君恋ふる涙しなくは 04



違和感が拭えない。知識としては理解する。だがどうしても、本来は自分だけの部屋だった空間が、「夫婦の」部屋として整えられていることに違和感を感じざるを得なかった。殺風景なはずの自分の部屋に女の小物が置いてある。まず読まない類の本が置いてある。見たことのない文机、硯、紙、そして手紙の数々。
何より首を傾げたのは猫の遊び道具があることだった。家の中に動物を入れるには抵抗がある小十郎としては、こんなものがなぜあるのかが不思議だったのだ。
その疑問はすぐに解けた。
「にゃあ」
自分を可愛いと分かって生きているに違いない生物が現れ、小十郎を見上げて鳴いてみせたのだ。
「……猫?」
「にゃ」
首にはご丁寧に首輪がついている。飼い猫の証明だ。しかも小十郎を恐れる気配がない。どうしたものか──着替えに来たはずなのに、小十郎は時が止まる。
──彼女の猫だろう、な。……家の中で飼ってるって? 俺が許可したってことか? 冗談じゃねえ。
「にゃあ」
「……いや、鳴かれても困るんだが」
「おまえさま、お食事──アレ、ま。こま、旦那様のお邪魔をしてはならぬといつも申しておるであろ」
「にゃ」
主人に見付かった仔猫は不満そうな声を上げた。久し振りにダンナサマが帰って来たんだからいいじゃない、と言いたげだ。吉は慣れた手つきで猫を抱き上げた。
「あなたの猫か」
「わらわの、と申すよりは、家の──」
そこで何かを察したのか、吉は言い直した。
「……ん。わらわの、ねこま」
「家の中で飼っているのか?」
「ん」
そして吉は首を傾げた。
「何ぞ、お気がかりでもあらしゃるの」
「ああ、いや、何でも。猫のことも覚えていないんだ」
「ほうかえ」
「動物が家の中にいることが初めてで、驚いた」
「おまえさまが、飼ってよいとおっしゃって」
「……ああ、そうだったのか」
「お嫌なら、外に──」
「──いや、そうじゃない、驚いただけなんだ。気にしないでくれ、失礼した」
晴久殿がいれば、三、とでも言いそうだな──小十郎は溜息を押し隠した。何となく、今はこの女の前で溜息をついてはいけないような気がした。
「それで、お食事が」
「ああ、失礼。すぐに行く。猫に驚いて着替えるのを忘れていた」
「お手伝いいたしましょ」
「──いや、結構、結構。大丈夫だ」
いくら妻と分かっているとはいえ、今の感覚で着替えを手伝われることは心が騒ぐ。何より、こんな貴人然とした女が自分の身の回りのことをするなど信じられなかった。しかも正体が魔王とくれば当然の感情だ。
「晴久殿もお待ちだろう。急ぐので、その、先に行っていてくれないか」
出て行ってくれ、とは言い難かった。ここは彼女の部屋でもあるのだ。吉は頷き、猫を連れて部屋を出て行った。歩く後姿を見送り、小十郎は今度こそ溜息をつく。余りにも優雅な後姿だったからだ。自分の妻になる階級の女が持つような優雅さではなかった。
着替えを終え、晴久が待っている食事の間へ急ぐ。廊下側に背を向けた吉と、上座に座る晴久が何か話していた。晴久は難しい顔だ。思わず襖の陰で足を止める。盗み聞きの趣味はないが、出雲守護代があのような表情をする時はろくなことがない、となぜか分かっていた。
「……だから、俺には俺の言い分もあるんだってば」
「あるも無しも、旦那様に無礼を申すのはおよしたも。ひのふのみィだの、まァ、何て無礼な」
「三はまだ言ってねえ。明日以降だ。十になったら本当に出雲に連れて帰るよ」
「わらわが良いと申しておるのに、なにゆえに晴久が」
確かにそうだ、と小十郎は苦々しい。
大した話ではない、と言い切ることもできないが、顔を出してはならない時でもなさそうだ。遅くなって申し訳ない、と姿を現そうとした時、晴久が事も無げに言った。
「言い訳が立つだろ」
「どのような」
「奥州と交易を切る理由だよ。こうなったらさっさと切る。多少不都合は出ても何とかなるしな」
「愚を申すでないわ。何てこと」
小十郎は心の中で十、数を数えた。冷静になるためだ。その間も晴久と吉は話を続けている。さすがに声を潜め始めたので、小十郎の耳にはもう届かない。お陰で動揺した心を静めることができた。
──奥州と交易を切る、か。……奥州としてはありがたい話じゃねえ。
確かに利益は少ない。それは奥州も同様だ。だが、西との道を確保しておくには必要な交易だった。出雲側としても、晴久が今まで交易を続けていたのは奥州の内情を知るためだと小十郎は分かっていた。どこの国もそんなものだ。だが、「こうなったら切る」とは一体どういうことなのか。出雲守護代といえば辣腕で知られる男だ。小十郎としては、自分が妻を思い出せないということで国の方針に影響を与えるような判断をするとは考え難かった。
──やはり彼女は重要人物ということなのか。俺が彼女と結婚したのは、やはり政治的な意味合いがあったとしか思えねえ。
ここで考えても答えは出ない。小十郎はようやく襖の陰から姿を現し、遅くなったことを晴久に詫びた。晴久は涼しい顔でそれに応じ、吉は軽く晴久を睨み付けてから、夫に向かって微笑んでみせたのだった。
「ところで具合はどうなの、旦那さん」
「ああ、いや、本当に何の問題もなく──ご心配いたみいる」
今まで話していたことなど忘れたように晴久は普通に話し、小十郎はそれに対応する。吉は無言で二人の食事の面倒を見、会話を聞くばかりだった。これは小十郎にとって意外な姿だ。本来の身分や、政宗や晴久への言葉で見え隠れする気の強さを考えれば、世話をするよりもされる方を当然とする女だと思っていた。
晴久は特に政治的な話をすることもなく、探りを入れるようなことすら言わず、とにかく世間話に徹底した。小十郎はそれを受ける形になるが、たまに妻に絡んだ話になると返答に窮する。そのたびに晴久はわざとらしく「ああ、ごめん
、覚えてないんだっけ」と言い、吉が晴久を小声で叱り、なぜか小十郎はその話題と二人の姿に苛立っていた。
食事を終え、晴久は片倉家を後にする。一人で伊達の城まで帰ろうとした晴久に驚き、小十郎は家人に供を命じようとしたが、吉が静かに「晴久はよいから」と言ったので、また戸惑うはめになった。
晴久は二人の姿を暫し見ていたが、やがて口を開いた。
「ああ、じゃあ、そこの角まで送ってくれよ。それなら旦那さんも気が済むだろう」
「晴久」
「じゃあね、きつ、お休み。また来るよ」
晴久は言外に、小十郎に「ちょっと来い」と言ったのだ。吉は晴久を睨み付け、小十郎は吉の目付きに驚きつつも、さっさと歩き出した晴久を追うはめになった。
月明りの下、男二人は無言で歩く。家から充分に離れてから足を止め、晴久はようやく言った。
「俺、いつも旦那さんに文句ばっかり言ってんだけどさ。言いたくて言ってんじゃねえよ」
「──そうなのか」
出雲守護代に個人的に文句を言われた記憶がない。今日の件だけだ。だがこれも妻に関することなのだろう、だから俺は覚えていないのだ、とすぐに分かった。
「今はまだ、身体も大変だろうし、役目に復帰したら当分忙殺されることになって、そんな中できつが家にいたら余裕がなくなるかもしれねえよな」
「……いや、そこまででは」
そこまでではない、と言おうとしてやめた。晴久の予想が正しいような気がしたからだ。あの美しい女が妻で、しかもそれは歴史の彼方に消えたはずの織田信長、戦乱の親で──
「だからさ」
晴久が小十郎を見据える。
「早く、思い出してくれねえか」
瞬時、小十郎は身構える。晴久の身体が明らかに、誰かと対峙する空気を纏ったからだ。間を置かずにその身体が低い姿勢を取る。殴り掛かられる──小十郎は確実な未来を予想し、動こうとする。
その瞬間だった。
晴久が舌打ちをし、握った拳と地を踏みしめた足から力を抜き、いつも通り、姿勢よく立った。
「殴れば思い出すかと思ったのによ」
「──何だって?」
乱暴すぎる、と唖然とした小十郎にそれ以上構わず、晴久はやや大きな声を出した。
「夜駆けにしちゃ道がおかしいぞ、伊達」
「──政宗様!?」
気恥ずかしさを隠すために難しい顔を作った騎乗の政宗が、そこにいたのだ。「だってさあ」と口の中で何かを言いながら馬を降りる。
「尼子が小十郎の家に行ったまま、帰って来ねえし。ほら、あれ、友好国としては気になるわけだ、うん」
「お前が気にしてんのは旦那さんだろ」
鼻で笑う晴久の横で、小十郎は頭を下げる。
「申し訳ありません、お送りする途中でして」
「あ、そう? それならいいんだけどさ。うん──」
政宗は晴久をちらりと見る。どんな感じ、とでも問いたい目だ。晴久は敢えて無視し、政宗はそれに溜息をつく。もうちょっと愛想よくしやがれよ、と言いたくなった。
「何なら明日も休んでくれよ。お前、明日から復帰するって、まだ無理だろう」
騎馬隊を通じて政宗に連絡しておいたことだ。周囲が思っている以上に回復している小十郎としては、これ以上休んでいたくはなかった。
「いえ、小十郎なら大丈夫です。政務も溜まっておりますし──」
「──ああ、いや、その。えーと」
晴久の前では言いたくなかったが、小十郎を休ませるためには言わざるを得なかった。
「その、手伝ってもらってたから。今んとこ、大丈夫なんだ。確かに溜まってるけど、もうちょっとなら休んでも問題ねえよ」
その途端、晴久が凄まじい目で政宗を睨んだ。政宗としては「だって姐さんが自主的に!」と言い返したくなったが、そんなことはできないし、どちらにせよ晴久が怒らないはずがない。
「伊達」
「言うな。反省してるし、恥じてる。死んだ方がましだ」
「──ならいい」
政宗は小さく「Sorry」と晴久に言った。本当はもっと言いたいことがあるだろう、と分かる。それを敢えて言わないのは、政宗が反省の意を見せたからだ。
小十郎は話が見えない。自分の代わりに政務を見るような人間が傍にいただろうか。それとも火急の事態ということで、普段は口を出させないようにしてある重臣に命じたのかもしれない。それならばすぐにでも礼を言いに向かわねばならないと思いつつ、晴久の怒りに首を傾げつつ、小十郎は政宗に問うた。
「政宗様、どちらに手伝いを。礼に向かわねばなりませぬゆえ」
「ああ、うん──だよな。言わねえと駄目かもしれねえけど、言ってもあれかなって感じも……」
「政宗様?」
「……いや、その」
「きつだよ」
晴久が憤懣やるかたないという口調で吐き捨てた。怒りを抑え切れないのだ。
「え?」
「きつだよ。あんたが覚えてねえ、あんたの嫁だよ」
「な……!」
流石に絶句した小十郎に、政宗は本気で「ごめん」と言った。
「姐さんを煩わせたくなかったんだが、どうしても──頼らないと、乗り切れなかった」
「……いえ、その」
小十郎は混乱する。確かに彼女なら、と思った。
──確かに彼女なら。……織田信長なら。奥州の懸念事なんざ、飯の献立を考える程度の容易さだろう。
「そうでしたか」
「ああ。……姐さんが、もう政をやりたくねえのは知ってたんだけど」
だから尼子も怒ってんだろ、と政宗は呟いた。晴久は「まあな」と呟き返す。
「悪いことをした。俺から姐さんに謝っておくから、お前は──」
「いえ、政宗様が謝罪なさることは何も。それより、小十郎から礼を申しておきましょう」
混乱の中、小十郎はそれだけを言った。そしてどこかで何かが疼く。
軍師としての、政宗の補佐役としての自尊心が疼いたのだと、すぐに気付いた。
──……俺が、あの存在に勝てるものか。
「一人で歩くなよ。何してんだよ」
不意に晴久が小十郎の背後に声をかける。政宗も「あれ」と言った。振り向いた小十郎は、今日は何度驚けばいいのだろう、と自問した。晴久は尚も言う。
「いい加減にしろよ、こういうの。自分が女だって忘れてんの?」
吉が一人で現れたのだ。女が一人で歩く時間ではない。晴久の小言めいた声は最もだった。
──……普通の女なら、な。
小十郎は魔王の武も知っている。小柄な身体、女の身でありながら、ひとたび陣から躍り出れば誰よりも多くの屍を産み出す、まさに真の魔だった。夜道の独り歩きくらい、どうということはないはずだ。
「だって」
吉が不満げに晴久に反論する。
「旦那様がいつまでも、お戻りになられないゆえ」
「だから何で一人で来るんだよ。源爺さん連れて来いよ」
「辻斬りにでも遭うていたらと」
「だから、何で一人で来るんだって訊いてんの。俺の言ってる意味分かる?」
「もう、もう、晴久は──」
「姐さん、それ、辻斬りの方が不運だから」
政宗が苦笑する。
「でもさ、姐さん、尼子の言うことももっともだし。女の独り歩きはよくねえよ。なあ、小十郎?」
姉弟喧嘩が始まりそうだと危惧した政宗が、場を和ませるために何の気なく、それこそ以前のように小十郎に話を振る。ああ、と小十郎は素直に思い、言った。
「きつ殿なら、大丈夫なのではありませんか」
その瞬間──月明りの下、小十郎が「失言した」と瞬時に分かるほどの沈黙が場を支配する。さすがに焦り、失礼した、と言う前に、吉が「ふふ」と笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。おまえさま、ようお分かりで。おさすがだえ」
「ああ、いや、その──失礼した。本当に無神経なことを」
「なんも」
吉の微笑は優しい。夜目にも美しいと分かるし、見る者を陶然とさせるものだ。だが小十郎は自分の失言がまた彼女を傷つけたのだとよく分かった。
「おい、伊達」
「あー、俺からも言っておくからさ、ちょっと今回は……」
「そうじゃねえ。今何時だ」
「は? ……九つ過ぎ、だな」
「ああ、そう。それなら──旦那さん」
晴久はぽんと小十郎の肩を叩く。振り返った小十郎に、目が笑わない笑顔で宣言した。
「日付け変わったから。三、な?」
「……肝に銘じる」
嫌な笑顔だ、と心底小十郎は思う。
「晴久!」
「俺と旦那さんの話。きつは関係ねえ」
「何が! 良い加減にしや!」
「あーちょっと、ここで姉弟喧嘩すんな! 尼子、帰るぞ! 小十郎、あんま気にすんな、っていうか、姐さんも! 気にしないで、何か腹立ったら俺のこと殴っていいから! ね!」
政宗の強引な采配が珍しく成功する中、小十郎はまたぞろ溜息をつきたくなる。
そうだ、この女に無礼はできない。出雲に行かせるわけにもいかない──そう思った。自分の妻というこの女が、奥州にとって重要な位置にあると分かっただけでも収穫だ。
──できるだけ、うまくやっていこう。何かあったって俺が折れればいいだけの話だ。
できるだけ、と心に刻む。相手が相手だ。迂闊な真似はできない。
そして僅かに、妻という女を、僅かな時間で何度も傷つけてしまったことへの自己嫌悪を抱く。
その反面で抱いた軍師としての嫉妬心。
暫く混乱することを覚悟したが、この女には気取らせまい、と決めた。
政宗と晴久を見送り、小十郎は帰ろうと踵を返す。だが思い出し、やや慌てて声をかけた。
「帰ろう。治安が悪いわけじゃねえが、良いわけでもねえ」
月明りの下、女が微笑んだ。知っている、と言うように。それでも言ったのは「ん」という、短い返事だった。
その返事に安堵し、小十郎は歩き出す。
しばらく歩き、吉の足音が乱れがちであることに気付いた。ああ、と足を止め、振り返る。
「すまない、速かったか」
小十郎の歩幅に合わせ、吉は随分と速く歩こうとしていたらしい。小柄な女では長身の小十郎に合わせることだけでも大変だろう。俺はこういうところが無粋なのだ、と素直に反省した。
「無粋なもので。申し訳ねえ」
「──だいじょうぶ」
吉は首を横に振り、また微笑む。嬉しそうだ、と小十郎は思った。なぜそんなに嬉しそうに微笑むのか分からない。夫に気遣われたことが嬉しいのだということに、思い至らなかった。
今度は吉に歩調を合わせて歩く。吉はそれでも少し後ろを歩いた。武家の正室としての歩き方だった。
──妙な気分だ。
小十郎はまた、溜息を堪えた。
無言で歩く。特に話すこともない。いや、訊かなければならないことがあると分かっている。それでも今は言葉が見付からなかった。
「おまえさま」
その呼びかけに反応するまでに暫しの時間を必要とした。はっとして足を止め、吉を振り返る。
「──ああ、俺のことか」
一瞬、吉の表情が消える。だが小十郎が焦燥を覚える前に、またにこりと微笑んでみせた。
「明日、藤にお乗りあそばすのかえ」
「藤──ああ」
今は片倉の厩舎で休んでいる愛馬の話だ。
「そうだな。普段は手がかかるのに、今日はおとなしい。明日もそうだと助かるが」
馬のことになれば小十郎も話すことができる。再び歩き出しながら、吉が何くれとなく藤について投げかける問いに答えた。俺にしか懐かない、元は野生だった、今は気の強いじゃじゃ馬だが、戦場ではどの馬よりも信頼できる──小十郎の話を聞きながら吉は歩く。こんな話が楽しいだろうか、と危惧しながらも小十郎は歩く。そして気付く。
──馬のことだって、詳しいだろうに。伝説の桶狭間でも見事な馬術を──
「……まあ、そんな話だ」
「おまえさま?」
不意に話を打ち切った夫に、吉は背後で首を傾げる。小十郎は苦笑し、そこからは押し黙り、家までの道を無言で歩いた。
吉も何も言わなくなった。
なぜか、小十郎はそれに安堵した。


家に戻り、夫婦の部屋に布団が並べて述べてある光景を見て一瞬絶句したのは確かだ。ああ、夫婦だしな、と自分に言い聞かせる。だがどうしても実感が沸かない。ここに来てようやく、自分の心が本当に現実に付いて行っていないのだと思い知る。
しかし「寝室を別に」と言えば吉は傷付くはずだ。それとも気にも留めないか、魔王なのだから──小十郎が無言のまま混乱していると、吉が何も気にしていない声で言った。
「まァ、驚くわえ。わらわはよそで休みましょ」
「しかし」
「よう、おしずまりあそばし。明日は起こしに参るゆえ、ナ」
「すまない」
「なんも」
吉はまた微笑み、改めて小十郎に丁寧に挨拶をすると部屋を出た。
混乱で手一杯の中、それでも女に申し訳ないと思う。気に留めていない声であっても、妻としてこの家にいる以上、面白い状況ではないことは小十郎でも分かっていた。それでも今はどうしても受け入れることができない。
──ただの女なら、ここまでじゃなかったかもしれねえ。
自分に対する態度は何もかもが「妻」のものだ。日の本を掌中に収め、人々を恐怖に陥れたあの魔王の片鱗がどこにも見えない。
──……ああ、でも。
「……似てるな。やっぱり」
政宗には首を傾げられた、記憶の中の「魔王」と似ている。
じゃあ、と思った。
じゃあ俺は──今日、何度も確実に、あの女を傷付けている。あの女が魔王だと言うのなら。織田信長だと言うのなら。晴久殿も知っているんだろう。だからあんなにも俺に怒った。
何度も我慢した溜息を思い切り吐き、布団に転がった。
政務の件で礼を言っていなかった──ぼんやりと考える。
明日、言おう。明日の朝に言おう。礼を言い、謝罪も必要だ。
彼女はまた、「なんも」と言って微笑むかもしれない。
その言葉は好きじゃない。不意にそう思った。今日の一日の中、彼女に謝らなければならない時、そう言っていたような気がした。


「奥様」
客間で寝支度を整えていた吉の元へ、おこうがやって来た。
「何え」
「おこうが淹れました。お召し上がり下さいな」
おこうは女主人に優しく言い、手にした盆を示す。
甘い葛湯に甘い菓子。夜に食べるものではなかった。だがおこうはしたり顔で吉の前にふたつを並べる。
「こういう時くらい、良いではありませんか」
「──どんな時」
言いながらも、吉は葛湯の入った湯呑みを手にする。おこうは微笑み、静かに傍にいた。
時間をかけて葛湯を飲み、菓子を齧る。
飲み食いをしている間なら、と思った。
おこうはそんなつもりではなかっただろう。女主人の心を慮り、甘味で心を慰めようとしてくれただけだ。
侍女の心を完全に汲むことはできなかったが、それでも吉は確かにおこうに感謝した。
「おこう」
「はい」
「代わりを」
「──太りますわよ!」
「よいの、よいの」


飲み食いをしている間なら、涙も出ない。