君恋ふる涙しなくは 09



腹心の部下と妻の関係が好転したと感じた政宗が、幸村の訪問もあって機嫌よく酔い、些か飲み過ぎて泊まりたいと言い出し、小十郎は断る理由がない。こうなると城に滞在している、表向きは政宗の客人である晴久も溜息をついて付き合わざるを得ず、お前と透波も泊まらせてもらえ、と幸村に言うことになった。幸村としては佐助と共に城下街に宿を取るつもりだったのだが、身分と立場を考えた小十郎が難色を示すことになる。
「騎馬隊が刺激されて騒ぎになったら厄介だ。うちに泊まってくれ」
「御迷惑に非ざれば、お言葉に甘えたい」
「そうしてくれ。きつ殿、用意を頼めるか」
すると吉が当たり前のように言った。
「もう、全て整えて」
「え?」
「ゆきが参ったゆえ、ナ」
「真田が来ると、政宗様がうちに泊まられるのか?」
これも小十郎は覚えていないことだった。政宗が幸村に対して宿敵以上の感情を持っていることは感じているが、立場上、認めるわけにはいかない。いくら片倉の家とはいえ、特別な理由がない限り、屋根を同じくするなどとは言語道断だ。
夫の驚きを感じたのか、吉は小声で言った。
「おまえさまがお嫌なら、この先々はなしにするわえ」
「俺が嫌なら、ってことは、あなたは嫌じゃないってことなのか」
吉が眉を僅かにひそめ、微笑む。ああ、と小十郎は思う。──彼女のこの笑い方は、好きじゃねえ。
「戦場ともあらば、憚りもあろうけれど。今は」
吉は政宗を見る。小十郎もつられて視線をやる。酔い、普段よりも陽気になった政宗が幸村に何くれとなく話しかけては笑い、幸村は呆れた顔をしながらも相手をし、小十郎が意外に思うほどに他愛もない会話が弾んでいた。仔猫を膝で遊ばせていた晴久がたまに口を挟んでは政宗をからかい、幸村がつい笑い、政宗は怒りながらも嬉しそうだ。
「今は──よい、かと。思うて」
呟くような吉の声に、小十郎はすぐに返事をすることができなかった。
──政宗様が。
そう、思った。
──俺や騎馬隊の前ではできない笑い方をなさっておられる。
「……そうだな」
いかなる時でも君主たる心構えを。目の前にいるのは宿敵の者。そう思わない自分が不思議だった。どこかで、ああ、俺はこんな光景を過去にも見て、受け入れて、そしてどこかで──喜んでいたのだ、と強く思った。
それがおそらく吉の力だと言うことも、なぜかはっきりと分かった。
「あなたには、敵わねえな」
「アレ、ま。身に余るわえ」
吉が笑う。
小十郎も笑った。
その夜も夫婦の寝室は別だった。客人たちが床に着き、吉から就寝の挨拶を受けた小十郎は何かを言おうとし、ああ、その、と口ごもる。それでもどうしても言えはしない。
あなたさえ良ければ、同じ部屋で。
都合が良すぎるのではないか、彼女の感情を無視しすぎているのではないか。そう思ったら言えるはずがない。男らしさと傲慢さを勘違いしている者なら言うだろう。だが小十郎はそこまで勝手にはなれなかった。
吉は何かを感じていたのか──本当は全てを見抜いているのだろう、と小十郎は思う──すぐに立ち去ろうとはしなかった。
言ってもいいのか。言おうか。でも。小十郎は葛藤する。身勝手な自分になりたくない。愚かで自己中心な男でありたいとは思わなかった。
だがどこかで、この女の前でなら少なくとも愚かであっても良いのではないかと思う自分もいる。
「……きつ殿」
「はい」
「ああ、その」
「小十郎様、奥様、失礼致します」
仕事を終え、就寝したはずのおこうと一人の下男が現れた。普段ないことに小十郎と吉は首を傾げる。おこうは胸を張り、心なしか笑顔で宣言した。
「政宗様のお言いつけでございます。奥様のお布団をこちらにと」
「……な」
あまりにも直截的なその物言いに小十郎は絶句する。吉がたちまち耳まで赤くなった。おこうはさも名誉なご命令を承ったと言わんばかりに笑顔になり、主夫妻の承諾を待たず、下男に指示をしててきぱきと布団を準備してしまう。
「失礼致しました。おやすみなさいませ」
仕事を素早く終えたおこうと下男はこれまた素早く姿を消す。残された小十郎と吉は暫く沈黙していたが、やがて小十郎は咳払いをした。
「その」
「はい」
「……寝るか」
はい、と言う返事は消え入るようで、それでも小十郎を幸福にするには充分すぎるほど幸せそうな声だった。


「佐助」
「うん」
「月が綺麗だな」
「そうねー。こんな場所で見るなんて思わなかったけど」
幸村と佐助がいる場所は片倉家の屋根の上だ。寝ようと思った幸村が襖を閉める前にふと空を見上げ、見事な満月に気付き、ゆっくり見たいと呟いたのだった。
吹き抜ける夜風は暖かく、穏やかなものだ。佐助は月よりも、風に揺れる幸村の髪を見ている方が楽しかった。
「右目殿、頭以外は問題がなさそうだな」
「その言い方、変じゃない?」
「きつ様のこと以外は、と言えば良いか?」
「あの姐さんが関わると昔から問題だから、それも変じゃない?」
ううむ、と幸村は唸る。しばらくして諦めたかのように溜息を吐いた。
「思ったよりご健勝で、驚いた。晴久殿にはだいぶ、急を要する状態とお聞きしたのに」
「あれって、出雲さんの願望だったんじゃないかと思うけどねえ」
佐助は晴久が上田城に先触れもなく現れた時のことを思い出す。まあお前に関係あるか知らねえけどな、と幸村に言ったものだ。右目が死ぬかもしれねえ、と。

右目が死ぬかもしれねえ。
はっきりするまで俺は奥州に入る。
右目が死んだらきつを即座に奥州から連れて帰る。
出雲までは遠いし、精神的にも消耗するだろう。
武田に寄らせて休ませるかもしれねえから、虎にその辺の連絡は頼む。

話は佐助も聞いていた。そして思った。晴久が小十郎を殺すのではないか、と。
「ま、俺様の取り越し苦労だったけど」
「何がだ」
「ああ、そのね、右目の旦那が死ぬんじゃないかってね」
──殺されるんじゃないかってね。その方が武田にとってはいいことなんだけどね。
「さすが鍛えているだけはある。奥州が軍師、やはり侮れぬな」
「奥さんが関わらなければ最高の男であるのは確かだねえ。姐さんに向かって結構無神経なこと言うしね」
「いや、そうでもないと思うが」
「へえ?」
幸村は黙る。佐助は幸村の言葉をじっと待った。幼い頃から、幸村は思考をまとめようとする時は黙り込む癖がある。それでもその後、必ず何かしかの答えを口にする。だから佐助は待てるのだ。
「俺が言うのも何だが、右目殿は少々、女性に対して無神経であるかもしれぬ。直虎殿にも結構な無礼を申したと耳にした」
「無礼って言うか、女って認識してなかったんじゃ……」
直虎と対峙した時、小十郎が全く彼女を女として扱わず、世辞のひとつもなく政治の話で終わりにしたことは一部で有名だ。政宗も苦笑したほどだった。
「だが、きつ様への無神経は──無神経、ではないと思う」
「へえ」
「何と言うか」
「嫁だからって甘えてんのさ」
「えっ」
「ちょっと」
不意に背後からかけられた声に二人して驚く。ことに佐助はまさか自分が気付かなかったとは、と一種恐慌に近い気分だった。不機嫌そうな顔をした晴久が立っていたのだ。手に仔猫を抱いていた。こまは幸村を見るなり暴れ、晴久は無言で幸村に仔猫を渡す。
「こいつがうるさくて眠れねえ、面倒見ろよ。こまの相手をしに来たんだろ」
「そ、それは……」
言葉のあやだ、と言う間もなくこまに甘えられ、幸村はつい優しく抱くことに意識を集中してしまう。
「出雲さん、屋根に上るような人だったっけ。雅な守護代様ってのが売りだと思ってたのに」
「緊急避難だ。こいつがにゃあにゃあうるせえったら」
「奥さんと寝てるかと思ったのにねえ」
「右目と寝るから追い出されたんだろ」
忌々しいといった顔で晴久が言う。幸村は敢えて何も言わないが真っ赤になり、佐助は苦笑した。政宗がおこうに指示を出したことはとうに知っていたのだ。
「お節介なんだか、何なんだかねえ? あの尺取虫、右目の旦那のことになると迷わないもんだ」
「右目を特別扱いしろっつった過去の俺を殴りたいね」
「そう言うもんじゃないって。姐さんにとっては良いことじゃないの?」
「こんな田舎で一生過ごしたいって言う馬鹿な女には良いだろうな」
「そりゃ、当時の安土や出雲に比べりゃねえ」
「晴久殿、上田城で伺ったことなのでござるが」
こまを肩に乗せ、幸村が問う。小十郎や吉、そして政宗がいない時に聞かねばならないと思っていたことだった。
「ん」
「今後も、この先も」
「うん」
「右目殿に何かあった時は、同じことをなさるおつもりか」
「同じことって?」
「──即座に、きつ様を奥州から連れ出すおつもりか」
晴久は答えない。沈黙が何よりも雄弁な肯定だった。
きつ様と似ている。幸村は思う。
──きつ様も、無言で是とおっしゃることがある。でもそれはいつも。
「……本当は、晴久殿」
──いつも、きつ様ご自身、口になさりたくないご意志の時だった。
「本当は、分かっておられるのではないか」
「何を」
幸村は黙る。晴久も黙る。
佐助は月を見る。俺には分からない話だ、とすぐに分かった。
晴久も幸村も「支配する側」の人間だ。晴久は言わずともがな、世間では猪武者と言われる幸村も、実は先見の明がある一部の諸将には統治能力や人心を集める人と成りを評価されている。佐助には手の届かない、届かせようとも思えない世界の話だった。
やがて幸村はゆっくりと口を開いた。何も言おうとしない晴久に根負けしたと言ってもいい。
「それが正しくないと、分かっておられるのではないか」
晴久は何も言わない。幸村も口を閉ざす。
長い沈黙の中、幸村は後悔する。甲斐が関わる可能性がある以上、確かめておかねばならない事項であることは分かっていた。
それでも後悔した。
晴久が眉をひそめ、笑ったからだ。
嫌な笑い方だよ、と佐助は思った。
──こんな笑い方をする奴が一番厄介だ。見た奴は何も言えなくなるんだ。旦那みたいな性格じゃもっと言えない。
「……その、失礼仕った」
「別に」
別にと言った晴久は本当に気にしていないのか、それとも装っているだけか、一瞬前の笑い方を納め、いつも通り涼しい顔になる。そして屋根の下に視線を落とし、言った。
「酔いは醒めたのか、伊達」
「……あ、バレてた?」
庇の下から夜着の政宗が顔を出す。バレてるよ、と晴久は呆れたように言った。
「透波も気付いてただろ」
「まあねえ。透波って言うのやめてよ」
「え、政宗殿?」
幸村も驚き、下を覗き込む。ばつの悪さを隠すために笑う政宗を発見し、何と、と呆れた。
「伊達、上がるか、俺たちが降りるか?」
「そのメンツで集まってりゃ、はい解散オヤスミナサイ、ってわけにもいかねえよな。いい、俺が上がるよ」
言葉の通り政宗は身軽に屋根に上がる。勝手知ったると言えば良いのか、妙に慣れた上がり方だった。
「ここに上がるのは久し振りだな。ガキの頃はよく上がってたんだ」
「はん、右目に叱られて拗ねた時だろ」
「oops。たまには逃げ道をくれ」
容赦ない晴久の言葉は図星で、政宗は呻くしかない。幸村と佐助は遠慮なく笑った。
「ああ、そうだ、伊達」
「おう」
晴久がいかにも思い出したという口調で語りかけ、つい政宗は警戒を忘れる。
次の瞬間、警戒を怠った自分を内心で罵りながら両足を踏ん張り、両腕を交差させ、渾身に近い力でその攻撃を止めていた。
「やっぱり化け物だな。きつ以外で止められたことがねえんだが」
「……何しやがる」
武器とした扇子を仕舞い、忌々しげに呟く晴久の速さに背筋が寒くなる。朝方の斬り合いでも充分その速さは分かっていたつもりだったが、今の攻撃は戦場での抜刀を意識させるほどの速さだ。幸村と佐助も唖然とし、言葉も出なかった。胸元から扇子を出すところも見えず、攻撃に移る姿勢も全く感じなかったのだ。
「俺が何したってんだ」
「きつの布団を右目の部屋に入れるなんざ、余計な真似しやがって」
「へえ、耳が早いな」
「狭い家だ、聞こえるさ。あの侍女も嬉しそうにうるさかったし」
確かに賑やかだった、と幸村は後半には同意した。前半の「狭い家」という部分には到底同意できないが、豊かな富を持つ出雲の国主からすればそうなのだろうか。
「夫婦なんだからいいじゃねえか。小十郎が言い出せねえだろうから、俺が言ってやっただけだ」
「女なんざ、やれば情が移って恋愛してると勘違いしちまうもんなんだよ」
「……あのな、前から思ってたけど。尼子ってちょっと女性蔑視っつうか……」
「事実なんだから仕方ねえだろう。特にきつはそういう部分が強ェし」
幸村と佐助は顔を見合わせ、その視線につい政宗も合流する。昔から吉を良く知っている──ある意味、小十郎以上に──晴久が言う台詞とはとても思えなかった。
「めんどくせえ」
その声は忌々しげで、そして怒りを含んだ声だった。
「どいつもこいつも。きつのことを考えてるようで、考えちゃいねえ」
「俺は考えてる。小十郎の嫁さんだからってのも強ェが、俺なりに考えてんぞ」
晴久は暫く政宗を見つめる。政宗はなぜ見つめられるのかが分からなかったが、今、目を逸らしてはいけないと本能的に悟った。晴久の目はまるで政治の席で敵国の国主を見るかの如き光を湛えていたのだ。
「……ああ、そう。そう思ってんならそれでいいさ。いざって時に騒ぐなよ」
「いざって時ってな、何だ」
「──お前の考え方なら、そうだな、きつと右目が次に喧嘩して、きつがどうしようもなく傷付いたらいい加減に出雲へ連れて帰るぞってことだ」
「前から言いたかったんだが」
遂に政宗ははっきりと言った。前々から思っていたことだ。同じような問答に遭遇するたび、こんな答え方をされる。そのたびに心の中には澱のようなものが溜まり続けていたのだ。
「ボカした言い方はやめろ。言いてえことははっきり言え。毎度ボカしたり、のらくらはぐらかしやがって、気付いてねえと思ってんのか」
「ああ?」
「政宗殿、晴久殿、ここでは」
晴久の眉が跳ね上がり、一気に一触即発になったと悟った幸村が口を出す。奥州が敵国とはいえ、目の前で国主同士がぶつかり合いそうになることは見逃せなかった。
先に退いたのは晴久だった。ふん、と冷たく鼻で笑い、幸村の肩の上の仔猫をつつく。
「その時はお前も連れてってやるよ。俺のとこにも猫がいるし、いい遊び相手になる」
「晴久殿」
「尼子、てめえ、奥州で舐めた口聞くのも今日までにしろ。次は許さねえ。ついでに」
「政宗殿、お鎮まりを」
幸村は政宗の激昂を感じ、何とか鎮めようとした。だが政宗は引かない。晴久は表情ひとつ動かさない。
駆け引きだ。幸村はそう感じた。政宗にはそのつもりがないかもしれない。政治の席に等しい状況であることも意識していないのかもしれない。だが激昂しながらも国主ならではの意思を感じさせる何かがある。一方晴久は確実に意識を切り替えている。どちらが正しいのか幸村には分からない。だが確かに二人ともが、稀有な「国主」なのだと思った。
「ついでに言っておく。小十郎に何があろうと、姐さんが自分で言い出さない限り、俺は姐さんを奥州から出す気がねえ」
「──やっと本音が出たか」
晴久の表情がこの上なく冷たい国主のそれに変わる。幸村が背筋を震わせ、佐助が「うわ」と声を漏らすほどの豹変振りだった。政宗は気圧されることなく真っ直ぐに晴久を見返す。睨んでいると言ってもいいほどだ。国主だ、と幸村は強く思った。
──お二人とも、国主だ。俺にはない何かを持っておられる。
「本音?」
「本音を言わねえ相手に、何で俺が本音で話してやらなきゃいけねえんだ。はぐらかしもするさ」
「俺はいつも本音だ。てめえみたいに言葉遊びで相手を翻弄しねえ」
「馬鹿言えよ。きつと結婚するだの何だの、綺麗ごとばっかりだったじゃねえか」
「綺麗ごとじゃねえ。俺は本気だった」
「その本気の意味は何だ」
政宗は眉をひそめ、幸村は二人のやり取りを見守る。先ほども、と幸村は思った。
──先ほども思った。きつ様に似ておられる。言われている時は分からない。でも──
後で分かるのだ。不意に幸村は気付いた。その時には分からない。言葉で翻弄されたのかとまで思う。苛立ちを覚えたこともあった。だが確実に、後になって分かる時があった。その時とはいつだっただろう。どんな時だっただろう。
「本気の意味?」
「何できつと結婚しようと思った」
「小十郎のカミさんだ。奥州で責任取るのは当たり前だ。姐さんが姐さんのまま奥州で生きて行くなら、俺と形だけでも結婚した方が良かったはずだ」
「奥州で、な」
「そりゃそうだろう。姐さんは奥州の──」
そこで政宗は言葉を切った。何かに気付いた、そんな顔をしている。その顔を見た幸村は、政宗もまた知ったのだと思った。
──きつ様ではない。それでも今、政宗殿の前にいるのは晴久殿だ。魔王の教えを受け続けた出雲守護代だ。
「……see。なるほど、そうか。言いてえことは分かった」
「ああ、そう」
「姐さんは奥州の人間だ、って考えてたのが、俺の建前か」
「そうだな。本当はそんなこと、思っちゃいねえ」
「ああ。──ああ、そうだな、そうだよ。綺麗ごとだったな。てめえからすりゃ何よりもムカつく綺麗ごとだったか」
「どうだろうな」
「はぐらかすな。ムカつかせたのは謝る」
政宗は息を吐く。納得したがゆえの溜息、自分の未熟さに気付いたゆえの溜息だった。先日思ったばかりだったことをまたぞろ思ってしまう。大して歳の変わらない出雲守護代という者が、確実にかの魔王から様々なものを受け継ぎ、日の本を彼なりのやり方で護ろうとしていることを。
「姐さんは、──織田の直系のあの人は」
政宗は言った。
「カードだ。手にした国が、諸国に切れる秘蔵のワイルドカードだ」
「そうだな」
頷く晴久の表情は相変わらず冷たく、能面のようだと言ってもいい。元来愛想のいい男ではないが、これは全く違うものなのだ、違う存在なのだ、と幸村は強く思う。
だが対する政宗もまた、戦場で出会う顔ではなく、ましてや戦場を離れた時に会う顔でもなく、確かに国主の顔をしていた。佐助とは違う、俺とも違う──幸村はただ、見ていることしかできなかった。
「出雲だったら、奥州よりずっと上手く使えるだろうな」
「そうだな。たかだか軍師の嫁なんかにしておかねえ」
「お前だったらどうするんだ」
「俺と結婚させる」
即座に返って来た答に、政宗はつい笑う。ああ、俺と同じじゃねえか。そう思ったからだ。
──俺と同じじゃねえか。でも、俺なんかよりずっと冷徹に考えてる。……でも。
「……でもお前はそうしない。出雲だったら直接なり、幕府を通すなりして外圧をかけりゃ、姐さん一人連れ出すのなんて簡単だろうに」
なぜだ、と政宗は言った。
なぜだ。なぜそうしないのか。
幸村は分かるような気がした。それはきっと、きつ様が望んでおられないから。きつ様は誰よりも右目殿を慕っておられて、晴久殿もそれを御存知で──
「出雲が」
晴久は静かに答えた。
国主の声で答えた。
「今の日の本に不要な選択肢を選ぶことは、断じてない」
裏切られたと感じたことが間違いなのだ──幸村は自分に言い聞かせながら肩の上の猫を撫でる。佐助は幸村の腰を軽く叩いた。──大丈夫だよ、旦那が傷付くことじゃないはずだろう。
政宗の表情は動かなかった。驚きもしなかった。納得したのだ。
「……納得した」
「ああ、そう」
「お前さ」
「ん」
「生きてて、楽しいか」
ぎょっとして幸村は政宗を、次いで晴久を見る。無礼だ、余りにも無礼だ、と部外者である幸村が驚くほどの問いだったのだ。同じ国主でありながら残酷な問いをしている。幸村にも分かるほどの無礼だった。
晴久の気難しさは幸村もよく分かっている。政宗が取り返しのつかぬ問いをしたのではないかと思った。
長い、長い沈黙が降りる。
普段の俺だったらここで慌ててただろう──政宗は思う。
だが今は慌てはしない。悪いことを言ったとも思わない。分かっているのだ。
分かっている。
晴久はわざと、今の問答に持ち込んだ。否──持ち込んでくれた。
だからこの問いまでは言ってもいいはずだ。
晴久は全てを飲み込んでくれるだろう。
魔王の意志を継いだ出雲守護代は、全てを、飲み込んでくれるだろう。
それに甘えよう。今は甘えよう。そう決めた。
出雲守護代は答えた。
「お前らが何かするたびに、俺は楽しませてもらってるよ」
その言葉で政宗は心底思い知った。同じ国主でありながら、同じ時代に生きながら、自分と彼は全く違う世界に生きているということを。
「出雲守護代」
国主の声で、政宗は言った。精一杯の声だと言っても良かった。魔王から受け継いだ役目を果たそうとするこの男が、真の意味での日の本の守護であることを知った。
「無礼、御詫び申し上げる。共に、──御心に感謝申し上げる」
「障りさまなし、御機嫌さん」
どうってことはない、じゃあな──そう言って晴久はいつもの澄ました顔に戻り、幸村の頭をぽんと撫でた後、屋根の上から姿を消した。
「……oops」
政宗が呻く。先ほどの国主の顔は既になく、やっちまった、という顔だ。なぜか幸村はその顔に安堵した。安堵したからこそ声を荒げた。
「政宗殿、無礼にも程があろう! 今の言い様は余りにも!」
「分かった、悪かった。尼子に甘えたんだ」
「甘えた?」
「姐さんと尼子に──……魔王と日の本の守護に、甘えたんだよ」
「如何なる意味にござる」
「……ああ、そうだなァ」
何て言おうかな。口の中でそう呟いた後、政宗は小声で言った。
「俺に主はいねえ。尼子の主は日の本。そういうこった」
意味が分からない幸村は首を傾げる。そんな幸村を見て、政宗は笑った。
眉をひそめて、笑った。
その笑い方は嫌いだ、と幸村は思った。


部屋へ戻る廊下の途中、晴久は足を止める。夫婦の寝室は避けたはずだが、さて、と首を傾げる振りをした。自分の部屋の前で縁側に腰を下ろし、庭を眺める夜着姿の小十郎がいればその仕草が礼儀だろうと思ったからだ。
「……何か御用で、旦那さん」
「礼を言いに」
小十郎は立ち上がり、晴久と向き合った。背の高い奴だ、と思いながら晴久は小十郎を見上げる。
「礼って何。特に何もしてねえけど」
「政宗様にご指導賜り、臣下として御礼申し上げる」
そう言って頭を下げる小十郎を見、晴久は溜息を押し殺した。聞かれていたのだと知った。
「……ああ、そう。頭上げてくれねえ? 気持ちとしては義兄の旦那さんにこの家で頭下げられるの、流石に心苦しい」
「失礼」
言われた通り頭を上げ、小十郎は再び晴久を見た。
「どこから聞いてた」
「政宗様が屋根に上がられた時から」
「ほとんど全部かよ。透波も気付かねえって、どういうことだか」
「猿飛は気付いていたかもしれないが、ここは俺の家だ。放っておいたんだろう」
「なるほどね」
晴久は肩を竦める。奥州と甲斐、敵対していながらも妙な理解はあるらしいと納得した。
「きつと仲良くしてたとこ、悪かったな」
「……ああ、いや、その。それは特に何も」
小十郎の咳払いに晴久は意外な顔をした。
「あ、してねえの」
「──流石に、今の状態では。彼女は寝かせた」
仲が良いとはとても言えない男二人だが、下世話な話が挟めばそれなりに垣根が低くなることも確かだ。
「ならいいか。うん、それならいいや」
「……いいのか」
「やっぱりこう、今の状態だとな。弟としちゃ面白くねえから」
そうか、と小十郎は口ごもる。自分に責任がないのはよく分かっているが、言われれば言われたで妙に恥ずかしくなる話だった。
不思議な青年だ──晴久を見て思う。小十郎にとって晴久は不思議な存在だった。屋根の上で政宗に冷たく話していた声、今のごく普通の青年の声。どちらも晴久だ。
だがあの声を忘れることができない。政宗だけではなく、小十郎もまたあの声を聞いた。
お前らが何かするたびに、俺は楽しませてもらってるよ。
立つ立場が違うのだ、と思い知らされる声だった。小十郎自身と晴久が同じ立場であるなどと、無論一度も思ったことはない。
だが政宗と晴久は同じ立場、国主という立場では同等だと思っていた。確かに世間的には同じだろう。それでも違うのだとはっきりと分かった。
奥州筆頭は道を進む者。
出雲守護代は道を護る者。
その道の先にあるものは──分かっている。
俺は分かっている、昔から本当は分かっていたのだろう。そう思った。
その道の先にあるものは日の本の未来。
その道を拓き、均したのは。

魔王。

──護る道を行く今の時代の連中を見て、楽しいのか。それが天下を降り、屈辱を乗り越え、日の本の守護となったこの男の人生なのか。
「照覧あれ、だな」
──何という孤独な座にいるのか。魔王もそうだったのだろうか。
「ん?」
「魔王が拓き、均した道を護るのであれば。その道を行く我らを照覧あれ」
──いつかその孤独を、天下の主となった政宗様が埋めるだろう。
「そんなご大層なもんじゃねえけどなあ。俺だって、いつ気が変わって天下獲りに返り咲くか分かんねえよ?」
晴久が声を上げて笑った。その声はいかにも楽しそうだったが、隠された感情が見えた小十郎は、そうか、と言って自分も笑う振りをするしかなかった。
「おにぎにぎし」
賑やかだこと、と言いながら、廊下の奥から不意に吉が現れる。夜着一枚の姿に小十郎は苦笑したが、驚きはしなかった。ここは彼女の家でもあるともう分かっていたし、使用人の目を気にする時間でもない。自分は夫で晴久は弟だ。彼女にとってはごく自然のことなのだろう、と自分でも驚くほど柔軟に受け入れることができた。
「寝ていたのに。悪かったな」
「家の中で男衆がごそごそと。目も開くわえ。晴久、旦那様にまた無礼を申したのではないの」
小十郎へ笑顔を向けた後、晴久をじろりと睨む。晴久は涼しい顔だ。
「俺は一度だって、失礼なことを旦那さんに言ったことなんかないつもりだけどね」
「どの口が申すかえ。まァ、にがにがしき口を利くようになったこと」
「俺の姉貴の口が悪くて。似ちまったのさ」
「誰ぞのこと」
「旦那さんがよく知ってるはずの人。今は知らないらしいけど」
「……晴久」
「何だよ」
二人の減らない口の応酬を聞きながら、小十郎はそれなりに楽しかった。今の今まで気付かなかった二人の絆をよく理解できたような気がする。病的だとまで思った晴久の吉への執着、それを当然のように受け入れる吉の間には、おそらく小十郎には決して真似できない種類の絆があるのだ。屋根の上で語ったあの声で知った。
──……彼女を忘れる前の俺は知らなかったかもしれない。理解できずに晴久殿に嫉妬していたかもしれない。
二人の間にある絆の種類、その根底が分かった。
──昼間の俺も、理解できていなかった。同じ役目を引継いだがゆえの同情、執着だとしか思っていなかった。
孤独だ。
例えようもない重責を背負った二人は、他人には計り知れない孤独の中で生きていたのだろう。生きているのだろう。
役目だけではなく孤独をも共有した。
それならば当然だ。綺麗ごとではなく分かることだ。
晴久をもう少し、好きになれるかもしれない。政治とは別の次元で、小十郎はそう思った。
そして吉を見る。晴久と言い合う顔は確かに美しいが、だが、弟とじゃれ合う普通の姉の顔だ。
泣き顔を見た。笑う顔も見た。不安そうな顔も見た。

もしも奥州で、俺の傍で、魔王であった時の孤独を埋められたのだろうか。
埋めることができたのだと、俺は自惚れてもいいのだろうか。
もし埋めることができていたのなら、俺は。

「いや、案外」
言い合う二人が不意に呟いた小十郎を見る。
小十郎は吉を見、にっと笑った。
「色々と、分かって来た。俺の妻は可愛らしい」
吉はたちまち真っ赤になり、なぜか晴久をばしばしと叩く。晴久は果てしなく嫌そうな顔をしながら叩かれるままだ。
その二人の姿が妙に楽しく、小十郎はつい笑ってしまった。


もし埋めることができていたのなら、俺は、
もしあなたを思い出せなくても、
これからも孤独を埋めていってみせるだろう。
その程度には、あなたがいとしい。