Children of the light 03



一度家に戻ると母がいた。吉を見て露骨に溜息をつく。
「その格好は何」
裾を膝までからげ、嫁入り前とはとても思えない。吉は曖昧な返事をし、母をやり過ごそうとしたが、今日の母は機嫌が悪いようだった。
使用人たちが息を呑んで見守る中、吉に何くれとなく説教を始める。
説教と言うよりは、女が女に対する厭味だ──使用人にこっそりと呼ばれ、途中から現れた平手政秀は溜息を押し隠した。
吉も言い返せばいい。政秀はいつも思う。決して愚鈍な娘ではなく、むしろ利発だ。だが家の中ではほとんど喋らず、激情を見せることもなく、母の気が済むまで説教と厭味を聞いてはまたするりといなくなる。いつも質素な着物の裾をからげて外に飛び出し、前田の子供や取り巻きを連れて遊び回っている。川や畑に入ることもあれば、危険な山へ入ろうとすることも多々ある、と犬千代に聞いている政秀は連日頭が痛かった。
だがそれも理解できなくはない。
──家に、いたくないのだ。ひい様は。
理由は誰の目にも明らかだった。母のことだ。土田御前と呼ばれる彼女は美しく才もあり、産んだ子供たちは皆美しく聡明で、この時代に女性に求められる役目を見事に果たしていた。城下では土田御前への賞賛の声も多い。だが政秀や古くから仕える家人たちは、彼女が何かの些細な機会で気鬱や癇癪を起こすことをよく知っていた。
そしてその気鬱の解消と見られる八つ当たり的な行為は、延々となぜか吉に向けられることが多い。今がまさにそれだ。吉は「またか」という顔すらせず、無表情に母の説教めいた愚痴をただ聞き続ける。
──それにしても、ひい様は辛抱強い。
政秀は思う。家のほとんどの者や城下の者は吉を「変わった姫さん、うつけかもしれない」と思っているが、政秀や──何より吉の父である信秀はそうではなかった。こと、信秀は他の子供の誰よりも吉を気に掛けている。土田御前や城下の者たちが入り込めない、天王坊へ勉強へ行かせていることがその表れだった。
だが土田御前が名家の枠に嵌らない「姫」を疎んでいる風情もよく分かったし、吉自身も理解している素振りを稀に見せた。
「御前」
使用人たちの期待を背負い、政秀は前に出る。
「ひい様がお勉強のお時間ですので、できればこれにて」
「ああ、そう」
母は溜息をつき、吉に一瞥もくれずに立ち上がった。尾張一の美女と噂された彼女はその仕草も美しかった。
「お前も吉に誑かされたか」
母とは思えぬ言葉に政秀は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑顔を作る。
「さすが御母堂、ひい様が未来の旦那様のお心を掴む秘訣を御存知にあられますな」
土田御前はぎろりと政秀を睨み付けた。流石は美貌の主、大した迫力だ。そこいらの男なら怯むだろうな、と政秀は思った。
「市はおらぬの。信行も。菓子があるからお呼び」
溺愛する二人の子供の名を呼んだのはわざとだ──政秀は溜息をつきそうになる。吉は身動きひとつしない。表情も何もない。
「ひい様、お行きなさい。政秀がお母様にご挨拶致しておきますゆえ」
「そうして」
ようやく開いた口から出た言葉は大きく、吉にしては珍しく棘があった。その棘に気付いた母が振り返るが、吉は母を見ずに立ち上がる。
「時間を無駄にした」
思わず眦を吊り上げた母を、それこそ一瞥もせず、吉は部屋を走り出た。政秀はあまりのことに一瞬呆然としかけたが、土田御前が癇癪を起こす前に深く頭を下げ、退出の挨拶をし、走り出した姫を追った。ほどなくして土田御前の金切り声が聞こえたが、そこは彼女の侍女たちが努力するところだと決め、振り返らないことにする。そもそもその侍女たちも政秀は気に入らなかった。土田御前に迎合し、吉を馬鹿にするような態度が目につきすぎる。
政秀が吉を見つけたのは正門前だった。犬千代や他の少年たちが吉を迎えに来ていたのだ。犬千代は少し怒っているようだったが、政秀を見つけて会釈してみせる。
「ひい様、またお出かけですか。今日はもう、およしなさい」
「政秀には関係ない」
「関係ございますよ。──存ぜぬとお思いですか」
「なに」
「見知らぬ男と二人で歩いていたと。噂は早いのです。御前のお耳に入ったらどうなされます」
少年たちも一斉に頷いた。確かに吉は様々な男、少年たちと並んで歩くことも多いが、それは必ずそばに少年の誰かがいることが暗黙の了解だった。最近は犬千代がその役目を果たすことが多い。並んで歩く男も津島の人間で、何かを案内する、教えるという用事があるから一緒に歩くにすぎず、下手な真似は一切しない。だが見知らぬ、しかも明らかに旅装の男と歩いていたとなれば話は別だ。
「ああ、あの」
そこまで言い、吉は「あ」と言った。
「名」
「はい?」
「知らない」
「……はい?」
政秀は流石に眉をひそめる。吉は肩を竦める。そして、他の者の前では滅多に見せない素直な顔をした。幼い頃から面倒を見てくれている政秀にはよく見せる顔だった。
「みの鼻緒を直してくれた」
「……ああ、それは優しいですね。で、どこで?」
「七ツ角の川辺の」
「──あんな場所で知らない男と口を利いてはいけません! むしろあんな場所に行かれてはなりません!」
さすがに政秀は驚き、やや大声を上げてしまった。七ツ角の川辺といえば物騒で有名な場所だ。悪人が出るから物騒なのではなく──
「遊女の亡霊が出たら何となさいます!」
その昔、川向こうの遊郭で、病気で命を落とした遊女が戸板に乗せて流され、流れ着いていた場所だった。今では信秀の厳命で禁止されているが、噂は土地の伝説となって残るものだ。
だが吉は涼しい顔だった。
「出たこと、ないから」
「そういう問題ではございません! 犬千代、お前もひい様の御身周りを何と心得る! ひい様に何かあれば責を負うのはお前だけではない、前田も同様だ!」
犬千代は見たことがないほど項垂れた。政秀の言うことは最もだった。すると吉が静かに言った。
「犬に酷いことを言っていいのは、みだけなのに。政秀はなぜ、そんなことを犬に言うの」
政秀は思わず息を呑んだ。少年たちも、見守っていた門前の兵士たちも同様だった。
吉の静かな怒りが見えたからだ。
単なる少女の怒りではなかった。
政秀は息を呑んだ後、笑みが零れそうになった。
──この方は、こんなにも若く、おなごであられながらも分かっておられる。
「そんなことをおっしゃるのなら」
──信秀様の御目は確かだった。
単なる怒りではなかった。「家臣を不当に扱われた」主君が見せる、誇り高く、正しい怒りだった。
この怒りを持てる者がどれほどいるのか。家臣の反乱を恐れ、機嫌を伺う主君も多い中、吉は一線を画した姿を政秀に──そして行く行く、前田の家督を継ぐであろう少年の前で見せ付けたのだ。
「そんなことをおっしゃるのなら。私に説教をされるようなことをなさるものではありません」
「みのことと、今、政秀が犬を責めたことは、別」
これにも信秀は笑みそうになる。吉の将来の片鱗が、その静かな声の中に現れている。
「別ではありません」
──信秀様、まことに。
「犬千代が対応しきれないことの原因は誰にありますか。ひい様でしょう」
──貴方様は、正しくあられます。
「家臣の限界を見極めるのもひい様の役目です。お分かりですか」
「かかさまも市も、それが役目なの?」
政秀はその問いに、不覚にも咄嗟に答えられなかった。
あなたは違うのです、あの方々とは違うのです──そう答えれば良かっただけの話だ。
それでも言えなかった。
いつも人の目を見て話す吉が、政秀から目を逸らせて言ったのだから。
「ひい様!」
犬千代が不意に大声を出した。顔が真っ赤だった。恥から赤くなったのではない。何かを感じた少年の興奮からくる、純粋な紅潮だった。
「それがし、限界なんて、ないです! 大丈夫です!」
「犬、うるさい」
「申し訳ございません、ひい様! でも! ないですから! 七ツ角の川辺に行きたければお供します! 遊女の亡霊が出たって、それがしが退治します!」
少年ゆえに操れる言葉が少ないのだ、と政秀は分かる。犬千代は吉の──将来の主君の言葉に感銘を受けたのだ。他の少年たちもどこか興奮した顔で何度も頷いていた。またも笑みそうになる自分を抑え、政秀は肩を竦めてみせた。
「ひい様が七ツ角の川辺に行こうとしたら、止めるのもお前の役目だ。分かったな」
「分かりました! ひい様、七ツ角の川辺に行っちゃ駄目です!」
「供をすると言ったくせに。犬の嘘吐き」
「えっ」
吉がぷいと唇を尖らせて歩き出す。
「待って下さい、ひい様! 亡霊は退治するけど、でも、それなら最初から行かない方が──」
「うるさい、うるさい」
「ひい様ってば!」
吉は犬千代を振り返らずに歩いて行く。犬千代と少年たちはそれを追う。
今度こそ政秀は笑みを漏らした。
──御母堂やお市様のような、女としての役目、など。
「……あなたには必要ないのですよ。あなたは名前さえも捨ててしまうのだから」
その瞬間だった。
政秀は目を見開く。
──ああ。見える。

美しい、美しい、天女のような女が──血と焔の中に立ち尽くす姿。
富と栄華と恐怖を全て手に入れる美しい天女の姿。
それは紛れもなく政秀のいとしい姫の姿だった。

人々の声。
恐怖の声。
賞賛の声。
憎悪の声。

二槍を構えた炎のような少年がいる。
片目の竜のような青年がいる。
いびつな太陽のような青年がいる。
鎌を持つ死神のような美しい男がいる。
守護と呼ぶに相応しい青年がいる。
軍神の化身のような冷たく美しい者がいる。
炎の少年よりも尚熱い炎を纏う虎がいる。
海神の化身のような堂々たる男がいる。
夜のような静けさの中に何かを秘めた青年がいる。

彼らは口々に言った。血煙と焔の中、彼らは呼んだ。
あの天女のような女を。

魔王、と。

「……魔王」
呟いた途端、その幻影は政秀の前から消え失せかける。
だが耳に、確かに耳に何かが聞こえた。
その声を確認する前に、政秀は幻影の世界から意識を引き摺り戻していた。
「……まさか、な。そんなことになるとは思えない」
そんな声は聞こえなかった。それで良い、と政秀は──未来を見る血を持つ一族の男は思った。
聞こえるはずがなかった。
魔王を呼ぶ声の中に、違う声があるはずがなかった。
その声は短く、だが、何よりも強い男の声で、捨てられるはずの名を呼んでいた。

きつ。

門番の兵士が不意に声を上げた。
織田家当主、信秀の帰宅だ。政秀は頭を下げ、長く仕える男に挨拶をする。
そしてすぐに気付いた。いかにも遠くからやって来た姿をした男が隣にいる。長旅だったことは一目で分かるが、決して疲れた様子を見せず、背筋を伸ばして信秀の隣に立つ姿は堂々とした武士のものだった。
彼の後ろには少年がいた。少年と言うよりはもう青年に近い体格をしている。武道の心得がある程度ではない何かの凄みが、既にその若い顔から滲み出ていた。
「政秀、ひいはいるか」
「ひい様ですか。先ほど、お出かけになられまして」
「またか。本当に、あれは家にいたがらないな」
信秀は娘の跳ね返りに苦笑する。そして隣の男を政秀に紹介した。
「片倉景重殿と、ご子息の小十郎殿だ」
「明日ご到着のご予定だったのでは」
「うむ、城下街で見つけてな。明日まで待つのも面倒だ、連れて来た」
信秀は豪快に笑った。景重は笑いこそしなかったものの、悪く思ってはいないという顔だった。口では面倒と行っている信秀が、自分を見つけるなり真面目な顔で「時間が惜しい」と言ったからだ。奥州を田舎と侮らず、その将来性を買っていることがひしひしと分かり、誇り高い気持ちになっていた。小十郎は父から伝わる感情に、自分では分からない屈辱を奥州は長く受けて来たのだろうと知る。
「奥で話す。──女は寄らせるな。ひいが帰って来たらひいだけを呼べ」
「かしこまりました」
近年、他国から重要な客人が来れば、信秀は必ず同じことを言う。それが土田御前の神経を逆撫でしていると知らないわけではなかったが、何よりも「他国に吉の存在を知らしめること」が重要だと考え始めていた。
小十郎はふと、鼻緒を直して蜜柑を分けてやった少女のことを思い出す。家はこの辺りだろう。別れたのはついさっきだったが、きちんと家に帰れただろうか、と少しばかり心配になっていた。




「あれ、ひいさん。こんばんは」
「犬坊、早く揚げられるようにおなりよ」
「小藤太、久蔵、小平太! 女の子に変なことすんじゃないよ!」
女たちが窓から顔を出し、口々に声をかける。
川向こうの色街と呼ばれるこの場は、陽が傾いてからが商売の始まりだ。女を買いに来た男たちが既に道を埋め、遊び男のような格好をした用心棒たちが目を光らせる。
そんな彼らも、津島の姫とその取り巻きたちを見て口元を綻ばせるのだった。ここでの吉の評価は真っ二つに分かれている。賢い姫だと言う者もあれば、少し知恵が遅いんじゃないのか、という者もある。吉はどちらが耳に入っても怒らなかった。行きたい場所へ行くだけだ。
「あら、ひいさん。ご飯は食べたの」
「まだ」
「はあい、ちょっと待ってなね」
女を斡旋する茶屋の下働きの女が笑う。吉はいつもここに来た。少年たちも同様だ。とはいえ、色街の雰囲気は少年たちには刺激が強い。客がつかない暇な女たちにからかわれることもしばしばだった。
「おたきは」
「今日は具合がいいよ」
「ご飯、後でいい」
「はいよ。犬千代たちと一緒に食べるといい」
「うん」
犬千代たちを置き、吉は茶屋の二階へ勝手に上がる。誰も咎めはしなかった。支度をしている女たちが襖のない部屋の中から吉に声をかけ、人目を気にしながら小さい声で、これを持って行って、あれを持って行って、と次々に菓子や薬袋を渡す。吉は全て受け取り、賑やかな二階の廊下を歩いた。
その部屋だけは襖が閉じられ、静かだった。吉は音を立てないように襖を開ける。
「ひいさん?」
「起きてた」
「起きてますとも。今日はひいさんが来てくれる気がしていたから」
「すごい。当たった」
「ふふ」
吉は部屋に入り、再び静かに襖を閉めた。布団に横たわった女──おたきが大儀そうに身体を起こす。吉は手伝わなかった。手伝ってはいけない、自分に触ってはいけない、と、おたき自身に強く言われているからだ。
「これ、皆から」
「ああ、ありがたいこと、ありがたいこと」
おたきは吉が布団の傍に置いた菓子や薬に手を合わせる。遊女たちはこの部屋に入ることを許されておらず、物を渡すことも禁じられている。たまにやって来る吉に託すしかないのだ。女たちを統括する茶屋の遣り手と呼ばれる老婆もこのことは知っており、最初は女たちを怒鳴りつけていたが、やがて吉に関しては目を瞑るようになった。あたしだって鬼じゃあないんだ、と遣り手が呟いたことは誰も知らない。
「熱が下がらなくてねえ」
「寝てなきゃ」
「今日は平気。ひいさんが来てくれると元気になる」
でも、あまり来ては駄目よ、とおたきは笑う。吉は困って俯くだけだった。
「少しなら外に出られるのよ。小平太たちがね、行きたければ川の向こうに連れてってやる、ですって」
「小平太たちが」
「いい子たちね」
「うん」
吉は素直に笑った。誰の前でも見せない笑い方だった。犬千代たちに心を許していないわけではないが、自分を守ろうとする彼らに見せる笑顔ではないような気がしている。だがおたきの前でだけはこうして笑っていられる。
おたきと会ったのは二年ほど前だ。政秀も収められない癇癪を起こした母から逃れ、行ってはならないときつく言われていた橋を超えた。犬千代たちが必死で止めるのも聞かなかった。
案の定、吉のような上流の娘の存在が許せない人々が敵意を向けた。それを何かの神業のように収めてくれたのがおたきだった。当時色街の一番人気だったおたきの仲裁には誰も逆らえず、吉は事無きを得たのだ。

ひいさんが悪いんじゃないのよ。
でも、お金がなくてここに来るしかなかった人たちは、怒りをひいさんにぶつけるしかなかったの。
悪く思わないでやってね。
悪い人なんて誰もいないのよ。

もう来ては駄目よ。おたきはそう言って菓子をくれた。
その翌日、吉は新しい菓子を持ってまた橋を渡った。さすがに吉に不気味さを感じたのか、絡もうとする者はいなかった。話を聞いたおたきが飛んで来た。
どうして来たの、と言われ、吉は堂々と答えた。

おたきと、美味しい菓子を一緒に食べたかった。
あれより美味しい。
あれも美味しかった。
でも、みはお金がある。
もっと美味しいの、食べよう。

裕福であるがゆえに危険な目に遭っていながらそう言い放った吉に、周囲は憤りはしなかった。頭がおかしいんだ、と言う者もいれば、黙って、あのひいさんは自分たちを見下してはいない、と感じる者もいた。
おたきは困ったように笑い、吉を茶屋の自室へ招き入れた。もう来るなとは言わなかった。
それから吉はおたきに会いに来るようになった。おたきも妹のように吉を可愛がった。
人気の遊女のおたきには会えない日も多かったが、そんな時はやがて周囲の人間たちが気さくに相手をしてくれるようになった。
吉の態度は相変わらずで、それが彼らの心を掴んだ。やりたいことをして、言いたいことを言って、好きな誰かが嫌な目に遭えば怒って助けに行く少女とその取り巻きたちを、彼らはいつしか心から好むようになっていた。
ひいさんはねえ、と、おたきは遣り手に語った。

ひいさんはねえ。
寂しいのねえ。
ここに来る男の人とは違うけど、同じように、寂しいのねえ。

おたきが病に倒れたのは数ヶ月前だった。
遊女によくある性病ではなかった。原因不明の発熱を繰り返すようになった。医師は原因が不明だと言い、おたき自身は原因が不明だからこそ自分を隔離すべきだと主張した。
だが完全な隔離には至らず、今は茶屋の二階の一番奥の部屋にいる。
「それでね」
多弁ではないはずの吉が、他愛ない話をおたきにする。おたきは微笑んで聞いたり、たまに、それは駄目よと言ったりもする。駄目よと言われた吉は素直に「うん」と言うこともあった。政秀が見れば驚くような素直さだろう。
「虎って言う、大きな奴が」
「虎」
「うん」
「あら。遣り手が最近言ってたお方かしら」
「え?」
「うちのほら、おとみ」
「うん」
おとみとは、おたきが店に出なくなってから人気が上がった遊女だ。
「あの子が相方になっているわ。まあ、優しくて、羽振りがいいんですって」
「……ふうん」
確かに小藤太たちが虎の話をしていたような気がする。あれも所詮は男か、と吉はやや呆れた。
「甲斐から旅行にいらしてるとか、何とか」
そしておたきは笑った。
「いいわねえ。他の国に行けるのは、いいわねえ。男の人って自由ねえ」
そして吉を見て微笑む。
「ひいさんも、もしかしたら他の国へ行くかもしれないわね」
「どうして」
「──お嫁に、お行きなさい。大事にしてくれる男の人のところに。きっとお父様が最高の人を選んで下さるから、大丈夫よ」
吉は答えなかった。おたきは微笑んだまま続けた。だがその声は小さかった。
「ひいさんなら、お嫁に行った先で、新しいお母さんが大事にしてくれるから」


さすがに遣り手女は頭を抱えた。
新しい上客の部屋に「ひいさん」がいきなり入り込んだのでは当たり前だ。犬千代を呼んでおくれ、と男衆に言いつけ、おとみと酒を楽しんでいた信玄にひたすら頭を下げる。
「いえ、このひいさんは、いえ、その──」
おとみは土下座する遣り手女を尻目に、信玄と、飛び込んで来た吉を交互に見る。信玄が怒っていない、と看破した。それどころか今にも笑い出しそうだ。これなら何とかなる、と一番の遊女は笑顔を作った。
「ひいさん、まあ、驚いた。もしかして、虎の旦那の男振りがいいって、誰かに聞いたの?」
「虎」
場をとりなそうとするおとみを無視し、吉は信玄に声をかける。信玄は笑いそうになりながらも答えた。
「何じゃ」
「仏門は、女と遊んでもよいと言うの」
「いまだ帰依しておらぬでな。何ぞ問題がある」
「おとみ」
「はあい」
「虎は男振りがよいの」
「あら、まあ。見ての通り。とてもとても」
「ふうん」
吉はまた、信玄を見た。
「虎」
「ん」
「おとみが気に入ったの」
「はは」
気に入らなければ大枚をはたくものか──そう答えようとしたが、吉には少し違うことを言ってやることにした。
「おぬしのような、色気も何もない、うつけに比べれば。比べるのもおとみに無礼か」
なまじの少女ならこれで傷ついたはずだ。信玄は分かっていた。だが傷つけるために言ったわけではなかった。
自分を猫だと言い放ったような娘が、天王坊で僅かに見せた品の良さを持つ娘が──
──こんなことで傷つくようならば。なあ。織田の信秀よ。
吉が信秀の娘だということは知っていた。初めて会った時には知らなかったが、おとみに話したらすぐに吉の正体と、数々の逸話を教えてくれた。だからこそ驚いた。

──利発、という言葉で括れるような娘ではない。きぐるいか、天才か。どちらかよ。

だからこそ脅威を感じる。
この娘が今、傷つけば、その脅威は消えうせる。
脅威。それは「武田にとって織田が今以上の強敵となる」ということだ。
信秀の子は他にもいる。嫡出子、庶子、男女を考えずとも吉は三人目にあたり、家督を継ぐ可能性は低い。
だが近年、信秀は積極的に吉の話を諸国に流布するようになっていた。良い縁談を探す父親の行動と考えることもできるが、信玄には到底そうは思えていなかった。
そして信玄は自分の考えが正しかったことを知る。
「そう」
吉は言った。傷ついた様子も見せず、さりとて強がって鼻で笑うこともせず、ただ、淡々と。
「綺麗なのとか、色気とか。そういうのは、ここのみんなに任せるの」
「……ほう」
「みは、お嫁にも行けないから。いいの」
それはどういうことだ。信玄がそう問おうとした時、犬千代がばたばたと足音を鳴らして階段を上がって来た。
「ひい様、駄目です! 何してるんです!」
「もう終わった」
「もう、って──あ、虎……!?」
驚く犬千代を尻目に、吉は部屋を出る。犬千代は迷ったが、遣り手女とおとみに目で謝り、吉を追った。
「いやはや」
盃を空け、信玄は低く呟く。
「あれは──良い縁談をすぐにでも探してやるべきだ」
あら、いいわねえ──言いながら盃を満たそうとしたおとみは、思わず徳利を取り落とすところだった。
信玄の目が、今までどんな男でもおとみが見たことのないような、厳しく、遠い世界のものだったから。
「虎の旦那……?」
「──ああ、ああ、いや、楽しい余興だった。津島は変わっているな。姫が色街に出入りしていようとはな!」
すぐにいつもの調子に戻った信玄に安堵し、そうでしょう、でも可愛いでしょう、とおとみは調子を合わせる。さっきの目は何だったの、と、訊いてはいけないような気がしていた。
「縁談はないのか、あの娘に」
「どうでしょ? でも、織田の姫様だもの。待っていても良い縁談が来るんじゃないかしらねえ」
「それがいい、それがいい」
「結婚できない、なんて。あれくらいの女の子って、みいんな、自分だけは駄目なんじゃないかって心配しちゃうのよねえ」
「全くだな。あれは早く結婚した方がいい」
──甲斐にとって、それがいい。
信玄は笑えぬ自分を嘲笑したくなった。
脅威を感じた。
だからこそ、早く嫁に行けばいい、と思った。
──ワシの、ワシたちの生きる戦の世に現れることなく、誰にも気付かれることなく、平凡な女として時代に埋もれよ。




信秀と父が話し込んでいる間、自由にしてもいいと小十郎は言われた。父としては小十郎を同席させたかったようだが、信秀が歓迎しないような態度を見せたのだ。
片倉父子には分からなかったが、いずれ帰って来る娘を年頃の男の前に出したくない、という信秀の考えだった。これから政治舞台に上がらせる特別な娘が、まかり間違って年頃の男と過ちを起こさないとは言い切れない。それだけは避けねばならない。しかも信秀から見て、小十郎は充分に若い娘の興味を引く面立ちをしていた。吉が男に興味を示す性格ではないと重々承知しているが、それでも遠ざけるにこしたことはなかった。
最初は政秀の案内で館の中を見、さすが商人を多く育てている尾張だ、と小十郎が感心するような豪華な作りや調度品を楽しんだのだが、そのうちにそれも飽きる。若い男には確かにつまらないだろう、と政秀は笑い、川の向こうの色街をこっそりと教えてくれた。小十郎は色街になど興味はなかったが、政秀が「外に出てもいい」と言ってくれたのだと分かり、感謝して外へ出る。
すっかり夜になり、持たされた提灯に感謝することになった。月は出ているが三日月だ。それほど強い光をくれるわけではなかった。
──……まあ、さすがに。
あの少女を思い出す。
──さすがに、家に帰っただろう。
織田の家の近くに住んでいるようだったから治安も悪くない。そもそも、この辺りの治安は良い方だろうと小十郎は思っていた。無論、昼と夜では多少の違いはあるだろうが、治安の悪い場所独特の空気を感じない。歳若い小十郎だが、既に肌で空気を感じられるようになっていた。
この時間では市も閉まっている。本当に色街しか動かない。しかし行く気にもなれない。女に興味がないわけではないし、色街めいた場所を知らないわけでもなかったが、食指が動くたちでもなかった。
結局ふらふらと歩き、昼間の川辺に出る。提灯以外は何も灯りのない暗闇の中、さらさらと静かに水が流れる音が響き渡っていた。
小十郎は夜目がきく方だ。提灯の灯りだけでも危なげなく川辺を歩けた。
昼に、あの少女と会った方へ歩く。彼女がいると思っていたわけではなく、座れる石があったことを思い出したからだ。考え事でもして時間を潰そう、と思った。剣の稽古も政治の勉強も好きだが、取りとめもなく何かを考えることも好きだった。
「……」
声をかけるべきか、どうか。驚かせては悪い。時間も時間だ。
そこにいた、昼間の娘を見て考えてしまった。
だが夜目の中でもはっきりと分かることがあった。
──こういうのは、苦手だ。
小十郎は溜息をつきたくなる。そう、こういうことは苦手だった。得意な男がいれば色街にでも行けばいい。きっと女に人気が出ることだろう。
俺には無理だ。小十郎は素直に認めた。だが、ここで踵を返すこともできなくなった自分に気付く。その程度には昼間、あの少女を可愛いと思ったのだから。
「──おい、驚くな。俺だ」
石の上に座っていた影は僅かに身動いた。驚いたがそれを極力出さないようにしている、そんな風情だった。
「……鼻緒は大丈夫か」
かける言葉が見つからず、小十郎はやっとのことで導き出した適当なことを言う。石の上の少女がほっと息を吐いた様子が分かった。
「大丈夫」
「そうか。こんな時間に何してる」
近寄りはしなかった。彼女がそれを望んでいないような気がしたからだ。
──きっと、こいつは。
泣いている顔を見られたくはない、そんな女だろう。明らかに泣いていた彼女の姿を忘れることにした。
「何もしてない」
「そうか」
「どうしてここにいるの」
「ああ、──時間潰しだ。親父が商談でね」
父の身分のことも、本当の目的も言う必要はないだろう。面倒だった。
「お前、家に帰れよ。いいとこの姫さんだろう。こんな時間に出歩いて、何かあったらどうするんだ」
「何か」
「ああ」
「どんな」
「どんな、って……」
夜中に女が無防備に出歩いていれば、それは最悪の事件に巻き込まれる可能性がある。だがそれをはっきりと口にすると、この少女が怯えるのではないかと思った。何しろ自分も男だ。いきなり自分に対して警戒心を持たれる可能性もある。
「物盗りだとか、まあ、そういう。女にはよくねえ時間だよ」
「男はいいの」
「……いい、ってわけでもねえが。女よりは安全だ」
育ちが良すぎて分からねえのか──小十郎が困り果てた時、少女がくすりと笑った。
「ここはいつも、人が来ないから来てるだけ」
「俺は来ただろう」
「地元の者は来ない」
「曰くでもあるのか」
「遊女の亡霊が出る」
少女はぽつぽつと、その迷信を話した。小十郎はこの時代にしては亡霊や曰くをそれほど信じておらず、馬鹿馬鹿しい、という声を出さないようにするのがひと苦労だった。
「怖くないの」
少女が言った。小十郎は苦笑する。
「斬れないもんは、怖い。だが亡霊と会ったことがねえからな、まずは斬れるかどうか試してから考えるさ」
その答えが面白かったのか、少女が僅かに声を上げて笑った。何とはなしに小十郎はほっとする。やはり、可愛いと思える女が泣いているよりは、笑っている方が良いと思った。だからなぜ泣いているのか、と訊くことはやめた。
「剣が得意なの」
「そうだな。下手じゃねえよ」
奥州では既に名を馳せているが、少女に説明するにはこれで充分だ。奥州ではもっと有名なんだ、と言ったところで、この少女は興味を持たないような気がした。
少女が腰掛けている石から少し離れた場所に座り、取りとめのない話をする。小十郎が話すこともあれば、少女がぽつりぽつりと短く何かを話す。少女は奥州のことを知りたがった。
「昼にも話しただろう」
「もっと」
「──そうだなあ」
小十郎は思いつくままに話した。自分でも稚拙だと思ってしまうほど、筋道が整わない、いかにも今思いついたという順番で話して行く。だが少女はそれも楽しいのか、それはどういうこと、それは何、と質問をし、妙に話が弾んだ。小十郎はたまに彼女の方を見て、提灯の仄かな光の中だけでも分かる美少女振りを楽しむ。奥州独特の甘い菓子の話をし、少女の目が輝いた時には奇妙な愛しさまでをも感じた。それは恋愛感情や欲情ではなく、純粋に、可愛い見た目の女が喜べば楽しくなるという、男ならではの感覚だった。
「いいな。奥州。みも行ってみたい」
「奥州と縁談があれば行けるさ」
小十郎の言葉は何の含みもない、この時代の人間なら当然の一言だった。
「縁談」
「ああ、──まあ、うん、もっといいとこもあるだろうけどよ。お前ならさ」
贔屓目を覗いても上流の家の娘だ。着ている服はお世辞にも洒落ているとは言えないが、上質の布を使っていることは分かる。この辺りの上流なら織田家の縁の家に嫁ぐ可能性が高い。いまだ日の本の中では主流とは言えない奥州に、彼女が嫁ぐとは考えられなかった。
「縁談がなくては、女は外に出られないの」
「……ん、いや」
小十郎はふと、少女の声が低くなったことに気付く。これはあまり触れられたくない話なのだろうかと考えた。
「まあ、出られなくもねえ、かもな。お前の親父さんなりに力があれば、一緒に旅行にでも行けるんじゃねえのか」
「ととさまと」
「ああ」
ととさま、という言葉に首を傾げたくなる。それは小十郎でも知っている、西の言葉だった。尾張の言葉ではない。
そういえば昼間から、少女の言葉は所々に西の言葉が混ざっている。気付いた小十郎は僅かに、ほんの僅かにこの少女を警戒することにした。ただの上流の武士の姫君ではないような気がする。
「──みは、男振り良い旦那様と結婚したい!」
いきなりの宣言に、小十郎は考えていたことを彼方に吹き飛ばしてしまった。こんなことをはっきりと言う女に出会ったのは初めてだった。いい男と結婚したい、と堂々と言う上流の姫などどこにいるものか。
「そうしたら、みは旦那様を大事にする! よい奥方になるの!」
「そ、そうか。お前みたいな美人に大事にされたら、そりゃあ、旦那もお前を大事にするだろうよ」
それは本心だが、少女の迫力に気圧されてつい言ったのも事実だった。
「ほんとに?」
「ああ」
「ほんとのほんとに?」
「ああ、うん、そうだな、少なくとも俺ならそうする」
あくまで自分を例として言っただけで他意はなかった。だから驚いた。少女が提灯の薄明かりの中でもはっきり分かるほど、顔を赤くしたのだ。小十郎は慌てて言った。
「いや、だから、俺がお前を嫁にしたいってわけじゃねえぞ!」
「わ、分かってる! 驚いただけ!」
お互いに真っ赤になっている。俺は何をしているんだ、と小十郎は半ば後悔していた。
「ったく、送るから帰れ!」
「一人で帰れる!」
彼女のそれは意地だと分かる。気の強い女なのだと小十郎に教えた。小十郎は溜息をついた。そして息を吸う。
「お前に何かあったって話を後で聞いたら気分が悪い、送らせろ!」
やや強めの口調で言うと、少女はぐっと言葉を止めた。小十郎はまた溜息をついた。少女にきつい言葉を投げた後悔から出た溜息だ。
「大きい声を出して悪かった。怖がるな」
「怖くない」
「そうか。遊女の亡霊も気にしねえでここに来られるなら、そりゃ怖くねえだろうな」
でも、と小十郎は続けた。
「俺の気分が悪い。だから送らせろ。帰るぞ」
提灯を持って立ち上がる。中の蝋燭はもうだいぶ短くなっていて、織田の屋敷に帰るまでに消えてしまうかもしれなかった。
少女は何も言わず、動きもしない。小十郎がまた声をかけようとした時、ようやく緩慢な動きで立ち上がった。
それで小十郎は安心したのだった。
帰る道々、また少女は奥州の話をせがんだ。小十郎も何くれとなくそれに応える。それほど長い道のりではなかったが、昼に比べると誰もいない道のりは、不思議と長く感じられた。それでも小十郎は特に苛立つことはなかった。本当に、少女が話を楽しんでいることに気付いたからだ。
そして途中で蝋燭が消える。
「消えたか。まあ、俺は夜目が効く方だから──」
大丈夫だ、と言い掛け、思わず黙った。
少女が小十郎の袖を強く掴んだからだ。
もしかして、と小十郎は思う。
「……暗いのが、怖いか」
「怖くない」
だがやはりそれは強がりだと分からせる声だった。袖を掴む力の強さが物語っている。
「お前、いつからあそこにいたんだ」
「陽が落ちる、少し前」
「……暗くなる前に帰れよ……」
小十郎は暫し考える。
何らやましい気持ちではない。全くそんなことは考えていない──誰に対してかも分からないが、心の中で言い訳する。
そして、少女の手を握った。少女が驚いて身体を揺らせる。肉親や犬千代以外の男に手を握られたのは初めてだった。
「緊急避難ってことにしておけ。行くぞ」
少女が頷いたことが分かった。
真っ赤になっていることも、分かった。
可愛いよな、と小十郎は思った。