翌日、朝から城は大騒ぎだった。信玄の見舞い客が来るのだ。
風邪とはいえ、病み上がりの信玄を煩わせないようという触れは出ていたものの、相手が相手だけに、誰もが緊張し、準備の段階で騒々しくなってしまうのは仕 方のないことだった。信玄としては既に完全に復調しているので、城内が騒がしくても気にならないのだが、近侍たちはそうもいかず、うるさい家臣たちを叱り つけ、それが更に城を騒がせている。
だがそれも、到着の刻が近づくにつれ収まり、今、城内はすっかり静まり返っていた。
見舞い客の名は、誰あろう──織田上総介信長だ。
信玄とは稀に書を遣り取りし、政治においては互いを牽制し合う。
何より、今川義元を破った桶狭間という伝説的ないくさを皮切りに、神がかった、あるいは魔王のようないくさを続けては領土を広げ続けている恐るべき人物だった。
幸村は直接会ったことはない。だが信玄から少し話を聞いたことがあった。
──いくさ場において、あれは魔王よ。真の魔。
名目は見舞いだが、非公式の会見に等しい。それは幸村にも分かっていた。
織田が関東に手を伸ばすには武田が何よりも障害となる。同盟を組むか、正面からことを構えるか、これから何度も遣り取りを重ねて決定されていくのだろう。もしくはこの会見一度で決定するのかもしれない。
幸村は信玄が熟慮を重ねる主であることをよく知っている。だが、信長はどうなのだろう。伝え聞く噂だけでは判断できなかった。
──真の魔であるが。
信玄の言葉を思い出す。
──ともすれば、我ら戦国武将よりも、遥か、遥かを見ているやも知れぬな。
それはどういうことなのですか、と臆せず聞いた。だが信玄は答えてくれなかった。
真の武将となれば分かるのだろうか。幸村はそう思ったものだった。
「旦那、そろそろ時間だぞ。もう城下に着いたってよ」
「そうか」
幸村は近侍として信玄の側に侍ることになっていた。他にも数人同席するが、帯剣を許されるのは幸村だけだ。信長側も同様、一人の供だけが帯剣を許される。信玄、信長は帯剣しない。これは暗黙の了解のようなものだった。佐助は隣室で万が一に備える。
先に知らされていた時間ちょうどに、信長の到着が告げられた。
聞いた幸村は身体を強張らせる。他の近侍も同様だ。
鷹揚に座った信玄が、いつものように豪快に笑ってみせた。
「尾張の魔王とて、もとは人間よ。頭から喰らわれるわけでなし、力抜けい」
幸村をはじめ、近侍たちはそれで笑い、緊張をややほぐすことができた。隣室にいた佐助も同様だ。こういう時、そして戦場でも、信玄の人となりに救われることが多かった。
静かな城内であるはずなのに──空気がさざめいて行く。
織田上総介信長を見た者が、興奮を堪えきれずに囁きあう噂話の声なのだろう。
「織田上総介信長公、ご到着」
取次ぎの近侍の緊張を極めた声が、襖の向こうから響いた。
信玄以外、幸村たちは深く頭を下げる。
襖が開く音、そして数人が動く音がした。
幸村は唇を引き結ぶ。粗相のないように。万一もないように。お館様に何もないように。自分に言い聞かせる。
用意された座に、信長たちが座る気配を知った。まだ頭を上げることは許されない。信玄が言って初めて、幸村たちは顔を上げることができるのだ。
不意に幸村は気づいた。
──良い、香り?
ここにあるはずのない、まるで高貴な女性が纏うような香りを感じる。
「たかが風邪であるのに、遠くから遥々、暇なことよ」
信玄が口を開いた。
「ま、その御心には礼を申すぞ、信長の」
この後、信長が返事をし、その後ようやく幸村たちは顔を上げる許可を得られるはずだ。これもひとつの様式美だった。
「床上げ、目出度し」
驚愕したのは幸村だけではなかった。武田の近侍全てが、驚愕と混乱に叩き込まれる。
女の声、だったのだ。
「ご快癒、憎々し。早うお隠れになりたもれ」
この声は。この口調は──隣室で控えていた佐助も、僅かに襖を開け、細い隙間から覗き、近侍たち以上に驚愕した。
まさか。
だが佐助の驚愕はそれに留まらなかった。
「──まさか!?」
幸村が驚愕に耐え切れず、顔を挙げ、叫んでしまったのだ。
──馬鹿、旦那、何てことを!
さしもの佐助も背筋が凍る。
これはあまりにも無礼だ。いや、無礼を通り越している。
出迎える近侍としての礼儀を忘れ、そしてあまつさえ、他国の国主を前に大声を上げた。
信長の性格は苛烈にして短気という噂もある。武田軍副大将である幸村がこんなことをすれば、下手をすれば厳罰に──よくて追放、悪ければ切腹になりかねない。
信玄も鬼の形相で幸村を見る。頭を下げたままの近侍たちは、遂に幸村が狂ったのかと怯えていた。
すぐに幸村も、自分の粗相を──粗相では済まされない失態を自覚する。何てことをしてしまったのだ、なぜこんなことをしてしまったのだ、と自分を責める以外にできることが何もない。
そこには織田信長が──
否、緋の打掛を纏った、女がいた。
ちらりと幸村に目をやり、そして人差し指を唇の前に立て、僅かに微笑んでみせる。
幸村は言葉もなかった。
「幸村」
信玄の声はいつもの通り威厳のあるものだったが、しかしどこか呆れた色を隠し切れてはいなかった。その声で幸村は我に返り、再び、自分がとんでもない粗相 をしたのだと思い知る。一気に身体中の血が引いて行くのが分かった。佐助も場へ飛び出し、自分が今いるこの部屋へ幸村を引きずり入れて襖を閉めたい衝動に かられてはいたが、信玄、そして「信長」が幸村を見てしまった以上、何の申し開きもなく退出すればより一層の無礼にあたる。
でも、と幸村はまだ混乱していた。
目の前にいる女性はどう見ても吉だ。昨日ような動き易い旅装ではなく、信玄の正室とて滅多に纏わぬような上等の絹の打掛を着、あの美貌を更に品よく引き立てるような化粧をしてはいるが、紛れもなく吉だ。
「織田」
混乱したままの声が出た。まるで呼び捨てにしたかのようなその言葉に、吉の少し後ろに座っていた、頭を下げたままの男──昨日の男だ、と佐助は気づく──が僅かに身動く。織田側の近侍たちの気配も険しくなっていた。
「織田、上総介、信長──」
「幸村!」
重く、鋭い声が幸村を刺した。幸村だけではなく用人たちも思わず身を竦ませるほどの声だ。信玄だった。
「貴様、何をしておるか、このうつけ!」
いくら信玄とはいえ、ここまでの声を出すことは滅多にない。それで幸村は、自分がもはや救いようのない無礼を働いてしまったことを理解した。
いくら非公式とはいえ、甲斐の虎、尾張の魔王の会談をぶち壊したも同然。そして魔王を呼び捨てにするなどと──いかな信玄とて言い繕いには困難を極める。
室内の空気が緊張しきったその時、女の笑い声がした。
くすくすと、品のよい声だ。
信長だった。
「顔、上げい」
信玄が諦めたように言う。近侍全てが顔を上げた。武田の近侍は信長を見、驚愕に声を漏らさないように努力しなければならなかった。
「うつけ、とはの」
信長が武田側が準備した上等の脇息にもたれる。それだけで、性にはまだ青い幸村でさえぞくりとするような艶が露になった。男たちなどさもありなんだ。
「わらわも昔はよう言われたものだえ。信玄坊主、紹介してたもう」
信玄坊主って呼び方もすげえな、と思いつつ、佐助はもやは見守るしかなかった。信長の言はこの場を収めるための政治的な判断だとは思うが、しかしなぜか幸村に救いの手を差し伸べたようにも見える。
信玄は暫し信長の様子を測っていたが、やがて「信長はこの問題を不問にするつもりだ」と様々な観点から結論を導き出す。この場で刃傷沙汰はどちらにとって も好ましくない。しかも信長の背後にいる男──明智光秀は、主の信長に相応しいきぐるいという評判だ。万が一でも犠牲が出てはかなわない。
「幸村、正せい」
「はっ」
幸村は大慌てで膝を整え、土下座の如く平伏する。
「真田幸村ぞ。武田軍副大将申せば分かろうかよ、信長の」
「まァ、あの二槍のなァ」
信長が胸元から扇子を出し、さも驚いたかのように口元を隠してみせる。幸村や佐助には分からなかったが、それは驚いた時に見せるべき礼儀のような所作だった。
「若き身でありながら副大将とは。わらわが連れて帰りたいほどぞ」
「やめやめ、酔狂が過ぐるぞ。幸村まできぐるいになってはかなわぬわ」
際どい冗談で信玄はひやりとした腹の底を隠す。目の前のこの女、欲しいと思えばいかな手段を使ってでも手に入れるので有名だ。この場を収めるための軽口かもしれないが、用心にこしたことはなかった。
「この通り、粗相も目立つわ」
「信玄坊主の身を案じていたのであろうえ。よいこだの」
幸村は額を畳に擦り付ける勢いで更に頭を下げる。佐助は襖の隙間から幸村と信長の様子を窺っていた。信長が部下に何かの合図を出すかもしれない。それを見た瞬間に飛び出すつもりだった。
「面をお上げや」
幸村はすぐに返事ができない。どう返事をすれば良いのか、どうすればこれ以上お館様にご迷惑をおかけせずに済むのか──そのことで頭がいっぱいになってしまう。
すると信長がもう一度口を開いた。
「返事」
鳥肌が立った。佐助でさえも息を呑んだ。特に声音が変わったわけではない。
だが確かに、凄まじい重圧を、ほんの一言で示してみせた。
「真田殿」
近侍に「動くな」という合図を手で示し、男が幸村の傍らに音もなく移動した。
「明智光秀と申します。──武田信玄公のご名誉に関ります。御返事なさい。恐れ入ります、と申されればよろしいのです」
川辺で幸村を怒鳴りつけた時の言葉とは全く違った。
光秀の声は小さく、他の者には聞こえなかったが、光秀がそのようなことをしているのは部屋の中にいる者には丸見えだし、まるで茶番のごときだ。だがこの茶番が必要な時もある。互いに礼儀を尽くし合ったという事実を残すためだった。
幸村もそれに気づいた。一度息を呑み、深く吸う。
そして意を決して顔を上げた。
「恐れ入ります。真田幸村にございます」
空気が張り詰めていることが分かる。信玄でさえ信長の様子を測っていた。
──きつ殿じゃない。
幸村は思った。
目の前にいる女は確かに吉と同じ姿かたち、声。
だが違う。
ここにいるのは──織田信長だ。
「真田幸村かえ」
「さようにございます」
大変なご無礼を、と続けようとした時だった。
信長がくすくすと笑った。
その瞬間、空気が和らいだ。信玄がそれとは知られずに息を吐いた。
そして信長が、自分の脇息を打掛の袂に隠れた指先で叩いてみせた。
「かわゆいの。おいでたも」
幸村は我知らず笑顔になった。
吉がいた。
「恐れ入ります!」
「幸村!」
「真田殿!」
「信玄坊主も光秀も」
途端に咎めた信玄と光秀の声に被るよう、再び脇息にもたれ、信長が溜息をつく。
「口やかましで、かなわぬえ」
思わず幸村は笑ってしまった。襖の陰の佐助が深く深く安堵の溜息をついていたとも知らずに。
信長の傍に座り、今一度頭を深く下げる。光秀がいっそう自分の傍に来たことに気づいていたが、これは仕方のないことだと、武人として分かっていた。そもそも他国の国主の傍近くに座るなど、常識では考えられないことなのだ。
「肝が冷えるわ。見た目は天女と呼ばれように、このきぐるい女めが」
「何を何を。斯様な趣向を楽しませてもろうて嬉しゅうあるのだえ」
「武田とて無粋には出来ておらぬ、楽しんだなら何よりよ」
それから信玄と信長はまるで世間話のような会話を続ける。聞く者が聞けばそれは腹の探りあいと分かるものだったが、幸村には「お館様と信長殿は仲がよろしいのだ」としか思えなかった。それほどまでに二人の上辺の会話は自然に聞こえたのだ。
信玄と信長の前に茶が供される。客人に出される最高級のものだった。茶菓子もいつもとは違い、丸くした餡をふるふるとした水衣で包んだ水羊羹だった。
「女性には甘き物、とは、先人が残した数少ない正しき格言か、きぐるい女で試してみようと思うてな」
「見事。津島の菓子職人とてこうはゆかぬえ。──信玄坊主、病み上がりに菓子は不要ぞ。幸村殿に下賜してたもれ」
「──何をそうまで気に入ったか!」
信玄はたまらず苦笑した。幸村は信長を盗み見る。綺麗な顔は微笑んでいるが、何となく、信玄の様子を観察しているようにも思えた。
「そ、そ」
信長が身動く。胸の合わせから紅い袋を取り出したのだ。
あ、と幸村は目を見開く。幸村を見た信長が微笑んだ。
「手を出しや」
「──はい!」
唐突に少年らしい笑顔になった幸村に、信玄のみならず光秀も驚愕する。ことに信玄は、普段幸村が公式の場では努めて一流の武将のように振舞おうと努力していることを知っている故、驚きは光秀に勝った。
袋の口から、あの菓子がいくつも転がり出てくる。
てのひら一杯に一口香を盛られた幸村は、溢れそうになる歓喜を言の葉に素直に載せた。
「信長公」
「ん」
「かたじけのうございます」
「ん。下がりや。わらわが帰る時にまた、顔をお見せたも」
「はい!」
二人で食べておいで。そう言われたのだと分かる。
「御前、失礼いたします!」
てのひらから一口香をこぼさないように、少し不恰好な礼になったようだ。光秀が黙って懐紙をくれた。気の利く男だと幸村は感心する。
無事に一口香を紙に包み、改めて、今度はきちんとした礼をして、流れをどうにも理解できずに困惑している信玄と一同を置き、幸村はその場を辞したのだった。
「旦那!」
襖を閉めて隣室へ退出した途端、佐助が小声で咎めて来た。
「今回ばっかりは、殺されても文句を言えねえ粗相だったぞ!」
「俺もそう思う」
光秀の機転がなければどうなっていたことか。信長のあの声は、思い出すだけで背筋が凍る。
だが──あれは信長で。
「佐助」
「おう」
「一口香を知っているか?」
「いっこうこう?」
「今、信長公にご下賜頂いた。佐助と二人で食べよとの仰せだ」
「そんなこと、あのきぐるい女がいつ言った」
「仰った、仰った。美味いから頂こう」
「それどころじゃねえだろ!」
「それと、お帰りの時にまたご挨拶だ。せっかくだ、赤備えを揃えるか?」
「んなことしたらいくさになるだろーが! ちったぁ考えろよ!」
幸村はむっとして頬を膨らませる。その顔が最近見せなかった「子供」のもので、佐助を困惑させたとは気づかない。
「佐助」
「何だい」
「口やかまし!」
「はあ?」
聞き慣れない言葉に佐助はますます戸惑う。
幸村は畳に座り込み、懐紙を開け、天女様にもらった一口香を口に放り込んだ。
帰り際、信長が信玄に「幸村をおくれたもう」と本気ともつかぬ冗談を言い、甲斐の虎と呼ばれた信玄が、ならぬならぬ、あれはわしの子も同然ぞ、と大騒ぎをしたのはまた別の話。