気心の知れた騎馬隊の青年たちがやんやと囃し立て、あるいは顔を赤くする中、小十郎は「やっちまった」と内心で頭を抱えながらも吉を連れ、一度自宅へ戻った。馬に乗ると余計に目立つので、藤は騎馬隊の厩舎へ置いて行くことにする。
小十郎を囃し立てる青年たちは粗野だが心得ていて、吉を囃すような真似は一切しなかった。小十郎が完全に吉を無視した光景を見たことのある辰蔵なぞ、良かった、良かった、と涙したほどだ。
道行く人々が気軽に挨拶をして来るが、誰もがにやにやと下世話な笑みを浮かべていることが耐え難い。噂というものは本当に速い、と小十郎は改めて学んだ。
吉も発見された時は大いに慌て、顔を真っ赤にしていたが、今は挨拶をする人々に笑顔で返事をしている。その笑顔を向けられた途端、彼らは自然と下世話な笑いを収め、たちまち親しみを込めた笑みに変えた。それに気付いた小十郎は何とはなしにあたたかい気持ちになる。吉は足を止めて領民と話すこともあり、これは小十郎を驚かせた。生まれや過去の割には気さくすぎる。
「領民と仲がいいんだな」
「そ?」
「あなたが返事をすると、皆が喜んでいる」
「おまえさまがご一緒だからであろ」
「関係があるのか?」
「ん、ん」
そういうものか、と小十郎は不思議に思う。そしていつの間にか、吉の歩調に合わせて歩いていることに気付いた。
──……不思議なものだ。俺が。
自分はここまで女に気を使うたちだったろうか、とまた不思議に思った。敢えて女に冷たくするわけでもないが、西洋の男のように過剰に大事にするわけでもない。むしろ、女に対しては少しばかり無神経な部分がある、という自覚もあった。その自分が吉の歩調に合わせて歩き、彼女が親しい領民に声をかけられ、足を止めれば自分も止める。過去に親しい女がいなかったと言えば嘘になるが、こんな真似をした記憶がない。
家に戻ると、既に使用人たちも噂を知っている顔をしていた。領民たちと違うのは、冷やかすような下世話な視線ではなく、素直に喜んでいる笑顔を向けることだ。彼らにも心配をかけていたのだ、と小十郎は改めて知った。
「まあ、小十郎様、奥様、起きたらいらっしゃらないんですもの!」
出迎えたおこうが呆れ顔で言う。
「出入りの納豆売りが教えてくれたから安心できたようなものの、おこうを心配させないで下さいませ」
「堪忍、堪忍。おこうに叱られると何も申せぬわえ」
「小十郎様も、奥様がお風邪でも召したらどうなさるのです!」
「悪かった、考えが足りなかった」
気心の知れた使用人に二人揃って小言を言われることも、きっとよくあることなのだろう──吉に関わることを思い出せないとはいえ、なぜか小十郎は分かる。
──忘れても忘れ切れないことを。日常のことだけでも。
「おこう、旦那様に何を申すのだえ」
「おこうが申し上げなかったら誰が申し上げます。源爺はもっと怖いでしょう?」
「あ、それは。そう」
──小さなことでも、幾つも、俺はこの女と同じ時間と記憶を重ねているんだろう。
「源爺は俺も勘弁だ。このまま城へ上がる。朝飯だけ食わせてくれ」
「アレ、ま。おこう、支度を」
「はい、ただいま」
吉を見て言った小十郎に、おこうは心からの笑みを向けてから自らの仕事を果たしに廊下の奥へ消える。使用人も彼女と同じように笑い、それぞれの仕事に散った。その中にいた源爺も人知れず軽く頷き、さて、出雲の守護代様にはどう言うべきか、と考えながら庭の植木を整えに行く。
噂のことで政宗に冷やかされるだろう、と覚悟して城に上がった小十郎だが、政宗に挨拶をする前に、息せき切った騎馬隊の青年に報告を受け、仰天した後に蒼褪めた。
「──晴久殿と斬り合い!? 真剣で、か!?」
「そうっす、先に抜いたのは多分、出雲の守護代さんなんですが──筆頭も本気で!」
「お怪我は!?」
「どちらもないんですが、その、まさか守護代さんが抜くなんて」
それだけ聞けば充分だ。政宗の剣技はよく知っている。晴久に怪我がないことは奇跡だ、と贔屓目抜きに思う。
「しかし、晴久殿の剣も相当だろう。政宗様が御無事で良かった」
ああ、とまた気付く。自分は出雲守護代の剣など見たことがないはず。だが確かに知っているということは、これも失った記憶の中での出来事のひとつにあったに違いない。
「あの守護代さんがあんなにあっさり剣を抜くなんて、誰も思ってなかったんす。止め切れませんでした、すみません」
「いや、あの守護代は案外、短気なんだ」
「え?」
「ああ、──いや」
これもまた、と内心で呟く。政治の席では忍耐強く、雅を演じて相手を翻弄する出雲守護代は、実際は短気で口が悪い。これもまた、欠けた記憶の中で知っていたことだろう。
「今、お二人は?」
「朝飯、召し上がってます」
「は?」
「途中でいきなり二人して剣を納めて、腹減った、飯だ、っておっしゃって。文句言い合いながら召し上がってます」
「……ああ、分かった。それならいい」
同時に激昂し、同時に冷静になったのだろう。或いは同時に、違う方向で溜まっていた互いの鬱憤を晴らしたのかもしれない。原因は分からないが、これ以上の危険はなさそうだ、と二人の性格を知る小十郎は判断した。
取急ぎ、二人がいる部屋へ向かう。擦れ違う城人たちが小十郎の登場に一様に安堵の顔をした。
いつもの通り障子の前に座り、声をかける。
「政宗様、小十郎が参りました。入ってよろしい──」
ですか、と言う前に首を横に傾けた。同時に障子を破って飛び出して来たものが、顔があった位置を通り過ぎる。箸が投げられたのだ。小十郎は「ああ」と自分を呪う。投げたのはどう考えても晴久だ。理由は火を見るよりも明らかだった。政宗と斬り合いに至ったのもそのせいかもしれない。
──血が繋がっているわけでもないのに、病的な姉想いだな。
「尼子、小十郎に何しやがんだよ!」
「気持ちは義兄に向かっての朝の挨拶だよ」
「どう考えたって違うだろうが! 小十郎、入れ!」
「失礼致します」
溜息を押し殺しつつ障子を開き、部屋へ入る。二人に向かって深々と頭を下げた。
「お食事中、失礼を。おはようございます」
「おはようさん。お前は飯、食ったのか」
「は、家で済ませて参りました」
政宗の問いに答えつつ、晴久の気配を窺うが、窺うまでもなく不機嫌なのはよく分かる。給仕していた侍女が、箸を投げるという守護代の暴挙に泡を食っているのが分かり、「下がっていい」と小十郎は言い付けた。この場にいるのは彼女としても居心地が悪いだろう。
「晴久殿、おはようございます。結構な御挨拶を先に頂戴し、驚く余り」
「気持ちとしては義兄殿に、おはようさんのご機嫌さん」
「……妻がいつも、お世話に」
棘だらけの晴久の声にはそれしか返す術がない。政宗が慌てて口を挟んだ。
「尼子、小十郎に喧嘩売るんじゃねえぞ。売ったら俺も買うからな」
「お前らみてえな化け物に売るわけねえだろ、俺はまだ死にたくねえ」
忌々しいといった顔を隠すことなく言い捨て、晴久は茶を啜る。箸を投げたことで当面の怒りをやり過ごすことにしたのだ。さすがにこの二人を相手にして、腕で勝てる気はしなかった。政宗相手にも本気でやれば勝ち目はないと分かっている。先の剣戟は互いの憂さ晴らしのようなものだった。
「政宗様、晴久殿」
分かっていながらも改めねばならず、小十郎は口を開く。
「お二人が、先ほど庭先で立ち合いをなされたと耳にしました。あまり良いことではないように思われますが」
「先に抜いたのは尼子、俺は買っただけだし」
「うるせえ、伊達。お前が俺を挑発したのを忘れんな」
「クールじゃねえって指摘したやっただけじゃねえか。──あと、言い難いんだけどさ、小十郎」
「はい」
「まあ、その。姐さんとの話な、あれな。うん、俺らももう、聞いてて」
「……はい」
二人の斬り合いの話を聞いた時から分かっていたとはいえ、改めて言われると恥じるしかない。
「……その、外でって言うのは、できれば他の奴にバレねえように、って言えばいい? かな?」
「いえ、そのですね、おそらく誤解なされているのではないかと……!」
「え、だって、外でやったんだろ?」
どんな噂だったんだ、と小十郎は肝を冷やすどころではなかった。
「やってません! それは! ないです! 小十郎はそこまで破廉恥ではありません!」
「あ、そうなの? やってねえの?」
「──やってるやってねえの問題じゃねえっつうの!」
怒りをやり過ごしたはずの晴久が、再びあっさり激昂した。失言だった、と小十郎は悔やみに悔やむ。俺もまずいこと言った、と政宗も蒼褪める。
「有り得ねえだろ! きつに恥かかせて、あんた、何がしてえんだよ!」
ああそうだ、と小十郎はようやく思い至った。俺の足りない部分だと猛省する。この時代の女性としては大変な恥だろう。領民たちと笑顔で言葉を交わしていた姿を見て安堵し、大事なことを失念していた。
「そのつもりはなかったが、結果としては確かにその通りだ。申し訳もない」
「憤死するかと思った。俺を殺してえなら正面から来てくれ、こういうのは勘弁だ」
素直に頭を下げた小十郎に深く溜息をつき、晴久は何とか激昂を収める。その意志力の強さに、政宗は密かに感嘆した。
それから小十郎は政宗と晴久に説明し、二人はようやく納得する。小十郎は改めて晴久に、吉に恥をかかせたことを詫び、騒がせたことを政宗に詫びた。
「俺も野蛮な真似して悪かった。この通りだ」
晴久も頭を下げ、箸を投げたことを小十郎に詫びる。この態度には小十郎も驚かされた。高慢で鼻持ちならない青年だと思っていたが、無礼を詫びる潔さは、他人に好感を与えるには充分だった。出雲に梃子摺る国が多いのも分かる──何とは無しに小十郎は理解した。これでは国内の支持者が多いことだろう。支持される国主がいる国は強い。奥州もまた、政宗への熱狂的な支持が上がり始めてから力を付けた国だった。
──交易があることは奥州にとって良いことだ。切られるわけにはいかない。
「で、小十郎」
「はい」
「姐さんから話聞いて、何か思い出したことは?」
「思い出したこと、と言いますか。二度目の本能寺の話をしましたが、思い出すということに関しては心もとないですね」
「……そっか」
「妻も随分、話してくれましたが──」
何を説明すれば良いのか。夢幻の本能寺の全容を知っている者は少ない。晴久が吉に近しい存在とはいえ、語ったことがあるのだろうか。小十郎の戸惑いを見て取った晴久の眉が跳ね上がった。
「俺は知ってる。あの時、西と中国の方面から本能寺への道を塞いだのは出雲だ」
確かにそうだ、と小十郎は思い出した。奥州に戻る途中に知ったその情報に酷く驚いたものだった。あの時、小十郎と吉には知り得ぬ場所で、政治的な緊張が極限まで高まっていたという、象徴的な出来事だった。
「──妻から事前に聞いていたのか」
「いや、伊予の大祝(おおほうり)が手紙を寄越した。本能寺に再び魔王が現れる、ってな」
思わず、政宗と小十郎は顔を見合わせた。伊予の巫女の預言があったという事実を初めて知ったのだ。
「……それだけで封鎖したのか」
信じられない、と政宗は思う。自分なら迷うだろう。いや、大方の国主なら迷うはずだ。領地でもない道を封鎖するということは、どう考えても尋常なことではない。明らかな侵略行為だと思われてもおかしくはないのだ。その決断を、鶴姫からの手紙の一通だけで下したと言うのか。万が一、鶴姫の預言が外れていれば出雲は周辺国家から政治的に責められ、港と銀山を狙う国から一斉に開戦されても文句は言えない状況だった。
「もし、鶴の預言がガセだったらどうするつもりだった」
「大祝を殺した後に腹切って死ぬ以外、何がある」
「……crazy。頭おかしいんじゃねえの。出雲はどうなるんだよ」
「手は打ってあるし、俺が死んだら発動するように整えてある。心配してくれてありがとさん」
「You are welcome」
「あい・あぷりしえいと・ゆあかいんどねす、だっけ」
「話せんの?」
「挨拶だけな。南蛮語は好かねえ」
「いちいち厭味くせえんだよ。お前みたいのを器用貧乏って言うんだ」
二人の会話を聞きながら、小十郎は思考する。晴久が出雲守護代として背負う何かを垣間見たような気がしていた。この青年は一人で背負い、孤独の中で戦っている、と。
そしてそれはかつて、妻が──魔王と呼ばれた織田上総介信長という者が背負っていたものの一部なのではないか、と。
納得できたわけではない。だが理解はできた。傍から見れば病的なまでに吉を庇う理由が。
──果てしない重責だろう。その重責を背から降ろした彼女が望んで奥州にいると言うなら、それなら。
「晴久殿」
「ん」
──たとえ自分の意には添わぬと言えど、彼女が望んでいるのならば。
「きつ殿に大変な恥をかかせたこと、改めてお詫び申し上げる」
──いとしくてならないだろう。一部とはいえ、同じ重責を知る者としては。
「何卒、お許し願いたい」
──何よりも護ってやりたいのだろう。彼女が望んだ幸せのかたちを。
奥州と出雲の富の差は歴然としている。奥州は勢いこそあるものの、潤沢な資金があるとはとても言えない。対して出雲は交易を手広く行える港と、何よりも銀山を持つ。吉が出雲へ行けば、誰もが羨む贅沢な生活をさせることなど造作もないはずだ。片倉家以上の良縁など掃いて捨てるほどもある。いとしい女なら自分のものにしてしまっても構わないし、身柄を預かる以上、その権利も生じる。
それでも晴久はそれをしない。吉が望むままに奥州で、晴久からすれば納得の行かない家柄の男と夫婦である日々を見守っている。
──……優しい男だ。立ち居振る舞いから見えるより、ずっと不器用な。
改めて頭を下げる小十郎に、ああ、もういいよ、と晴久は言う。
頭を上げた小十郎が見たものは、眉をひそめて微笑む、あの表情だった。
やはり好きにはなれない笑い方だ、と小十郎は思った。
「あー、尼子」
政宗も二人のやり取りに感じるものがあったのか、居心地が悪そうな声で居住まいを正す。
「俺からも謝る。小十郎のミスは俺のミスだ。姐さんに恥かかせて、ごめん」
「もういい、やめろって」
勢いよく頭を下げた政宗にはうんざりした声を出す。政宗が今なぜ謝ったのかよく分かっていたし、それが心地良いとはとても思えなかった。
やめてくれよ、と心の中で呟く。やめてくれよ、これ以上成長しなくて結構だ、と。
「まあ、でも」
これだけは本気で言った。
「五、な。さすがに今回の、数えねえのは無理」
「肝に銘じる」
苦笑いすらできず、小十郎は答えるしかなかった。
早く妻のことを思い出さなければ、あっという間に十になりそうだ。それは嫌だ、と強く思った。
奥州と出雲の関係のためではない。
今は自分自身が吉と離れたくないのだと、分かり始めていた。
これは一体どういうことなのか。ここ数日、頭を悩ますことは多かったとはいえ、これは理解の範疇を超えていた。
仕事を終え、家に帰ったら──
「右目殿、お役目ご苦労にあらせられる」
門の前に宿敵甲斐の副将と、その腹心の部下の忍がいた。なぜ俺の家に、と小十郎は驚くを通り越し、いっそもうどうにでもなればいい、という気分になる。
「……真田?」
「真田幸村でござる。それがしのこともお忘れか」
いやに冷たい目で、そして冷たい口調で言われては更に理解が遠くなる。戦場で見る彼はいつも熱く、そして素直で、少年の優しさを捨て切れない、誰にでもいとしまれる子供ではなかったか。
「いや、覚えている。……ようこそ、で良いのか」
「右目殿にはお招き頂戴しておらぬが、晴久殿にお話を伺い、参上した。御挨拶したい、御自宅に入る許可頂戴願う」
「……ああ、いや、ちょっといいか?」
そういえば昼前に、晴久がいつも通りに城から片倉家へ来ていたことを思い出す。小十郎が帰るまでは吉の相手をしていることが常で、今日もそうなのだろう。それにしても分からない。晴久に招かれた、とはどういうことなのか。
「何でござる」
「晴久殿が奥州に呼んだのか」
「正確に申せば、晴久殿が奥州に参られる折、甲斐にお寄りになられた。それがしに出雲の菓子をわざわざにお届け下さったのだ」
「菓子を」
「大層美味でござった。甲斐の菓子も美味だが、出雲はまた違った味で」
「旦那、菓子の話はいいから」
好きな甘味について熱を入れて話し出そうとした幸村を、佐助が静かに止める。幸村ははっとして咳払いをした。
「失礼したでござる。菓子はともかくだが、つまり、晴久殿がそれがしにご事情をお話し下さり、僭越ながらきつ様の御身を案ずる余り、お館様に御許可賜って奥州へ参ったのだ」
「……そうか」
それはあのいけすかない義弟まがいに招かれたわけじゃないな、と言いたかったが、言えば言ったで幸村が混乱しそうな気がしたのでやめておく。
「右目殿、まだきつ様のことだけ思い出されぬか」
「関係ねえだろう」
「何たる」
幸村は我がことのように悔しそうな顔をする。小十郎としてはどうしようもなく、まるで自分が無力であるような錯覚に陥りかける。
──それにしても、彼女は真田とも懇意だったのか。
「御自宅に入る許可を」
「──出雲守護代が関わってるってんなら、俺が止められるわけがねえだろう。勝手に入れ」
思い出せないことがまるで罪悪であるかのように感じ始め、そんなはずがない、俺にはどうしようもない、という苛立ちが声に出、棘のある声になったことは否め得ない。幸村ははっとし、ばつが悪そうに「恐れ入る」と呟いた。
「佐助と、足を洗わせて頂いたら入る」
「勝手にしろ」
言い捨て、家の中へ入る。狭い歩幅の置き石を踏みながら、戦場以外では子供同然の幸村に八つ当たりをしたような自己嫌悪に襲われた。
「お帰りなさいまし」
「ああ」
出迎えた吉に微笑まれ、小十郎は先ほどの苛立ちを忘れてつい微笑み返す。それを見た吉は嬉しそうだった。
「おまえさま、昼前に」
「ん?」
「ゆきが──真田幸村公が参って、ナ」
「昼前?」
今しがた外で会ったばかりだ。なぜすぐに家に入れなかったのか。
「今、門の外で会った。足を洗ってから来ると言っていたが──そんな早くから来ていたのか? どうして入れなかったんだ」
「おまえさまがお健やかな以上、お許しがなければ、殿方を通すわけには参らぬであろ」
「いや、でもなあ──」
その考えは正しいと言う者もいるだろうし、小十郎としては古風と言われてもそうするべきだという考えであることは確かだ。だが相手が相手だ。そこまで長い間待たせては無礼極まりない。
「ゆきもそれでよいと」
「ゆき?」
「あァ、幸村公」
「……そうなのか」
違和感のある呼び方だが、幸村が受け入れているのであれば構わないのだろう、と小十郎は結論付ける。
「ゆえに、おまえさまのお帰りをいつも以上にお待ち申し上げておったのだえ」
「ああ、──ああ、分かった、ありがとう。真田と猿飛の分の夕飯も用意してやってくれ。晴久殿はいるんだろう」
「ん」
「晴久殿に言われて奥州に来たらしい。どういう関係なんだ」
「ハテ、まァ、互いに気に入ってはいるようだけれど──晴久に言われて?」
「俺もよく分からん。あなたに会いに来たのだろうから、好きに話してくれ」
軽く息を吐き、それから苦笑した。
「思い出さなければ出さないで、あなたと暮らしていると退屈しなくて良さそうだ」
「アレ、ま」
「悪くない」
その言葉に吉はしばらく夫を見つめていたが、やがて小十郎が記憶を失ってから初めて、晴れやかに、心の底からの破顔を見せたのだった。
その笑顔を嬉しいと思い、再び小十郎も微笑んでいた。
「きつ様、お久し振りにござります。幸村、晴久殿からお話を伺い、居ても立ってもいられず参じました」
ようやく片倉家に入ることが出来た幸村は、吉に丁重に挨拶をし、晴久には礼を言う。
「晴久殿も甲斐まで御足労頂戴致しまして、まこと感謝に耐えませぬ」
「そりゃいいんだが、お前が来たからって何かあんの」
「……こ、こま殿の遊び相手を拝命することくらいは……きっと……!」
よく考えればろくにない、とようやく気付き、幸村は真っ赤になって言葉に詰まる。
「晴久、何たる」
余りの言い様に吉が晴久を咎めた。晴久は涼しい顔だ。
「冗談だよ。きつの暇潰しにちょうどいい。真田、甲斐からご苦労さん。虎に話は通してあるのか」
「当然にござる。そも、それがしが奥州に参じたは、お館様の御命令にて」
「──ま、そうだろうな」
「それにしても、まァ、ゆき、ようよう参ってくれたわえ。嬉しゅうてならぬ」
吉の含みのない言葉に、幸村は嬉しくなる。思ったよりもお元気そうだ、と安堵もしていた。仔猫のこまが幸村を思い出し、こちらも嬉しそうに纏わり付く。
「随分、慣れてるんだな」
家着に着替えた小十郎が現れ、招いた覚えのない客人と、客人に懐く妻の飼い猫を見て驚く。幸村は居住まいを正し、家の主人である小十郎に礼儀正しく挨拶をした。
「突然の訪問、お許し願いたい。信玄公より命を受け、きつ様の御夫君たる片倉小十郎殿のお見舞に参った次第」
「恐れ入る。政宗様には到着の段、先ほど急ぎの文でお知らせした。──それにしても、見舞いって態度じゃなかったがな」
「いや、あれは、その」
門の前で会ったつい先刻の自分の態度を思い出し、幸村はまた赤くなる。いくら吉を心配した余りとはいえ、当事者で、おそらく一番戸惑って暮らしている小十郎に見せて良い態度ではなかった。
「失礼仕った。お詫び申し上げる」
「いや、俺も大人げなかった。申し訳ない」
互いに頭を下げ合う、不思議な光景になってしまった。吉はちらりと天井を見上げ、天井裏から覗いていた佐助は吉に見えないと知りつつも肩を竦める。
「今日は人が頭を下げるのを何回見りゃいいんだ?」
堅くなりかけた空気を、うんざりした声を装った、楽しげな晴久の声が破った。小十郎は苦笑して頭を上げる。幸村も照れて鼻の頭をかきながら姿勢を戻した。
「何回? 如何なることだえ」
「ああ、ほら、朝の騎馬隊詰め所の話」
「──それはもう、堪忍だえ……!」
昼に晴久にかなりきつく説教された吉としては呻くしかなかった。これは説教されたな、と看破した小十郎も、色々と思い出して恥ずかしくなる。
「堪忍も何も。別にもう俺はいいんだけど」
「良いと申す割には、わらわに随分と申したではないの」
「そりゃそうだよ、ああいうのはどっちも悪いんだし。旦那さんだけが頭下げて終わりってのは納得いかない」
「下げた? 旦那様が? ──晴久に!?」
「伊達も下げた」
「仔竜なぞ構わぬ、旦那様に頭を下げさせたのかえ、晴久!」
「だってさあ──」
「ああ、いや、いいんだ、きつ殿、当然なんだ!」
吉が激昂しかけたと見抜いた小十郎は慌てて口を挟んだ。「仔竜なぞ構わぬ」と言い切ったことに引っ掛かりはしたが、前以て政宗から吉は特別だと言われている以上、触れることはできない。
「晴久殿が正しい。──いや、あなたに恥をかかせた俺が全て悪いのが真実か。考えが及ばなかった、すまなかった」
「なんも──あァ、ええと、……はい」
二人は暫し、見詰め合う。そして同時に噴き出した。その言い方はやめて欲しいと言われてはいたものの、つい言ってしまった後、慌てて言い直す態度が張本人も夫も滑稽だと思ったのだ。
滑稽でも、あの時よりもずっと距離が縮まったことを喜ぶ心の照れ隠しのように笑った。
晴久が静かに立ち上がって幸村の肩を小突き、察した幸村もこまを抱いて、音もなく部屋を出る晴久に続く。
「おこうさん、俺と真田、別の部屋で食べるからよろしく。俺がいつも泊まる部屋」
膳の用意をしようとやって来たおこうとちょうど擦れ違いそうになり、晴久は言う。
「あら、あの、何かございまして?」
「旦那さんと奥様の様子でそんな気分」
「あら──あら、あら。ええ、かしこまりました!」
晴久の言葉に何かを察したのか、有能な侍女は急に嬉しそうに、いそいそと主夫妻の元へ向かう。
「勝手に決めて悪かったな」
「異存はござらぬが、拍子抜けでござる」
「何が」
立ち止まり、晴久は幸村を見る。猫を抱いた幸村は不満そうな顔をしていた。
「右目殿に、思い切り文句を申そうと思うておったのでござる。きつ様にあのような恥をかかせて、幸村、度し難く」
「ああ、やっぱり知ってたか」
「茶屋で朝方、耳にし申した」
噂ってのは怖ェなあ、と晴久は笑う。幸村は尚も言った。
「でも」
「うん」
「でも、きつ様と右目殿のご様子では──申し上げようもないでござる。何なのだ、あれは。本当に」
お幸せそうで、と、幸村はぷうと頬を膨らませた。晴久は笑い、幸村の両頬を片手で掴み、押し潰した。息を押し出された幸村は何をなさると怒ってみせたが、晴久が眉をひそめて笑っていることに気付き、何とも言えぬ気分なる。悔し紛れにくすぐられた仔猫が、今宵の被害者となった。
しかし半刻も経たぬうち、小十郎から取急ぎの文で真田幸村到着の報を受けた政宗が片倉家に姿を現し、吉はいつも通り冷たく出迎え、幸村も国主らしからぬお振舞いではないか、と冷たい対応をし、晴久は今日は何度お前の顔を見ればいいんだとこれもまた冷たく、政宗は怒る。
小十郎は政宗を宥めながら、それでも本当は政宗が楽しいのだと感じ、また驚く。こんな政宗はあまり知らない。
──ああ、そうか。
「姐さん、俺も飯頂戴。なかったら茶でも我慢するから」
「ゆきが参った時点でとうに御見通し、片倉の台を侮るでないわ。膳は整えておるわえ」
「Reary? いつも思うけど、姐さんって良妻だよね! 本当は俺のこと好きだろ?」
「いや、いや。心持ちの悪い言を申すなかれ! 旦那様の御為の他に何がある」
「伊達の図々しさは真似してえもんだな」
「真似たら他に失うものがあるような気がするでござる」
──彼女がいるから、皆が笑うのか。
彼らの話を聞きながら自分もまた笑っていることに、小十郎は気付いた。
小十郎が笑っていることを知った吉が嬉しそうに笑う。
それを見た小十郎は、吉が──妻という女が笑うと自分も嬉しいのだと、知った。