それから数日、吉は詰所に現れなかった。衣類や食事は使用人に届けさせるが、まずは落ち着いて体力を回復させた方がいい、という吉の判断からだった。
小十郎は吉の存在を知識では理解したものの、どうしても感覚がついていかない。俺に嫁などいない、しかも俺の趣味じゃない──事あるごとに必死で吉との関係を説明する政宗の手前、とてもそんなことは言えなかったが、戸惑い、どこかで何かの感情が拒否していることは確かだった。
政宗は即座に吉への求婚を取り消した。万が一小十郎の耳に入ってもいいように、小十郎の忠義に応えるために、と事実を流布する。聞いた領民たちは政宗の決意と小十郎の忠義に感動し、はからずも人心を集める結果となったことはまさに怪我の功名だったかもしれない。しかし小十郎はこれも実感を伴っての理解ができず、見舞いに来る誰かに水を向けられても、曖昧に微笑んでみせるしかなかった。
一方、吉は家の中を整え、長い眠りで身体が鈍っているはずの夫が家に戻った時の食事を考えたりと、それはそれですることがある。城に滞在している晴久が昼過ぎにふらりと訪れると、他愛ない話をしたり、城下の買い物へ付き合わせたりと、これと言って落ち込んだ様子はなかった。小十郎の状態を知っている領民たちの方が心配する始末だ。誰かは吉が健気に小十郎が記憶を取り戻す時を待っているのだ、と言い、誰かは吉が出雲守護代と一緒に奥州を出るのではないか、と言う。
耳に入らないはずはないが、吉は飄々としたものだった。晴久も特にいつもと態度を変えず、出雲に行こう、などとは言うことはなかった。
「晴久、片倉の家に泊まればよいのに」
「いや、今回はまずいよ」
「ほうかえ?」
「うん、──うん」
奥州に来るたびに片倉家に滞在している晴久だが、今回はそれはよくない、と分かっていた。吉が勧めても受け入れるわけにはいかない。それこそ噂が独り歩きしかねない。吉がまだ魔王だった頃、疚しいことが一切なかったと言うのに、未だにあの姉と弟は恋仲だったのではないかと思っている者もいるほどだ。人の心は真実を求めてなどいない。真実にしたい妄想を真実と信じ込むものだと、晴久はよく知っていた。
「何見てんの」
縁側で何かの書付を手に考え込んでいる吉に声をかける。吉は眉を顰めながら答えた。中々思いつかない、という顔だ。
「旦那様が、お戻りになられた時に、何を召し上がればお身体によろしかろうと」
「詰所の方でだいぶ回復してくると思うけど。豆腐とかいいんじゃねえの。煮豆とか、山芋?」
「あァ、尾張に」
「ん?」
「自然薯。尾張であったものだけれど」
「この辺も山の中にあるんじゃねえの。誰かに頼めば?」
あれもこれも、と二人で話しているうちに時間は過ぎる。陽が落ちる前に晴久は片倉家を出る。使用人たちは相変わらず静かに家の中を整え、主人の小十郎に大変な異変が起きているなどと誰も知らないかのようだった。
鍛えていただけはある、と政宗ですら呆れるほどに小十郎の回復は早かった。本調子にはまだ遠く、体力も完全には戻っていないが、医師が運動の許可を出したその日から木刀で素振りをする始末だ。
──やはり、筋肉が落ちているな。情けねえ話だ。
振り抜いた木刀を重く感じるなど子供の時以来だ。確かに回復しつつあることは実感していたが、思う通りに剣を振れないもどかしさに舌打ちをしたくなる。とはいえ、焦っても益はないということも分かっている。当分は我慢を重ねることに慣れるしかないようだった。
それにしても、と小十郎は思う。
──それにしてもあの女、よく分かっている。
自分の妻という女が毎日届けさせる食事に感心することしきりだった。始めのうちは体力の回復に重点を置いた滋養のあるものばかりだったが、「夫」が運動の許可を得たと知ったのか、それからは筋肉の回復を手助けする献立になっていたのだ。小十郎を除き、片倉家にここまで食事に詳しい者はいなかった。
──……相当の教養がある、ってことだよな。そりゃ織田だしな……
味は美味い。奥州の調理法ではない小鉢もあったが、どれも小十郎の好み極まりない。なるほど、「妻」なのか、とこの時ばかりは納得せざるを得なかった。
政宗は小十郎が目を覚ました喜びを隠し切れず、吉に気を使いながらも機嫌がいい。晴久が城にいる手前、詰め所に泊り込むことはなくなったが、政務を後回しにして小十郎の所へ現れ、小言を言われては嬉しそうだった。小十郎はそんな主君に溜息をつきながらも、本気で叱ることができない。自分が意識を失っていた間、言動からは想像もできないほどに繊細な政宗は、傍が思う以上に自分を責め、落ち込んでいたはずだ。それでも人前でそれを曝け出すこともできず、悩みを相談することもできず、しかし忠実な右目に万が一があればその妻の人生を引き受ける選択をした。小十郎は今の政宗を誇りに思う。俺の主は日の本一だ、と大声で叫んで周りたいほどだった。
それでも、吉の話にする政宗は困った顔になる。
「いや、本当にさ。思い出してやれって」
「……政宗様の御命令でも、こればかりは」
「だよなあ。……だよなあ」
政宗は溜息をついた。小十郎は自分の責のないことながら、思い出せないことがまるで重大な無礼のように感じてしまう。
「申し訳ありません。近いうちに、できれば」
「あ、うん、できれば。うん」
うん、そう、できれば、と政宗は口の中で繰り返した。
「妻、と言うのは」
小十郎は言った。妻のことだけを忘れてから、初めて彼女のことを自分から口にした。今までは聞くばかりで、それだけでも頭が混乱し、とてもではないが質問ができなかった。身体が回復し、思考能力も整った今、ある程度は自分から訊きたいこともできてきている。
「本当に、織田の直系の姫なのですか。市殿以外にいましたか」
「……うん、姫っていうか、……まあ、姫、なのかな?」
「え?」
「ううん、説明が難しいんだよなあ」
政宗は晴久に「死んだ方がまし」とまで罵られたことを思い出す。最初から織田上総介信長と言うべきだったのか。しかしそれでは小十郎の更なる混乱が予想されたのだ。あの状況で言うことはできなかった。
「では、庶子、などですか」
説明が難しいとなればそういう方面も考えられなくはない。しかし母親にそこそこの身分があれば高度な教育も受けられる。それならばあの立ち居振る舞いや知識も納得がいく。
政宗はまた「ううん」と唸った。
「いや、そういうわけでもねえんだよなあ」
「……政宗様」
「うん、まあ、近いうち説明する。ちゃんと説明できるようにしてくるから」
多分に感性で構成されている政宗がその言い方をすれば、小十郎は引かざるを得ない。とにかく、あの「妻」が織田の中でも特別な地位にいるのだろう、ということは予想できた。そうなると軍師の習性で色々と思い出しながら人間関係を炙り出したくもなるが、政宗が後日説明すると言った以上は考えないようにしようと思った。
「では、その織田の直系の姫が」
「うん」
「なぜ、小十郎の妻なのですか。政略結婚としても奥州ならば政宗様と婚姻すべきではありませんか」
「だから、政略結婚じゃねんだもん」
「信じられません」
「お前、見てる方が照れる勢いで愛妻家だし」
「……信じられません……!」
全く女に手を出さないとは言わない。それなりに遊ぶこともある。だが、結婚が関われば、自分でも堅物だと分かっていた。恋愛結婚と聞いた時は本気で「からかわれている」と思ったものだ。それに加えて愛妻家などと、自分で自分が想像できない。妻よりも政宗への忠義を取る、と自分を評価している。愛妻家でありながら忠義を貫くなど、器用ではない自分にはとても無理だ。
「まあ、なあ」
政宗は溜息を堪えるような声を出した。これを言う時に溜息をついてはいけない気がした。
「そのうち、片倉の家に戻るんだろ」
「そうですね。できれば数日中にでも。色々と使用人に心配もかけたでしょうし」
「……姐さんにもな」
「……ああ、はい」
政宗が吉を「姐さん」と呼ぶことも、小十郎には理解できなかった。誰かを揶揄するようにそう呼ぶことはあっても、誇り高い政宗がまるで自分が格下であることを善しとするような声で誰かをそう呼ぶことがあるとは考えられなかった。それでも政宗はあの女性を「姐さん」と呼ぶ。
「戻ったら」
「はい」
「姐さんに、冷たくすんなよ。尼子がいるからまだましだろうけど、いてもどうにもならねえ時はある」
「ああ、そうだ。晴久殿が、あの──その、妻、を気遣ってこちらに来たということも意外で」
妻、という言葉を言い澱んだことは政宗にも責められない。だが政宗はそれが嫌だと思う。
「あの二人、そんなに仲が良いのですか」
「まあ、姐さんに何かあったら出雲に連れて帰るって宣言してる程度には」
「……ああ、そちらが本命の関係なのですか」
この時代、全く他人の男女がそこまで気遣い合うということは考えられない。やはり俺とは政略結婚で、恋の相手は出雲守護代か、とまで小十郎は思った。それを見抜いた政宗はやや勢い込んで説明する。ここで誤解をされては洒落にならない。
「あそこは姉弟!」
「え? ──妻が晴久殿と血縁、というか、きょうだいということですか?」
「違う、違うって。めーっちゃ仲良しだけど実の姉弟みたいなもんで、まあ、あの姉弟喧嘩を見れば確かに実の姉弟よりリアリティのある実の姉弟だってのは分かると思う」
「りありてぃのある……」
「あと、賭けてもいいけどエロいことは何もない。俺は尼子が不能じゃねえかと睨んでる」
「それはないはずですが。たまに西海の鬼と遊んでいるという噂はありますし、女もそこそこにつまんだりと」
「……そういう情報は覚えてんのに、何で姐さんのことだけ覚えてねえの……!」
確かにもっともだ、と小十郎も思う。だが覚えていないものはどうしようもない。
とにかく、と政宗は言った。
「もう一回言うけど、姐さんに冷たくすんなよ。ああ見えてあの人、すっげえ寂しがり屋だし、繊細だから。甘え方もあんまり知らねえみたいだし、癇癪起こすのも要は寂しい時だと思うし」
「え」
小十郎は本気で驚いた顔をする。政宗が「本当だ」と新たな説明を始めようとした時、まるで世間話のように小十郎が言った。
「魔王のようですね」
「え?」
思わず政宗は身を乗り出す。
「それこそ、織田のあの魔王。寂しがり屋で、繊細で」
「……織田、信長?」
「ああ、そうですね。女としての名は一部の人間しか知らないようですが」
「うん、そう、うん」
政宗は小十郎に動揺を気取られないよう、いつもの軽快な調子で相槌を打つ。だが今、小十郎が大事なことを言っているような気がする。慎重に様子を観察した。
「えっと、何で魔王さんが」
絶対に、誰も知らないような話だ。政宗でさえ最初は信じられなかったのだから。
「──寂しがり屋で、繊細だって知ってんだ?」
「え」
小十郎は首を傾げる。俺は何か変なことを言っただろうか、と言うかのように。
「……だって、そうでしょう。戦と政以外は、まあ、それでも充分厄介ですが、戦と政以外は本当に普通の女で」
いや、と小十郎はやや訂正する。
「普通の女よりも古風なほどでしょう。身内であれば男を立てて、敵であっても基本は無駄に面子を潰すような真似もしませんし、はっきり言えば可愛い部類で」
正直言えば俺の好みだ、と小十郎は不意に思った。
「……いや、普通じゃないっしょ? 可愛いとかないよ?」
「普通ですよ? 可愛いですし……え?」
「大胆でゴージャスでそこらの男なんて蹴散らして足で頭踏むような、それが魔王っしょ?」
「──いや、政宗様、それはお考え違いで。魔王は──……あれ?」
あれ、と小十郎は動きが止まる。
俺は何か変なことを言っているような気がする。何がどう変とは言えないが、何か変だ。
──なぜ俺はこんなことを知っているんだ? そもそも本当のことか?
政宗も止まる。
待てよ、小十郎が変な方向から(覚えていた時の小十郎的には)正しいこと言ってる。
長い長い沈黙の中、政宗は考えた。奥州を包囲された時、小田原の時、甲斐と刃を交えた時、あの日々と同じ勢いで考えている、と自分でも分かるほどに考えた。
そしてあの日々のように自分を信じることにした。
何かあれば俺が何とかしてやる、絶対だ! ──それこそ吉が聞けば「どこにその自信の根拠がある」と呆れるような勢いで、信じることにした。
「小十郎」
「はい」
「俺はこれから、大事なことを言います。聞きなさい。Listen to what I say」
「……はい」
傾注って意味だな、と小十郎はとりあえず居住まいを正す。
政宗は息を吸い、ゆっくりと、一語一語はっきりと、目の前の、妻のことだけを忘れた男に言った。
「お前の、奥さんは、織田、信長さん、です」
小十郎は動かない。返事もしない。
再び時が止まる。
数秒後、政宗は思わず叫んでいた。
「そんな目で見るな! 可哀想な子を見るような目で俺を見るなー!」
「いえ、そのようなことは! まさかそんな!」
でも俺は今確かにそんな目をしたかもしれない、と小十郎はちらりと思う。
「とにかく! 奥さんはそういう人だから! でかい声で言えねえけど!」
「充分大きゅうございますが」
「はいごめんなさいね!」
嘘だと思うなら尼子呼ぶから、と、信じてもらえなかった悔しさで顔を真っ赤にして政宗は言う。そこまでして俺を担がなくてもいいじゃないか、と小十郎は政宗を宥めながら思う。
だが、ちょうど片倉家を出たところで政宗の命令を受けた騎馬隊の青年に捕まり、渋々詰め所に来た晴久が面倒そうに言った。
「ああ、あんたの奥さん、織田信長だけどそれがどうした」
それこそ「今日の昼飯は蕎麦食った」程度の軽さで言われた小十郎は、こんなにも大事なことを忘れている自分を呪えばいいのか、政宗の言葉を疑ったことを悔やんで腹でも切ればいいのか、雅で有名なはずの出雲守護代が「馬鹿じゃねえの」という顔を隠しもしないことに衝撃を受ければいいのか、政宗が「小十郎なんか嫌いだ」と子供のように呻いたことに土下座すればいいのか、正直言えばもうどうすればいいのかすら分からなくなっていたのだった。
数日後、意を決した小十郎は自宅へ戻った。体調はほぼ完全に回復している。あとはやはり筋力だけだが、これもそれほど心配していなかった。
自力で馬にも乗れる。愛馬の藤は気性が荒く、それゆえに普段は戦場にしか連れて行かないことにしているが、騎馬隊の青年が自宅まで付き添いながら藤を見てくれると申し出たため、今日だけは家に連れて帰ることにした。しかし青年の手助けは必要なかった。久々の主人の騎乗に藤は喜び、小十郎が今までに知らないほどに従順だったのだ。
騎乗で家まで戻る道すがら、領民が小十郎の姿を目にしては喜び、小十郎もまたそれに応えた。そのせいで自宅に着く予定の時間が少し遅れたことに焦る。晴久が待っているのだ。いくら「妻」と親しい「弟」とはいえ、小十郎が待たせていい相手ではなかった。少なくとも小十郎はそう思っていた。
「少し急ぐ。晴久殿を待たせている」
付き添いの青年に言うと、青年は頷いた。しかし僅かに哀しそうな顔をし、小さな声で「奥様も待ってますよ」と言った。ああ、うん、と小十郎は曖昧な返事をするしかできなかった。
家の門が目に入る。懐かしの我が家というやつだ、と小十郎が思った時、青年が「あっ」と声を上げた。
「小十郎様!」
「……ああ」
分かっている、と呟いた。
門の前に紅い内掛を纏った女が立っている。美しい、天女のような女だ。
──あれが、織田信長か。
信じられなかった。自分が「知っている」はずの織田信長と余りにも違う。
──あれが、俺の妻なのか。本当に。
吉はとうに夫の姿に気付いていた。門の前で夫を待つなどという行為は武家の妻に相応しくない。随分自由にしているんだな、と小十郎は思った。そしてまた、本当に俺の妻なのだろうか、と疑った。妻を疑ったのではない。自分を疑った。もし自分が妻を娶るなら、こんなことは許さないはずだ。
──やはり俺は「織田の女」に遠慮をしていたのだろうか。
門の前で藤の歩みを止める。吉が騎乗したままの夫を見上げた。小十郎が馬から降りようか迷っているうちに、「妻」は美しい所作で夫に頭を下げた。
「お帰りなさいまし」
どう返事をすればいいのか分からない。帰ったぞ、と言うこともおかしいような気がする。それはまるで家族、妻にする返事だ。目の前の美しい女が妻だという実感のない小十郎が迷うのも仕方なかった。
「──ああ、旦那さん。遅かったな」
「晴久殿」
門から着流し姿の晴久が現れ、小十郎ははっとして馬を降りた。吉の横をすり抜け、晴久の元へ向かう。
「失礼した、時間を読み間違えて」
「俺は全く構わねえよ。でもまあ、今ので、一、な」
「一?」
「きつを無視した」
あ、と、晴久の「一」の意味が分からないながらも、小十郎はつい吉を振り返る。吉はにこりと夫に微笑み、穏やかに言った。
「晴久の申すことなぞ、お聞きあそばしますな。この子は口も心根も悪うて、ナ」
「俺ほど優しい奴っていないと思うけど」
晴久は苦笑する。
「──いや、……悪かった。出迎えをありがとう、きつ殿」
「なんも」
主の帰りを待ち構えていた使用人たちも、いつの間にか集まってこの光景を見ている。源爺が首を横に振らなければ、彼らは失望の声を上げていたかもしれない。殊におこうは涙ぐむほどだった。
──使用人に声をかけなければ。俺がいない間ご苦労だった、ありがとう、それから──
小十郎は考える。だが言葉が出ない。
気まずい空気を打ち消すように、晴久が大袈裟な溜息をついた。
「旦那さんが帰って来たなら、俺は用済みだ。とりあえず伊達んとこに帰る。じゃあな」
「あ、いや」
さすがに小十郎は慌てた。出雲守護代が即断即決の性格であることは知っているが、これは性急過ぎる。「妻」の面倒を見てくれていたことに正式に礼を言いたいし、夕食くらいは振舞うべきだ。
「せめて夕食をご一緒に。俺の具合ならもう問題ないことだし、礼を申し上げたい」
「ああ、そう? じゃあそうしようかな」
どこか投げやりな晴久の態度が気になったが、おそらく自分が吉を意図的にではなくとも無視してしまったせいだ、と小十郎は思った。姉に対してそんな態度を取られれば、弟としては面白いはずがない。これも詫びなければならないだろう。
「ああ、ぜひ──今、支度を。おこう」
「二」
「え、──あ」
また、吉を無視したことになる。小十郎は混乱した。そんなつもりはなかった。ただ、──結婚していないはずの俺はこういう時、いつもおこうに頼んでいたから──
「晴久、およしや。旦那様はお疲れであらしゃるのだから」
「知るかよ」
「晴久。──おこう、旦那様のおっしゃる通りに」
でも、とおこうは言いかけ、吉が目で「早く」と合図をしたので言うことができなかった。小さく返事をして立ち上がり、素早く身を翻す。唇を噛み締めなければ泣いてしまいそうだった。
「きつ殿」
「はい」
素直な返事に小十郎は驚く。見た目も口の利き方も立ち居振る舞いも、全てから気位の高さを感じさせると言うのに、まさかこんな返事をするとは思ってもみなかった。
「すまないが、頼んでよろしいか。その、──支度を」
「アレ、ま」
吉が笑った。小十郎はその笑い方が無理をしたものだと、なぜか分かった。
分かって、覚えていない自分には罪がないと思いながらも罪悪感を抱いた。
「はい、いたしましょ。お待ちあそばし、ナ」
小十郎の横を速足に通り抜け、吉は家の中へ入って行く。家を知り尽くした者の動きで、ああ、やはりあの女は俺の妻なのか、と小十郎は理解した。理解と実感は違うということも充分に思い知りながら。
「失礼、晴久殿。目の前でするべきではなかった」
「ああ、うん、そうだな。不愉快だ」
「……失礼した」
不快感を隠そうとしない晴久の姿は珍しい。小十郎は歪んだ記憶の中でもそれを知っていた。
吉の姿が完全に見えなくなってから、晴久が呟くように言った。
「二、だ。今日の数はここまでで勘弁してやる」
「それは何なんだ?」
何とはなしに不安になる。晴久の行動が謎であることと──その謎があからさまに自分への敵意であることを感じたからだ。
晴久は言った。
「十、溜まったら、俺はきつを出雲に連れて帰る。期限はあんたが思い出すまでだ」
言葉に詰まる小十郎を見て、晴久は本当に不愉快だという顔をし、家の主である小十郎を置いて歩き出したのだった。
小十郎は息を吐く。
──確かに、俺が悪かった。政宗様が「冷たくするな」とおっしゃっておられたのに。
戸惑ったことは確かだ。どうしたらいいのか分からなかった。
だが、それを言い訳にできることではないということはよく分かった。
明らかに、吉という一人の女を傷つけた。目覚めぬ自分を待ち続けた女を、自分の戸惑いで傷つけていい道理があるはずがなかった。
──……気の強そうな女なのに、こんなことで傷つくのか。
「……まるで」
まるで、
織田信長みてえだな。
「小十郎様」
源爺が使用人を代表し、頭を下げた。
「お帰りなさいませ。御待ちしておりましたともさ」
「──ありがとう、心配をかけた」
織田信長のようだ。
そう感じた事実を、政宗の前でもそうであったように、なぜ俺はこんなことを知っているのかと不思議に思うしかなかった。