紅色日和 02



幸村はあまり、女性と接したことがない。
普段も見かけるのは城下街の娘に城の下女、少し身分の高い侍女、あとは年に数度、信玄の妻を垣間見る程度だ。自分から話しかけることは滅多にないし、話しかけられることもまた同様。
だが、その彼女たちの体力がどの程度か、見れば大体分かった。
きつ殿はその「大体」から外れている、と思った。優雅に歩いてはいるが、茶屋からの距離は既に結構なものになっている。それでも疲れひとつ見せず、速度が落ちる気配もなかった。
獣道に近い藪道をも気にせず歩く。天女のような外見からはあまりにも予想外な姿に、幸村は呆れ半分、感嘆半分だった。
しかし──悪路を歩き慣れている足取りだ、とも、思う。
「きつ殿は、こういった道をよくお歩きになるのか」
「たまさかに、ナ」
「天女様のようなお姿からは想像もできぬ」
吉はまた笑っていた。
やがて藪を抜ける。吹く春風に水のにおいが混ざった。目前に現れた浅瀬の大きな川に、吉が「ほ」と声を挙げる。
「立派な川であること」
「釜無川だ。今少し経てばもっと増水する」
「ここが。大きゅうて驚いたえ」
「水、冷たいぞ。気をつけられよ」
「歩いて暑い。ちょうどよし」
吉は近場の大きめの岩を見つけ、市女笠を投げ捨ててそこに腰をかけた。初めて見せた優雅以外の動作に驚きつつ、幸村は笠を拾う。
気づいた吉が微笑み、自分の隣を指先で叩く。
「おいでたも」
「そこに置けばよろしいか」
「違うえ。おいでたも」
隣に座れと言われている。さすがに幸村は驚いた。女が男に言うことではない。
「きつ殿は、変わっておられる」
正直に言った。吉は気分を害した様子もない。
「気にもならぬ。よい、おいでたも」
幸村は諦めた。この女には逆らえない、となぜか感じていたし、何より、「女」として意識しなくても良いような気がしたのだ。女が嫌いなわけではない。だが、色恋や秘め事より、熱を注ぐものがある不器用な少年としては、吉という女は構えずに済むありがたさがあった。
それなりに大きな岩だったので密着はせず、ほどよい距離を保って隣に座る。
吉からは良い香りがした。何か香を使っているのか、と幸村は妙に照れ臭くなる。
春の風と水の気配が、あたたかい日差しと共に幸村を撫で、歩いて僅かに火照っていた身体を癒した。
「最近ここには来ていなかったが、気持ちのよいものだ」
「そうかえ」
「きつ殿はこういう場所がお好きなのか」
「山や川はよう、入るえ。すぐ形が変わるゆえな」
「形が変わる?」
「大きな変化はなけれど、小さな。ひとつき前には小さかった木が育っていたり、知らぬ花が咲いておったり、浅瀬が少うし深くなっておったり」
「ふむ、そういう楽しみもあるか。女性らしい」
吉がくすくすと笑う。幸村はなぜ彼女が笑うのか分からなかったが、嫌な笑われ方ではなかったので、素直に笑い返した。
「ゆきは、あまり参らぬのかえ」
「ゆ、ゆき?」
「参らぬのかえ?」
そのような呼ばれ方は初めてだ、武士の名を何と心得る──本来ならばそう怒るところだろう。だがどうにも、吉には毒気を抜かれてままならなかった。
「昔は、よく。手習いが嫌いで、抜け出しては遊びに来ていた」
「字は大事ぞ。字の上手き殿方の、何と色良く見えようことか、知らぬであろ」
「色良く?」
「男振りが上がるのだえ」
「それはいけない。それがしは字が下手で下手で」
「そ。折を見て、筆をお持ちや」
「時間が──時間が、あれば。うん」
幸村は鼻をかいた。どうにも武芸以外のことは苦手だ。佐助にも呆れられている。俺様より上手くて当たり前のはずなのにさ、と。
佐助は字を習わなくても、幸村が知らないうちに読めるようになっていたし、仮名程度なら書ける。しかも幸村よりも整った字を書く。幸村はさすがに仮名も漢字も読み書きできるが、吉に言った通り、お粗末な筆だった。
「時間は決めておられぬのか?」
「時間?」
「その、迎えの御仁との待ち合わせの時間を」
「──おいおい、ナ。今頃、焦っているであろ」
「そうか」
ではもうすぐその時間なのだろう。
「よかった。それなら、陽が落ちる前に帰れる。それがしは慣れているから良いが、暗くなれば男でも一人歩きは危ない道だ」
吉がゆっくりと首を巡らせ、幸村を見る。幸村はこれほどに美しい女にじっくりと見られたことがないので、何とは無しに緊張してしまった。
そして吉が微笑んだ。
「ゆきは、誰にでも優しいのかえ」
「それがし、優しくしているつもりはない」
「優しいではないの。わらわを追って来たり、そのような心配をしたり」
「きつ殿は女性ではないか。しかも、大層お綺麗な。心配ではなくて、男として当然のことだ」
「ほ」
吉はまた、幸村を見る。丸くなったその目に、何かおかしなことを言っただろうか、と幸村は心配になった。
だが吉は笑い出したのだ。
「あれ、ま。何とまァ、なァ」
「何がおかしいのだ」
言いつつ、幸村は恥ずかしくなってしまった。顔が赤くなったと自覚する。年上の、しかも綺麗な女性に、こんなふうに──まるで弟をからかうかのように笑われた経験がなかった。
「笑うてすまぬ、すまぬ。許してたも」
「いや、その、何がおかしいのか、それがしには分からぬ!」
「おかしいのではなくて。わらわの周りにの、斯様なことを申す者がおらぬでな。目新しくて、つい」
吉はそう言って、また「許してたも」と付け加えた。幸村は息を吐き、おそらくまだ顔が赤いままだろうなと自分で思いながらも岩の上に胡坐をかいた。
「きつ殿は、意地悪なのか。からかうとは」
声が拗ねてしまったのは仕方のないことだった。自覚はなかったが、すっかり年上の女に遊ばれている。
「斯様なつもりはなけれど、意地悪と申されたこともなし」
「そうか。では、珍しいことなのだな。申されるのは」
「わらわ、意地悪かえ」
「少し。何やら、恥ずかしかった」
「やれ、許してたも。立派な殿方に、無礼であった」
「いや、それも、なあ……」
幸村は苦笑いだ。今までの扱いで、突然「立派な殿方」と言われても信憑性がない。
きっと、吉はたくさんの「立派な殿方」と接する機会があるのだろう。幸村は思った。何より吉自身が「立派な女性」だ。そのような女性にはそれなりの男性が近づくはず。
上流の雰囲気を隠そうともせず、ひとり歩きをするあたり、無謀で世間知らずであるのかもしれないが。
「詫びにこれ、あげよ」
腰帯に下げていた紅い袋から、吉が小さな何かを取り出す。懐紙に包まれていた。
「何だ」
「団子も少しは消えたであろ。手を出しや」
「だから、何」
「いいから出しや」
吉が手を伸ばし、幸村の手を取った。女性が何たること──幸村は驚愕するどころではなかったが、吉は全く気にしていないようだった。
慌てる幸村の手に置かれたのは、小さな饅頭のような菓子だった。
「一口香というもので、ナ」
「いっこうこう?」
見た目は饅頭だが、手触りがぼうろのようだ。
「わらわの好物で、ナ。遠出の時はつい、持ち歩いてしもうての」
「頂いてよろしいのか」
「お食べや」
「では、ありがたく」
そこは健康すぎる胃の腑を持つ少年だ。見たことのない美味そうな菓子に、先ほどまでの驚愕もどこかへいってしまう。
月見団子ほどの、一口で食べられそうな大きさだったが、小さな頃からの癖でまず少し齧った。
「えっ」
思わず驚いた幸村に、吉はしてやったりと言いたげな顔で笑う。
「驚いたであろ。皆、そうなのじゃ」
「うん、これは──面白い。中が空洞なのに、甘い」
皮の中身は空洞だった。よく見れば、皮の裏側に一度溶けて固まった、飴状の黒糖が張り付いている。口に入れた途端、ぼうろ状の皮と一緒にこの黒糖がふわりと舌の上で溶けていく。齧った時に中の空洞から抜ける空気感がまた面白い。
「これはどこの菓子なのだ? それがし、このようなものは初めてだ」
「わらわの国のものじゃ。甲斐にはなかろうなァ」
「きつ殿は──いや、何でもない」
どこの国から来たのだ、と訊きかけたが、茶屋で佐助がぴしゃりとやられた時のことを思い出してやめた。吉もそれを思い出したのか、また笑う。よく笑う女性だ、と幸村は思った。
「国を出て、三河に寄って、諸々頼まれものありて、ナ」
「──それはまた、遠いところから! お会いになる御友人も、さぞ喜ばれるだろうな」
「どうであろ。わらわ、あまり好かれてはおらぬえ」
「まさか。きつ殿を嫌う者なぞ、きっと少ない」
吉がまた、笑う。
「その菓子。気に入ったのなら、全部やろ」
「それではきつ殿の分がなくなってしまうから、結構だ」
「わらわは国に帰ればいくらでも」
「いや、しかし」
それでは悪いから、と重ねて言おうとしたが、不意に幸村は唇を尖らせて鼻から息を吐いた。
「では、お言葉に甘えて、ひとつだけ頂けるだろうか」
「ひとつで良いのかえ?」
「本当は、これを持って帰ろうと思ったのだが」
まだ手にある、食べかけの一口香を示す。
「これは食べた瞬間の驚きも大事だ。これでは食べる前から分かってしまう」
「誰ぞにやるのかえ」
「先ほどの佐助に、やってもいいだろうか?」
「そういうことなら、持って行きや。これごと」
「あ、いや、袋ごとではなく! ひとつだけで!」
「手に菓子だけ持って行くのかえ。よいから持って行きや。また会うた時に袋を返してたも」
いやしかし、と繰り返し辞したのだが、結局は吉が幸村の手に握らせて押し切ってしまった。
「また、と申されても。また次、いつお会いできることやら」
「すぐ、すぐ」
吉は楽しそうだ。幸村は諦め、鼻をかいて苦笑した。大事に取っておこう、と思った。
「佐助とは、身分が違うであろ」
「お分かりか」
「分かる。ゆきが諫めておったからの」
「諫めた──ああ、まあ……失礼した。佐助は良い奴なのだが、稀にああいうことを」
いつもは自分が諫められてばかりなのだが、それは男の矜持として黙っておく。
「普段は、きちんとした奴だ」
「そんな風情じゃの。茶の飲み方が綺麗であった」
「そういうのも、大事なのか」
「笠で顔は見えねど」
吉が人差し指を口の前に立てる。
「あれは、男振りが良いと見た」
「──その通りだ!」
幸村は笑った。そして自分が褒められたかのように嬉しくなってしまう。役目上、佐助のことを表立って褒めてくれる「他人」はあまりいないのだ。幼い頃から 共にいる佐助を何よりも信頼し、兄のようにも思っている幸村は、吉のような美しい女性に佐助が褒められたことが嬉しくてならなかった。
「佐助は良い男なのだ」
「そうなのかえ」
「何でもできるし、何でも知っている。それがし、幼き頃から世話になり通しなのだ」


「三河へ寄って、と」
川辺の藪の中、二人の会話を辛うじて拾えた佐助は心の中に刻み込んで行く。だが、集音の技を持ってしてもろくに聞こえなかった。
「嫌な距離だ」
開けた川辺ではこれ以上近づけない。明らかにあの女がおかしいことは分かるが、幸村が障害物になり、佐助の位置からは吉の姿が身体半分しか見えなかった。
「後で、旦那に訊かねえとな」
それにしても、と佐助は思う。
──あの女、わざとあの位置に座ったんじゃねえだろうな。旦那を座らせたのも考えた上でのことか?
「……まさか、な」
さすがに考えすぎだろう、と自らで否定した。だがどこかで、その可能性を捨てるなと言う自分もいる。
茶屋での目、屈強な男を扇子で叩きのめした技。
クナイを一本、握り締める。
僅かでも幸村に危害を加えるようなことがあれば投げるつもりだった。


幸村はしばらく佐助の話をした。役目のことは流石に伏せたが、とにかく佐助の話ができることが嬉しかった。吉はいちいち頷き、微笑んだりもする。それがまた、幸村には嬉しかった。
「ゆきは佐助をよう褒める」
「うむ、こんなに褒めるとは自分でも意外だった」
話し始めると、次から次へと褒めたいことが口から出て止まらなかったのだ。そう言うと吉はまた微笑んだ。
「不満なく付き合える部下というものは、大事ぞ」
「部下。──ああ、部下。そうか」
幸村は思わず鼻の頭を掻く。部下、と言う言葉に妙な違和感を感じた。今まで、今のような関係が当たり前で、部下だと意識したこともなかったのだ。
「付き合いが古すぎて。本当に子供の頃から一緒なものだから、部下だなんて思ったことがなかった」
「ほうかえ」
ああそう、と言う意味だが、幸村には分からなかった。吉が浅瀬に目をやり、幸村も釣られて見る。陽光が川面に反射していて、少し目が痛かった。
「まァ、歯に衣着せず物申す部下は、貴重なものであろ。特に殿方は、ナ」
「歯に衣着せず──ああ、確かに。それがしが何か失敗すると、口うるさくて」
「部下なのに、口やかましなの」
「口やかまし、と言うのか」
普段の生活ではあまり聞かないその言葉が新鮮で、幸村はつい笑ってしまった。すると吉も笑う。
「その口やかましは、嫌ァなことを申すのかえ」
「嫌ではなくて」
そこは慌てて否定する。佐助が言う言葉を嫌だと思ったことなど一度もない。
「それがしが小さい頃から、ずうっと一緒にいてくれるのだ。嫌なら一緒になんて」
「小さい頃から」
「うむ」
「許婚かえ」
「──違う違う、違う、きつ殿、根本的に間違えている!」
許婚。誰が。共に男性である自分と佐助が! 冗談にもほどがある、まるでからかわれたようだ。
それに許婚などという言葉そのものが、幸村にとっては未知のもので──
「い、許婚、など、口にするのも、は、破廉恥、な……!」
吉がきょとんとして幸村を見る。幸村は気づいていなかったが、真っ赤になった顔だけではなかった。眦に涙まで浮かべていたのだ。
「ハテ」
吉が袂で口を押さえる。
「ハテ、コウ」
それが何とか笑いを堪えたい時の言葉だと、幸村は知らない。吉はしばらく、ハテ、コウ、ハテ、と言い続けていたが、やがて──
「──あは……!」
耐え兼ね、努力も虚しく、腹を抱えて笑い出したのだった。
「酷い」
幸村は笑われた理由が分からないまでも、自分の言動がおかしかったのだということだけは理解する。
「酷い、きつ殿、それは酷い!」
「許してたも、許してたも。──コウ、ハテ……あっは……!」
こう大袈裟に笑われては幸村も立つ瀬がない。恥ずかしくなり、更に赤くなってしまうのだ。こんなふうに女性に笑われた経験がなかった。どうすればいいのか分からなくなる。
やがて幸村が本気で恥ずかしがり、下手をすれば泣き出しそうだと察した吉が何とか笑いを収めた。
「許してたも。かわゆいのだもの」
「可愛い!? 武士たるそれがしが可愛いと!?」
「かわゆい、かわゆい。おいでたも」
吉が自分のすぐ隣を手で軽く叩く。もっとそばにおいで、と言う意味だ。幸村は咄嗟に動けなかった。まだ恥ずかしく、そして悔しかったのだ。
「んん」
吉は喉を鳴らすような息を吐いた。やりすぎた、と気づいた。悪気はなかったのだが、あまりにも──
「……かわゆいのだもの」
「可愛くない」
「かわゆいの。よい、おいでたも」
白い指がぺしぺしと岩場を叩いた。仕方なく、本当に仕方なく、といった顔で幸村はそれに従う。
先ほどよりも近い距離で、先ほどよりも強く吉の香りを感じる。
「……いい香りなのに」
「ん」
「意地の悪い」
「許してたも、許してたも。機嫌を直しや」
「や、特段機嫌を害したわけではないぞ!」
「ほうかえ、ほうかえ」
吉がまたくすくすと笑う。馬鹿にされているのではないかとすら幸村は思うのだが、その笑い方があまりに上品で、そして明るく、優しいものだから、まあいいかと諦めてしまう。