吉が片倉家へ正式に入って半月、城下の口さがない噂や親族の反対はまだ止まっていなかった。いくら織田の直系とはいえ、いくら美姫とはいえ、いくら政宗が認めたとはいえ、身ひとつで、持参金も嫁入り道具も何もなしに、織田なんてもう何の権勢も──そんな声が片倉の邸にもわざとらしく届けられる。
厨房に出入りする魚屋は、結婚に反対する親族や、片倉家と縁を結びたがっていた伊達の重臣に幾許かの金をもらい、そんな噂をわざわざ片倉の家の中にばらまこうとした。長年信頼されていた東の市の御用聞きの紙屋までもが同じことをし、少し大きな声を出し過ぎたため、二度と出入りすることまかりならぬと小十郎に言い渡されたほどだった。
遅い夏の風が吹く七月の末、奥州は今日も噂話が歩いている。
「まァ、持参金なしという事実が最も悪い理由であろ」
当の吉は諦めきったものだった。小十郎はその様子に溜息をつく。
「そんなもんなくても、片倉の家はどうってことねえんだが」
「世の倣い、世の倣い。そも、持参金とは夫の家へ貢ぐものでなし」
「まあ、そうだがな。本来は妻の小遣いのはずなんだが」
夫婦の部屋となった東の部屋で、二人は久方振りに昼から二人の時間を過ごす。小十郎が任務から帰参してから初めてだ。織田の再挙兵を見届け、必要であれば独自の判断で行動を起こすこと──それが政宗から与えられた任務だった。それなりの成果を挙げた小十郎は、帰参以来その報告や後始末、不在の間の政務の片付けに忙殺され、攫うように連れ帰った吉をほとんど構っている暇がなかった。その間に親族から吉に対して接触があった話は聞いたが、先代から仕える気の強い侍女のおこうと、今では片倉の家の庭番をしている元奥州武士の源爺が全て追い返してくれたと言う。
「おこうと源爺にはよう助けられたわ。おまえさま、褒美を与えたも」
「そうらしいな。少し俸給を上げるか」
とはいえ、このまま親族を放っておくわけにもいかない。両親である先代夫婦の許可は取り付けたが、他の親族への説明がまだ済んでいない。片倉家の当主である小十郎の妻を一族が認めないとなれば、後々の憂いと為りかねない。それだけではなく、伊達家に代々使える重臣や政敵の出方も考えなければならなかった。重臣の中には自分の娘を小十郎へ嫁がせ、権力増大を狙っていた者も多い。政敵はもっとたちが悪い。吉の出自を貶め、片倉家の醜聞にしようと画策している者も既に出始めている。
──……要は持参金と嫁入り道具、なんだよな。あとは出自か。
いくら小十郎が「あれは織田家の直系の女だ」と主張しようと、証明できなければどうしようもない。吉は大法螺吹きの詐欺女、小十郎は結婚詐欺にあった間抜けな男に成り果ててしまう。
織田家は滅亡したわけではない。領土を失いはしたものの、徳川の援助によって元の尾張は確保できているし、それなりに財産もある。織田家に繋ぎをつけ、最低限でも嫁入り道具として何かを贈ってもらい、簡単な財産目録を持参金代わりにつければ充分なはずだ。既に小十郎は織田家に極秘で手紙を送り、打診を行っている。返事を待っている状態だった。
「おまえさま、申し訳なし」
「どうした」
「むつかし。臥せさせておくれたも」
「──気づかないで悪かった。大丈夫か」
「大事なし。障子を開けておいてたも」
「寒くねえか」
「夏の香がするから、よいの」
吉は奥州へ来てから床へ着く時間が多くなっていた。この半月、一度も邸から出ていない。出ようにも身体が言うことをきかないのだ。
長年蓄積されていた疲労に襲われているのだ、と小十郎は見抜いている。──精神的な疲労の方が激しいであろうことも。
戦乱の親となり、日の本を掌中に収めたも同然だった女が、一度死んだとされ、その後に──
──……お前は本当に、よくやった。
今の戦乱の只中に身を置く小十郎でさえ想像しきれないほどのものを背負った女が、その荷を全て降ろした。魔王がただの女になった。
だが、魔王として生きた日々の記憶が吉の重圧となる可能性は否定しきれない。小十郎は吉の素顔を知っている。素顔しか知らなかった、と言ってもいい。いくさ場で稀に見た、そして再挙兵で間近で見た吉は吉ではなかった。よく笑い、軽口を叩き、小十郎を頼る、甘え方を知らない繊細な女ではなかった。そこにいたのは魔王だった。誰もが恐れ、あるいは崇拝し、ただの女であるはずがないと当然のように言われる魔王だった。
ただの女だ。小十郎はそう思い続けていたし、今もそれは変わらない。
ただの女が魔王として生きるにはどれほどの重圧であったのか。自ら選択したこととはいえ、いかなる苦難であったのか。
「おまえさま」
おこうが述べた臥所に横たわり、枕元に座った夫の指を吉が撫でる。
「ああ」
「片倉のお役に立てず、苦しゅうて」
「──馬鹿言ってるんじゃねえ」
驚いて、妻の青白い頬を撫でる。こんなことを言い出すとは考えてもいなかった。
「昔、言っただろう」
吉が気鬱になっているのではないかと危ぶんだ。変わり過ぎた環境に精神が追いついていないのか。あの戦乱の日々から解放された今、たかが家のことで思い悩むことになろうとは。小十郎の知る吉ならば笑い飛ばし、気にもせずにいただろう。
「お前は綺麗にしてるのが仕事だ、って。それだけ考えろ」
体調が戻ったら市へ行こう、と小十郎は言った。
「もうすぐ本格的な夏になる。奥州の夏は身体にいいし、外に出よう」
着物を買ってやる。かんざしも何でも好きなものを。手紙を書くなら新しい硯を買ってやる、紙だってもっといい紙屋がある──聞きながら吉は目を閉じた。
「小十郎様」
吉が眠るまで傍にいた小十郎は、おこうに呼ばれて渋々寝間を出る。
「どうした」
「紙屋が、先日の非礼をお詫び申し上げたいと参っております」
「──小銭に目が眩んだ溝鼠なぞ追い返せ! 我が家の門扉を二度とくぐらせるな!」
予想以上の怒りを爆発させた主人の気迫に飛び上がり、おこうは小走りに廊下を駆けて行く。
八つ当たりだ、と小十郎は認めた。後でおこうに謝らなければ。
苛立っている。妻を安堵させてやれない自分に。
諦めていた幸福が手に入ったはずなのに、心の底から喜ばせてやれない自分が情けないことこの上なかった。
──面倒くせえ。たかが結婚じゃねえか。持参金だ、嫁入り道具だ、家がどうだと。
あの山の粗末な小屋で暮らした日々を思い出す。逃避だと分かっている。それでも思い出さずにはいられなかった。
確かにあの時、吉は幸せそうだった。よく笑っていた。だから小十郎も、普段より笑うことが多かった。
それが今はどうだ。忙しさにかまけていたことは認める。役目は何より優先しなければならないことだった。
だがその間に吉が笑わなくなった。
あの女が笑わない。
今まで生きて来た世界では考えもしなかったような小さなことに気を病んでいる。
魔王ではなく、ただの女だからだ。
──俺は何をしていた。何をすればいい。ただの女に何をしてやればいい。
心底の後悔と焦りに襲われていた。
夏の昼下がり、城下街はざわめいた。
誇らしげに進む騎馬の集団に慌てて道を開け、遠目から物珍しく囁き合う。
奥州では見ない紅い衣服に身を包んだ男たちの中には、いかにも大事そうに布に包まれた大きなものを乗せた豪華な大八車を引いている者たちもいる。騎馬隊はそれを囲むようにゆっくりと歩を進めていた。
「止まれ!」
騒ぎを聞き付けた奥州騎馬隊が駆け付け、奥州の者ではないと一目で分かるその集団に叫ぶ。
「政宗様のお膝元に騎馬隊で参るたあ、いい度胸じゃねえか。何をしに来やがった!」
まるで喧嘩腰のその声に、騎馬の先頭を行く若者は堂々と声を張り上げた。
「武田軍が副大将、真田幸村である! 主君が武田信玄公の命を受け、片倉吉殿に所用ありて参った次第。道、開けませい!」
たちまち上へ下への大騒ぎになる。武田信玄、真田幸村という名をこの奥州の者が知らぬはずがないのだ。
しかも目的が──噂の真っ只中の軍師の「得体の知れぬ」嫁とは。
咄嗟に反応できない騎馬隊を、大八車を引いた男がちらりと眺める。佐助という名のその男は幸村に目で合図を送った。大した奴らじゃない、相手にするんじゃないよ、と。
幸村は佐助に頷いてみせる。
「では先を急ぐゆえ、これにて。それがしの身元ならば──政宗公にお尋ね申し上げるがよい!」
政宗の名を出したのは幸村の無意識だった。俺のことが分からないなら政宗殿に聞けばいい、程度の考えだったのだ。
だがその名は絶大で、奥州騎馬隊は怯まざるを得なかった。政宗の保証がある人物ならば、引き止めれば無礼にあたる。だがもし政宗が保証できない人物であれば──
悩みに悩む彼らの前を、幸村は堂々と抜けて行く。佐助と赤備えたちは、幸村の無意識の恫喝に笑いを押し殺しながらその後に続いた。
奥州騎馬隊は顔を見合わせ、どうしよう、いやしかし、と話し合う。
結局「小十郎様の家に行くんだろう」ということに気づき、何はともあれ、監視として後を付いて行くことになった。
領民たちは暫し唖然としていたが、やがてひとり、またひとりとその後ろを歩き出す。