もし、明日のことが何も分からなくても 01



今度の当主は話が込み入ると黙り込んでしまう、と家臣たちは囁き合った。
軍議でもろくに喋らず、たまに喋ったと思っても、反論されれば黙る。短気で物分かりが悪く、乱暴に座を蹴って退場することもしばしばだ。
いまだ若いとはいえ、いまだ経験浅きこととはいえ、いまだ──
「晴久様、それは前例がありませぬ」
老臣が苦笑混じりに言うのも、もう誰もが慣れ始めてしまった。
座に沈黙が降りる。
老いた家臣たちは内心で嘲笑にも似た感情を隠し、若い家臣たちは目配せをし合って晴久を心配する。
やがて晴久が口を開いた。
「今日はもう、いい」
予想通りの発言に、老臣たちは既に隠すのもやめ、笑ってみせた。無礼な、と晴久に近い年齢の家臣は憤るが、自身もいまだ老臣を抑える発言力がない。
晴久が不意に立ち上がり、部屋を出ようとする。
「晴久様、お待ちを」
「うるせえよ」
形式だけでも引き留めようとした老臣に言い捨て、晴久はそのまま、場を後にした。
老いた家臣たちは顔を見合わせ、さてどうするか、と話し合いを始める。無論若い家臣は目に入れられることもない。
若者たちは歯軋りをし、晴久が出て行った先を見つめるだけだった。


他国から来る旅人は砂混じりの風を嫌がる。
肩を竦め、防砂のために布を被る者もいる。
長く住む者は気にすることもない。風と砂で明日の天気を読む者もいる。
晴久は月に数度、砂丘へ行った。重要な防衛地点ということもあるが、祖父から与えられた重責から、僅かでも逃れる時間が必要だった。
一族の中には晴久が家督を継ぐことを反対した者も多かった。だが尼子の歴代の家系で人格者とされる祖父の発言力は強い。多少の混乱はあったが、尼子の当主は晴久で落ち着いた。

──何だって、俺が。こんなこと。

城下街を歩く。途中で晴久を見知る領民が挨拶をしてくる。いつものことだ。いつものように返事を返した。領民を無視するほど、晴久は特権階級を誤解してはいなかった。
「晴久様、大丈夫かねえ」
挨拶をし、晴久を見送った領民が溜息をつく。
「当主になられてから、お元気がないよ」
その呟きに周囲の領民たちも頷いた。
口数の少ないぶっきらぼうな少年だが、領民には好かれていた。端正な顔立ちも手伝ってか、若い娘たちの間では人気もある。武道の腕も立ち、実際、街に入り込み、通りがかった娘に不埒な真似をしようとしたならず者の集団を一人で叩きのめしたこともあった。
「旧い家来さんたちと、ぶつかっているみたいだねえ」
しっかりして下さるといいのだけど、と、誰もが言葉には出さずに思った。


今日は風が強い。風に混ざる砂の量が多かった。顔に当たっても痛いとは思わない。砂丘の砂は滑らかで細かく、白粉のようだった。晴久は数少ないながらも幾度かは触れたことのある、女の肌に似ていると思う。
「変わりは」
「ありません、晴久様」
「ご苦労さん」
砂丘を守る兵たちが詰める陣から少し離れる。彼らも晴久を理解し始めていて、一人にしてやろう、という風情で見送った。この戦国の世、まだ青年にすらなりきれない当主が最善を尽くすため、どれほどの葛藤と重責を抱え込んでいるのか、尼子の領地の者なら誰でも知っていた。
傍から見る者がいるならばあてもない風情で、だが晴久自身はしっかりと方向と道を把握しながら砂丘を歩く。人がよく歩く場所は道になっていて、砂が積もりはするものの、健脚であれば歩くことに支障はなかった。
今日は少し寒くなりそうだ。風の中に舞う砂の加減からそう思った。
砂の向こうに広がる砂丘を眺める。旅人は雄大な景色だと感動するが、晴久は一度もそう思ったことがなかった。
行けども行けども砂ばかりで、まるで、

──砂の海と、波だ。船が走れない、越えられない、不自由な海と波。

晴久は息を吐く。溜息だと、自分では認めたくはなかった。だが確かにそれは溜息で、家督を継いでから癖になりかけている動作だった。
急激に強い風が吹く。内心で舌打ちし、晴久は目を閉じ、唇をぎゅっと結んだ。この強さの風ではさすがに砂が入る。目は痛くなるし、口に入った砂は嗽をしない限りいつまでもじゃりじゃりと嫌な音を立てるのだ。
風をやり過ごし、目を開ける。

──何だ?

風に巻き上げられた砂の中に、紅い何かが見えた。
目を凝らす。それほど離れてはいない。
乱れた砂が収まり、また静かな砂原に戻る。
紅い何かはそこにいた。
夢だ、と思った。
紅い打掛を頭から被った女がいれば、それは夢だと思うしかないのだ。
女は今の風と砂をまともに受けたようだった。小袖の砂をうんざりした手つきで払い、もう、と小さく呟いたようだ。その声で、この女の存在が夢ではないのだなと晴久は思った。
女は次に草履をひょいと脱ぎ、手に持ってぱたぱたと振った。思わず晴久は噴き出してしまう。打掛を外出着に使うような上流の女がする仕草ではなかったのだ。人目がないから気を抜いたのか。
だがその笑いが聞こえたのか、女がはっと晴久を見た。
瞬時、晴久の本能が震える。女の動きは「女らしかぬ」ものだった。
あまりにも鋭かった。
だがその本能の震えに理性が気づく前に、晴久はまた夢か現かを疑うことになった。
その女は余りにも美しかった。頭から被った打掛の下から覗く貌だけでも充分に分かる。
砂よりもなおきめ細かい白い肌に、晴久が見たこともないほどに整った造形をのせている。
こんなに美しい女を見たことがなかった。現実にいるはずがない、とまで思った。
まるで伝説の天女のようだ──晴久は女を凝視しながら、いっそ惚れ惚れしたかもしれない。
女がふいと動く。晴久と距離を取ろうとしたのか、その動きはやはり鋭く、速かった。
「──おい!」
はっとし、晴久は声を挙げる。
「そっちに行くな、危ない!」
晴久が言い終える前に、女の足が砂に取られた。晴久は舌打ちと同時に走り出す。女は何とか均衡を取ろうとしたのだが、それも虚しい努力に終わった。丘の斜面に向かって身体がぐらりと傾く。
砂上の走行に慣れた晴久でなければ間に合わなかった。
道から外れ、砂丘を転がり落ちかけた女の手首を掴む。だが思った以上に女の身体は落下を始めていた。掴んだ晴久をも巻き込んだ落下が運命づけられる。
渾身の力を振り絞って女を両腕に収め、その頭を己の胸元に強く押し付けた。
「息を止めろ!」
女を抱いたまま自らの背を下にして、敢えて地を蹴って砂の海へ飛んだ。


それほどの距離を落下したわけではない。普通の国で言えば、坂道を転がり落ちたようなものだった。だがここの丘は砂丘だ。否応なしに砂をお供にすることになる。
晴久は慣れていると言えば慣れている。子供の頃、領民の子供たちと当然のように繰り返した遊びのひとつだった。無論、城で母や乳母に叱られるまでが遊びのひとつだ。
だが、見るからに砂に慣れていなかったこの女には驚愕の体験だったろう。
「大丈夫か」
まだ女を抱き、砂の海から天を仰いだまま声をかける。広がる空の色が妙に眩しかった。

──そういや、最近、空なんか見てなかったな。

「大事ない。そなたこそ、大事ないかえ」
晴久が聞いたことのない言葉だった。だがゆっくりとした喋り方や、今気づいた不思議なほどいい香りが、この女が貴人であることを教える。
「平気だ。慣れてる」
「そ。重畳。離してたも」
「え、──ああ、すまねえ」
まだ女を強く抱いていたことに気づき、晴久は慌てて腕を離した。女が息を吐いて身を起こす。晴久も起き上がった。
そして改めて、女が美しいのだと実感した。
「草履」
女が溜息をつく。
「砂の丘を歩くには、向かぬなァ」
「あ、──そうだな」
「ほうかえ。先に誰ぞに訊ねておくべきであった」
そして女は顔をしかめる。小袖の袖を口元に当て、喉を動かしているようだ。察した晴久は腰に下げた竹筒を取り出す。
「嗽、しろ」
女に押し付け、立ち上がって背を向ける。口から何かを吐き出す姿を男に見られるのは、女にとって恥ずかしいことのひとつだ。少なくとも晴久は、母や姉にそう言われていた。
女は晴久が気づかないほど静かに嗽を終え、「ありがとうの」と声をかける。
晴久はなぜか照れ、それを隠すために難しい顔をして振り返り、女を見下ろした。
「この国の女じゃ、ねえだろ」
「ちと野暮用にて、ナ」
「砂丘の歩き方も知らねえなら、来るな」
「ほんに、驚いたえ。そなたがおらねばどうなっていたことか」
「晴久」
「ん?」
「俺の名前だ。晴久」
尼子の姓は名乗らなかった。確かにこの地方では大勢力の姓だし、誇りにも思っているが──この女の前ではそんなことは無意味だろう、と、理由も分からず直感していた。それは確かに直感の領域であったが、祖父が晴久を跡目にした理由のひとつでもあった。
「吉」
「きつ? あんたの名前?」
「そ」
吉が差し出した竹筒を受け取りながら、晴久は彼女の打掛と草履の片方がなくなっていることに気づいた。ぐるりと辺りを見回す。二人はそれほど転がり落ちたわけでもなく、思ったより傍の斜面に、砂塗れになった紅い打掛があった。
無言で斜面を登り、拾い上げる。砂を払ってやろうかと思ったが、手にした途端に分かる高級な感触に、女の着物の扱いなど分からぬ自分が迂闊なことをするのはやめるべきだと判断した。草履もすぐに見つかったが、これは鼻緒が切れていた。
また斜面を降り、座り込んだままの女に打掛を渡す。
「ありがとうの」
吉が受け取り、微笑して礼を言った。そのあまりに美しさに晴久は言葉を失いかけたが、辛うじて「別に」と返すことができた。
吉の前に座り、草履を取る。持ち歩いている手拭を裂いた。無言で草履の鼻緒を直す。吉も無言で、じっと晴久の手元を見ていた。その視線に、晴久は何となく 居心地が悪くなりかける。気にしないよう、鼻緒を直す作業に没頭した。晴久は気づかなかったが、普通の女なら手拭を裂いた時点で恐縮するものだ。だが吉は 動じず、むしろ慣れたような顔をしていた。
「ほら」
出来るだけ丁寧に直し、吉の前に置く。吉が微笑み、晴久は努めて仏頂面を作るはめになった。
「晴久」
「何だよ」
普通は呼び捨てにするもんじゃねえだろう──そう思ったのは確かだが、晴久はこの女が「そういう身分」なのだろう、とおぼろげに理解していた。砂の向こうから来た女なのだ、俺の知らない世界から、と。
「何から何まで、ありがとうの」
「別に」
ぶっきらぼうに返し、また立ち上がる。
「俺んとこの陣まで送ってやる。そこから先は街から駕籠でも呼びな」
「ひとりで大事ないゆえ」
馬鹿を言え、また転がり落ちるぞ、あんたは砂丘を舐めている、そんな甘い場所じゃない──言いたいことが頭の中で渦巻く。
だが晴久は、自分の心をうまく口から出すことが苦手だった。
結局言ったのはこれだけだ。
「うるせえよ」
吉がきょとんとして晴久を見上げる。その表情に、晴久は一瞬で後悔した。選ぶべき言葉を間違えたのだと分かったのだ。
その後悔が顔に出た。そうじゃない、そうじゃなくて。だが後悔すればするほど焦り、焦れば焦るほど言葉が遠ざかって行く。
いっそ泣きたいとまで思った時、吉がにこりと微笑んだ。
その微笑が晴久を救った。
「晴久」
吉の白い指が、白粉のような砂を叩く。
「座りや」
なぜか泣きそうになりながら、それを堪えるため、晴久は必死で難しい顔を作り、無言でそれに従った。


砂丘に座り込んだまま、吉は晴久に何くれとなく質問をした。
どう歩けばよいのか、水の入った竹筒はいつも持ち歩くものなのか。それらの質問に晴久は言葉少なく答えて行く。
矢継ぎ早に言うのではなく、吉は思い出したように言葉を紡ぐのだった。
たまに沈黙が訪れるが、吉がそのたびに晴久に微笑みかけ、やがて晴久も笑い返すようになる。
話すことが苦手で、それに伴う沈黙も居心地が悪いと日々思い込んでいた晴久だったが、沈黙しても悪いことではないのだ、と知る。
「砂丘の砂は、こまく出来ておるのじゃな」
「ああ。だから、足を取られると滑る。さっきみたいに」
「先は驚いた。転がり落ちることもだけれど、晴久の足が速うて、ナ」
「そうか」
「そ。この国は誰でも、砂の上をあんなにも、速う走れるものなのかえ」
「そうでもねえよ」
俺は速いよ、と心の中だけで呟く。別段、言うべきことでもないと思った。
すると吉がくすくすと笑う。晴久が聞いたことのないような、上品な笑い方だった。母や姉も上品に笑う。だが、吉のこれは何かが違うような気がした。
「晴久は、自慢もせぬのかえ」
「自慢?」
「晴久は走るのが速かったではないの。なぜ、申さぬのかえ」
「別に。だって俺が速いのを、きつは知ってるし」
「でも、わらわはこの国の者が皆、砂の上を速う走れると思うたのだえ」
「──そうだけど、よ」
そうか、それもそうだな、と晴久は納得する。ではあの時、俺が速く走れるだけで、他の奴はそうでもねえよ、と答えればよかったのだと分かった。
「きつは」
「ん」
「そういうの、言うのか。いちいち」
「申す時もある、ナ。あらぬ誤解をされては困る時には」
「ふうん」

──そんなもんか。ああ、でも──

「そうかもな」
「そうだえ」
「誤解されないようにしねえと」
吉の笑みが深くなる。
「晴久は、誰かに誤解されたくないことがあるのかえ」
「うん、まあ」
普段の晴久ならこれで終わりにしていた。だが暫しの沈黙の後、吉が自分の言葉を待っているのではないかと思い至った。
「──たくさんの奴に話をしなきゃいけねえことが、ここんとこ増えてて」
「ん」
「話すのがあまり、得意でもねえし。なんか、さっきみたいになって」
「ん、ん」
「でもそれじゃ、駄目なんだよな。分かってくれるまで説明するのも、必要なんだよな」
「ん」
吉は頷く。晴久は黙る。
暫しの沈黙の後、晴久はぼそりと言った。
「と、思った」
「ほうかえ」
「以上、って言えばいいのか、こういう時」
「その方が親切やも、ナ」
吉がくすくすと笑う。晴久は苦笑した。
「それにしても」
吉が砂丘に目をやる。
「ほんに、海のような砂。丘が波のようで」
思わず晴久は声を出して笑った。自嘲に近い笑い方だった。──外から来た女が、同じことを思うとは。
だが、晴久とは違う気持ちで言ったことなのだろう。多くの旅人と同じく、感動したのだろう。
「海と波か。そう見えるんだろうな」
「ん」
「俺もそう思う。──船を出せない海と、船が越えられない波だ」
吉は黙り、晴久を見る。次の言葉を待たれているのだと晴久は理解した。
何を言えばいいのか分からない。家督を継いでから、砂と風のことを考えると、いつも感情が混乱するのだ。
吉は黙ったままだった。晴久は妙に焦りを感じた。

──待ってくれ、今考えているから。言葉が見つからないんだ。──ああ、そうか。

「きつ」
「ん」
「少し待ってくれ。言葉が見つかんねえ」
吉がにこりと微笑んだ。
「ん、ゆるり考えや」
その微笑に晴久は何とはなしに安堵し、息を吐いて笑い返す。

──言えばいいんだ、な。こうやって。

何だ。
簡単なことじゃねえか。