君恋ふる涙しなくは 07



藤は夜道でも怯えず、小十郎に引かれておとなしく歩いた。乗っていたのは吉だ。家を出、月明りを頼りに騎馬隊の訓練所へ向かった。
慣れた場所へ戻って来た牝馬は、鞍を外されると早々に草の上に寝そべる。すっかり眠る体勢だ。
「帰りも乗るんだ、起こしたら起きろよ」
小十郎が声をかけると、分かっているわよと言いたげに尻尾を動かす。吉は馬の様子に微笑み、屈んでその横腹を撫でた。気性の荒い馬への行為に小十郎は一瞬慌てる。藤が怒るのではないかと思ったのだ。
だが藤は機嫌よく、ぶる、と僅かに鼻を鳴らす。小十郎は驚く。
「俺の他に、懐かねえ女なんだがな」
「前にも乗せてもろうたことがあるもの、ナ。よい子だえ」
「そうなのか」
それも忘れている。今は自分が手綱を引いたからこそ吉を乗せたのだが、普段であれば有り得ない話だ。吉が屈んだ姿勢のまま、小十郎を見上げて言った。
「一緒に乗ったのだえ」
「藤に? 誰と?」
「おまえさま」
「──はあ?」
思わず間抜けな声を上げてしまった。吉がくすくすと笑う。小十郎としては信じられない話だった。いくら妻とはいえ、女と二人で馬に乗るなどと軟派極まりない話だ。自分がそんなことをしたとはとても考えられなかった。だが吉が嘘を吐かないたちであることも、もう分かっている。
「……俺が、なあ……」
愛妻家だったんだ、と繰り返し言う政宗の言は本当なのかもしれない。周囲も知っているのだろう。自分だけが思い出せない。何とももどかしくてたまらなかった。
「取り敢えず、詰め所へ行こう」
「ん」
「あそこなら誰にも聞かれねえ」
「ん、それなら──あっ!」
「藤!」
立ち上がろうとした吉の小袖の端をがちりと咥え、藤が強い力で引いた。思わぬ不意打ちに吉が尻餅をつく。
「藤、これ、何をしやるの」
「大丈夫か。──って、おい、藤、俺は転ばねえぞ」
今度は小十郎の袴の裾を噛んで引く藤の鼻面を、上半身を折って軽く叩く。だが藤は強情に裾を噛み続けた。
「どうした。寂しいのか」
「──ここで、と」
吉が言った。
「ここで話せと、申しておるのではないの」
小十郎は藤を見る。馬の目はいつも優しく澄んでいる。今もそうだ。
だが今は吉が言ったように、ここで話しなさいよ、ここが安全よ、と小十郎に訴えているようだった。
「……分かったよ」
苦笑し、観念して藤に言う。藤は満足したのか、ようやく裾を離した。
訓練場の草の匂い、土の匂いが風に乗って月明りに流れて行く。小十郎は藤の腹に背を預け、吉は持たれかかって足を崩していた。
ぽつぽつと吉が語り始める。
「……織田の再挙兵、と称されるのだけれど」
「織田の? ──お市殿の乱のことか」
「否。むしろ、それを」
止めるために。
そう言った吉の声は穏やかだった。
「織田の不始末は、織田が片付けねばならなんだ」
「……言いてえことは分かる」
「ん」
「だがその前に、その──魔王は本能寺で死んだんじゃなかったのか」
「ふふ」
吉は笑う。おかしいのではなく、何かに感謝するような、穏やかな笑い方だった。
「それはまた、あとで。お話するには長うて」
「……そうか」
そう言われては追及できない。そもそも、ここでする話の予定にはなかったことだ。吉が口を噤んでも小十郎には文句が言えなかった。
吉はまた語り出す。
「本能寺で終えたと思うておったことが、市の──残党どもの始まりであったの。とんだ誤算だったわえ」
役目は終わった。そう思った。
光秀の謀反を知ったあの時、自分の役目は終わったのだと分かった。光秀がこれから歩むであろう運命も見えた。そして光秀はそれすらも知っていた上で牙を剥いた──否、そうではなかった。
──アレは、わらわと遊びとうて遊びとうて、たまらなかったのであろ。あれもまた戦乱の子。くるった子。
光秀のことは触れず、吉は話を続ける。
「市の軍は織田ではなかった」
「浅井、か」
「是。浅井から手配された、名だけは織田の」
夢を見たのだ。吉は知っていた。彼らは夢を見た。武将となれぬ彼らは、そして主を失った彼らは、悪夢と知らぬ夢を見たのだ。
「市を第五天魔王として担ぎ上げた以上、わらわが収めねばならぬは必定で。だから──」
夢には夢を。妹が悪夢の中にいるのなら、更なる夢の中で出会うしかなかった。夢の中で再びあの日を迎え、教えるしかなかった。
夢と幻の中で──再びの本能寺を作り上げた。
「……ああ」
小十郎は小さく言った。呻いたと言ってもいいほどの声だった。
「覚えている。──そうだな、あれは夢と幻の。夢幻の本能寺で、俺も」
俺もそこに、いた。小十郎の呟きに、吉はふっと眉をひそめて微笑む。その笑い方は──小十郎は思う。その笑い方は、好きじゃない。
「……覚えているんだ。でも」
辻褄が合わない。いや、合っている。でも合っていない。そんなことを思い出す。だから正直に言う。
「俺はあの時、政宗様の御命令で、織田の再挙兵について任務を受けた」
「……ん」
「だが伊達軍は動いていなかった。それは覚えている」
「ん」
「動かさなかったのは──俺が充分に情報収集をして、奥州で分析をしてから動きを決めるためだった」
「ん」
「……あなたは分かるか?」
「何を?」
辻褄が合わない。合っているようで、合わない。
それは記憶の辻褄が合っていないのではないだろうか。
「なぜ、俺と真田は織田軍──あなたの軍と一緒に行動したんだろう。しかも」
そうだ、覚えている。
始まりは上田城だ。
「……俺は、真田を死なせてはならないと。ずっと思っていたんだ」
──政宗様の好敵手とはいえ、宿敵甲斐の重要人物。亡き者になってくれた方が良かったはず。
「その理由が分からねえ。辻褄が合わねえ」
吉は馬の腹にもたれたまま、じっと小十郎を見ている。やがて静かに言った。
「真田幸村公を共に参らせたのは、わらわと幸村公の意志。おまえさまが共においでになられたのと、幸村公を殺してならぬと思われたは、さァ、わらわには──分からなんだ。でも」
でも。
嬉しかった。
吉は言った。
嬉しかった。
感情を交えず、事実だけを語り続けて来た女が、初めて口にした。
「嬉しゅうて、心強うて。お声が聞こえのうても、傍におられるだけで、根の国に呑まれず夢を歩めた」
小十郎は何かを言おうとした。だが言えなかった。
思い出して語る吉が余りにも嬉しそうで──そして、どこか辛そうで。
辛いのなら話さなくてもいい。そう言うべきなのかもしれない。それでも言うことができなかった。
吉が笑っていたからだ。
そして言った。小十郎にとって、余りにも衝撃を与えることを。
「だから最後に、おまえさまがわらわを殺して下すって、ほんに嬉しゅうあったのだえ」
一瞬、何を言ったのか理解できなかった。
「……殺した?」
覚えていない。
「ん」
「殺した? 俺が? あなたを?」
「──覚えておられぬの」
覚えていない。
まさか。そう思う。
──妻だったんだろう。あれだけ想った女なんだろう。
「……あなたは今、生きているだろう」
──なぜ、殺す必要などあったのか。生きているじゃないか。
「生きておるけれど、でも。あの時は」
吉はそこで言葉を切った。どう説明しよう、この人にどうやって言えばいいのだろう──そんな顔を小十郎に見せる。
沈黙が降りる。長い長い沈黙だった。
先に口を開いたのは小十郎だった。
「それが本当なら、俺はあなたを殺したことを思い出したくない」
上手い言葉など知らない。この女に何かを告げる時、いつもそうだったと思いだした。何ひとつ上手い言葉が言えない。
飾れない。
「俺は確かに、あなたを想っていた」
「……え」
「明智に討たれたと知った時、あなたの存在を心の中で潰して、捨てたほどに」

あなたを、いとしいと思って生きていた。
それは確かだ。
今は思い出せなくても。

「俺は、確かに、あなたを──妻を、いとしんでいた」

潰して捨てた。その意味を分かる女だと、小十郎は確信していた。だから言ったのだ。
あの人生を生きたのであれば分かるはずだ。
いとしんだ事実そのものを潰し、捨てねばならぬほどの哀しみに囚われている時間など、一秒たりともなかったのだと。
それが戦国の世なのだと。

「もう」
吉が微笑む。眉をひそめた笑い方だ。先刻見た時は好きではないと思ったが、今はそうではない、と小十郎は思った。
「ほんに、もう。──それだけで、もう。……もう」
今はそうではない。
好き、とは言い切れない。それでも今はそうではないと思う。
眉をひそめて微笑む女の目に、涙が滲んでいた。
──ああ。可愛いな。
「……もう、それだけで。嬉し」
涙を堪えようとして堪えきれず、眉をひそめて微笑むしかなかった女を、素直に可愛いと感じるのだ。
「そうか」
「ん」
「泣くな」
「泣いておらぬわえ」
随分と強情だ。つい、小十郎は笑う。可愛いと思ってしまう自分を笑う。それは自分を軟弱だと嘲る笑いではなかった。
強情なこの女を可愛いと思えることが幸せで、笑う。
「お笑いになるなぞ、まァ、酷いわえ」
「あなたを笑ったわけじゃない、悪かった」
「ほんに無礼な」
「ああ、悪かった、悪かった」
それでも笑う。
笑いながら、指で吉の涙を拭った。吉は一瞬、目を見開く。
驚かせたかと小十郎が思った時、涙を拭われたはずのその目から、大粒の涙が零れ落ちた。
──ああ。悪かった。
「悪かった」
──不安だったろう。たとえ誰よりも強く、孤高に生きたあの日々があっても。
「泣かないでくれ」
──本当はただの女のあなたは、夫の俺に忘れられて不安だったろう。
藤にもたれていた吉の腕を掴む。柔らかく、細い腕だ。小柄な女だ。
ただの女だ。
涙を流し続ける女の腕を引き、身体ごと抱き寄せる。
家で抱き寄せた時よりも穏やかな心であることが不思議だった。
そしてあの時よりもずっと──この女がいとしいと、感じ始めている自分に気付いた。
不思議だとは思わなかった。
いとしい。嘘ではない。
思い出せなくても、それでも確かに、俺はこの女がいとしいのだ、と思った。
そう思った瞬間、更にいとしさが募る。抱く腕に力を込める。小柄な吉の息が詰まるかもしれないほどの力だった。それでも吉は逆らわず、小十郎も腕の力を弱めることができなかった。
「おまえさま」
涙に濡れた声で、それでも、ひどく幸せそうな声で、吉が言った。
「お慕わしゅうて、お慕わしゅうて。死んでしまう」
何を言えばいいのか分からない。
小十郎はただ、強く抱き締めるしか、できることがなかった。
それが何よりも女を幸福にすると知らずに、強く抱き締めていた。




翌朝、城下街の噂は早い。

小十郎様が。
奥様が。
騎馬隊の訓練所で。
馬の腹で、草っ原で。
寝てらしたんだってさ。
お二人で。
騎馬隊の朝番が見つけてさ。
心中でもしたんじゃないかって。
大騒ぎだったんだって。
寝てらしたんだってさ!
お二人で!
抱き合って、寝てらしたんだってさ!

そして噂は城にも届く。

「尼子、落ち着け、しまえ! やばいから!」
「落ち着いてる。すっげー落ち着いてる。俺今まじでお前流に言うならクール」
「クールな人が抜き身で刀持ってるのってどうかと思うわけで! しかも笑顔で! 何か変!」
「いや別に全然、俺ほんとクールだけど? 別に旦那さんが城に上がったらぶった斬ろうとか全然考えてねえよ?」
「すっげえ考えてる! 考えてるのまじダダ漏れだから! 全然クールじゃねえから!」
「──あったりめぇだろうがぁ!」
笑顔一転、憤怒の表情で晴久は刀を振り下ろした。政宗は戦場での素早さよろしく、自らも剣を抜いて間一髪受け止める。本気の力で振り下ろされた強さを腕に受け、心の底から蒼褪めた。
「俺に振るな、俺に! 小十郎と姐さんがそういうことしてんのは俺のせいじゃねえだろ!」
「だ! か! ら! 右目が来たらぶった斬ってやるってんだよ! ふざけんじゃねえぞ、きつに恥かかせやがって、このド田舎破廉恥主従が!」
「──ファーック! 誰がド田舎破廉恥主従だ、コラァ!」
政宗も一気に頭に血が上る。血気盛んと言えばそれまで、しかし真剣も真剣を極めた二人は揃って城の庭に飛び出し、朝から凄まじい斬り合いを始めることになった。


「何と」
旅装の少年が店の小女から噂を聞き、眉をひそめ、口に入れかけた団子を持つ手を止める。
「何と……いくら夫婦とはいえ……!」
その顔は怒りにも似た感情を浮かべているが、しかし耳まで赤くなっている。隣にいた従者は「いきなりこれかよ」と溜息をつき、茶を啜った。
「きつ様に斯様な恥をかかせようとは! 右目殿、記憶があってもなくても破廉恥が過ぎる!」
「あーはい、お代はここね。ほら旦那、もう行くよ! 早く団子食べて!」
「破廉恥、許すまじッ!」
「いいから早く団子食べてよー!」
やっと甲斐から着いたんだからさあ、という佐助の嘆きも耳に入らず、幸村は「お館様に御報告せねば」と潔癖な少年ならではの気炎を上げるのだった。