紅色日和 03



「そもそも、佐助は男だ。それがしも」
半ば自棄になって、幸村はもう笑うしかなかった。
だいぶ時間が経っていることに気づく。あと一刻もしないうちに陽が傾く頃だ。
流石に幸村は心配になった。他国から来たと言うならば、迎えに来る者もおそらくそうだろう。慣れぬ甲斐で道に迷っていることも考えられる。
「きつ殿、やはりお送りした方が良いと思う。迎えの御仁が遅すぎはしないか」
「ん、不本意なれど、どうしたものやら」
吉が拒否することも予想してはいたのだが、幸村は吉の眉が僅かに潜められたことに気づき、首を傾げる。
「こうまで無能であったとは、の」
「無能? 迎えの御仁が?」
「まァ、常は良き頭脳なれど、ナ。たまァに斯様なあほうになるわ」
「あほうって……」
「それより、ゆき。ゆきはいくさ場に出たこと、あるのかえ」
「それは無論だが」
話を逸らされた、と気づいた。確かに出会って間もない関係で、あまり深い話をしたくはないと思われても当然だろう。幸村は反省しつつ、今暫く吉と時間を過ごすことにする。吉のためでもあるが、何より自分が楽しいような気がしていた。
「お館様にお連れ頂いて、よく」
「お館様」
「ああ、申していなかった。それがし、武田信玄公の部下にござる」
細かい身分は言わなかったが、これはいつもの癖のようなものだった。「武田軍副将」という肩書きが当然のように生活に浸透していて、また、生活する範囲もそれが無言で通じるような場所ばかりだ。少年と青年の狭間にある幸村の世界はいまだ狭かった。
「あァ、ゆきは立派な殿方であった」
「また、心にも無いことを」
吉は肯定も否定もせず、ただ、またくすくすと笑う。
「佐助も一緒に参るのかえ」
「無論。それがしと佐助は、いつも一緒だ」
それから吉は少し、いくさ場の話を聞きたがった。幸村は暫し考え、前線での残酷な話よりも、女性が聞いても大丈夫そうな、いくさの間のちょっとした出来事を選んで話すことにした。
熟練の足軽に武士が助けられることもあるという話、糧食が案外美味いのだという話、捕虜にした者の方言がきつすぎて意思疎通に難儀した話。
信玄の話をすることは避けた。いくら敬愛する主君の話を自慢したいと思っても、人となりを他国の者に迂闊に話して良いとは思えない。吉はおそらく身分上、そういうことも分かっているのか、信玄についてはあまり質問をすることもなかった。
そしてまた、いつの間にか佐助の話になっている。
あのいくさで佐助がとても凄い働きをした、自分は助けられた──そんな話になってしまう。
また佐助のことばかりを話していたことに気づき、幸村は苦笑した。すると吉が「ふふ」と笑う。
「ゆきはほんに、佐助が好きなのだえ」
「好きと言うか──はは……」
「まるで」
吉が言う。
「佐助に恋うる者のようじゃ」
瞬時、何を言われたのか分からない。
吉の言葉が実感を帯びて脳に達したその刹那──
「な、に、を、言っ──!」
「うるさ」
「あ」
「ハテ」
勢い余って岩場に立ち上がった幸村がぐらりと揺れる。
足が滑ったのだ。
「頭」
吉が呆れたような顔をして、言った。
「打たぬよう、気をつけたも」
そして幸村は、見事な水飛沫と共に浅瀬に転がり落ちていた。
「……何してんの、旦那……」
佐助はもう、溜息をつくしかなかった。
さすがに吉が何かをしたとは思えなかった。幸村が突然立ち上がり、勝手に足を滑らせ、転がり落ちた。
ただそれだけだ。
「お」
冷静な意識を残したまま、それでもやや男としての顔が出る。
幸村が上げた水飛沫に、岩場の上の吉も巻き添えとしてずぶ濡れになっていた。
季節柄、それほど薄い布地でもなかっただろうが、それでも──
「いい身体してんなあ。旦那、褒章モン」
濡れた着物がぴたりと張り付き、思っていた以上に魅惑的な肢体の曲線が露になっていた。


踝までも水がない浅瀬だ。流されることはなかった。落ちた時にも持ち前の運動神経で急所への衝撃を避けることができた。
とはいえ濡れ鼠だ。吉にも飛沫がかかり、結局は二人でずぶ濡れになってしまった。
「きつ殿、申し訳ない」
「わらわも悪い」
「水を被ったことなんてないだろうに」
「気に病むでない」
言いながら吉は髪をかき上げる。隠されていた魅惑的な身体の曲線に、幸村は目のやり場に困った。 幸村の生きる世界でこんな線を見ることがなかったのだ。佐助であれば気の利いた一言も言うか、冷静に行動しているだろう、と思い、自分が少々情けなくなる。
「それより、頭を打たなかったかえ。その方が心配ぞ」
「ああ、それは大丈夫。子供の頃から身体だけは軽くて」
「ならば良い」
「あ」
岩場に上がってから幸村は自分の失策に気づき、また情けなくなる。
「きつ殿、更に申し訳ない。頂いたものを濡らしてしまった」
「あれ、ま」
手にしていた紅い袋もびしょ濡れになってしまっていた。中の菓子も同じことだろう。これではもう食べられないし、佐助にもあげられない。何よりも吉の好意 を無駄にしてしまったような気がして、幸村はいわば自己嫌悪に陥る。それを察したのか、吉が「よい、よい」と優しく言った。
「また会うた時、やまほどあげよ。それはわらわが持って帰るゆえ、ナ」
「何だか」
「ん」
「子供に言っているような」
「何を申すかえ、立派な殿方に」
「いや、うん……」
すっかり子供扱いだ、と幸村も流石に気づく。何とも情けない気分だった。
これでも武田軍副大将、いくさ場に出れば多くの部下を動かす者であると言うのに、吉の前ではほんの子供のように思われている。男として悔しいが、言い返せないのも確かで、どうにも複雑な気分だった。
「まったく」
幸村は溜息をつく。
「これではそれがし、ろくなお役目も果たせぬ気がしてきた」
「お役目」
「明日は客人が参られると言うのに、何をしているのだか」
言ってから、あまり公にはできないことを口走ったことに気づいた。これ以上は言わないでおこう。自分の未熟さを呪った。佐助がいれば間違いなく叱られたはずだ。
「ふふ」
吉が微笑む。
「ゆきはまだ、未熟だえ」
「そうもはっきりと、申されては……」
「でもなァ、部下ある身なれば、いつまでも未熟では困る、ナ」
「それはいつも、思う」
「ほうかえ」
吉が少し息を吐き、楽な姿勢で座り直した。濡れた髪をまたかき上げる。普通の男が見れば扇情的であったかもしれないが、いまだ性に対して未熟な幸村には、ただ、綺麗なものにしか見えなかった。
「ゆきが主ならば、護っておやりや」
「護る?」
「今のゆきは、佐助に護られておるようだえ」
「それは──否定できぬ」
「それでは」
女の声は穏やかだった。
穏やかなまま、それでも、厳然と言った。
「ならぬ」
何を言われたのか分からなかった。吉を見る。綺麗な顔は相変わらずだ。
だが、どこか──幸村の言葉ではまだ言い表せないような──何かを慈しむ、いろがある。
「護ってくれぬ主なぞ、部下は見捨てようぞ」
「護る」
「護って、与えてこその主ぞ」

与えられねば捨てておしまい
与えるものなくて、されど
与えたければ奪わねばならぬ
それが他の国であろうと
いかな禁忌の地であろうと
与えておやり
護っておやり

名誉
食料
何でも良いの
与えておやり
奪いにお行き
そして
安堵させておやり
日の本いかに乱れようとも
主の下なれば
安堵して生くる日
できようということ

川面を眺めながら言う、吉のその声は静かだった。
幸村はただ、彼女を見ていた。

最初は天女だと思った。
今は、

違う、

と、思った。

「其れぞ」


ここにいるのは、まるで──


「戦国の世に生くる主の定めよ」


まるで、


戦国武将だ。


「……きつ殿」
「ん」
「きつ殿」
「何え」
吉が川面から目を離し、幸村を見る。そして微笑んでみせる。
あの、天女のような微笑を見せる。
きつ殿。確かに呼んだ。だが言葉が続かなかった。聞いてはいけないような気がした。


あなたは、誰。


「きつ……」
「ゆきは」
静かに、静かに、吉は言った。
「かわゆいね」
「きつ殿」
「わらわと来るかえ」
「え」
「佐助も一緒でよいよ。来るかえ」
「佐助」
「そう。来るかえ」

白い指が動く。
幸村の頬を撫でた。その指の冷たさに幸村はぞくりと身を震わせる。
もう一度、吉が言う。

──来るかえ?

「きつ、ど、の」
「──あァ、無粋な」
「え」
「──いたッ!」
馬の蹄と男の怒鳴り声に、幸村は瞬時にして武人の顔になる。岩場の上で吉を守るにはどうすれば良いか、吉を背にかばい、素早く立ち上がりながらいくつかの手を考えた。

背の後ろで吉が、口元を──深い笑いの形に歪めたなど、知ることもなく。

単騎で駆ける男は明らかに、一流の武士と分かる風体だった。一対一、吉を護っての至近距離での戦いは分が悪い、どうするか──考える幸村に、吉が声をかける。
「ゆき、時間ぞ」
「きつ殿?」
「また、の」
「きつ──」
「──貴様、誰か!」
岩場の目の前で馬を止めた男が、空気を裂くかのごとき大音声を上げた。うるさいと思いつつも、幸村はその男が、想像以上に整った顔立ちをしていることに驚いた。
「我が名は──」
「着物をおくれ」
名乗ろうとした幸村の背後から、吉がのんびりと男に言った。男は吉に目をやり、あられもない吉の姿に目を見開き、またも大音声を上げる。
「貴様、よもやきつ様に不埒な真似を!」
「無礼者、するはずもない! 我が名は──」
「あァ、両者、うるそうてならぬ」
「きつ様!」
「きつ殿!」
「ゆき、ご覧。あれがわらわの口やかましじゃ」
吉はくすくすと笑う。幸村はこの二人の態度の差に、これは一体どうすればいいのかと迷いに迷った。
だがやっと気づく。
この男が、「迎えの者」だ。
「しかしきつ様、これはどういうことですか! 突然お姿見えなくなったと思えば! 我らが如何にお探ししたか──」
「えっ」
驚いたのは幸村だった。吉は待ち合わせをしていたのではないのか。男の言うことが本当ならば、吉は誰にも何も言わずに抜け出して来たというのだろうか。──どう見ても、独り歩きが歓迎される身分ではないはずなのに。
「ろくに離れておらぬわ。今の今まで探せぬ方がおかしかろ。いつまで馬上じゃ、偉そうにの。早うわらわをここから降ろしたも、間抜け、気の利かぬあほうめが」
そして、ゆき、と呼ぶ。
「アレは厄介な男での。わらわを降ろしている間に、逃げや」
「逃げる──」
頭に血が上りかける。これでも武人、敵とあらばなぜ逃げようか、舐めるな──口を開きかけた時、吉が微笑んだ。
微笑み、人差し指を自分の唇の前に立てる。
「ゆきと戦こうてアレが死んでは、わらわがたまらぬの」

アレはわらわの部下ゆえ、ナ。
護ってやらねばならぬ。

そう言われては──幸村も、人差し指を唇の前に立て、苦笑してみせるしか、なかったのだ。
吉が胸元からなぜか扇子を取り出し、笑みを深くした。
幸村の、背後に向かって。


幸村の背後となった藪の中──佐助は完全に、吉にしてやられていたのだ、と悔しいながらも認めざるを得なかった。
「あの女」
吉はずっと佐助の気配を感じていたのだろう。扇子を出したのは、あの扇子での立ち回りの時も佐助に気づいていたという意思表示だ。
幸村を最初の位置に座らせたのも、国をはっきり言わず、三河へ寄って、とだけ済ませたのも、全て佐助の存在のせいだったのか。
それは取りも直さず、佐助が「どういう者か」を見抜いていたことにもなる。
「二度と会いたくねえ。あんな化け物みてえな女」