「なるほど、勉強になった」
尾張や近辺の仏門の様子を聞いた信玄は、老いた僧に深々と頭を下げる。僧は手を合わせて礼を返し、信玄に茶を勧めた。
「遠くから起こしになられましたか、虎殿」
「甲斐より参った。暇なうちにな」
「これからはお忙しくなられるのですな」
「さて、どうだか」
はぐらかす信玄に、僧は微笑以上のものを見せなかった。だから信玄はこの僧を信用する。本当の意味で世俗から離れた、仏門に帰依した僧だと思った。
「ワシも出家を考えていてな。時間のある間に仏教を学べるところまで学んでしまいたい」
「仏に帰依することは誤りではありませんが、拙僧は出家してだいぶ経った今でも分からぬことが多くて」
奥深いものです、と僧は微笑む。信玄は彼が言いたいことを悟り、恥じ入るように笑った。死ぬまでが勉強だ、と僧が言いたいのだと分かったからだった。
寺は静かだった。この辺りでは最も大きな寺で、修行をする僧を多く抱えるはずなのに、人が発する音が何もしなかった。風にそよぐ葉ずれの音がいやに大きく聞こえるほどの静寂の中、信玄はいつの間にか目を閉じ、その空気を楽しんでいた。老僧は何も言わず、穏やかな顔で他国から来た客人を見ている。
やがて信玄はゆっくりと目を開ける。
「什麼生」
客人の問いの予告に、老僧は目を合わせ、静かに受ける意志を示す。
「戦乱の世が近付いておる。御坊はその先に何を見やるか」
曖昧とも言えるその問い方に、老僧は暫し沈黙した。分からないわけではない、と信玄は感じた。
「説破」
「頼もう」
世俗を離れたはずの老僧は身動きひとつしない。ただ信玄の目を見、穏やかに、どこまでも穏やかに答えた。
「拙僧に見えるは精々、一年、二年先。その先を見る者は他におりましょう」
「他、とは」
「一介の僧には分かりかねることもありますが。──近年では何と申しますのかな。古くから守護代、国司と様々な」
信玄は答えない。僧が答えを知っているのだと分かっている。そして、僧がはっきりと口にすることはないであろう、と。
だから自ら言った。
「武将」
「ほう」
「──戦国武将、と。呼ばれる日も来よう」
「……ほう」
老僧の返事は相変わらず穏やかで、表情は動かない。身動きもしない。
信玄は続ける。常に秘めていたことを口にできる機会に恵まれ、衝動を止められなかった。静寂の中で水面のごとく穏やかになったはずの心が、本能に近い場所にある野望の疼きにいともあっさり高揚させられる。
「戦乱の世を纏め上げようとする者。これら全て、戦国武将と呼ばれよう」
「ふむ」
「一年先、二年先のみならず、その先を見る者こそが」
葉ずれの音が大きく響いたことに気付かなかった。
「戦乱の親となり、日の本の覇者となろう」
かたり、と障子の桟が滑る音がした。信玄は振り返る。そして目を見張った。
僧は穏やかな表情のまま、静かに言った。
「姫、覗いてはなりませぬぞ。挨拶は」
「……」
あの姫が大きな黒い瞳に信玄を映し、立ち尽くしている。問答を聞いていたのだろうか、と信玄は思った。娘に聞かれたところで関係のある話ではないが、まさかここで会うとは意外だった。
「どうした、娘っ子。ワシがここにいて意外か」
「川の向こうと思ってた」
「川の向こう?」
「姫、挨拶なされませ」
穏やかなままではあるが、確実に威厳を持つ僧の声に、姫は僅かに唇を尖らせてから正座をする。それから礼儀正しく信玄に頭を下げた。
「和尚様にご機嫌よう、虎の御仁にご機嫌よう」
「おお、これは丁寧に。甲斐が虎、見知り置き願わん」
やはりそこそこの武家の姫だと納得し、信玄も挨拶を返した。僧は穏やかに笑っている。
「名を聞いておらなんだな。何と言う」
「吉」
「きつ?」
「ん」
「そうか。宜しくな」
「和尚、どうして虎がここにいるの」
姫──吉は僧を見る。僧は相変わらず穏やかだ。
「甲斐より参られたと。仏門について、精力的に学びたいとのことで」
「仏門? 虎が?」
眉を顰め、いかにもいかがわしいものを見るような目つきをした吉に、信玄は苦笑する。正直な姫だ。笑った顔はまだ見ていないが、喜怒哀楽が豊かなのだろう。
「ワシは仏門に興味がないようにでも見えるか?」
「仏門を何かに使うように見える」
「ほ」
つい、信玄はまじまじと吉を見てしまった。今、何かの片鱗が見えたような気がしたのだ。
口を開こうとした時、僧がやんわりと口を挟んだ。
「姫、ご来客に無礼な口をきくものではありませんぞ。そんなことでは御母堂が嘆かれましょう」
「──かかさまは関係ないもの」
途端に拗ねた声を出す。信玄はまたぞろ、この姫に興味が沸いた。鋭い一言を口にした直後に、まるっきり子供の顔をする。女好きの信玄であるが、吉に対してはそういった感覚ではなく、とにかく「面白い子供だ」と思った。
「姫」
「もういい。帰る」
「お一人で参られたのですか。犬千代殿はどうされました」
「犬は虎に食われたから、今日はいらぬの」
「虎?」
僧がちらりと信玄を見る。信玄は涼しい顔だ。男二人を尻目に、吉は挨拶もせず、身軽に立ち上がって部屋を出て行った。
「何か」
穏やかなまま、僧は言った。
「ございましたようですな」
信玄は苦笑する。動じない僧の精神力にほとほと感心していた。
「いや、先ほどな」
変わらず穏やかな表情の僧に、信玄は語り出す。この話をすれば、僧はあの姫の素性を教えてくれるだろう──なぜかそれが分かっていたから。
──参った。父上とはぐれたか。
津島の賑やかさに圧倒されていた自分が迂闊だったと思わざるを得ない。少年は溜息をつき、しかし慌てないよう自分に言い聞かせた。歳若いとはいえ全くの子供ではない。泊まる宿も決まっているし、結果的には父と合流できることは分かっていた。
それならば、と好きな方向へ歩き出す。どうせ父との合流が結果にあるのなら、それまでは好きなことをしてしまおう。父の供で来たはいいものの、つまらないことこの上ない。初めて来た津島を観光しようと決める。
立ち並ぶ店の店主たちが声を張り上げ、客がそれに応じる。いかにも旅行者の少年に気さくに声をかける者も多かった。少年は歳若さに似合わぬ用心深さで応じたり、応じなかったりしながら市を歩く。
途中、数人の少年たちと擦れ違った。彼らは不躾に少年を眺め、腰に下げた刀に僅かに警戒した目をしたが、いかにも旅行者という風情であることを知り、手を出すことをやめたようだ。その中の一人、槍を持った少年が妙に落ち込んだ顔をしていた。
それなりに市の観光を楽しみ、途中で甘そうな蜜柑をふたつ買う。ひとつは父に渡すつもりだった。長旅の後だ、父も喜ぶだろう。
知らぬ間に市を抜けていた。喧騒が遠くなり、代わりに穏やかな風が吹き抜ける。故郷とは違う風の香りに目を細め、少年はまたあてどもなく歩いた。人気がほとんどないが、万が一ならず者に出会ったとしても、対応する自信はある。父には慢心するなと言われているが、少年の自信は実力からして間違ったものではなかった。
風に誘われるまま歩くうち、川のせせらぎのような音が聞こえた。大きな川の音ではない。
歩を進めると案の定、小川が流れていた。驚くほど澄んだ水だ。
──津島にも、こんな水があるんだな。もっと濁っていると思っていた。
不意に水の跳ねる音が聞こえた。魚が跳ねるにしては大きな音だ。興を引かれ、音の方へ歩いた。
陽光が水面に反射し、思わず少年は目を細める。
だが次の瞬間、目を疑った。
──……津島には天女がいたのか。
すぐにその考えはおかしい、と冷静な自分が否定する。
だがそう思ってしまうほど、目の前に現れた少女は美しかった。
少女は川べりの石に腰を掛け、足を洗っている。その肌の白さにも目を奪われたが、決して性的な奪われ方ではなかった。ただ、綺麗だな、と思った。
足を洗っている少女が不意に声を出した。
「誰」
声も綺麗だ──少年は呆然とする。
答えない少年に不審感を持ったのか、少女がゆっくりと少年を見た。意外だ、と少年は冷静に思った。
──普通なら、足を洗っている時に知らない男が現れれば、もっと動揺するはずなのに。
「……怪しい者じゃねえよ。邪魔して悪かった。水が跳ねたから、誰かいるかと思ったんだ」
「そ」
少女はまた、足を洗い出す。
「鼻緒が切れたのか」
少年は少女の脇に無造作に投げ出された草履を見る。案外雑な奴だな、と思う程度には適当な置かれ方だった。
「そ。だから裸足で歩いていたのだけれど」
その返事に少年は呆れる。見たところ、少女は結構な良家の子女に見える。それが裸足で歩き、しかも一人でこんな場所で足を洗うとは。
「家は遠いのか」
「ふつう」
遠くもなく近くもなく、と言うことなのだろう。少年は溜息をつき、それでも少女に近づかぬまま言った。
「寄越せ。直してやる」
少女が初めて、正面から少年を見た。少年はまた、彼女を綺麗だと思った。
「直せるの」
「そりゃ、男ならその程度はな」
「犬は苦手なのに」
「犬?」
「犬千代」
使用人か誰かだろうと結論付け、少年は肩を竦める。喋る少女だが、独特の世界にいるようだ、と感じた。だからこそ気負わず、素直に言えたのかもしれない。
「何もしねえから、そっちに行くぞ」
「鼻緒を直してくれるのではないの」
「……そうだな、それだけはしてやるよ」
少年は少女に近づき、無造作に放られた草履を手に取る。持っていた手拭を裂き、直している間、足を洗い終えた少女はじっとその手元を見ていた。
「ほら」
直した草履を足元に揃えてやる。少女はしばらく草履を見ていたが、やがてそっと足を潜り込ませた。
「ぴったり」
僅かに、口元が綻ぶ。
その笑顔が驚くほど子供のようで、そして嬉しそうで──少年は今度は、この少女のことを可愛いと思った。
「ありがとう」
「別に」
冷たく言ったのは照れ隠しだ。自分でも分かった。これほどの美少女とこんなに間近で向き合ったことも、笑顔で礼を言われたことも初めてだ。
──津島の女ってのは、美形が多いのかな。驚いた。
「津島の者?」
「いや、旅行だ」
「ふうん」
「市を見た。面白かったな」
「犬たちがいたかも」
「犬千代?」
「そ」
「どうだろうな、気づかなかった」
不躾に眺めて来た少年たちかもしれない、と思ったが、良家の子女と共に行動するには多少ならず身分が低いということも思い出す。気のせいだろう。
送って行ってやろうか、どうしようか──迷っていた時、ぎゅう、という妙な音が聞こえた。
たちまち少女の顔が真っ赤になる。
それが意外で、少年は思わずまじまじと少女を見た。先ほどまで幼い天女のように別世界にいた少女が、急に生身の人間に見えた。
「……ああ、ええと、な」
少女はただ、真っ赤だ。仕方ないな、と少年は思った。
見知らぬ男の前で盛大に腹の虫が鳴けば、女としては恥ずかしいだろう。
「市で買ったんだ。食えよ」
蜜柑をひとつ差し出す。
「い、いらな、い」
「そう言うな」
「いらないもの!」
真っ赤なまま意地を張る少女に、少年はつい笑ってしまう。少女が怒る前に言った。
「俺がひとつ食う。ふたつもいらねえからな。親父に差し上げようと思ってたんだが、夜まで会う予定もねえし」
少女の手に無理矢理押し付け、少年は川べりに腰掛ける。
先に蜜柑の皮を剥き出すと、少女も横に座り、同じように蜜柑を触り始めた。
彼女の手先を見た少年はまた笑う。余りにも不器用だった。
「剥いてやる」
「できる」
「実まで剥きそうじゃねえか。寄越せよ」
奪った蜜柑の皮を綺麗に剥いてやる。少女は不器用な自分が恥ずかしいのか、まだ顔を赤らめたままだった。
それでも、再び渡された蜜柑を口に入れると笑顔になる。
「美味しい」
「そうか。津島の蜜柑は美味いな」
「どこから来たの」
「奥州」
別に隠す必要はない、と父に言われていたので、少年は正直に答えた。
「奥州?」
「ああ。知らねえか」
「伊達領? 最上領?」
「……伊達、だな」
知らないどころか、少女の風体からは考えられない程度には詳しい言葉が出たことに驚く。
「行ったことがない」
「そりゃ、なあ」
少女はそれきり少年を驚かせることは言わなかった。奥州はどんなところなの、と話をせがんだだけだ。
少年は当たり障りなく奥州の話をする。
雪が凄い、という話をすると、寒いのは嫌い、と少女が身を震わせる。
「みは、奥州へ行くことはないね。寒いのはいや」
「そうか。まあ、あっちに嫁ぎでもしねえ限りはな。尾張から奥州へ嫁ぐ女なんかいねえだろ」
「望まれれば、行くけれど」
「そうか」
女だもんな、と少年は思う。しかも激動が見え始めるこの時代、予想ではあるが、良家の子女のこの女なら政略結婚の駒に使われてもおかしくはない。とはいえ──やはり、尾張の織田と奥州の伊達、あるいは最上が今の関係である限り、その可能性はほとんどないだろう。
「お前みたいのは、尾張のいいとこの奴と結婚するんだろ」
「そう?」
「それが幸せなんじゃねえのか。俺の姉も──」
嫁いだ姉の話をする。嫁ぎ先で大事にされているようだ、という話をすると、少女は少し笑った。
「あねさま、お幸せでよいね」
「お前の器量なら、お前だって幸せになれるだろ」
もう縁談のひとつやふたつも用意される年頃だろう。しかもこれだけの美形なら、結婚相手がさぞかし大事にするに違いない。年齢の割には様々な家の事情を知る少年はそう思った。俺の縁談はどうなることやら、とも。
「みは、結婚できないかも」
「そりゃあねえさ」
「──ほんと?」
少女が少年を見る。少年はつい、首を傾げたくなった。少女の目が何かを求めるような、そして何かを諦めているような目だったからだ。
だからだろう。我ながら優しい言葉を言ったのは。
「お前の器量で結婚できねえなら、世の中の女の誰も結婚できねえよ」
少女が笑った。おかしそうに、それでも嬉しそうだった。
「蜜柑」
呟き、少女が立ち上がる。
「あと、鼻緒。ありがとう」
「帰るのか」
「ん。犬に叱られる」
「送ってやるよ」
「大丈夫」
「いいから。危ねえよ。男は女を一人で帰さねえもんだ」
少女はしばらく少年を見ていたが、やがて微笑した。
可愛いな、と思い、少年は微笑を返した。
他愛ないことを話しながら二人で歩く。途中で市を抜ける間、市の人間たちがじろじろと二人を見た。男女が並んで歩くなんて、という否定的な目ではなく、どこかしら少女を心配している目だ、と少年は分かった。少女の立場が悪くならないよう、そして自分が妙な警戒心を抱かれないよう、少女から一歩引いて歩くことにする。少女はその行動の意味を察し、また微笑んでみせた。
「ここで大丈夫」
市を抜けた場所で少女が言った。
「ありがとう」
「ああ」
ここから先は豪邸が立ち並んでいる。一番奥には織田の邸があるはずだ。確かに良家の娘だったんだな、と少年は納得した。
「気を付けてな」
「ん」
可愛らしく手を振り、少女は走り出す。その行動に少年は面食らった。走る良家の子女など滅多に見ない。だが、その後姿をまた可愛いと思った。
「この馬鹿者!」
背後から襟首を掴まれたのはその瞬間だった。誰だ、と言えるはずもない。生まれた時から聞いている父の声だったからだ。
「まったく、目を離せば何をしているかと──お前を探すので時間を食ったではないか!」
旅装のままの父は怒り心頭だ。拳骨をひとつ、息子の脳天に落とした。容赦のない力に少年は呻く。どれほど剣の腕が上がろうとも、まだまだ父の怒りの鉄拳には抵抗できなかった。
「何をしていたのだ」
「蜜柑を食べていました」
厳格な父に、「女の子と歩いていました」と言うことはやめておく。鉄拳がまた落ちることが容易に想像できるからだ。
「意味が分からん!」
父は溜息をつき、息子を引き摺るように歩き出す。
「父上、痛いですよ」
「黙って歩け。まったく、明日には輝宗様の書簡を織田の当主にお渡しせねばならんと言うのに」
「父上がお一人で行かれればよろしいではありませんか。俺は荷物持ちなんだし」
「そう思っておったが事情が変わった」
歩きながら、父は声を潜める。
「どうも、甲斐の虎が先に尾張に潜り込んでいるらしい」
「……武田信玄、ですか?」
「噂だがな。だが、もし本当なら面倒だ。奥州と甲斐は良好な関係とは言えぬ」
お前が人質に取られでもしたら厄介だ、と父は苦々しく呟いた。
「お前の代にはもっと混乱するかもしれん。心しておけ、小十郎」
「そこは父上の代で何とかして頂ければ、俺は政宗様をお助けすることに専念できるわけですが」
「お前は屁理屈が過ぎるのだ!」
確かに俺の悪い癖だ、改めよう、まだ幼い政宗様が真似したら大変だし──そう思いながら、小十郎は歩く。
不意に振り返る。
あの少女がまだいないだろうか、と思ったのだ。
無論、いるはずがなかった。