、違う」
「……何が?」
「……知らないけど、でも、違う」
意味が分からねえ、と小十郎は心の中で呟いた。声に出さなかったのは、吉自身も意味が分かっていないような気がしたからだ。口にすると彼女が混乱してしまうような気がした。
「どこへ行くんだ」
彼女の戸惑いをかわすように問う。
「天王坊」
「寺か。何をしに?」
「今日は和算」
「和算? お前が?」
女なのに、と小十郎は驚いた。この時代、和算を学ぶ女などまずいない。よほどの上流としか思えなかった。そう考えてみれば桃色の表着も、近くで見れば相当質の良いものだと分かった。もしかすると織田の本家に近い娘なのかもしれない、とまで考える。近いと考えたのは、さすがに織田本家の娘が町中を気軽にうろつくとは思えなかったからだ。
「一人で行くのか。供──犬千代は?」
「犬千代は家で学問」
だから一人、と娘は言って歩いて行く。小十郎は息を吐いた。
「送ってやる」
「え」
「昨日も言っただろう。お前に何かあったって話を後で聞いたら気分が悪い」
「何もない」
「強情を張って、誰が得するんだ?」
吉は暫し黙る。強情なんて張ってない、と顔に書いてあったが、やがて小さく「うん」と言った。僅かに赤くなっていることに、娘自身も小十郎も気づきはしなかった。
天王坊までの道を歩きながら、二人は何くれとなく話す。周囲の人々が興味深そうに二人を見ては囁き合い、当分の間はこの噂話で楽しめるだろう、と期待した。
「何で舞が嫌なんだ。嫌いなのか?」
「好きだけど、うまくできない」
「そうか?」
「かかさまがおっしゃる。みの舞は下品って」
「それは、なあ」
見たことがないから何とも言えないが、それは酷い言い草だ、と思った。厳しい母なのか、それとも母子仲があまり良くないのかのどちらかだろう。そこまで立ち入ったことを訊くことは流石にできず、小十郎は言葉を選んだ。
「お父上は舞えっておっしゃってるんだろう? だったらいいじゃねえか」
「でも」
「父上はお前を自慢なさりたいんだ」
小十郎は自分の父を思い出していた。姉に母親ならではの心で何かと苦言を言う母をよく宥め、母の言に落ち込んだり怒ったりする姉を慰める。そして姉が何かをすればとても嬉しそうな顔をする。父親とはそんなものだ。小十郎はそう思っていたし、他の父親を知らなかった。だからおそらく娘の父もそうなのだろうと思ったのだ。
「一家の長がやれとおっしゃるなら、やったっていいさ。母上が何かおっしゃったって、父上はお前をきちんと評価してくれる」
「……そう?」
「そうじゃねえかな、多分。そもそも、無理ならよりによって祭りで舞えなんておっしゃるもんか」
「……そう」
「そうさ」
「そう」
吉はまた、暫し黙る。小十郎の言葉を噛み砕き、考えていた。そして足を止めた。小十郎も釣られて止まる。
「じゃあ」
小十郎を見て、僅かに笑う。
「じゃあ、やる」
「そうか」
小十郎も笑う。
「俺も、その日にまだいたら見るよ」
「いればいい」
「父上次第だ」
「いればいい。──いて」
見上げる少女の顔は綺麗だった。ああ、綺麗だな、と小十郎は不意に強く思う。
同時に赤くなりそうな自分に気付き、まさか俺が、と慌てて咳払いをした。
「ああ、──それじゃあ」
いて、と言う言葉が妙に胸に残る。残った箇所が妙にざわつき、何となく、少女を見続けることが恥ずかしくなった。
「父上に話してみる。無理ならすまねえ」
「いて」
「分かるもんか。ほら、天王坊だろう。こっちでいいのか」
小十郎はこの話題から逃げるように歩き出す。だが吉は足を止めたまま、歩き出した小十郎の背に声を張り上げた。吉が大きな声を出すことが珍しいと、小十郎は知らなかった。
「みが舞うのを、見たくないの!?」
足を止め、小十郎は大きく息を吐く。顔が赤くなっていないことを願うしかなかった。強く願いながら振り返り、恥ずかしさを振り払うように、やはり声を張り上げた。
「見てえよ!」
その途端、娘が破顔する。何の含みもなく、ただ嬉しいという笑顔だ。花が咲くようなその笑顔に、小十郎は今度こそ、自分の顔が真っ赤になったことを自覚した。
「早くしろ、置いてくぞ!」
「みが行くのに変な言い方!」
弾けるような笑い声を上げながら、吉は小十郎と並んで歩き出す。小十郎は赤くなったことを誤魔化すように顔をしかめていたが、吉が今までとは打って変わったように自分から舞のことについて話し出すと、その顔を貫くことも難しくなり、やがて笑いながら聞いている自分に気付く。吉は本当は舞が好きなのだと言った。こうやってやるの、と歩きながらひらりと回ってみせる吉の身のこなしに小十郎は感心し、きっと上手いのだろう、と思った。