Children of the light 05



天王坊は小高い坂の上にある。坂の下にある入口の階段の前で小十郎は足を止めた。
「帰りは誰かに送ってもらえよ」
「いつも一人だから、平気」
「強情を張って、誰が」
「得しない」
「その通りだ」
機転の利いた返しに小十郎は笑う。吉も笑った。
「一緒に行こう。そうしたら送ってくれる?」
「俺が? 招かれざる、だろ」
「和尚は怒らない。早く」
「無理だよ」
「じゃあ、訊いて来る。待ってて」
小十郎の返事を待たず、吉は石段を身軽に駆け上がりだす。体重を感じさせない動きに、小十郎は昨日、彼女を天女のようだと思った自分を思い出した。
このまま帰っても良いような気がしたが、黙っていなくなれば彼女ががっかりするのではないかと悩む。それに、やはり一人で帰すことは躊躇われた。寺の誰かが送ってくれるのならいいのだが──悩んでいるうちに、石段から降りて来たのは一人の僧だった。歳の頃が若く、彼女が言っていた和尚ではないことはすぐに分かった。
「ひい様が、お世話になられましたそうで」
僧は自分よりも歳若い小十郎に深々と頭を下げる。小十郎も慌てて礼をした。
「片倉小十郎と申す」
「片倉殿。ひい様がご勉学の間、中でお待ち頂けますか」
帰りの護衛として認識されたらしいことを理解した小十郎は、かたじけない、と返事をするしかなかった。
石段を上がりながら、僧は言葉少なに小十郎に話しかける。小十郎もぽつぽつと答えながら、世間話のようでいて、その実この僧が自分の身元を探ろうとしていることが分かった。はっきりと訊いてこないのは、万が一、小十郎が面倒な相手だった時に寺が巻き込まれないようにするためだろう。不愉快とは感じず、しっかりした寺だな、と小十郎は思う。
「こちらでお待ち下さい。もし退屈なら、書を読むなり、境内を散歩するなり、どうぞお好きに」
通されたのは本堂に近い、小さな東屋だった。この時代では高価な畳が敷かれている。庭に面した部屋に落ち着くと、すぐに小僧がぬるい茶を運んで来た。
喉は渇いていなかったが、礼儀として茶碗に口をつける。素っ気のない味だった。
それなりに時間がかかりそうだと思いながら庭を眺める。砂利が規則正しく清潔に整えられた庭は機能美に溢れ、小十郎はぼんやりと、もしいくさでこの寺が襲われても、この庭で兵が陣を組むことができるだろう、と思った。
誰かが砂利を踏む音が聞こえる。小十郎は姿勢を正し、横に置いた刀を引き寄せ、すぐに立ち上がれるようにする。足音は明らかに大柄な男のもので、武道を嗜む者──剣を知る者の足音だった。その筋の手練れであれば、少年である小十郎が聞き分けられることに驚いただろう。小十郎は自分で思っている以上に優れた剣士だった。
足音が近付いて来る。敵意はない、と小十郎は判断した。これも優れた剣士ならではの判断だ。だが若さゆえ、刀から手を離す決断ができない。
「──おお、先客か。すまなんだ」
咄嗟に返事ができなかった。目の前に現れた男は確かに大柄で、見るからに武道の心得がある。だが想像よりもずっと高貴で知性を感じさせ、それは小十郎に輝宗を──支配者の威を思い出させるには充分すぎた。
「娘っ子の護衛だとか?」
「……左様」
娘っ子、とはあの娘のことだろう、と小十郎は当たりをつける。ではこの男は彼女の知り合いなのだろう。
「そのように睨むな。何もせぬわ」
男は──信玄は豪快に笑った。小十郎は緊張を解すまではいかなかったが、自分が警戒しすぎていたことを知り、刀から手を離す。それでも完全に警戒を解くことはなかった。それを見た信玄は満足そうに僅かに頷く。
「和尚の説法を聞きに参ったのだが、娘っ子の和算の時間だとかでな。終わるまで待てと追い出されてしもうたわ」
「そうですか」
「女で和算とはな。──まあ、利発すぎる娘だ。和算も物足りなかろうよ」
「そうですか」
小十郎の受け答えに信玄はまた笑う。少年剣士の警戒が面白かったのだ。同時に、悪くない、と思った。
──ワシがどの程度であるか、およそ分かってはいる、というわけか。それだけでも相当に秀でた剣士よ。
「おぬし、剣の腕は如何ほどよ」
「……微々たるもので」
「微々たる、か」
信玄は目の前の少年に感嘆した。彼の腕が立つことなど、信玄ほどの者が見れば分かる。この年齢なら自慢のひとつもしたくなるはずだ。だがそれを抑えてみせたことに、やはり優秀な剣士の素質を感じた。
「虎じゃ」
それが名乗りだと分かった小十郎は姿勢を正す。正体は分からないものの、明らかに自分よりも腕が立つであろう人生の先達に、礼儀正しく頭を下げた。
「小十郎と申す」
片倉の姓を名乗らなかったのは、男が虎とだけ名乗ったからだ。本名を名乗らぬ者に名乗り返す必要はない。信玄も無論分かっていて、気分を害することはなかった。
「小僧の割には良い名よ」
「かたじけない」
ある意味では挑発だった。背伸びをしたがる年齢であろう少年に、小僧という不躾な呼び方は腹の立つことのはずだ。だが小十郎は冷静に受け流した。相当の素質だな、と信玄はまたも感嘆した。
「娘っ子の和算が終わるまで共に歩かぬか、小僧」
「お供いたす」
断る理由を考えるのも面倒だ。一瞬迷ったが刀を手に取り、立ち上がって腰に下げる。僅かに男が笑ったような気がしたが、気にしないことにした。
──この男からすれば、俺なんざひよっ子も同然なんだろう。
剣を振るう姿を見たわけでもなければ、武道を披露されたわけでもない。だが天性の才能が、目の前の男はずば抜けて強い存在だ、と感じていた。
まだ自分がかなう相手ではないということも。


「全て合っておりますよ。よくお出来になられました」
吉に出した課題を短時間で解かれ、僧はいつもより深く微笑する。吉は特に反応を示さなかったが、機嫌が良いことはよく分かった。課題もいつもより熱心に取り組み、予定していた時間が余っているほどだ。
「じゃあ、帰っていいの?」
「まだです」
まだ、と言われた途端に吉は唇を僅かに尖らせた。珍しいことだ、と僧は思う。機嫌が良いことも、子分以外の前でこうやって感情を外に出すことも、吉にとっては珍しいことなのだ。
待っているというあの片倉という少年のせいか──僧は見抜いていた。だが、苦言を呈するつもりもなかった。それは織田家の中の問題だ。年頃の少年と少女が出会えば、時には何かが起こる。僧はそれを否定しない。全ては諸行無常、み仏の心のままに、と心の中で呟いた。
「御所言葉の講義を抜け出されたそうで」
「どうして和尚が知ってるの」
「お家から報せが。御所言葉は必要だと、お父上がよくおっしゃっておられるでしょう」
吉がまたすっと感情を隠したことを僧は知る。同時に、もし世が世なら、と思った。
──……世が世であれば。騒乱の時代とならぬのであれば。
「いずれ尾張より世を広げる姫なれば、あちらの言葉を操れた方が良い。それは拙僧も同じ意見でしてな」
「あれは嫌い、つまらない」
「御所言葉で、つまならい、とは何と言うのですか」
──利発で美しい姫として、いずこかに嫁いで、普通の人生を送れた娘であろうに。
「……おもなし」
「では、これからはそうおっしゃいますように」
「やだ」
「嫌だ、は御所言葉で?」
「──尾張にいる時は喋らない」
「では、講義はきちんとお受けなさい」
「気が向いたら」
「姫」
「もう帰る」
「姫」
「──世を広げるなんて、みには関係ない」
感情を押し殺した声で呟くと、吉は立ち上がる。僧が戒める声を出したが、聞き入れようとはしなかった。
「そんなの、信行がやればいい。かかさまもそれがいいって思ってるから」
一切の感情を窺わせないまま、吉は僧に挨拶もせず、静かに障子を開けて部屋を出る。
「……政秀殿が昔からご覧になられている以上は、逃げられませぬでな」
──あなたが魔王となることからは、逃げられませぬ。
僧はゆっくりと手を合わせる。やがてその唇から念仏が漏れ始めた。
政秀が予知夢の中で繰り返し見ると言う、魔王の足元の無数の死者への供養だった。


小十郎はいつの間にか、この男と歩きながら話すことを楽しんでいる自分に気付いた。虎と名乗った男は見識が深く、小十郎が軍事に興味を持っている素振りを見せると、兵法書ならあれがいい、その中でもあれは、とすらすらと話してみせる。分かりやすく、また、飽きさせない話し振りに、いつの間にか少年はすっかり引き込まれていた。
信玄は少年がたまに発する問いの鋭さに驚き、舌を巻く。どうやら剣だけではなく、相当に頭の良い小僧のようだ、と判断した。しかし悪い気分ではない。自分の話を熱心に聞き、臆することなく質問されることは気分の良いことだった。答えるにもつい熱が入る。
「ワシの話にここまで付き合った者は初めてじゃ」
「いえ、面白いので──勉強になる」
いつか自分も戦場に出ることになる。伊達家に、政宗に仕え続ける限り、重要な戦略を立てる立場になる可能性もあるのだ。何より、軍事が自分の性質に合っていることは既に分かっていた。武道を嗜むという理由からだけではない。小十郎はこの歳で、既に自らの適性を冷静に判断する知能を身に付けていた。
「夜は暇か?」
「夜──ええ、おそらく。父が何かをそれがしに言い付けなければ」
「なら、場所を変えて一献どうだ。娘っ子を送ったら川向こうへ来い。虎と言えば分かる」
「川向こう?」
「なあに、金はワシが出す。気にするな」
「え、しかし──」
言いかけ、小十郎はふと首を巡らせた。小柄な者が砂利を踏む音がしたのだ。信玄も遅れて視線を追う。
吉が驚いたように二人を見ていた。
「……虎」
「おお、娘っ子。和算はどうだった」
吉は答えず、唇をぎゅっと引き結んだ。その様子に小十郎は「どうした」と首を傾げ、信玄は小十郎と吉を見比べて首を傾げる。吉の様子がおかしいと分かるほど、小十郎が吉と親しいのかと不思議だったのだ。
「終わったのか?」
「終わったから、帰る」
「ああ、──送るよ。虎殿、失礼を」
「うむ。夜、待っておるぞ」
「伺えなければ使いを立てます」
二人の会話を聞いていた吉は何かを言いたい顔をしたが、何も言わずに身を翻し、さっさと歩き出した。唐突な行動に小十郎は驚きつつ、だが、妙に慣れた自分を知った。今まで出会ったことのない部類の不思議な娘なのだ、と、この二日で分かったような気がする。
速足で歩いて行く吉と、待てよ、と言いながらそれを追う小十郎を見送り、信玄は「ふむ」と呟く。
「……ああ見れば普通の娘っ子なのだが、な」


「虎と、話」
「ん?」
「話があるなら、送らなくていい」
来る時とは違い、僅かに沈んだ声を出す吉に、何かあったのだろうかと訝しみながらも小十郎は答えた。
「時間潰しだ。お互いの」
石段を降りながら小十郎は答える。上りの時は気付かなかったが、石段は吉の歩幅には大きいようだ。一段一段、まるで子供のように降りて行く。よろけたら手を出してやれるよう、小十郎は一段先を降りることにした。
「送らなくていいったら。虎といればいい」
「お前を送るのは最初の約束だ。それに、虎殿とは後で会う約束をした」
「約束?」
「夜に、川向こうに来いと言われた。俺も暇だし、話はその時で構わねえさ」
「……川向こう?」
急に吉が足を止めた。小十郎は振り返り、一段上の彼女を見上げて驚く。盛大に眉がひそめられていたのだ。
「何だ、その顔」
「川向こうに? 行くの? ──川向こうに!?」
心底驚いている、心底面白くない、いや、心底不愉快だと言わんばかりのその顔に気圧されつつ、小十郎は訳が分からないながらも「ああ」と答える。小十郎は川向こうが色街だと言うことをまだ知らない。吉の態度に驚くしかなかった。
「特に用事もないからな、呼ばれたなら行くさ。尾張の思い出にもなるし」
「思い出!? 思い出のために川向こうに行くの!?」
「川向こうの何が悪いんだ?」
小十郎としては他意なく訊いただけだった。吉の驚愕振り、不愉快の理由が全く分からない。
だが、何が悪いんだ、と訊かれた途端、吉ははっとして口を噤んだ。
「おい」
様子がおかしいと思った小十郎はできるだけ穏やかな声を出す。女心など分からないし、分からないことにすらまだ気付いていないが、こういった時の相手をあまり興奮させてはいけないということくらいは分かった。
「俺が川向こうに行っちゃいけねえ理由でもあるのか?」
だが、その問いが最悪だったことは分からなかった。
吉が俯き、唇を強く噛む。
どうしたんだ、と小十郎が言う前に、吉は不意に石段を駆け降り始めた。歩幅が足りない石段を駆け降りるなど危険極まりない。小十郎は焦り、彼女を追った。
「危ない、待て、止まれ!」
「送らなくていい!」
小十郎の危惧など意に介さず、吉は駆け下りて行く。身軽な分、小十郎よりも速いことが皮肉だった。追いながらも小十郎は驚いていた。転んで落ちてしまってもおかしくない、彼女にとっては危険な石段だと言うのに、その小柄な身体は危険など一切感じさせずに駆け下りて行くのだ。ずば抜けた運動神経と認めざるを得なかった。
「送るって言ってんだろう!」
「いらない、──嫌い!」
「はあ!?」
「もう嫌い、汚い、奥州に帰ればいい!」
「お前なあ……!」
余りの言葉に衝撃を受け、小十郎は足を止めた。吉は振り返らず石段を駆け下りて行く。
嫌い、汚いなどと言われたのは初めてだ。少年にとっては大きな衝撃だった。衝撃が腹立ちに変わり、やがて怒りになる。それをやり過ごせるほど、小十郎はまだ大人ではなかった。
「──勝手にしろ!」
駆け下りて行く吉からの返事は聞こえなかった。小十郎は怒りを収めるために石段にどさりと腰を下ろす。帰れって言うなら帰ってやるさ、もう知るもんか──そう思った。
やがて視界の中から彼女の姿が消える。知るもんか。もう一度、そう思った。
思いながら、本当は気付いていたことを思い出してしまった。
もう嫌い。
そう言った彼女の声が、少しばかり泣いていたことを。
「……知るもんかよ」


市に戻りたくなかった。家に帰る気にもならない。遊女の亡霊が出るという岩場に腰掛け、拾った石を川面に投げる。水面を跳ねることなく石は沈み、水面に波紋を広げた。吉は波紋を目掛けてもうひとつ石を投げる。同じように沈み、波紋が乱れるばかりだった。
両膝を立てて抱え込み、顔を埋める。
──御所言葉なんか嫌い。必要ない。関係ない。
いつからだったろう。母が自分に冷たくなった。父と言い争いをしている声を聞いた。信行が跡継ぎなのに。きつは良い家と結婚を。母は癇癪のごとき声で父に怒鳴っていた。父は大声を返すことはなく、静かに言っていた。いいや、きつだ。あれが織田を継ぐ。織田を広げる。嫁に出すなぞできるはずがない。政秀も言っている。あれは、きつは、

日の本を統べる、──になると。

嘘だ。顔を膝に埋めたまま、吉は記憶の中の声を否定する。嘘だ。嫌だ。跡継ぎは信行だ。心の中で何度も呻いた。自分でも分かる。おとなしい「姫様」でいられなくなったのはそれからだ。子分を引き連れて市に入り浸り、良家の姫だなどと到底思えないことをする。領内に母以外で自分に冷たくする者はいないし、皆が優しい。だが頭がおかしいと噂されていることも知っている。知っていてもやめられなかった。父に分かって欲しかった。自分では無理だ、見て、こんなにおかしいのだから、だから、信行に、織田は信行に。分かって欲しくて仕方ない。
母に知って欲しい。
「……しないで」


かかさま。
冷たくしないで。
嫌わないで。
信行にするみたいに。
市にするみたいに。
優しくして。

誰も分かってくれない。母以外の皆が優しい。
それでも分かってはくれない。
どう訴えればいいのか分からない。
犬千代も久蔵も、小平太も小藤太も、自分に優しくしてくれる。
守ろうとしてくれる。
それでも分かってはくれない。
違う。いつもそう思う。

違う。
子分じゃなくていい。
家来になんてならなくていい。
ひい様なんて呼ばなくていい。
誰か。
分かって。
誰か。

寂しい。
寂しい。
寂しい。

お願い。
誰か。

同じ場所で、
傍にいて。


顔を上げられなかった。声を出すこともできなかった。
だから彼が困っていることが分かっているのに、気にしないで、と言うことができなかった。
彼はとても困っているだろう。怒って文句を言いに来たのかもしれない。そうだ、酷く失礼なことを言った。謝らなければ。そう思っても顔を上げられなかった。
言わなければ。虎と話している彼を見て急に寂しくなった。川向こうに行くと言われて寂しくなった。そう説明しなければ。
それでも、言うことができなかった。
随分長く躊躇った、と吉に充分分からせるほどに時間が流れた後、溜息混じりの声がかけられる。
「泣くな。俺が悪いことをしたような気分になる」
答えることもできなかった。泣いた顔を遊女の亡霊にすら見せないために膝に埋めていたのに、どうやら失敗だったようだ。
彼が困り果てていることが分かる。困らせたいわけではないが、顔を上げられない。声も出せない。どうしようもない。
ほどなくして、彼は諦めたように吉の隣に腰を下ろす。手を繋いだ昨日の夜よりも近付いたことに、二人は同時に気付いた。気付いても避けようとは思えなかった。
顔を上げない吉の頭に、小十郎がそっとてのひらを置く。明らかに女に触れることに慣れていない手つきで髪を撫でる。
長い間、そうしていた。小十郎は何も言わなかった。
やがて吉の唇からくぐもった声が漏れる。
「ごめんね」
泣き声だった。
「もういいよ」
小十郎は髪を撫でる。

傍にいる。


だから吉は、声を上げて泣いた。