噂は早く、陽が落ちる前には、政宗が片倉家の正室に求婚した話が城下に知れ渡っていた。
政宗が吹聴したわけではない。だが、詰め所の下働きの下男が二人の会話を盗み聞きしていた。政宗は気付いていたし、吉も気付いていたが、敢えてそのまま話をしたのだ。いずれ事実となることなら、前以て人々が知っていた方が後々の発表時の混乱を最低限に抑えられる。隠すばかりが情報ではない。敢えて知らしめることによって効果を発揮する情報もある。
その日、吉は家に帰らなかった。
「おまえさま」
打掛を布団代わりにし、眠る夫の胸に甘えるように身体を寄せて横たわる。
「今宵は、お隣で休んでよろしでしょ」
答えがあるはずはないと分かっていても、吉は夫に話しかけ続ける。
「寝相が悪うて蹴ってしまっても、ご堪忍だえ」
打掛の下からそっと手を伸ばし、眠る夫の手を取る。
温かい手だった。
奥州に来てから、来る前から、出会ってから、何度この手に触れられたことか。
そのたびにどれほどいとしいと思ったことか。
ぎゅう、とその手を握り、吉は静かに目を閉じた。
障子から差し込む光が顔に当たり、吉は朝の訪れ知る。夫の手が外されていることに気付いた。無論、夫が自ら外すことはない。眠っているうちに、寝相の都合で自分が離してしまったのだろう。
ああ、もう朝──呻きたい気持ちを堪える。毎朝の癖だった。自分の呻き声で夫が起きてしまっては申し訳ない、といつも思っているからだ。
だが、ふと視線に気付く。
吉は飛び起きた。
うそ、と、思わず呟いていた。
隣の夫の身体が、上半身を起こしている。
小十郎がしげしげと自分を眺めていた。
夢ではない。長らく眠っていたせいで身体つきはやや細くなってはいるものの、紛れもなく夫はしっかりした顔つきで起きている。
妻を、自分を眺めている。
ああ、と吉は声を漏らした。泣けばいいのか、笑えばいいのか分からない。
それでも呼びたかった。呼べば必ず夫が微笑んでくれる、あの言葉で呼びたい。
だから呼んだ。
「おまえさま」
夫が微笑んでくれると思った。
だが微笑まない。
むしろ、眉をひそめて怪訝な顔をする。
「確認させて頂きたい」
誰よりもいとしい夫が声を出した。
他人へ、丁寧に質問する声だった。
「あなたは誰だ。──なぜ、俺の隣で寝ておられた?」
不思議と、大きな衝撃を感じることはなかった。否、不思議ではなかった。
慣れている。吉は久し振りにそう思っていた。
慣れているのだ。昔から慣れている。
最悪の事態に直面することなど、昔から当たり前のようにあったことだ。
そして、最悪というほどでもない、と思い直した。あの日々に比べれば。
浅井が裏切ったと知った時に比べれば。
松永が反旗を翻したと知った時に比べれば。
あの者が、この者が。
その数々に比べれば、最悪というほとでもないはずだ。
暫しの沈黙の後、吉はゆっくりと立ち上がり、障子を開け、縁側へ出た。
「誰ぞおらぬかえ」
すぐに、不寝番の騎馬隊の青年の返事が聞こえた。
「匙を呼びやれ。竜の右目がお目覚めぞ」
背に強い視線を感じる。
あなたは誰だ。──自分へ向かってそう言った夫の視線であることは、よく分かっていた。
体力は流石に落ちているものの、暫しの休養と鍛錬で元に戻ります──医師は断言した。
騎馬隊は小十郎の目覚めに沸き返る。涙する青年たちもいる。小十郎はまだ本調子じゃねえんだ、静かにしろ──そう言う政宗も嬉しくてたまらない。絶望の淵から歓喜の頂点へ一気に上り詰めた感情に流されそうになる自分を制することが大変だった。
だが政宗は吉に短い事実を告げられた途端、「Reary!?」と大声を上げてしまった。
「やかましわえ」
「あ、ごめん──じゃなくて、えーと、ごめん、ちょっと外す!」
外すと言って向かった先は小十郎の部屋だ。数日は詰め所のこの部屋で体調を見るが、後遺症が出ずに体力に問題がなければ片倉家に帰って良いと医師に言われていた。
「小十郎!」
「政宗様」
起き上がり、布団の上に胡坐をかいててのひらを開いたり握ったりしている小十郎の声は眠る前と全く同じものだった。長く眠っていたことが信じられないほどはっきりしている。
「お怪我はございませんか」
「は?」
「いえ、小十郎がお守りしきれなかったのではないかと、それだけが気がかりで……!」
「ねえよ。お前が守ってくれたんだから、あるわけねえだろう!」
自分が長く眠っていたことは医師から聞いているが、その原因はよく分かっていたし、鮮明に覚えていた。訓練途中、岩場から落下した政宗を庇い、抱くようにして共に落下したのだ。とにかく政宗に大事がないように、とそればかりを考え、自分の頭部を守りきることができなかった。その衝撃で三週間も眠っていた、と聞いた時は流石に驚いたが、政宗に怪我がないと聞いて心底安堵する。
「で、小十郎」
「はい」
「……その、何だ、あの。……奥さんのことだけ覚えてないって、本当?」
「奥方? 誰のです?」
「……あ、覚えてないんだ……マジで……」
小十郎は暫し考え、いやまさか、と思う。だが状況からして政宗が言っているのは──
「あの、とんでもない美人ですか」
「ああ、そうそう、あのとんでもない美人! あれ奥さん!」
良かった、奥さんが美人ってのは認識できてるんだ、と政宗は見当違いに安堵した。だが次の瞬間、再び暗鬱の世界へ叩き込まれる。
「誰の奥方ですか。騎馬隊にあんな美姫を娶るような甲斐性のある者がおりましたか」
「……いや、いるよ。ほんといるよ……」
「家柄も相当ではありませんか。俺に医師を呼んでくれた時、言葉が奥州のものではありませんでしたし」
そういえば、と小十郎は続けた。
「西の方の訛りですね。彼と似ています」
「彼?」
「尼子晴久殿。交易の件で幾度かお会いしておりますし」
「……ああ、うん、そうだな……」
晴久の名を聞き、政宗は新たな可能性の浮上に気付いて頭を抱えたくなった。もし晴久が今のこの話を知ったら。小十郎が嫁のことを忘れていると知ったら。
──押し掛けて来て、これ幸いで姐さんを出雲に連れてっちまう予感しかしねえ……!
晴久だけではない。甲斐の信玄も動くだろうし、何より幸村が怒りに怒るはず。政宗は本気で暗鬱とする。だってあいつも、こいつも、家康も前田夫妻も、下手すりゃ面白がって長曾我部も、と考えるだけで目眩がするような顔触れが脳裏に浮かぶ。
そして、小十郎の記憶が本当に混乱しているのだと思い知った。小十郎は「交易の件」で晴久と会ったわけではない。初めて会ったのは、吉が奥州に嫁ぎ、政宗が大々的な茶会を開くことになり、晴久を招待した時だ。
──姐さんが関わることを、忘れてるってわけか。でも記憶の整合性を自分なりに整えている。
「……小十郎」
「はい」
「はっきり言うんだけどな」
「はい」
「あの、とんでもない美人。あれ、奥さんね」
「ですから、誰の」
「お前の」
「は?」
「だからあの人、きつさんって言って、お前の奥さん。お前、すっげー愛妻家で、奥州で有名なんだぞ」
小十郎はまじまじと政宗を見る。
政宗は「今までのことは冗談ですよって言ってくれないかなあ」と儚い思いを抱く。
やがて小十郎は溜息をつき、子供の過ぎた悪戯を咎めるような声で言った。
「政宗様、いくら小十郎が醜態を晒して三週間も寝込んだとはいえ、からかってはいけません」
「……からかってねえよ……」
「からかっておいででしょう。小十郎は結婚などしておりませんし、従って嫁もおりません。愛妻家なぞ恥ずかしい、とんでもない」
どう言えばいいんだ、何から言えばいいんだ──政宗は悩みに悩む。
いっそ最初から全て説明すればいいのだろうか。しかしそうなると、二人の出会いや馴れ初めを簡潔にまとめる自信がなかった。余りにも複雑かつ、傍から見れば重い恋愛過程だ。
「しかし、本当にどこの誰なのですか。俺の隣で眠っていたことは大変な問題になりませんか」
「全くなりません、お前の奥さんです」
「ですから、政宗様」
「名前は片倉吉、出身は尾張で、言っちゃえば織田家の出身。マジモンの織田の直系ね」
「……織田? しかも直系?」
さすがに小十郎の混乱を予測し、「あの人は織田信長です」と言えない政宗の前で、小十郎は眉をひそめる。片倉家は織田家の女を娶るほどの家柄ではない。
「片倉に織田からの女が? 有り得ないでしょう、政治的にも階級的にも」
「政治とか関係ねーし」
「え?」
「恋愛結婚。お前と姐さん、めっちゃ大恋愛して結婚したんですけど?」
「ですから、政宗様。いい加減になさいませ」
本当に覚えていない、分からない、政宗が自分をからかっている──小十郎は表情と声音でそう主張している。政宗は溜息をつきたくなった。医師に相談するしかないだろう。
時間が経つにつれ、小十郎は混乱を極めて行った。
──嫁? 結婚? 俺が? この女と?
医師の説明をじっと聞く美しい女をちらりと見る。何度見ても驚くほど美しい。目覚めた時に彼女の存在に気づいてまず驚き、次にその美貌に驚いたものだ。なぜ天女が俺の隣に寝ているのだ、と。
──確かに美人だが……いや、まあ……俺の趣味じゃねえぞ。政略結婚なら分かるが、恋愛結婚? 何で俺がこんな女と?
家庭的な女が好きだ。多少野暮ったくても構わない。素朴な笑顔と健康な見た目があれば、極端な美醜を問う小十郎ではなかった。だが、自分の妻だと政宗自らが説明した女は、奥州には不似合いなほど垢抜け、見たこともないほどの美女だ。家庭的とは程遠い見た目で、白く滑らかな手を見れば家事を一切やっていないことが分かる。絶対に俺の趣味じゃねえ、とまた思った。
医師が説明している。──一時的な記憶の混乱ということも考えられます。頭を打った人にはたまにあることです。あまり重大に考えず、奥様は小十郎様のお世話をいつも通りに。長く続くようなら、また考えましょう。
本当の本当にあの姐さんはお前の嫁だ、と政宗は何度も言った。
「ま、取り敢えず、二人で話せ。思い出すかもしれねえしな。──姐さん、俺、部屋にいるから。何かあったら呼んで」
「ん」
吉の返事に小十郎は眉を顰める。無礼だ、と思ったのだ。政宗に対してこんな返答をする女が自分の妻だとはとても思えない。小十郎の表情に気付いた政宗は「ああ」と決まり悪く鼻の頭をかいた。
「姐さんはいいんだよ」
「政宗様」
「俺にとっても特別なんだ。これで姐さんのこと、怒るなよ」
「しかし政宗様──」
「俺が足りてねえから姐さんは甘やかさねえんだ。いいな、プロミス」
厳しい口調で言い、政宗は医師を連れて部屋を出る。
残された小十郎は溜息を押し隠した。自分の妻であるらしい女は姿勢よく座り、ゆっくりと自分を見た。正面から見るとまた美しさが際立ち、本当かよ、とまた混乱してしまう。
「……おまえさま」
美しい唇が動き、美しい音が流れた。瞬時、小十郎は戸惑う。
──ああ、俺のことか。
「俺のことか」
「ん」
「そうか」
「白湯でも、お持ちいたしましょ。長うおしずまりであられたから、お茶ではお身体に障るわえ」
言葉も、奥州にはないものだ。訛りは西。これも小十郎には理解できない。もし自分の妻が西の言葉を話す人間なら、完全ではなくても訛りを直し、奥州の言葉を覚えるように言いつけるはず。
「ああ、いや、いらねえ、ありがとう」
「……そ」
「ああ」
障子の向こうがいやに静かだった。この時間なら騎馬隊の青年たちが元気な声を上げている頃だと言うのに、今は小十郎と吉を慮ってか、誰もいないようだ。
吉は喋らない。小十郎も話題が見つからない。
「きつ──殿」
妻と言うからには呼び捨てにしても良いはずだ。だが出来なかった。奥州に存在するはずのない高貴な女を呼び捨てにすることが躊躇われたのだ。
「……はい」
僅かに遅れたが、吉は眉ひとつ動かさずに返事をし、小十郎の言葉の続きを待つ。
「すまねえ。覚えてねえんだ」
「匙も申しておりましたゆえ。ひとときの混乱にと」
「そうか」
「そ」
「……そうか」
だったらいいんだが、とは思えなかった。この女が妻であることを喜んでいいのか分からなかったからだ。
──俺の身分には、余る。
決して片倉家が低い身分というわけではない。だが、織田の直系の女と恋愛結婚をするような家柄でもない。そもそも恋愛結婚という時点で何かがおかしい。自分がそんなことをするとはとても思えなかった。第一、どこでどうやって知り合ったのか。こんな女がなぜ自分を見るようになったのか。なぜ自分はこの女を妻にしようなどと考えたのか。
「……血迷ったとしか思えねえなあ」
「何を?」
「ああ、いや、何でもねえ。独り言だ」
恋愛結婚ということが嘘ではないなら、今のことは言わない方がいいだろう。吉が傷つくかもしれない、ということくらいは想像できたからだ。今の小十郎からすれば得体の知れない女だが、かと言って無闇に傷つけていいはずもなかった。
「俺が眠っていた間、世話をしてくれていたのか」
「ん」
「そうか。ありがとう」
「……妻の、務めに」
「ああ、そうか。でもありがとう」
「……ん」
吉は伏目がちに頷き、閉じられた障子に目を向ける。その向こうを見ているのだ、となぜか小十郎は分かった。
「騎馬隊」
「え?」
「騎馬隊の、皆の衆。おまえさまがお目覚めになると信じて、三週間、よう励んでおったわえ。後で、お褒めあそばしましな」
「そうか」
三週間か、と考える。騎馬隊の訓練もそうだが、政宗の政務はどうなっているだろう。自分の能力を過信しているわけではないが、政宗にはまだ補助が必要だ。
「政宗様のご様子は?」
「──立派に」
吉は静かに言った。どこか満足そうな顔であることに小十郎は気付くが、その理由は分からなかった。
「立派に。とても、立派に、歩んでおりましたわえ」
いつもの小十郎なら、こんな物言いをする女がいれば睨みつけるところだった。政宗様になぜ上から物を言うのか、と。
だが今は言えなかった。何かが──この女が持つ何かが、その言い方が当然だ、と小十郎にも納得させたからだ。
──……普通の女じゃ、ねえ。
「きつ殿」
「……はい」
少し返事が遅れた理由は吉にしか分からない。少なくとも、ここにいる二人のうち、吉にしか分からなかった。
「少し、疲れた。寝るよ」
「ん。よう、おしずまりあそばし」
妻と言う女は微笑んだ。小十郎は吉を見ないようにしながら、布団に身体を横たえて目を閉じる。吉が部屋を出ないことが不思議だったが、体力の回復を求める身体の眠気に耐え切れず、間を置かずに眠りに付いていた。
その頃、政宗は別の問題で頭を抱えていた
「……いや、予想はしてたよ。してた」
「予想?」
「こっちの話。それにしても来るの早いって……」
「相変わらずお前、言ってることがワケ分かんねえよ」
旅装姿のまま、相変わらずのきつい言葉を投げ、晴久はどかりと政宗の前に腰を下ろした。
「土産くらい持って来い、気の利かねえ王子様が」
「ある。きつに持って来た」
「俺には」
「何でお前に」
「ですよねー!」
トモダチじゃないですよねー、当たり前ですよねー、と政宗は苦々しい。
それにしても到着が早い。吉は国外に話を漏らしていないはずだ。文を書いていた様子もないし、何より、自分たちが外に向かって言って良いことではない、と政宗にも言い含めていた。政宗も同意だった。竜の右目が生死を危ぶまれる状態となれば、奥州弱体化を望む勢力に侵攻準備の時間を与えてしまうことになる。たとえ弟同様の晴久にでも、吉が言うはずがなかった。
「何で知ってんだ」
「何を」
「分かった、質問変える。何で来た」
政宗の問いに、ふん、と晴久はいつものように高慢な笑い方をした。
「姉の夫が死ぬかどうかって時に、見舞いに来てやって何が悪い」
「……何でそれ知ったんだ……!」
「真田のとこほどじゃねえけど、俺んとこの透波も優秀なんだよ。旦那さんが倒れたって知らせが来たから、半月前に出雲を出た」
「知ってすぐってことか。それにしても随分ゆっくり来たな。……奥州に入れてんのか、透波」
「さあねえ?」
密偵の忍を他領に忍び込ませているのかと問われ、はいそうです、と答える国主なぞいるはずがない。しかし今の答えは肯定も同然だ。
「炙り出してぶっ殺すからな」
「何の話やら」
晴久は薄く笑い、「で」と言って真面目な顔をした。
「実際のとこ、どうだ。きつの旦那さん」
敢えて「姉の夫」と呼ぶ晴久は、今回、政治的な意図は何もないと示していた。政宗は溜息をつく。こういうところが、と思ったのだ。
──こういうところが、こいつは「国主」として完成されてるんだ。自分の言葉のいちいちがどういう影響をもたらすか、分かってるからこそわざと区別した言い方をする。
「命に別条はねえし、今日、目が覚めた」
「んなこと知ってるよ。領内を通る時、領民が大喜びしてた」
「ああ、そう、もうみんな知ってんの」
「緘口令も布いてねえのか」
「漏れたんだ。こればっかりはどうしようもねえ」
馬鹿にされるかと思ったが、意外にも晴久は「そうだな」と言った。
「こればっかりはな。お前のせいじゃねえな」
「分かってもらえて助かる」
「大変だったろう。お前、よくやったよ。俺なら厳しいと思う」
「……そりゃどうも」
相手が晴久でなければ、小十郎が眠っていた間の愚痴を言ってしまいそうだった。晴久は人心操作が美味い。冷たい言葉で相手を突き放しつつ、たまにだけ優しく同意すると、相手はつい心を許してしまいそうになるのだ。だが自分にとってそれだけは沽券に関わる、と政宗は自らを戒めた。国主同士、そんなことをすれば格差が生じてしまう。同等の交易相手であるはずの相手に舐められるわけにはいかなかった。国主が見下されれば国そのものが見下される。今の世、到底受け容れられることではない。
一方晴久は、政宗が自らを戒めたことに気付き、やっぱりこいつの勘は半端じゃねえな、と舌を巻いていた。未熟に見えて──否、確かに未熟だが、他人の心に翻弄されない強い自我を持っている。これは天性なのか、経験の中から培ったものなのかは判断しかねたが、敵に回すのは面倒だ、と晴久に思わせるには充分だった。交易を口実に国交を繋いでいるのもそれが理由の一環だ。奥州と交易をしなくても出雲は充分に潤う。むしろ奥州は利益が最も少ない国でもあった。利益よりも国内の動向を探り易くするために、晴久は交易を続けていた。
「まあ、姐さんの弟同然のあんただから言うし、どうせ明日にはみんな知ってるだろうからいいんだが」
「ん?」
「小十郎、姐さんのことだけ覚えてねえ」
「きつのことだけ?」
「ああ。姐さんが関わる記憶は別のことで補正して、整合性をつけてる。頭いいんだな、やっぱりな」
「……ちょっと待て、考える」
晴久は黙り、何事かを考える様子を見せた。これが晴久なりの思考の纏め方だと知っている政宗は邪魔をしない。政治の席であれば立て続けに言葉を投げかけて思考の邪魔をするところだが、今は政治の席ではなかった。
やがて晴久は口を開いた。
「きつ以外のことは、全部覚えてるのか」
「確認はしてねえけど、そうだと思う」
「何できつのことだけ覚えてねえんだ」
「知るか。医師は一時的な混乱だって言ってた。そのうち戻るだろうって」
「……ああ、戻るの?」
「戻ってくれなきゃ困るよ」
「ああそう」
ならいいんじゃねえの、と晴久は特に心配をする様子もなく言う。
「あと、伊達。面白ぇ噂も聞いたぞ」
「噂」
「お前」
晴久がにこりと笑った。目は笑わず、顔の筋肉だけで笑っている。ああ、と政宗は身構えた。
「きつに、求婚したんだって?」
「……不可抗力! 不可! 抗!力! 本当に夫婦になりたいとかそんなんじゃねえから!」
「まあ、お前じゃ手に余る」
「分かってますとも! 余らねえのなんて小十郎とあんたくらいだろうが!」
「俺だって嫁じゃ無理だ、手に余る」
騎馬隊の青年が運んで来た茶を一口飲み、不味い茶だなあ、と思いながら晴久は言った。
「旦那さんがきつを覚えてねえってことは、きつがどんな女か、全然知らねえんだろ?」
「まあな。織田のあの人だって言ったらすげえ混乱しそうだから、敢えて織田の直系って説明はしといたけど」
もう一口茶を含み、晴久はその姿勢のまま、まじまじと政宗を見る。何だよ、と政宗がつい怯みたくなるような厳しい目だった。
晴久は湯飲みを置き、胸元から紅い扇子を取り出して開く。それで口元を隠した姿を見、政宗は理由は分からないまでも、自らが失策と評されることを仕出かしたのだと知った。
「伊達」
「何だよ」
晴久の口調は厳しかった。それは国主としてのものではなく、純粋に、姉の夫の上司に苦情を申し立てる厳しさだった。
「お前、使えねえ。とことん駄目。死ね。死んだ方がまし。奥州なんざ甲斐にくれてやれ」
「……せめて理由を説明して下さい、お願いします……!」
三週間の間に吉に政務で駄目出しを続けられ、今ここで晴久に死ねと言われ、さすがに政宗の心は折れたのだった。
「あんな面倒な女」
晴久は眉をひそめ、扇子の影で呟いた。
「何も覚えてねえ、知らねえってんなら、右目の手にも余るに決まってんじゃねえか」
小十郎がふと目覚めたのは夜半だった。随分寝たな、と身体の感覚で知る。鍛えていた恩恵か、僅かな間にも体力が徐々に回復していることが分かった。食事ができるようになれば急速に全快に向かうだろう、と判断する。
そして何の気なく横を見て驚く。
座っていた吉が顔を挙げ、僅かに自分の方へ膝を進めたのだ。
「おまえさま」
「そこにいたのか」
流石に驚愕するしかない。随分長い時間、この女は寝ずにここにいたことになる。
「……ん」
「すまなかった。付き合わなくていい」
「でも」
「いや、いいんだ」
大丈夫だ、と小十郎は言った。言わなければならないような気がしていた。
一瞬、ほんの一瞬、吉が不安そうな顔をした瞬間を見てしまったからだ。
「大丈夫だ。だから、きつ殿も休んでくれ」
「……でも」
「大丈夫だ。一人で寝たい。疲れている」
嘘ではなかった。吉がいても充分に眠れたが、気付いてしまえば気になる。吉もそれを理解したのか、息を吐いた。
「では、わらわは御無礼を。家に戻りますゆえ」
「ああ、ありがとう」
家──俺の家か、と小十郎は思う。不思議なものだった。知らない女が自分の家へ戻ると言ったことに、妙な違和感を感じた。
部屋を出ようとした吉に、つい声をかける。なぜそんなことをしたか分からないが、心配そうな顔を思い出し、気になったとしか説明のしようがなかった。
「あなたも、疲れただろう。無理に来なくていいからゆっくり休んでくれ」
小さく、はい、と返事が聞こえた。
吉が部屋を出てから再び目を閉じる。
はい、と返事をした声を思い出し、なぜか自分が悪いことを言ったのではないかと理由も分からず自己嫌悪に陥った。
なぜそんな声で返事をするのかと小十郎が思ってしまうほど、寂しそうな声だったから。