Children of the light 01



義憤に駆られるたちではない。信玄は自身をよく分かっていた。風林火山、それぞ信玄が目指すところだ。
とはいえ、と、昼寝をしていた木陰で欠伸をしつつ、暫し考える。
──とはいえ、まだ嫁入り前の年頃の娘が目の前で乱暴されるのを見逃すのは、気分良うないわ。
二人の男たちはいまだ狼藉を働いているわけではない。だが小柄な娘を囲み、下卑た笑いを見せているさまは、認めたくないことだが信玄自身と同じ男として、何を考えているかは一目で分かる。
信玄が感心したのは娘の態度だった。後姿しか見えないが、背筋を伸ばし、怯えた様子を窺わせない。
──津島の女は気が強いと聞くが、この娘もその気質があるのだろうな。
信玄には誰も気づいていない。人気のない街道の外れで、男たちはじろじろと娘を眺め、下品な言葉を投げかけながら、獲物の品定めに余念が無かった。
手を出した瞬間に姿を見せれば良いか、それとももう助けてしまった方が良いのか。信玄は分かりかねる。娘の声が何も聞こえないからだ。言葉を発していないのだろう。場合によっては「商品」としての自分を品定めさせている可能性もある。身体を売る女は稀にそういうことをする、と信玄も知っていた。
しかし身体を売るには幼い身体だ。背中だけでもそれが分かった。長い髪には艶があり、着ている着物も粗末と言うわけではない。少女の身で身体を売らなければならないほど、逼迫した環境にあるとも思えなかった。
その時、娘がようやく声を出した。男たちが鼻白んだ。信玄は彼女が身体を売ろうとしていたわけではない、とようやく納得する。
「犬の火薬入れを盗んだのは、どちら」
娘の声はむしろ穏やかで、自分よりもずっと上背のある男たちに怯んだ様子もない。
だが信玄は知る。
──武家の娘か。
声の張り、怯えぬ態度、そして──言を発した瞬間に、信玄でさえも唸りたくなるほどの、年齢には見合わぬ威厳をその背に見せたのだ。
男二人は焦り、顔を見合わせる。自分たちが娘に呑まれかけたなどと認めることはできなかった。
「火薬入れ?」
「これかよ」
一人の男が胸元から根付のついた火薬入れを取り出し、娘に呑まれたことを忘れるために、殊更にからかうような声を出して顔の前で振ってみせた。
「それ。返して」
「盗まれる方が悪いんだろ」
「盗む方がそもそも悪い」
正論だ。信玄は木陰で声もなく笑う。男たちは焦った顔をしていた。信玄はいっそ、面白いと思いながらこの三人を観察する。娘の威厳に圧倒された男たちは、なぜ圧倒されたかという理由すら分かっていないだろう。相手の威厳を知ることすら出来ぬ小物たちだ。
「返して」
「売ればいい金になるんだよ。諦めろ」
「津島ではもう、売れない」
「はあ?」
「みが犬にあげたものだと皆知ってるし、犬が怒ってる」
信玄は今まで以上に注意深く娘を観察した。娘は今、自らを「み」と言った。これは武家に限らず上流──むしろ貴族に近い教育を受けている娘だと看破したのだ。み、という言葉は、上流の未婚の娘が自分を指す時に遣う言葉だった。
「だから」
娘が言った。厳然と言ってもいいほどの声だった。
「返して」
「──ふざけた口利いてんじゃねえぞ、小娘が!」
男たちは認めなかった。自分よりも幼い、小柄な娘に圧倒されたことなど。小物の哀しさ、自らを奮い立たせるためにわざとらしいほどに暴力をにおわせる下卑た大声を上げる。普通の娘なら怯え、泣き出すところだ。
だが娘は身動きひとつしなかった。
「返さないの」
「言っただろ、売ったら金になるんだよ。──ついでにお前も売ってやろうか」
「売るのはやめて、みに寄越して。そうしたら、犬には黙っていてあげる。──ああ」
最後の声は溜息だった。娘が振り返る。
思わず信玄は感嘆の声を上げそうになった。
数多の女を知る信玄でもそうお目にかかれないような、美しい娘だったのだ。
目には強い知性と理性が宿り、男たちとの遣り取りも合わせ、美しいだけではないと知らしめる。
──これはこれは。さすがは織田の津島、女の質も良いようだ。
感心した後、信玄は娘の視線をようやく追う。男たちも娘に釣られ、振り返った先を見、しまった、と声を上げた。
「お前ら、何をしている!」
青年と言うにはまだ早い、だが子供と言うには既に男としての強さを纏った少年が槍を手に駆けて来る。表情は憤怒そのもの、いくさ場で見れば怯む者も多かろうなと信玄は評価した。
「ひい様に不埒な真似をしていないだろうな!」
男たちが動くよりも早く、少年は娘を背中に隠すように立った。信玄はこれも評価した。ひい様と言うからにはこの少年、娘の家臣筋に当たるはずだ。どこかの武家の姫だろうか。とはいえ、本来なら家の中でおとなしくしているはずの上流の姫が、このような場所をうろついていると言うことから、それほどの家の格ではないらしい。──それにしては娘の立ち居振る舞いが気になるが、信玄が思考を進める前に娘が言った。
「犬の火薬入れ。この者が盗んだの」
「──何ですって!?」
「犬」
「はい!」
「取り返して」
娘──姫は言った。
「みが犬にあげたのだから」
今までにないほど強く、厳然と。
「犬以外が持っていては、駄目」
その声の、纏う何かの力に──今度こそ信玄は嘆息を吐いたのだった。


犬と呼ばれた少年は、既にいくさ場に出しても戦功を挙げるであろうほどの武術を見せ付けた。「ひい様」に傷ひとつつけることなく、男二人を一瞬で叩きのめしたのだ。
盗んだ火薬入れを差し出し、額を地に擦り付けて許しを請う二人を、姫はただ見下ろしている。冷たい目だった。軽蔑、憎悪、そんなものはどこにもない。
ただただ、まるで汚物を見るかのような瞳で二人の男を見下ろしている。
少年が火薬入れを攫うように取り返し、安堵の溜息をついた。
「ひい様、どうしますか」
「犬はどう」
「それがしは、ひい様に頂戴した火薬入れが戻ってきましたから。充分です」
「そ」
これで見逃すだろうか。信玄は姫の様子を窺う。
姫は事もなげに言い捨てた。
「犬」
「はい」
「盗んだ方の指を落として。切って」
「な」
少年が絶句した。男は悲鳴にならぬ悲鳴をあげ、更に何事か詫びの言葉を口にし、血が出るほどの強さで額を地に叩きつける。
「ひい様、それはやり過ぎじゃないですか」
「盗みは駄目」
「それはそうですけど」
「みが犬にあげたものを盗んだのは誰」
「こいつです」
「だから」
「はい」
「指を切って」
「ひい様、だから──」
信玄は苦笑した。我の強い姫様だ、と思いながら。
そして木陰から立ち上がり、その堂々たる体躯で姫たちの前に現れたのだった。
「待て、待て。ワシが預かろうぞ」


「何者だ!」
少年は即座に誰何し、再び背後に娘を隠す。
だが信玄は姫が驚いた様子を見せなかったことに驚いた。
「何者だ、名乗れ!」
「犬」
「はい!」
「放っておいて。ただの猫」
「──猫?」
姫が信玄を──木陰から現れた、怪しいことこの上ない男を見る。
軽蔑の目で。
「小娘が男二人に因縁されてても、黙って見てるだけの、うすらでかい猫」
途端に少年は激昂する。
「尾張にそんな男がいるもんですか!」
「男じゃないから。猫だから」
「犬にも劣る!」
「犬はお前だから駄目、猫で充分」
これには信玄も何も言い返せなかった。事情があった、様子を窺っていた、──おぬしを観察していた──何を言ってもこの娘には通じないだろう。事実として、信玄は「黙って見ていた」のだから。
だがそこは信玄、やり込められるだけではいられない。
「それは詫びよう。気づいておったか。いつからだ」
「最初から」
「ほ」
「だからここで、盗人を呼び止めた」
「──はは、大した娘よ!」
信玄は笑った。甲斐では知られたあの豪胆な笑い方だ。少年は驚いたようだが、姫は無表情に見ているだけだった。
「何かあれば、ワシが助けると思うたか」
「そこまで期待しない。ただ、みが死んでも、殺されたと知る者がおればよい」
「……ふむ」
大した娘だ。たかが盗人と侮らず、家臣の少年が追って来ると予想をしていながらも、危機感は抱いた上での行動だったのか。
「そうか、そうか。期待通りの働きはできたか」
「猫の割には。──犬、指を切って。早く」
「ひい様、でも、指を切るのは──」
「ああ待て待て、ワシが預かると言うたではないか」
男二人は顔を上げ、仏か神かと言いたげに信玄に縋る目を送る。姫はちらりと信玄を見た。
「猫に預けて、どうするの」
「猫、な。これでも虎と呼ばれておるが」
姫はじっと信玄を見、やがて素直に言った。
「では、虎」
これも大したものだ、と信玄は彼女を評価した。目の前の人間の「格」を見抜く能力を今、信玄に見せ付けたからだ。信玄自身は自らを過大評価するわけではないが、過小評価をするつもりもない。猫と呼ばれるに甘んじるほどではない、と分かっていた。そして姫はそれを理解し、受け容れた。
「虎なら、どうするの」
「ワシならこうだ。──これ、盗んだ方。立てい」
それですぐに動ける盗人ではない。少年が舌打ちし、立て、と言って引き摺り起こした。男は引きつった悲鳴を上げるが、信玄は意に介さない。
「殺しはせぬ、安堵せい」
豪胆に笑って言い放ち、その手を取った。
次の瞬間、指を折られた男は、絶叫を上げて地にうずくまるはめになった。
「斬り落としては二度と使えぬが、恨みが生まれる。深い深い恨みが」
虎と名乗った男の言葉を、姫は無表情に聞いていた。
「折れば罰にはなる、恨みもそうそう深くはならぬわ」
これでどうだ、と信玄は娘に笑いかける。
姫は変わらず無表情で、答えることもなかった。信玄の言に納得できないわけではない、と目が言っている。
だがあまりの無表情振りに、信玄は内心で首をかしげつつ思い出した。
この娘は最初から、何ひとつ表情を動かしていなかったということを。
「ひい様」
犬と呼ばれた少年が、信玄の疑念に気づいたかのように姫を促す。
「行きましょう」
姫は動かない。少年が焦り、手を掴んだ。家臣としては無礼なことだが、姫は振り払わない。
「早く」
そして手を強く引き、歩き出す。虎の目から姫を遠ざけたいという態度がありありと見え、信玄は更に首を傾げるはめになった。
「ふむ」
遠ざかる二人を見送り、信玄は溜息をつく。
「妙な娘よ」




「ああ、いた! ひい様!」
明らかに安堵した顔で、小平太が駆け寄って来た。他にも小藤太や久蔵が集まる。近場の市の者たちも、ほっとして息を吐いた。「ひい様」が犬千代の火薬入れの盗難を聞き、怒って取り返しに行って数刻、万が一があってはと小平太たちが駆け回って探していたのだ。連れて帰って来たのが仲間内でも一番に腕の立つ犬千代であれば、何事もなかったのだと安心できた。
「危ないことしないでくれよ、生きた心地がしなかった!」
「犬千代も、ひい様にもらった火薬入れを盗まれるなんて! それでも尾張の男か!」
犬千代は返す言葉もない。しゅんとして仲間たちの説教を聞くはめになっていた。
「うるさい。もう取り返した、だからいいの」
姫が言い捨て、明らかに機嫌の悪い顔で小平太たちを押しのけて歩いて行く。
「取り返した?」
「ちょっとひい様、また川の向こうかよ、今日はやめなって!」
普段なら橋の向こうへ行くことを止める一同ではなかった。だが今日ばかりは、と全員で止める。犬千代は分からないながらも、とりあえず姫の手を掴んだ。これが許されるのは犬千代だけだった。
「ひい様、皆が言ってます。話を聞きましょう」
「何があるの」
苛立った声で姫が小平太に問う。小平太は眉を跳ね上げた。
「さっき、ひい様と犬千代がいなかった時、聞いたんだ」
「何を聞いたの」
「この間から、川の向こうに虎みたいな男が来てる。尾張の奴じゃねえ」
犬千代はつい、娘を見る。姫は表情を変えなかった。
「今んとこおとなしいけど、身体もでかい。特に、向こうの女に片っ端から声かけてるって話だ。ひい様を見たら何するか分かんねえぞ」
「何もしなかった」
「は?」
「その虎ならもう、会った」
「え」
「川の向こうへは行くなと言うの」
「──え、ああ、うん。しばらくやめときなよ。おたきに会いたかったら、俺らが呼んでくるから」
途端に小平太の頬が鳴った。娘が叩いたのだ。女の力ゆえ、大した衝撃ではなかった。小平太は「ごめん」と言う。男ならここで怒るところだが、この姫にだけは怒れなかった。
「分かったよ、分かった。ごめん、余計なこと言った」
「でも」
久蔵が静かに口を出す。仲間内でも物静かな少年だった。
「やめといた方がいいですよ、ひい様。先に会ったなら尚更。犬千代が一緒にいたから、変なことをされなかっただけかもしれない」
「犬」
「はい」
久蔵には返事をせず、姫は犬千代を呼ぶ。
「説明しておいて」
「はい。──ひい様、どこへ」
「天王坊」
「それがしもお供を」
「犬は説明をするの。みは一人でゆくの」
強く告げ、姫はそれ以上有無を言わせることなく歩き出す。癇癪一歩手前の声だったので犬千代はそれ以上言えず、姫を見送るしかなかった。
「天王坊なら安全だ、大丈夫だろ」
慰めるように小藤太に言われ、犬千代は溜息をつき、己の不甲斐なさを呪った。