君恋ふる涙しなくは 05



その日の眠りは深かった。肉体的にも精神的にも疲労していたことは否め得ない。だがその分、体力は回復した。布団の上に起き上がり、手を握っては開き、ということを繰り返す。目覚めたばかりの頃は筋力が相当落ちていたため、この動作も上手くできなかった。今日は相当調子がいい。
これなら久々に城へ上がっても普通に仕事ができるだろう。最初は心配してくれていた、あるいは死を願っていた人々から復帰祝いの言葉をもらったり、政宗に正式に挨拶したりと忙しいことは分かっているが、ある程度の政務の流れは確認しておきたかった。
おこうを呼んで着替えをしよう、と思った時、並べて敷かれた布団に気づく。思わず朝一番で溜息をついてしまった。そして彼女を思い出す。謝って、礼を言って──
「……本来なら、有難え話なんだ」
分かってはいる。かの織田上総介信長に直接政務を補佐されるなど、政宗にとってとんでもない勉強の機会だった。諸事情と私情を抜きにして言えば、小十郎とて見てみたかった、聞いてみたかったほどだ。それでもどうしても割り切れない、飲み込み切れない何かはある。
暫し考え込んだ後、よし、と小さく声を出した。悩んでも仕方ない。朝は来た、一日は始まる。もう溜息もついたし感情が乱れもした、一日分の困惑はここで終わりにしよう──そう決めて立ち上がる。
耳を澄ませてみると、まだ家の中は静かだった。思ったよりも早く起きてしまったようだ。気を変え、先に裏庭の井戸で顔を洗うことにした。寝間着のまま部屋を出ることは滅多にないが、まだ眠っているかもしれないおこうを呼ぶのも気が引ける。
下働きの男たちはもう起きていた。それぞれに仕事を始めていて、小十郎を見て挨拶をする。小十郎もそれに応じる。彼らは主人が帰って来て嬉しそうだったが、どこか戸惑っている風情もあった。理由が分かる小十郎としては、自分が悪いわけではないと分かっていても、やはり彼女のことを早く思い出すべきなのかと考えてしまう。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
裏庭への角を曲がる時、木材の欠片を手にした源爺と会った。随分早起きをして何かを作っていたのだろうか、と小十郎は思う。
「何か作っていたのか」
「猫の小屋でさ」
「猫の?」
「ま、猫にしちゃ贅沢な」
何の話だろう、と小十郎は首を傾げる。源爺はいつもの通り、穏やかな声で言った。
「奥様のご希望で。出来は悪かァないですが、長い間使えるほどじゃございませんな」
では失礼を、と会釈をし、源爺は歩き去る。
そして小十郎は思い出した。猫──彼女の仔猫か。こま、という名だった。
井戸から少し離れた場所で、夜着に薄い羽織をかけただけの吉がいた。驚くことに足を投げ出して縁石に座り込んでいる。地べたに座り込んでいるも同然だ。何て女だ、と小十郎は唖然とした。
源爺が今しがた作ったに違いない小さな、それこそ外飼いの犬が入るような小屋の前で仔猫を抱き、撫でながら何かを話しかけていた。
彼女の座り方に唖然とした、これは事実だ。
だがそれでも、ああ、と小十郎は無意識に声を出しかけていた。
──……天女みてえに、綺麗だな。
純粋にそう思った。上ったばかりの陽光の下、猫を抱き、だらしない格好をした彼女がとても美しいと思う。それは彼女の造形に対しての感情であることは自覚していたが、確かにとても美しかった。
猫が鳴いた。甘えているような、それでもどこか必死な声だ。吉が困ったように返事をする。
「呑んでおくれたも。わらわもよう参るゆえ、寂しゅうないわえ、ナ?」
「にゃあ!」
「もう、もう──堪忍え。堪忍なァ」
困り果てた声と顔で猫を撫で、頬擦りをする。何をしているんだ、とさすがに小十郎は不思議だった。
「旦那様が思い出されたら、また、入りやれ。今はむつかし、ナ?」
ああ、と小十郎は酷く驚いた。つまり彼女は猫を外に出そうとしているのだ。──小十郎が猫に対して戸惑ったから。
「いや、そんなことはしなくていい!」
驚いた弾みでつい、大きな声を出してしまった。吉は飛び上がり、慌てて立ち上がる。
「まァ、アレ、おはようさんのご機嫌さんに」
「……ああ、おはよう」
西の挨拶か、とすぐに分かる。尾張は完全な西ではないが、織田信長という人物が辿った道を考えれば、西の物言いが多い、むしろほとんど西の言葉であることも頷けた。
不意に吉が猫を片手で抱き、俯いて片手の袖で顔を半分以上も隠す。袖から覗く肌が赤くなっていて、小十郎は首を傾げてしまった。
「どうした」
「あの」
「ああ」
「……その、寝起きゆえ、……あまり、ご覧頂きとう、なくて」
「ああ、──ああ、すまなかった、失礼した」
小十郎は咳払いをする。意味は分からないまでも、自分まで赤面してしまった。女は面倒くさい、と、いつもなら心の中で切り捨てるところだが、目の前の女の仕草が余りにも──そう、余りにも可愛らしくて、無粋な自分を恥じるよりも、可愛いと臆面もなく思ってしまった自分を恥ずかしいと思う。小十郎が「覚えている限り」、今までの人生にはなかった感情だった。
「分かった、見ないようにする。俺は気にしないが、あなたが気にするなら見ない」
「……かたじけのう」
「ああ、いや、それより」
もう一度咳払いをし、照れ隠し半分、重要だと分かっている気持ち半分で話を続けることにする。
「猫は家の中に入れていていい。外に出す必要はない」
「でも、おまえさまが」
「いいんだ。──嫌いなわけじゃないんだ。驚いただけなんだ」
「……でも」
「いいんだ。構わない。今まで通りにすればいい」
顔を隠したままの吉は返事をしない。仔猫は不安そうににゃあにゃあと声を上げ、小十郎に妙な焦燥感を抱かせる。だから言った。
「あなたや、あなたに関係することを思い出した時、自己嫌悪を食らいそうな気がするんだ。俺のためにも外に出さないでくれ」
俺のためにも、という言葉でようやく納得したのか、吉は頷き、猫を両手で抱いて頬擦りをした。
「堪忍、堪忍。すまなんだ。旦那様が家におってもよいと。堪忍え」
小十郎にもその顔は見える。嬉しそうに猫を甘やかす顔は、本当に綺麗で、そして──
「……可愛いな」
「え」
「あ」
瞬時、時が止まる。
そして吉は慌てて顔を再び隠し、耳まで真っ赤になった。
「いやいやもう、ほんに、ご覧になられず!」
「いや、気にすることはないだろう、可愛い、──ああ、可愛いって言うのは、その……!」
小十郎も慌てに慌てた。驚くほど素直に思ったままを言ってしまった。男としてあるまじきことだ、とんでもない、伊達と軟派は違う、と思いながら混乱を極めてしまう。
そこでにゃあ、と仔猫が一声鳴いた。小十郎には神仏の救いかと思えるほどの声だった。
「……猫が!」
「あ!」
「いや、可愛いものだと……!」
「そ、そ! かわゆうて! まァ!」
吉の腕からするりと仔猫が抜け出す。これ、と吉が慌てて声をかけるが、こまは小十郎の足元に寄り、やはり自分の可愛さをよく知っている上目遣いで見上げ、にゃあ、と恐ろしく可愛らしく鳴き、夜着の裾を掴む仕草をする。
「こま、これ、旦那様のお召し物が!」
「ああ、いや、いいから、いいんだ!」
俺に気を使いすぎる──小十郎はふと、気付いた。
帰って来た時に小十郎がしてしまった失態も、晴久が(行き過ぎてはいても)姉を心配する弟として小十郎に苦言を呈した時も、戸惑った小十郎のために寝所を別にしたことも──猫を外に出すことも。
──どうしてそこまで、気を使うんだ。
どう言えばいいのか分からず、まるで誤魔化すかのように、小十郎は仔猫を抱き上げる。
「家の中の猫だろう。外に出たって同じ気分だろうさ」
「……ん」
「俺はもう、着替えるし」
猫を怒らない小十郎に安堵したのか、吉はいつの間にか露にしていた顔で微笑する。
ああ、と小十郎はまた思った。
──ああ。可愛いな。
「あなたも起きるなら、着替えをしたらどうだ」
あ、とまた顔を赤らめる吉が可愛いと思う。
「俺も着替える。一緒に朝飯を食おう」
吉はしばらく小十郎を見つめていた。なぜそんな顔で──驚いたような顔で見るのだろう、と小十郎は思う。だがすぐに分かった。昨日からの自分の言動を振り返れば分かることだ。そこまで人の心を顧みないわけではなかった。
──不安だったろう、な。
やがて吉が微笑む。だから小十郎は知る。思い出したわけではない。だが、知った。
──この女が笑うと、嬉しいような気がする。
「腹が減ってるんだ。女の支度に時間がかかるのは知ってるが、少し急いで頼む」
小十郎は我知らず、微笑んでいた。この女が笑い、嬉しくて微笑んだのかもしれない。
吉が返事をした。
「はい」
心なしか嬉しそうな声に、小十郎はまた、嬉しくなった。
それから朝食を共に食べ、給仕をしようとする吉に戸惑いながらも、小十郎は彼女の好きにさせておいた。それが吉にとっていいことなのだろうと思ったからだ。見ていたおこうや他の使用人たちは好意的に囁き合い、ことにおこうは厨房で思わず涙したほどだった。それほどまでに昨日の小十郎の態度は酷かったし、昨夜の吉は哀れだったのだ。
普段は気性の荒い藤は今日もおとなしく、出仕の支度を整えた主人を快く迎えるために門前に繋がれている。
「俺がいない間、いつもは何をしているんだ」
門までの道を歩きながら、小十郎は「妻」に問う。
「手紙を書いたり、夕餉の献立を考えたりと」
「──ああ、あの飯は美味い。料理が上手いのか」
「え」
「え?」
「……あ、なんも……」
言いよどむ吉の胸中を察し、小十郎はやや慌てて「いや」と言った。
「作らなくても良い女も、いるんだ。無理をすることはない」
「……ん」
歩きつつ、小十郎の歩幅には狭い、平らな置石を踏んで歩いていることに気付いた。こんなものがあっただろうか。記憶では砂利だけの道のはずだった。
「行ってらっしゃいまし」
慣れた様子で吉が言い、笑顔で見送る。内心で戸惑いつつも、これが彼女の日常なのだろう、と小十郎は思い、できるだけ穏やかに「ああ」と返事をして藤の手綱を引いた。
置石の幅が吉の歩幅にちょうどよい物だと気付いたのは、しばらく道を行った頃だった。
──源爺が気を利かせたか。俺が思いつくはずもない。
「……あ」
ふと、思い出す。
「……礼を、言うのを忘れていた」
どうしたの、と言うように藤が顔を上げかけたが、宥めて歩かせる。
──帰ったら、今度こそ言わなければ。




昼前、晴久が伊達の城からふらりとやって来た。いつものことだ。妙に機嫌のいい吉を見て「ふうん」と独りごちる。
「何え」
「化粧に気合入ってんなー、って」
「やかましわえ」
僅かに頬を赤らめつつも、吉は気分を害した風情を見せない。こりゃよっぽどだな、と晴久は思う。そして出仕した小十郎を思い出した。快癒の祝いを述べる人々に礼儀正しく挨拶を返し、政宗にもこの上なく丁寧な挨拶をしていた。儀礼上、隣にいた晴久にも同じようなことを言ったものだ。晴久は厭味のひとつも言おうかと思ったのだが、政宗があまりにも嬉しそうだったことと、重臣たちの目があったのでやめておいた。出雲守護代が厭味な人間だと知られる事態は良いことではない。
「そういや、旦那さん」
「ん」
「まあ、元気そうだったよ。色々挨拶周りが大変そうだったけど」
「拝見したのかえ」
「そりゃ、俺は伊達の客人ってことになってる国主だから、一応」
「押しかけのごとき」
「きつを心配して来たってのに、何て言い草だ。ああ、不愉快だ」
口ではそう言いながら、晴久は怒りはしない。吉もそれを分かっている。二人ならではの言葉の応酬だった。
昼食を食べ、縁側で猫を構いながら取りとめもない話をする。天気の話、出雲の話、奥州の天気の話。
やがて晴久が好み、吉もまた知識の深い文学の話になる。茶を置きに来たおこうにはまるで分からない話で、やはり奥様は素晴らしいのだわ、出雲の守護代様と同じお話ができるのだもの、と妙に誇りに思ってしまう。
「ええと、じゃあ、あれ。──草食青々として、柳色黄なり」
「ん──桃花歴乱として、花かんばし。……ん?」
「違う、李花かんばし」
「ああ、もう」
旧い漢詩を詠み合う遊びだ。庶民からすれば理解のできない遊びかもしれないが、それなりに知識のある者たちの間では好まれるものだった。今は吉が間違えたので負けということになる。
「悔し。旦那様とおやり」
「へえ、旦那さん、こういうの好きなの」
「お好きではなけれど、稀にわらわに付き合うて下さる。よほどお詳しいわえ」
「きつより詳しいって相当じゃない?」
揶揄ではなく、晴久はつい素直に言った。吉より詳しい者は滅多にいない。そもそも吉は古典に詳しく、初めて政治の話をした時、古典の一節を晴久に投げかけ、知性と教養を試したほどだった。
「続き」
「はいはい。──東風ために、愁い吹き去らず」
「春日ひとえに──」
不意に吉はそこで言葉を切った。庭をじっと見て黙り込み、甘える猫を撫でていた。
晴久は溜息をつく。
「ごめん。詩が悪かった。他のにしよう」
「なんも」
「きつがなんもって言う時、なんもじゃねえだろ」
「なんも、なんも」

 草食青々として柳色黄なり
 桃花歴乱として李花香し
 東風ために愁い吹き去らず
 春日ひとえに──

  芽吹く草は青く 柳の新芽は黄金のようで
  咲き乱れるは桃の花 芳しき香は李の花
  それでも春の風は私の愁いを吹き払いはしない
  むしろ春の日は──

「信玄坊主から手紙を賜っておるゆえ、読んで参るわえ」
「はいはい」
「こま、晴久をせもじにしておくれたも」
「……猫に俺の世話させんなって」
こまを晴久の膝にぽんと置き、吉は衣擦れの音も鮮やかに夫婦の部屋へ向かう。残された晴久はまた溜息をつき、主人に置いていかれて不満そうな仔猫を膝の上で転がした。
「源爺さん」
どうせ庭のどこかに、そして二人の近くにいたはずの老爺を呼ぶ。ただの庭師ではないことを、晴久はよく知っていたし、この老爺を敵に回してはならないことも知っていた。
案の定、すぐに源爺は姿を見せる。
「お呼びですかな」
「単刀直入に。ゆうべ、どうだった」
「静かなものでさァ」
「ふうん?」
「寝室を別になされたので」
「……あ、そう。据え膳食わねえ人か」
食われたらたまんねえけど、と晴久は呟く。今の状態で、小十郎が欲だけで吉を抱くことは許し難かった。
源爺は暫し黙っていたが、やがて意を決したのか、それとも晴久が思考を整理する時間を与えたのか、間を置いてからゆっくりと言った。
「朝方」
「ん?」
「奥様が、猫のために外に小屋を作れとおっしゃいましてな」
「猫? ……こいつ?」
相変わらず膝の上で転がしている仔猫を示す。こまは転がされる指に興奮し、軽く齧ったり、前足で叩いたりと可愛い姿を存分にひけらかしていた。
「はい。小十郎様が家の中に猫がいることを好まれませぬでな」
「──旦那さんが猫を外に出せって言ったのか」
「いえ、いえ。奥様がご自身で」
「ったく、ほんっとめんどくせえ女。出雲に連れて帰ったらどれだけ梃子摺るか分かったもんじゃねえ」
吐き捨てるように言った晴久に源爺は僅かに驚いた顔を見せたが、それは吉を侮蔑するものではなく、むしろ酷く心配しているからこそのものだと分かり、目を伏せて晴久の言を受け入れた。
「今の旦那様が、と付け加えますがな」
「ああ、そう。なら仕方ねえか。今までの嫁馬鹿じゃねえからな」
「その後は、お二人睦まじく──まァ、小十郎様は戸惑ってらっしゃいましたが、奥様は嬉しそうで」
「……ふうん?」
「伊達でございますからな、小十郎様は。奥様が喜ばれることを、ご自分の混乱より優先なされたんでさァ」
「ふん」
晴久は眉を跳ね上げる。
「昔から、きつは男を見る目がなかったんだ。源爺さんの主人もどうだか、な」
「出雲守護代様もどうだか、でさァ」
「はは」
思わず晴久は笑った。面と向かってこんなことを言われることは滅多になく、いっそ楽しくなる。しかも源爺の身分を考えれば許されない無礼だが、だからこそ、晴久は源爺を信用していた。
「俺は伊達を目指しちゃいねえさ。奥州人から見ればどうだか、だな」
「さようで」
「また何かあったら教えてくれ」
小袖から出した小粒の銀を渡そうとするが、源爺は無言で首を横に振る。予想済みだった晴久は尚も言った。
「もらってくれた方が、俺も遠慮なく源爺さんを──元奥州武士を情報屋に使える」
やはり無言のまま、だが、そういうことなら、という態度で、源爺はそれを受け取った。
同時に衣擦れの音が近付いて来る。源爺は晴久に会釈をし、老爺にしては身軽な足取りでその場を離れた。
「晴久」
「ん」
吉は手にしていた手紙を渡し、こまを引き取る。
「信玄坊主が寄越したのだけれど」
「ああ、そう」
「出雲より参る折、甲斐へ寄ったのかえ?」
「そんなこと書いてあるの?」
晴久は手紙を開き、ざっと目を通す。大体予想通りのことが書いてあった。小十郎の具合はどうなのか、吉自身の健康はどうなのか、困ったことがあれば何でも言うように──まったく父親気取りだよ、と内心で呟き、折り畳んで吉に返す。
「虎には会ってねえけど、真田には会った。出雲の落雁が食いたいって、前に言ってたからくれてやったんだ」
「まァ、あの子は甘いものが好きゆえ」
「その時にちょっと旦那さんの話もしたよ。だから心配して、虎に言ったんじゃねえの」
「あァ、ほうかえ。なれば、ゆきにも礼をしたためねば」
「真田にはいらないと思うけどね。時間的に」
「え?」
「書くなら書いちゃいなよ、とりあえず虎に」
「夜に旦那様がおしずまりになったらしたためるわえ」
「今日こそ据え膳食われたらどうするの」
「え?」
「何でもない。──今度はもっと簡単なのにしてあげる。葡萄の美酒、夜光の杯」
「呑まんと欲すれば──易いが過ぎるであろ!」
子供でも知っているような有名な詩を投げられ、吉はさすがに舐められたと知り、少なからず面白くない。生意気になったものだ、昔はあんなに子供だったのに、と苦々しかった。晴久は僅かに笑い、姉の機嫌を取るかのように、次は女にとって心地ようであろう詩を選ぶことにする。
「そうだなあ、じゃあ──雲には衣装を想い、花には姿を思う」
おやまあ、というような顔をした吉は、すぐにその詩を思い出した。
「珍し。晴久が斯様な詩」
「嫌なら葡萄の方でもいいよ」
「葡萄がいや。──春風檻を払って、露花はこまやかなり」
「優雅な詩だよなあ。きつ、こういうのあんまり好きじゃなかったっけ」
「まァ、それほど──もし、群玉を山頭に見るにあらずんば」
不意に晴久は首を巡らせ、やあ、と声をかけた。吉もそちらに目をやり、驚いて仔猫を置いて立ち上がる。
「おまえさま」
いつの間にそこにいたのか、小十郎が立っていた。今しがた現れたわけではなく、二人の詩の詠み合いを聞き、邪魔をしてはいけないかもしれない、しかしそこを通らなければ部屋にいけないし、と悩んでいる間に晴久に発見されたのだ。
「──ああ、失礼、邪魔をしたか」
「邪魔は晴久。お帰りなさいまし」
「邪魔ってねえ……」
晴久は苦く笑い、寂しそうな仔猫を抱く。
「ずいぶんとお早く」
「政宗様に今日は帰るように言われたからな。仕方ない」
小十郎としては一日働くつもりだったのだが、体調を心配した政宗がうるさかったのだ。主君を安心させるのも役目のひとつだと思い、心遣いに感謝して城を下がったのだった。
「誰もお出迎えをしておらぬの」
「源爺にはそこで会ったが、この時間じゃ俺が帰って来るとは誰も思わないだろう。仕方ないさ」
「でも──」
「旦那さん」
猫を撫でながら、晴久が小十郎に声をかける。
「もし、群玉を山頭に見るにあらずんば──この先、知ってる?」
小十郎は晴久を見る。晴久も小十郎を見ていた。
気に入らない。不意に小十郎はそう思った。昨日から舐めた真似ばかりをされている、とようやく心から思った。自分に過失があることは認める。晴久が吉を心配することも認める。
だが、この詩を敢えて選んだことが気に入らなかった。

 雲には衣装を想い 花には姿を思う
 春風檻を払って 露花はこまやかなり
 もし 群玉を山頭に見るにあらずんば

  空を流れる雲は美しく 例え難き美女の衣装のごとく
  咲き誇る花にはかの美女の姿を見る
  心地よき春風が吹き抜け 朝露は輝く
  もしこんなにも美しい女と会おうと願うのならば

「……かならず瑶台の月の下にて逢わん」

  仙人が住むと言われる瑶台へ
  月の夜に行く以外に 逢えるすべは無い

「──ああ、いや、さすがだね。詳しいとは聞いたけど」
これも分かるなんてね、と晴久はにこりと笑って軽く拍手をした。小十郎はその笑顔が心底嫌いだと思った。
「まあ、この庭みたいなものじゃないかな。空が映える庭だ。春には花も綺麗だろう」
「代々、手を入れている庭なので。褒められて悪い気はしない」
「ああ、そう。いや、お見事、お見事」
晴久は立ち上がり、小十郎に猫を渡した。吉は晴久を咎めようとしたが、小十郎は黙って仔猫を抱く。
「旦那さんが帰って来たんなら、俺は帰るよ。昼、ご馳走様」
「晴久──」
「ああ、それはどうも、お構いもせず」
引き止めようとしたのか、晴久の名を呼ぼうとした吉の声を遮り、小十郎は言った。
「妻の無聊をお慰め頂けることは有難い。御礼申上げる」
「そりゃどうも。覚えてなくても嫁は嫁、片倉家の当主としては正しい言い草だな」
「晴久!」
鼻で笑う晴久に、吉がさすがに語調を強めた。こんな声を出すのか、と小十郎が意外に思うほど、昨日晴久に言った時よりもきつい声だった。
「晴久、昨日から──」
「はいはい、ごめんね」
「片倉の当主に斯様なことを申すなれば、もう参らずともよろしわえ!」
「きつ、俺の役職知ってる?」
さすがに呆れ声の晴久に、全くだ、と小十郎はつい同意したくなる。いくら晴久が無礼とはいえ、吉の言い分は無茶苦茶だ。相手は出雲守護代、政宗と同等の国主なのだ。吉の過去が魔王とはいえ、今の片倉家では通る話ではない。
「きつ殿、構わない。晴久殿の言われることは正しいだろう」
「でも」
「いいんだ」
「でも!」
「──俺がいいと言ってるんだ。いくらあなたが織田でも、あなたが決めることじゃない!」
途端に吉は顔を紅潮させ、唇をぐっと噛む。小十郎はその顔を見、なぜ自分は今、こんなことを言ったのかと自分で理解できずに焦る。自分が言っていることは正しい、それは分かっている。だが──もっと他に言い方があったのではないだろうか。
謝らなければ。そう思った瞬間だった。
ばしん、と強い音が響く。
小十郎は絶句した。
「……いってぇ」
晴久が頬を押さえ、眉をひそめて呟く。
胸元から素早く取り出した扇子で、吉が晴久の頬を張ったのだ。
吉は頬を紅潮させたまま身を翻し、更に小十郎を驚かせることに、廊下を走ってその場を去った。
「ったく、家の中は走るなっつうの」
それは確かだが、と思いつつ、小十郎は今の無礼をとにかく詫びねばならないと焦る。いくら元魔王とはいえ、今は片倉家の人間であるらしい女が出雲守護代に暴力を振るったのだ。これは大変な問題だった。仔猫を腕から下ろし、晴久に向き直る。土下座も覚悟だった。気に入らない青年だが、奥州のためなら土下座なぞ安いものだ。
「晴久殿、申し訳ない。大変な失礼を──」
「いいよ、慣れてる」
「慣れ……?」
「安土──尾張か。もうずっと昔からこうだ。要は八つ当たりされただけ。どうせ後で謝ってくるから、旦那さんは忘れていいよ」
とんでもない話を聞いているような気がする。どういう関係なんだ、とまた思わざるを得なかった。
「しかし」
「いいって、いいって。それより旦那さん」
晴久が頬から手を離し、指で唇を拭う。切れていないことを確認し、小十郎を見た。
「四、な」
「──何だって?」
「そのままだ。あれしきのことで嫉妬しやがって」
「嫉妬なんざ──何を言っている」
言いながらも、小十郎は奇妙な焦燥感を感じる。嫉妬だったのだろうか。
──ああ、確かに。
確かにそうだったかもしれない、と認めた。家に戻り、吉と晴久を見た。漢詩を詠み合う二人の姿は睦まじく、まるで絵画のようにも見えた。絵画のように──仲睦まじい男女を描いたように。
ああ、そうだ。認めた。妻の無聊を。あれはわざと言った。男としての、今思えば情けないかもしれない虚勢だった。
吉が自然に、ごく自然に楽しそうだったからだ。
気を使う風情でもなく、ごく自然に。
──……だが、俺が嫉妬する筋合いなんざ、どこにもねえ。
妻を覚えてない。他のことは何もかも覚えているのに、彼女のことだけを覚えていない。彼女はそれでも、自分の前では哀しそうな顔をせず、気を使い、世話をし、無礼を言う晴久にひどく怒る。
それなのに酷いことを言った。確かに正しい、だが、吉が傷付くようなことを言ったこともまた確かだ。織田の機嫌を損ねてはまずい、奥州のためにならない、そのためには俺が折れる──昨日はそう考えていたのに、情けなくも感情が止められなかった。まさか自分がそんな失態を犯すとは思わなかった。
四、と言われても仕方のないことだ。そう思った。
「ほんっとに」
晴久が溜息をついた。本当に俺の姉さんは仕方ないんだ、と嘆く溜息だった。
「きつは昔から、男を見る目がねえや。思い知ったよ」
反論ひとつできず、小十郎は黙るしかない。
晴久は肩を竦め、そのまま片倉家を後にしたのだった。


夫婦の部屋の前におこうがいる。小十郎に気付き、驚いた顔をした。お帰りなさいませ、気付きませんで、と言う声を最後まで聞かず、「彼女は」と問う。
「あの、中に」
「そうか。──きつ殿、入ってよろしいか」
閉じられた襖の向こうに声をかける。返事はない。慣れているおこうが小さな声で言った。
「大丈夫でございますよ。ただ、そのう──横になっておられるかもしれませんが」
「横に? 布団にか? 具合が悪いのか」
「あの、そのう──お入りになられて大丈夫ですから」
説明し難い、とおこうの顔が語っている。小十郎は首を傾げつつ、しかし話をしなければならないと思い、再び声をかけた。
「入るぞ。失礼する」
できるだけ静かに襖を開ける。
そして我が目を疑い、つい、おこうを振り返った。察したおこうは頷き、小声で「いつものように」と助言をくれる。
いつものようにと言われても、小十郎は覚えていない。必死で考える。
考えても答えは出なかった。
──なるように、なるしかない。俺は俺だ。いくら相手が織田でも、俺にはできないこともある。
襖を閉め、吉に近付く。
横になっているかもしれないという、おこうの予想は正しかった。
──それにしても、なあ……
天女のごとき女が、そして良妻の顔しか自分に見せなかった女が、まさかこんな、と思う。
「……具合が悪い、というわけでもないんだろう」
まるきり子供が不貞腐れたように横たわって身体を丸め、すっぽりと被った打掛の中にその小柄な姿を隠してしまっている。
「……単刀直入に言うが、その寝方はよくない。起きるか、布団を敷いた方がいい」
吉はもぞもぞと動き、やがて緩慢な仕草で身体を起こす。小十郎には顔を見せない方向へ向かって座り、打掛を直し、ついでのように髪を手で撫でた。
「俺の言い方が間違っていた。あれは晴久殿も気分が悪いだろうし、俺に厭味のひとつも言いたくなるのも分かる。──俺が悪かった。あなたを怒らせてすまなかった」
「なんも」
吉は小さく、返事をする。ああ、と小十郎は溜息を押し殺す。また、なんも、だ。背を向けた吉に近すぎない、それでも手を伸ばせば届く場所に座る。
「俺に言いたいことがあるんじゃないのか」
「なんも」
「あるだろう」
「ないわえ」
そうか、と言うしかない。小十郎に背を向けたまま、そ、と返事が返ってくる。
沈黙が降りる。居心地の悪い沈黙だ。
意を決し、小十郎は言った。本来なら、それならいい、と言って部屋を出ればいいだけの話だった。だがそれができなかった。彼女を更に傷つけるような気がしたし、傷つけてはならないと思ったからだ。
「こっちを向いてくれないか。顔を見て話をしたい」
「……なんも」
話すことなんてない、と言う返事だ。小十郎は尚も言った。
「同じ家に住んでいるんだ。俺は覚えていなくても、あなたは俺を覚えているんだろう。だったら──話をしなければいけないことが、たくさんあると思う」
このままでは擦れ違いが酷くなる一方だ。小十郎は分かっていたし、吉も本当は分かっているはずだ。
「それとも、出雲に行きたいのか。それなら構わねえ、行ってくれ。俺にはあなたを幸せにすることができないって言うなら、その方が──」
「うそ」
吉が焦った仕草で振り返り、強い力で小十郎の袖を掴んだ。小十郎は言葉を失う。
「うそ、いや、いや──行きとうない。斯様なことをおっしゃらないで。奥州に置いて下さりまし」
言葉を失わないはずがなかった。
あの気丈な、気位の高い吉が、今まで見たことがないほど必死に言い募り、そして目に涙を浮かべているのだから。
「いや、置いて下さりまし。行きとうない」
「──落ち着いて」
「お願い、おまえさま、お願い。出雲へ行けなどとおっしゃらないで。離縁なぞいや」
「違う、そうじゃない。落ち着いて」
迷ったが、吉が混乱しきっていることを見て取り、覚悟を決めて──その身体を抱き寄せた。
小柄で、細い。そのことに驚く。こんなにも頼りない身体だっただろうか。姿勢よく立つ姿、座る姿、いつももっと強く見えていたのに、それはただの勘違いだったのか。
抱き寄せられた吉は小十郎の胸元に縋り付く。
──ただの。
小十郎は驚く。
驚きながらも、思った。
──ただの、女じゃないか。
「すまなかった。そうじゃないんだ」
「いや」
「ああ。──ああ。分かった。撤回するよ。行かないでいい。奥州にいたいなら」
それに、と付け加えた。
「離縁なんて、俺は一言も言ってない。あなたが望むなら仕方ないが、俺から言う必要なんてどこにもないんだ」
織田の女と言うなら。その女が妻でありたいと言うなら──頭の中ではそうだと理解している。
だが違う。確かに違う、と小十郎は確信した。
俺は。
──俺は確かに、この女と結婚している。自分の意思で。
「きつ殿」
暫しの間の後、胸元から、はい、と小さな声がした。ほら、と小十郎はまた思う。
──ほら、ただの女の返事だ。
「覚えていないことは謝る。だから教えてくれないか」

俺とあなたがいつ出会ったか。
どうやって夫婦になったのか。

「それを、知りたい」

胸元を掴む手の力が強くなる。身体が震えていた。その背を撫でながら、小十郎はその時を待つ。
やがて吉が言った。
「はい」
ありがとう、と小十郎は呟き、女の背と髪を撫でる。
吉がゆっくりと顔を上げ、小十郎を見上げる。
ああ、予想していた通りだ──小十郎は吉の顔を見て、また謝りたくなった。
夫が謝罪の言葉を口にする前に、吉は言った。
泣きながら、言った。

「出逢わねばよかったと、いっそ悔やめればと──いくたび思うたことか」

泣かせたかったわけじゃないんだ。それを言いたかった。
だが言えなかった。
泣きながら告げられたその言葉に、言えなくなった。
泣かせたという事実、覚えていないという事実。
それよりも、その全てを押し流すような。

幸福感は、何なのだろう。