もし、明日のことが何も分からなくても 03



綺麗な女には、綺麗な男が侍って当たり前なのか。目の前の男を睨みつつ、晴久はどこか冷静にそう考えた。
涼しい目元をした男が晴久を見、馬から下りる。兵たちが道を開けたことから、晴久を大将だと見抜いたのだ。
「こちらに吉という姫がおいでのはず。お迎えに上がりました」
晴久はじっと男を見る。兵たちは息を呑んだ。確かに初陣は済んでいる少年だが、こんな状況に出くわしたことはないはずだ。
対して、陣に乗り込んだ単騎の男は──見れば分かる。確かに貴人のように美しい男だが、歴戦のつわものしか持てない、独特の血のにおいを隠そうともしていない。
その背にある、二双の鎌があまりにも不似合いだった。
どうするか、と兵たちが視線を交わし合ったその時、晴久が驚くほど堂々とした音声を発した。
「名乗れ」
男は明らかに鼻白んだ。間を乱されたと言ってもいい。まさかこの田舎の武士が、という顔だった。誰の目にも分かるはっきりとしたその表情に、兵たちは苛立ちを覚える。晴久は続けた。
「きつの知り合いにしちゃ、無礼じゃねえか。きつは俺に名乗ったのに、お前は名乗らねえのか」
「──あなたが呼び捨てて良いお方ではありませんよ」
「俺は尼子の当主だ」
「尼子の当主?」
「そうだ」
「あなたが、ですか」
男は不躾に晴久を観察した。並外れた美貌の男にこれをやられると、同性は謂れのない苛立ちを覚える。晴久も例外ではなかった。
だが、堪えることができた。

──俺は尼子の当主だ。ここは俺の領地だ。言うべきことを言う。するべきことをする。

「お前みてえな無礼者に、きつは渡さねえ。きつを迎えに来たなんて、信じられねえ」
「何を言いますか。無礼はどちらです、きつ様を攫ったのはあなたですよ」
「攫ってねえよ。これから城に連れて行く。お前が迎えに来たってんなら、城に来いよ。その時に会わせてやる」
「呼び捨てにするのはおやめなさい。私は気が長い方ですが、無礼者に与える慈悲はありませんよ」
晴久は息を呑む。だが男から目を逸らさない。
男の雰囲気が変わった。優雅な所作は変わらないが、血のにおいが増したような気がするのだ。経験浅い晴久でも分かるそのにおいは、手練の者であればどれほど構えるものであったのか。
「きつ様を返しなさい」
「お前は誰だ。名乗れ」
男の腕がゆるりと動く。背の鎌を取ろうとしている。
兵たちは息を呑んだ。
晴久は自らの鼓動が速くなったことを実感した。認めたくはなかったが──気圧されている。目の前の男に。

──俺は。

刀の鯉口を切った。男が鎌を取った瞬間に抜くしかない。
城下街ではならず者を斬ったこともある。
初陣でも手柄を残した。
だが、違う、と思った。
目の前の男は今まで出会ったどんな「敵」よりも、強大で異質だった。
それでも思う。唇を噛む。

──俺は、尼子の当主だ。

「今一度。きつ様を返しなさい」

──するべきことを。

「その前に、名乗れ!」

──するべきことを、するんだ。

「機会は与えました。慈悲はここまでにしましょう」

男の手が動いた。目にも留まらぬ速さだった。刃風が起こる。過去、数多の兵の血を吸った刃風だった。
誰もが晴久の血飛沫を予想する。
だが一閃の抜き打ち、抜きざまの一撃で、晴久は鎌を受けていた。
受けた瞬間に腕にかかる一撃の重みを理解する。それは剣士としての本能だった。
その場での残心、防御には移らず、刃の圏から素早く飛び退る。
「素晴らしい」
男が感嘆の顔を見せた。構わず晴久は青眼の構えを取った。
その姿に、見ていた兵たちは我知らず声を上げた。
あの少年がただ一人で、明らかに格上の相手に渡り合おうとしている。
「──晴久様!」
「晴久様!」
誰もが急激な興奮に襲われていた。侵入者への警戒だけではなかった。
あの少年が、当主という立場に押し潰されそうだった少年の背中が、不意に力強いものに見えたのだ。
それは信頼する当主を無意識に探す兵たちには何よりも驚愕であり、そして、よもや見つけたのではないかという現実に興奮し、声を上げる。
「尼子の当主殿、その度胸を賞賛しましょう」
ゆっくりと男が言う。だが声が少しばかり低くなっている。
気圧されるな。晴久は自らに言い聞かせる。鼓動が速い。どくり、どくりという血の音が鼓膜を破りそうだ。
何かが風を裂いた。
男と、晴久の手が同時に動く。男は袈裟に、晴久は逆袈裟に。
男の鎌と晴久の刀が、同時に一本の矢を打ち払っていた。
溜息をつき、男が鎌を下ろす。目で晴久に「終わりだ」と告げた。そしてあらぬ方へ目をやり、言った。
「きつ様、お戯れもほどほどになさいませ」
晴久は度肝を抜かれ、男の視線を追う。
「んん、外れてしもうたわ」
小屋の窓の桟につまらなそうに肘をかけた吉がそこにいた。
「やはり、片の足ではむつかしい、ナ」
兵から奪った、弓を手に。
「私に当たったらどうなさるおつもりなのです」
「うぬに当てるつもりであった。晴久に当ててなるものか」
「あなたはいつでも私をそう、足蹴になさる」
嘆いた声を出しながらも何となく男が嬉しそうだ、と晴久は不思議になった。
だが何よりも驚いたのは、吉が弓を扱ったことだった。しかも今の矢筋は「戯れ」でできる筋ではない。
明らかに、二人の斬り合いを止めるために、正確に放たれた一矢だった。
「晴久、迎えが参った。騒がせてすまなんだ、許してたも」
「きつ」
「ん」
「どういうことなんだ。こいつは誰だ」
「そのような穢れた男の名なぞ、晴久は知らぬでよいの。それはわらわの──何であろ」
「言うなれば夫ですね」
「死ねい、鳥肌が立つわ」
男の言にすかさず物騒な言葉を吐き、吉は晴久たちをまた驚かせる。本当に嫌悪感を露にした顔だったので、晴久は何となくほっとした。
「そういうわけで、ナ。これはまっとうな迎えじゃ。騒がせたの。許してたも」
「え」
「礼は改めて。──ほんに、有難う、ナ」
晴久は刀を納め、小屋へ駆け込む。男も緩慢にそれに続いた。兵たちは男を取り囲みつつ、男が一歩進むごとに一歩下がるという体たらくだった。結局男は小屋に入る。だが入った途端、吉の声が飛んだ。
「馬で参ったのなら引いて参れ。わらわに馬まで歩けと申すかえ」
「──かしこまりましたとも」
いつも歩いているじゃないか、とは心の中で呟く。
「きつ」
弓を兵に返し、座り込んだ吉の前に膝を着く。
「今の、きつがやったのか」
「弓かえ」
「うん」
「そ。中々よい矢筋であったろ」
「弓を使える女なんか、見たことねえよ」
吉がにこりと笑い、兵の目も気にせず、晴久の頬に触れた。
「尽くしたらば、知れようぞ」
晴久は唇を噛む。きっと何も教えてもらえないと分かってしまった。
このまま吉は行ってしまうのだ。あの男と一緒に。
「きつ」
「ん」
「手紙。書いて、いいんだろ」
「ん。嬉しや」
「どこに送ればいいんだ」
「申したえ。尾張の織田──」
「からかうなよ! 俺が餓鬼だからって!」
荒げた声を出したかったわけではなかった。だが感情が収まらなかった。子供のようにあしらわれて悔しい。あの男のような強さが、男らしさが足りなくて──悔しくてたまらない。
「ちゃんと教えろよ! 馬鹿にすんな!」
「──ん」
白い手が晴久の頬を撫でる。祖父が大事にしていた陶磁器のように滑らかな肌触りの指に、晴久は歯を食い縛る。何でこんな時に泣きたくなるのだろう、と自分を呪った。
「では、わらわが手紙を書こ。ちゃあんと名も住居も記すゆえ、ナ」
「嘘だ」
「たばかりは申さぬ。わらわは今日、晴久に会うてから、ひとつもたばかりを申しておらぬ。今更申して何になる」
砂丘でのあの時のように、吉の声は静かだった。
晴久は頬に触れる吉の指を握る。吉が微笑み、きゅ、と握り返した。
「国に戻ったらすぐに書こ。待っておくれたも」
頷くことしかできない。だがそれでも声を絞り出した。今日学んだことを、教えてくれた人に示したかった。
「待ってる」
だから絶対書いてくれ。ずっと待っているから。そう言いたかった。そう言うべきなのかと迷った。
言うべきことは言う、そう教えてもらったはずなのに、言うべきか言わざるべきか分からなければ口にすることもできなかった。
ただ、待ってる、ともう一度言った。
吉は少年の迷いを分かっているかのように微笑み、その白い指で、晴久の唇を撫でた。




それからひとつき経っても、吉からの手紙は来なかった。
そんなもんだよな。晴久は思った。
──そんなもんだよな。俺みてえな田舎のガキのことなんか、すぐ忘れてもおかしくねえような女なんだろう。そういう階級の女なんだ、きっと。
端正な顔立ちをした男の顔が脳裏から離れない。綺麗な顔をしていたのに、確かに一流の武士と分かるあの男。
きっとああいう男が、吉の周りには当たり前のようにたくさんいるのだろう。
旅先で戯れに、子供の相手をしただけだ。晴久はそう思うことにした。
──これが失恋ってやつなのかな。よく分かんねえけど。
吉を思い出すだけで、胸の奥をぎゅうと掴まれたような感覚に襲われる。それが切なさという名の感情だと、少年にはまだ分からなかった。
あれから周囲の目が少し変わった。陣で侵入者相手に見事に対峙した姿が、目撃した兵の口から漏れ伝わったのだ。お見事だった、素晴らしかった、晴久様は先代の祖父殿をも超えるだろう──飾り気なしの賞賛は城下街に流れ、領地の隅々にまでも広まった。
若い家臣たちが今までよりも熱心に色々な話をしたがる。老臣たちも武芸においては一目おいてやろうという顔をするようになった。
そして誰もが、晴久の口数が少し増えたことに気づいた。今までなら短い言葉で済ませていたことを、ふと気づいた顔をして付け加えることが多くなったのだ。それで人々は、晴久が思慮浅いわけではなく、自分の考えをうまく口出せない性格なのだと理解するようになった。
「晴久様!」
若い家臣の一人が、城の晴久の部屋へ転がり込む。地図を前に難しい顔をしていた晴久だが、家臣の慌てように何か重大事が起きたのかとどきりとする。
「どうした」
「書簡が」
「書簡?」
まさか、と思う。まさか吉から──だがすぐにその考えは捨てた。もうそんな甘いことを考えるのはやめようと決めた。
家臣が告げたことは、それよりも驚くべきことだった。
「尾張の、織田上総介信長殿から! 書簡が参って御座います! 天下布武の花押あり、間違いございませぬ!」
「どこにある」
鼓動が跳ね上がった。なぜだ、と胸が騒ぐ。そして認めたくはないが、織田信長という名だけで脂汗をかきそうになった。遂にこんな地方にまで手を伸ばすというのか。よもや宣戦布告なのか。忘れると決めたばかりの女を思い出した。笑って、織田信長の名を騙ってみせたあの女を。
──まだだ。まだだよ、きつ。港も、金山も銀山も、まだなんだ。どうすればいい。俺じゃ領地を護れないのか。
家臣を見る。不意に気づいた。
彼がとても、不安そうな表情をしていることに。
反射的に晴久は、

「何とかするさ」

微笑んでいた。

「俺が当主なんだからな」

するべきことを。言うべきことを。
当主として、できることは全て尽くそう。
当主として、家臣を、民を護る。その方法はまだ分からない。
だが、手探りでも現実に乗り出さねばならない時だった。


家臣一同が揃った部屋へ入る。普段は軍議を行う部屋だった。
老臣も若い家臣も、一様に落ち着かない顔をしている。
晴久が上座に座ると老臣の一人が進み出て、恭しく書簡を差し出した。織田信長からの書簡だ。
出来る限り平静を保ち、書簡を受け取る。
「……?」
指先に違和感を感じた。作法通りに折られた紙の中に、少し堅い何かの感触を得る。
この手紙に何が書いてあるのか、晴久にはまだ分からなかった。だが、この地の運命を決定付けるものかもしれないということは誰もが予想している。
今や天下を統一しようかという織田家が、無血開城を迫る書簡であるのか。
同盟という甘い話を持ちかけ、実質的に配下とするつもりの書簡であるのか。
家臣たちの視線を感じる。
不思議と、怖いとは思わなかった。
護るんだ。ただそれだけを思った。
意を決し、指先が震えぬよう虚勢を張りながら、丁寧に書簡を開ける。
「……ほんとかよ」
思わず零れたその言葉に、家臣たちは絶望の顔をした。織田の宣戦布告なのだろう、と最悪の予想をしたのだ。
だが、そうではなかった。
晴久は書簡を見つめていたが、やがて、堪えきれずに笑い出してしまった。
「はは、──おい、本当か、これは」
重圧に耐え切れず、遂に狂ったのかと家臣たちは更に絶望する。この状況で当主が狂ってしまっては!
その視線に気づき、晴久は「狂ってねえよ」と言いつつ、それでも笑ってしまう。
笑うしかなかった。

書簡の中に、紅い扇子が巻かれていたのだから。

【領主尼子晴久殿より大恩賜りし過日の御礼、書簡にて失礼なれど申し上げ候】

手紙は美しい文字で書かれていた。文字を見ただけで、ああ、吉の字だ、と分かった。あの綺麗な女なら、美しい文字を書くだろう。

「……あのさ」

【風凪ぐ海、金の砂、銀の風】

「このまま、会議していいかな。俺、話すの、あんまり上手くねえんだけど」

【夢と終わらず、現と成らむ】

紅い扇子を開く。
薄桃色の小花の模様から、微かに、吉の香りがしたような気がした。

【良き御話拝聴の為、再び御目に掛かりたし、御心置留め候へ】

これはどういうことだろう。晴久は考える。ずっと考えてきたことを思い出しながら、また考えた。
織田家にはどう足掻いても対抗する力がない。
たとえ港が、金山や銀山が見事に拓けようとも、既に時間が足りないことは分かっている。
織田信長は近い将来、晴久が全てを成功させるよりも早く、天下を統一するだろう。
その中でどう生き延びるか。どう護るか。
家臣たちには歓迎されない方法までをも考えた。だが一番将来性があるのはそれだと確信していた。
今、その方法が急激に現実味を帯びて脳裏を駆け巡る。
「吉」の流麗な字と優しい言葉に隠された、「信長」の意思が見え隠れするのは気のせいだろうか。
選択肢を与えられている。確実に感じ取った。
それは吉の気まぐれなのか、それとも礼のつもりなのか。

護るとはどういうことなのか。
限られた条件の中、どのような選択ができるのか。
それを教えてくれたような気がした。

「全部話すから、全部聞いてくれ」

これもまた、護るということなのだ。
晴久は今、理解した。
家臣たちは動揺するだろう。反対する者もいるだろう。領民は晴久を裏切り者と謗るかもしれない。
だが、少年は未来を掴む選択をした。絶望の向こうにある未来を目指すのだ。
今は誰もが苦難に直面しようとも、自分が屈辱に塗れようとも、護らねばならぬものがある。

「尼子は織田に下る。そして織田の力を利用し、港と金山、銀山を拓く」

ざわめく家臣たちを見ながら、扇子を閉じ、胸に入れる。

「織田が要請するよりも早く、こちらが申し出る。待遇や条件が劇的に変わるはずだ」

正しい選択なのか、晴久には分からなかった。
だが今ここに吉がいれば、あの優しい微笑を見せてくれるということが、なぜか分かった。

蒼褪めて話し合う家臣たちから目を逸らせ、再び書簡を見る。
美しい字と文章の最後に、やはり流麗な筆で「織田上総介信長」と書かれている。
その横に──まるで筆が滑ったかのように、あの時に足を滑らせたかのように、僅かばかり崩した字で書かれていた文字に、笑えばいいのか泣けばいいのか分からない感情に襲われた。
分からないまま、小さな小さな声で、その文字の音を唇から零した。
誰にも聞こえぬよう、小さく。


きつ。