「砂と、風ばっかりで」
「ん」
「この砂丘の先に何かあっても、俺はそこを見られねえ」
「なにゆえ」
「俺は──ここに、いなきゃいけえねえって。じいさんに言われた。俺はじいさんの後を継いだんだ」
「ふうん」
吉が楽な態勢を取る。話をきちんと聞くためだ、と晴久はなぜか知った。
「俺」
「ん」
「ええと」
また黙る。吉はじっと待っている。
晴久は空を見上げた。抜けるように青い。砂混じりの風が吹き抜け、吉が小袖で口元を覆ったことに気づいた。迷ったが、置いてあった打掛を頭に被せてやる。吉が微笑み、礼を言った。
「……俺の一族は、この領地から出られねえっていうか、領民の面倒を見るのが仕事で」
「ほ。寄子であるの」
「そんなもん」
寄子という言葉が出た吉を、晴久は少々の驚きをもって見る。だがすぐに、こんな立ち居振る舞いに話し方をするのであれば、分かってもおかしくはないと思った。
「……いや、出たいわけじゃねえんだけど。出たくねえってわけでもなくて」
「ん」
「何て言ったら、いいんだろ」
吉の笑みが深くなる。
「晴久は、領地から出たことがないのかえ」
「うん」
「領地は、大事かえ」
「そりゃ、当たり前だ」
考えたこともない。当たり前のことだ。生まれた時から領地を護ることが生涯の仕事だと教え込まれていた。それが嫌だと思ったこともなかった。
だが最近、考えることが増えた。
──砂の向こうには何があるんだ。
砂丘には生命がない。あるのは砂と風だけだ。自分は永遠にここにいるのだろうか。ここでただ、護ることだけを日々として生きていくのだろうか。
そう考えることが増えた。
出て行くことなど考えられもしない。
いや、考える。
この先には何があるんだろう。
この先には誰がいるんだろう。
誰が。
どんな人が。
「この領地は、砂と風ばっかりで」
「ん」
「あまり、豊かじゃねえって、じいさんの代からいるジジイどもが言うんだ」
老臣たちのことだった。彼らを嫌っているわけではない。長く政務を知る彼らには、彼らなりに領地を護る役目を自らに課している。
だからこそ、経験の浅い晴久の言を一笑に付す。言葉の足らぬ晴久の意思は彼らには伝わらない。
「でも、海もある。砂の海じゃなくて、本当の」
「港も、あるのかえ」
「漁村があるくらいだ。でも、港を作れば貿易ができる」
「ほうかえ」
「金山も、銀山も。あるって、俺の部下が教えてくれた」
幼い頃から共にいる家臣の子たちだ。晴久と同年代で、当然のように晴久を慕う。晴久自身は分からなかったが、それは未来の主君を幼い頃から「主君」と認め てのことだった。それが財産だと分かるには、晴久はまだ若すぎる。それでも老臣たちの頭の堅さにひそかに憤り、晴久を何とか助けたいと願ってくれている ことは知っていた。
「それが、うまくやれれば。もっと豊かになれる」
だが、老臣たちを説得することができない。何と言えばいいのか分からない。彼らに困ったように笑われると、自分の未熟さが分かってしまう。俺の言葉なんかじゃ無理だ、通じない。そう思ってしまう。
思い出して沸き起こった焦燥に、つい爪を噛んだ。
「これ」
吉がそっと、晴久の手を抑える。
「人前で、斯様なこと」
「──あ」
恥ずかしい真似をしたことは分かった。つい赤くなると、吉は深い笑みを見せた。
「ひとつ、ひとつ、ナ。焦らずとも、よいの」
「時間がねえのに」
「なにゆえ」
「尾張の織田が、いつか、来る」
「──織田」
「あいつらは笑うけど、でも、来る。必ず」
「あいつら?」
「ジジイども。あいつらは、織田が今川を破ったのを、偶然だなんて言う」
織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いの話を聞いた時、晴久は背筋が寒くなった。旅人を掴まえては話をせがみ、詳細を知れば知るほどに嘆息とも畏怖とも つかぬ感情を抱いたものだ。どれほど凄い合戦だったのか、かの地の地形や状況を調べ、更にその感情は増した。若い家臣たちに話をすると、やはり同様の感情 を抱いたようだった。
だが老臣たちは、確かに稀有な合戦であったとは認めるものの、あくまで運が織田に味方したのだと言い切った。そんな合戦は確かに滅多にあるものではない、だが歴史を紐解けばいくらでも、と。
そうじゃねえ、と晴久は呟いた。触れたままだった吉の手を、思わず握り締めた。
「そうじゃねえ。織田は──織田信長はそうじゃねえ。あいつは天才だ。天運もある。もしあんな奴がここに来たら、今のままじゃ俺たちは対抗できやしねえ。時間だって、もう足りねえんだ」
「晴久」
「だから──」
「晴久、痛い」
「あ」
少年とはいえ、力は男のものだ。力を込めて握られれば吉が痛がって当たり前だった。慌てて手を離した。
「ごめん、大丈夫か」
「ん、ん」
握られていた手を軽く振り、大丈夫、と吉は示す。自己嫌悪に陥った晴久を救うように、もう一度晴久の手に触れた。
不意に晴久は焦燥感を抱く。先ほどのようなものではなく──女に、吉に手を握られたという事実に焦った。焦ったのではないのだと、自分では分からなかった。少年は「女」に慣れていなかったのだ。
今まで女を知らないとは言わない。それなりに抱いたこともある。城の「若様」に近づく女も多かった。
だが、触れられただけで分かる。この女は今まで出会ったどんな女よりも、上質だった。
「なぜ、対抗できぬのだえ」
「だから──」
心臓が跳ね上がる。顔が赤くなっているかもしれない、と自分でも分かり、つい吉の顔から目を逸らせた。どうしてこんなに近い場所で、俺は今まで平気だったんだろう、と思った。
何をどう言えばいいのか、分からなくなった。不意に感じた上質の女の存在への焦りと、家臣たちに言いたいことを伝えられない日々の葛藤が一度に晴久を襲う。
「だから──だから」
「ん」
吉は頷いてみせた。
「わらわは、晴久の申したいことが分かる」
「嘘だ」
「ほんに。織田と戦うには、力が足らぬ。そう、申したいのであろ」
晴久は吉をじっと見た。美しい顔は相変わらず、天女のような風貌だ。人並外れた美貌から紡ぎ出された言葉を、晴久は不思議な感覚で聴いたような気がした。
「だから、港を作って貿易をして、金山と銀山を拓いて、国力をつけたいのであろ。さすれば兵を雇い、織田に対抗することもできようと考えるのであろ」
晴久は頷いた。──何度も頷いた。そうだ、ただそう言いたかっただけなのだ。
──どうして俺は言えないんだろう。どうして、これだけのことを言えないんだろう。
吉が微笑み、晴久の頬に触れた。そして目尻を拭う。だから晴久は、自分が泣いていることに気づいた。
女の前で泣くなんざ、格好悪い、男なのに──確かにそう思う。母や姉の前でも、最後に泣いたのはいつのことなのかもう覚えていない。
何て恥ずかしいことだ。何て。
だが今は、それを恥じようと思えなかった。
吉が拭ってくれるままに、ただ、涙を流している。
「御祖父上殿は、きっと、素晴らしき方だったのであろ」
晴久はまた、頷く。声を出せば泣き声だと分かっていたから、頷くしかできなかった。
「お強い御仁だったやもしれぬなァ。まつりごとも、大層お見事な」
頷く。
吉の指が涙ですっかり濡れている。
「晴久は、御祖父上殿を超えたいのであろ」
頷かなかった。
そうなのだろうか。分からない、と思ったから。
考えたこともない。
それでも、喉が動いた。
「外に、出たい」
泣き声だった。一度泣き声が自分の耳に入れば、もう止められなかった。
「外に出たい。砂と風ばっかりだ。何もねえ。でも、海も金山も銀山も、あるのに、あいつらは」
「ん」
「あるのに。あいつらは手を出さないし、俺に何もさせねえとする。俺は──俺だって、やりたい。ここは俺の領地なんだから」
「ん」
感情に流され、晴久は自分が領主だと明かしたことに気づけなかった。吉は何も言わず、ただ頷き、晴久の涙を拭うだけだ。その指が少し冷たくて、晴久はそれが心地良く、甘えるように言葉を迸らせた。ずっと抱え込んでいた感情を、見ず知らずの女に吐き出していた。
「そうしねえと、もう、護れなくなる。俺はやりたいんだ」
「ん」
「でも、やらせてくれねえなら──俺は何のために、いるんだよ。分かんねえんだよ。俺なんかここにいらねえ。だったら、外に出たいんだ」
涙で声が崩れる。自分でも何を言っているのか聞き辛いと思った。それでも吉は聞いている。聞いているよ、と示すように、晴久の頬を撫で、涙を拭った。
「外に何があるのか、見たい」
「ん」
「何があるんだ。教えてくれよ。きつは知ってるんだろう」
吉がまた、晴久の頬を撫でる。
そして言った。静かな声で。
「晴久の見るものと、わらわの見るものは、きっと、違うであろ」
「どうして、そんなこと分かる」
「晴久が見たいのは、見たいものでは、なかろ」
「──何、それ」
「晴久は」
吉の口元から微笑が消えた。
厳しい顔ではなかった。穏やかな顔だ。それでも晴久は瞬時、ぞくりとした。
女という生き物の目ではない、と思った。
「晴久は、晴久を必要とする者を、欲しておるだけであろ」
言葉足らぬでも、分かってくれる者を
頼ってくれる者を
此処で見付けられぬと申して
外に求めるだけであろ
「晴久は、どれほど言葉を尽くしたのだえ」
晴久は答えられなかった。吉は重ねた。白い指が晴久の唇をなぞる。
「この唇で、どれほど、誰ぞに何を伝えたのだえ」
答えられない。また涙が零れる。
何もしていない、と気づいた。思っているだけで、心の中で呟くだけで。
そうだ、今日、今、吉を──関係のない人間に、初めて言えた。家督を継いでから、大事な者に何を伝えられただろう。何も伝えられていなかった。
「わらわに伝えても、詮無きことぞ。大事な者に何も伝えずして、なぜ分かろうか。なぜ頼ろうか。なぜ、共にあろうと思うのか」
吉の声は静かだ。無機質で細かい砂と風の中に消えてしまってもおかしくないほどに。
だが、晴久には砂よりも風よりも、近く、そして深く、かつて経験したことがないほどに肌に纏わりつくような感覚を与えた。
この女の言葉を逃してはいけない。ひとことも。そう思った。
「護りたきものあらば、護ればよし。護る力なくば、力を手に入れねばならぬ」
護る姿を見た家臣は、主君を護ろうぞ。
いかな姿であろうとも、いかな泥を被ろうとも、
それが我が身を護る主君の姿であらば、
いずれ家臣も民も、主君を敬し、護ろうぞ。
護らぬ主君なぞいらぬ。
敬されず、護られぬ主君なぞもいらぬ。
なれば好きに逃げるがよし。
国を捨て、民を捨て。
護るべきものを護れぬのなれば、逃げるがよし。
「晴久は、力を手に入れねばならぬのではないの」
吉を見る。じっと見る。
白い指が再び、晴久の涙を拭った。
晴久はその指を掴む。
そして何度も頷いた。何度も何度も。
吉が笑った。
「申したも。まずは、わらわに」
晴久も笑う。泣き笑いだった。
「俺は」
「ん」
「外に、出たいんじゃねえ」
「ん」
「まだ、な」
「ん」
まだ、と言う言葉に吉は微笑んだ。だから晴久は、吉が自分の言いたいことを分かってくれたのだと思う。
「やるだけやって、全部やって、それから、外に出るよ。全部できても、全部駄目でも。それからだ」
吉の笑みが深くなる。
「できることを尽くしてから、お行きや」
握られた指で、女は少年の指を握り返した。
「晴久が申したこと、わらわが覚えておこ」
「女に覚えられてても、なァ」
「ほうかえ」
吉がくすくすと笑った。そして妙に悪戯気な顔になる。その顔も綺麗で、晴久はつい見惚れた。
だが次の言葉で、そんな気持ちも吹き飛んでしまう。
「女と侮るなかれ。余が名は織田上総介信長ぞ」
織田上総介信長──尾張の魔王。
迂闊に口に出せる名でもない。騙ることのできる名でもない。
それほどまでに魔王の名は日の本に轟いている。
吉を見つめる。
相変わらず美しい顔はやはり悪戯気なままだ。
「……っ」
思わず、ぎゅうと吉の指を握った。
「──馬鹿言ってんなよ、面白ェなあ、きつは!」
堪え切れずに笑い出す。冗談にしても冗談として成立しない。そんなことを言った吉の度胸に感服したのか、それともおかしくてならないのか、晴久自身にも分からない。それでも声を上げて笑ってしまった。
「織田信長が女だなんて、冗談にもほどがあるだろ!」
「あれ、ま。酷いこと!」
怒った振りをしながらも、すぐに吉も笑い出した。
晴久は笑い続ける。
笑いながら、ありがとな、と言った。
吉は答えず、ただ笑うばかりだった。
──ありがとう。どこの天女か、知らねえけど、さ。
笑いを収め、息を吐き、空を見上げる。吉も釣られて同じことをした。
「ハテ、そろそろ帰らねばならぬなァ」
「──空にか?」
本当に天女だったのか。晴久はさすがに驚いて吉を見る。
「きつ、本当に天女だったのか」
吉はゆっくりと晴久を見、次に──胸元から紅い扇子を出す。
何だ、と晴久が思う間もなく、ぺしりと少年の額を軽く叩いた。
「上に立つ者が、斯様な世迷言を口にするでないわ」
「──い、今のは酷ェだろ!」
「なんも。織田上総介信長なら、これくらいはようやる、ようやる」
「嘘だ、またそういう──」
「もう、もう。陽が傾く頃であろ」
扇子で空を示す。確かに太陽が傾き始める頃だ。晴久は少々慌てることになった。一人で帰るのならばどうということはないが、砂丘に慣れていない吉を送るにせよ、陣まで連れて帰るにせよ、ぎりぎりの刻限だ。
距離を考えた。吉が歩いて来た方向からすると、砂丘向こうの村だろう。だがそれならば、陣までの方が近い。村では帰り着くまでに日が暮れる可能性がある。 一度陣に戻り、警護をつけ、陣の馬なりで送ってやった方がいいかもしれない。最悪の場合は泊まるところを手配してやればいい。
「えっと」
普段の晴久であれば、「陣に行くぞ」としか言わなかったかもしれない。
だが今度はきちんと言った。
「陣の方が近いから、そっちに行こう。その後、馬か何かで送ってやるよ。日が暮れそうなら泊まるとこ探して、明日送ってやるから」
「ほんに? 嬉し」
吉が微笑んだ。姉が弟を褒める時の笑い方だった。実の姉以外のそんな微笑を見るのは初めてで、晴久はつい赤くなる。同時に──やや、悔しくもあった。
「ひとつ面倒あって、ナ」
「何だ」
「転がり落ちた時に、ナ。わらわ、右の足を挫いたようで」
先ほどから、痛うてたまらぬえ──さらりとそう言い、初めて吉は眉をひそめ、本当に痛いのだ、と晴久に示したのだった。
「きつこそ、言わなきゃいけねえことを言ってねえじゃねえか!」
呆れ、そして慌て、晴久は吉に「足を見せろ」と迫り、吉は「殿方に足を見せるなどと、ああ、恥ずかし」と口だけは嫌がりつつも、さっさと足を出したのだった。
陣の兵たちは我が目を疑った。
夕暮れの砂丘から歩いて来る晴久が、女を背負っているとあれば当然の驚きだ。
「は、晴久様、その──」
「砂丘で会った。この人、足挫いてっから。湿布あるよな? なかったら準備してくれ。城に連れてくから馬に鞍もな」
「え、は、──かしこまりました!」
返事をしつつ、兵たちは顔を見合わせる。いつもの晴久ならここまで詳しく言わないのに、と。精々「足挫いてる、城に連れてく」程度だったはずだ。
「しかし、すげえ別嬪だなあ。何であんな格好で砂丘にいたんだ?」
兵たちは首を傾げながらも、陣の休憩所の小屋へ入る晴久を見送った。
「晴久がやってたも」
駆けつけた軍医を無視し、吉は厳然と言い放つ。尼子の当主を何だと思っている、と聞いていた兵たちは憤りかけたが、晴久が肩を竦めて「分かった」と言ったので、怒るきっかけを失った。
「俺より上手いぞ。何で軍医じゃ駄目なんだ」
「なにゆえ、知らぬ男に触れられねばならぬ。晴久がおらねば軍医に申すなれど」
「──うん、分かった」
兵たちの視線が鬱陶しいのか、吉は紅い扇子を開き、口元を覆った。貴人の動作に晴久以外は唖然とする。晴久様が高慢な天女様を拾ってきた、と陣の中はあっという間に大騒ぎになった。
「その扇子、綺麗だな」
遠目には紅い扇子だが、よく見れば薄桃色の桜の小花模様があしらわれている。母や姉も持っていないような、見事な扇子だった。
「晴久は、こういうものに興味があるのかえ」
「好きだよ。綺麗なもんは、好きだ」
きつも綺麗だ。それは言わず、心の中で呟くにとどめた。言うべきではないと本能が分かっていた。この女は、違うと。自分の生きる階級の女ではないと。
「近江の上布でこしらえたもので、ナ。わらわの国に参った行商の者が扱っておった」
「へえ。近江と行商がある国なのか。行ってみたいな」
「おいでたも。──尽くしたら、ナ」
何を言われたのかはすぐに分かる。うん、と頷き、晴久は笑った。吉も笑った。
「手紙を書いていいか」
「あれ、嬉し。文は好きだえ」
「そうか。手紙を書いたら、どこに出せばいい」
「尾張の織田上総介信長、と書けば、大抵届くのではないのかえ」
「また、そういう際どい冗談を言うんじゃねえよ」
腫れていた吉の右足に湿布をし、包帯の具合を確かめる。いくさ場での応急処置で、軍医から見れば不充分なものだった。それは晴久にも分かり、少々考えてから傍にいた軍医を呼ぶ。
「これで、大丈夫か。違ってたら教えてくれよ」
「え、──はい、拝見いたします!」
軍医や兵たちは驚くばかりだった。晴久がこんなことを言うのは初めてだったのだ。吉は晴久に微笑み、晴久も照れたように笑い返す。
包帯を軍医の指導で巻き直し、大丈夫でございます、と太鼓判を押され、晴久は安堵の溜息をついた。同時に馬の用意ができたと兵が知らせに来る。
「馬に乗ったことあるか。高いけど、俺が引くから怖くねえよ」
「よう乗る。大事ない」
「へえ、乗るんだ?」
「桶狭間では馬で駆け回ったのだえ。最後は降りたがなァ」
「だから、そういう冗談はよせって」
また吉はくすくすと笑う。よく笑う女だ、と晴久は思う。会ってからずっと笑っている。
だから自分も笑えるのだろう。こんなに笑ったのはいつ以来なのか、晴久自身も分からなかった。
不意に陣の入口が騒がしくなった。晴久は耳を澄ませる。少年には似合わぬ鋭い目になった。
「きつ、ここにいろ」
吉を怯えさせないようにと、できるだけ静かに立ち上がる。
その目と動作を見た吉が、扇子で隠した口元を、晴久が見たどれよりも深い笑みの形に歪めたとも知らずに。