Happy Summer Wedding 02



短い時間を眠り、吉が起き出した。
「旦那様は」
寝起きの様子を見に来たおこうに問う。起きた時はいつもこうだ、とおこうは思った。吉は必ず小十郎の居場所を確かめる。
「お疲れの御様子で、お部屋で転寝をなさっておられます」
「あれ、ま」
小十郎とて大役続きだった。上田城から役目上、織田軍と行動を共にし、果ては剣を抜いて戦い続けたのだ。全てが終わった後は吉を連れて奥州まで馬を走らせ続け、奥州へ戻れば戻ったで仕事に忙殺されていた。疲れていないはずがなかった。
「お休みかえ。なればそのままで」
「ご気分はいかがにございますか」
「大事なし。おこう」
「はい」
「今日は幾日だえ」
「文月の、さんじゅうのいちでございます」
おこうから日にちを聞き、ん、と吉は頷いた。それから溜息をつき、用意された茶を飲む。
「着替えるゆえ、ナ。手伝うておくれたも」
「かしこまりました」
本当に身ひとつで邸に来た吉が普段着ているのは、小十郎の姉が嫁ぐ時に残していった着物だ。それほど数があるわけでもなく、大きさが適しているわけでもない。
「それではなくて」
「はい?」
「も少し、良いものを」
「かしこまりました」
言われた通り、おこうは姉の着物の中から上等なものを出してくる。小十郎様がいらっしゃるからかしら、と、おこうは少しばかり吉を可愛いと思った。
姉は大柄というわけではなかったが、吉が普通の女より僅かに小柄ということが関係し、おこうは大慌てで裾を詰めたりかがったりと忙しい日々だった。ある日おこうの労に気づいた吉が「ありがとう」とだけ告げ、たかがそれだけの言葉であったのに、おこうはひどく感激し、いまだ吉に不信感が拭いきれない使用人の中では最も尽くすことになった。
着替えを終え、髪をすく。香を髪に焚き染めたいと吉が言ったが、片倉の家にそのような貴人の習慣はなく、おこうは戸惑った。吉は「ではいずれ」と言っただけだった。
にわかに邸が騒がしくなる。おこうは眉をひそめた。常、片倉の家は静かだ。長年こんなざわめきはなかった。
「奥様、おこうが様子を見て参ります」
「ん」
おこうが部屋を出、吉は耳を澄ませる。そして息を吐いた。
認めたくはなかったが、ようやくか、という安堵の溜息だった。
おこうの戻りを待たず、夫が転寝をしているという部屋へ向かう。廊下を通る夏の風が肌に心地良かった。
そっと障子を開けると、書き損じの手紙を山のように放った夫が畳の上で眠り込んでいた。起こさぬように静かに部屋に入り、障子を閉める。
よほど疲労が溜まっていたのか、小十郎は身動きひとつせず眠っていた。転寝と言うよりは本格的に眠り込んでしまっている。
放り投げてある丸めた手紙を手に取り、破らないように開いていく。
親族や伊達の重臣に宛てた手紙だろう。満足の行く文章が思い浮かばないのか、どれも書き損じのまま打ち捨てられている。
そして吉は、小十郎が見れば喜ぶような笑みを浮かべた。
眠っている小十郎をちらりと見て、皺だらけになった紙を丁寧に伸ばし、折り畳んで胸元へ入れる。
「おまえさま」
白い指で夫を揺する。
「おひなって」
起きて、と揺すりながら、夫の書き損じの文が入った胸があたたかい。
「おひなっていただかされ、おまえさま」
「ん」
小十郎が僅かに身動く。
「おまえさま、おひなってと申すに」
「──ん」
「客が参るえ。待っておったの」
眠りから引き戻された小十郎は驚く。夢でも見ているのではないかと思った。
吉が笑っていた。
嬉しそうに。
「こ、小十郎様! ああ、奥様もこちらに!」
動転しきったおこうが転がるように駆け込んで来た。尋常ではない様子にすわ有事かと、小十郎は一瞬で眠気の残滓を払って飛び起きる。だが吉は微笑んでいる。
「真田幸村様と仰るお方が」
「──真田だと?」
「はい、あの、他にも紅い鎧をつけた人たちが、それと奥州騎馬隊に、その後ろには城下の──」
「待て、落ち着いて話せ」
普段は聡明な使用人なのだが、今日ばかりはそうでもないらしい。小十郎も話が読めず、さりとて無視するわけにもいかない状況だということだけは分かった。
「ゆきが参ったの。信玄坊主の使いであろ」
吉がさらりと言った。今日の天気は晴れだ、という程度の口調で。
さすがに小十郎は訳が分からず、妻を見る。妻は夫の視線に気づき、にっこりと笑い返してみせた。
「おこう、ゆきはどこにおるのだえ」
「え、ゆ、ゆき? え?」
「もう」
混乱し続けているおこうに業を煮やし、吉はそれ以上質問をせず、速足で部屋を出て行く。
「おい、お前、何を知ってるんだ!」
面食らった小十郎は慌ててその後を追った。吉は臥せっていた様子はどこへやら、軽い足取りで板敷きの廊下を進む。後で具合が悪くなるぞ、と小十郎はやや外れたことを言い、吉の手を掴んで速度を落とさせた。
「何を知ってるんだ」
「信玄坊主の使いが今日、参るはずで。──あァ、でも、まさかゆきが参るとは」
吉は嬉しそうだ。小十郎は全く事情が分からない。とにかく説明しろと言っている間にも、吉は歩いて行く。使用人たちも面食らった顔をしながら夫婦を見ていた。
邸内の正面から外へ出ようとした時、小十郎は結構な数の領民たちまでもが家の前に来ていることを知った。
「待て。中にいろ」
そのまま家から出ようとした吉を流石に止め、小十郎は先に自分が外へ出る。門までの砂利の道を急いで歩いた。広い家をもどかしく感じた瞬間だった。
そして取り敢えずと言った顔で溜息をつく。
「真田」
「半月ほどの無沙汰だな、右目殿。奥州ももう夏か」
「とっくに夏だ。これは何の騒ぎだ。俺は何も聞いちゃいねえ」
片倉家の門の前に、馬から下りた赤備えが整列している。その後ろにはばつが悪そうな奥州騎馬隊。おそらく付いてくるしかなかったんだろうな、と小十郎はまた溜息をつく。緊急事態の対処を教え込まなければならないようだ。他にもいる人々は全て、野次馬根性で付いて来た領民だった。まるで見世物だ。
幸村は胸を張り、いくさ場で一番槍をつけたかのように、少年と青年の狭間にある者ならではの澄んだ声を響かせた。
「主君、甲斐が国主武田信玄公の命により、片倉吉殿へ御結婚祝いの品をお届けに参った。御夫君片倉殿の御許可賜れれば、何卒邸内へお運び致すこと願い申し上げる!」
領民たちが一斉にざわめいた。軍師の嫁はどうやら本当に只者ではなかったようだ、とようやく納得したのだ。
「どういう」
どもらなかっただけ御の字だ、と小十郎は思った。生半な驚愕ではなかった。──甲斐の虎が? 長年敵対していたきつに結婚祝いだって? どういうことだ!
「どういうことだ」
「どういうことも何も、そのままだ。きつ様が織田におられし時、御約束なさったとか」
「約束?」
「きつ様が嫁入りの際には、必ずお祝いをお贈りすると。お館様が御直々に御選びになられた物もある、是非にきつ様へお通し願えぬか」
領民のみならず、騎馬隊の青年たちまでもがどよめいた。これはもう、只事ではない。
小十郎は考える。

──……ああ、もしかすると。

「……真田」
「うむ」

──大虎は、分かっていたのかもしれない。最初から。

「俺はまだ、未熟なようだ。お前の主君には到底かなわねえ」
「お館様を超える御仁など、日の本におらぬ!」

──あいつが本当は、ただの女だってことを。分かっていたのかもしれない。

「遠路遥々」
小十郎は深々と、真田幸村と、その主君に対して頭を下げた。
「妻の為にご足労、恐れ入る」
「あ、いや、こちらこそ、でござる」
幸村は唐突に武士としての礼儀を見せた小十郎に驚きつつも、何とか礼を返す。見ていた佐助は「こういう機転が利かないんだから、旦那は」と苦々しい。
またどよめきが上がった。今度は好意的な驚愕だ。
幸村が満面の笑顔になる。小十郎はそれで予想し、ゆっくりと振り返った。
待ちきれなくなったのか、吉がそっと、庭の木の影から顔を出していたのだ。
「そんなところから覗くくらいなら、出て来りゃいいだろう」
「中におれと仰ったのはおまえさまではないの」
「いいから来い」
「はい」
その返事に幸村は驚く。いまだかつて、誰かにこんな従順な返事を返す吉を見たことがなかった。だが同時に知る。
──きつ様はきっとこれから、右目殿だけにはこうお返事なさるのだろう。
吉を初めて見た騎馬隊や領民たちは、その美貌に目を奪われる。邸内に入ることができない彼らは、決して狭くはない門前に押し合いへし合い、妙な興奮を覚えながら噂の軍師の嫁を見る。
「ゆき、ようよう参った。よもやゆきが参るとは思わなんだ」
「それがしが願い参りました。斯様な大役、一番槍と同じく他の者に譲れましょうか!」
「それではまるで戦功だえ」
「多くの者にとっては戦功でございましょう!」
俺以外はね、と聞いていた佐助は内心で嘯く。小十郎と目が合い、肩を竦めてみせた。小十郎が苦笑した。
しかし今の会話で、ますます領民たちに「この女は只者ではない」という印象を植え付ける。それを察した小十郎は、どうするかな、とちらりと妻を見る。
妻と目が合った。
同時に首を傾げた。そして同時に笑ってしまった。
どうする、と互いに訊き合ったことに気づいたからだ。
ただの女となっても吉の勘と状況を察する能力に変わりはなく、小十郎もそれを確認できてほっとする。何もかも変われなどと言うつもりはなかった。良い部分はそのまま、いらぬと思った部分だけ過去に置いてくればいいのだ。
「真田、入ってくれ。赤備えのご一同もな」
「かたじけのうござる」
それから小十郎は、吉の背を抱いて並ぶ。
幸村ではなく、幸村の後ろにいた人々に聞かせるために声を上げた。
「妻の吉だ。よろしく」
そして隣で吉が領民たちに深々と頭を下げる。奥州では縁のない貴人のような動作だ。まさか吉が頭を下げるなどと幸村と佐助は驚愕したが──すぐに沸き起こった領民たちの歓声と拍手の大きさに更に驚くはめになった。
「やだねぇ、一瞬で計画しちゃってさ、この夫婦」
歓声の中、佐助が苦々しく言った。事前の情報収集で、吉がどういう状況にあったかは知っている。その情報もあり、信玄が「何としても今月中に」と出発を急がせたのだ。
今、その状況を覆すための手段のひとつとして、自分たちが利用されたことが分かった。領民たちはこれで吉を「只者ではない、むしろ高貴な姫が奥州に『来てくれた』のだ」と認識し、しかも最後の吉自身の礼で好意を抱いたはずだ。
──奥州の軍師に元魔王。本気になったら簡単に天下取れんじゃないの?