「きつ様、どうぞご覧下さい」
幸村がまるで我がことのように嬉しそうに言う。
信玄公からの贈呈とあれば、見るだけでも最もよい部屋に通さなければならない。その部屋に置かれたものは、布に包まれた箪笥だった。
おこうが緊張しきった顔で布を取り払って行く。
「ま」
吉が弾んだ声を上げた。なぜそんなにも嬉しそうなのか小十郎には分からなかったが、出て来たものが桐箪笥だということは分かった。
「桐箪笥か。──嫁入り道具だな、ありがたい」
やはりそうなのだろう。小十郎は思った。──やはりあの御仁は分かっていたのだ。そして吉が置かれた状況も察してくれたのだろう。だから桐箪笥を贈ってくれたのか。
「これだけではございませぬ」
幸村は吉に笑顔を向けた。吉も嬉しそうに頷く。分かっている、と言うように。
「侍女殿、男が触れるわけには参らぬゆえ、引き出しを開いて下さるか。一番下から」
「かしこまりました」
おこうは自らの手が汚れていないことを確認してから、息を呑んで引き出しに手をかける。
言われた通りに引き出しを開き、そして、使用人としてあるまじきことに、いの一番に驚愕の声を上げてしまった。
「お、奥様、これ!」
「お見せたも」
言いながら吉は立ち上がり、箪笥の前に座る。開かれた引き出しを覗き、感嘆の声を上げた。
「まァ、まさかに!」
次々と引き出しを自分で開き始める。下の段には着物の数々、上の小さな段には装飾品。どれも見事なもので、結婚祝いと言うにはあまりにも金のかかったものだった。小十郎は唸る。これは──
──娘の嫁入り程には、金がかかってるな。何なんだ。
「信玄坊主」
吉が呟いた。今までの弾んだ声よりは幾分かしみじみとした声で。
「御約束を御覚えなすっておられたのかえ」
「約束?」
「昔のこと、なれど」
小十郎だけではなく、幸村も吉の言葉を待つ。
吉は何かを思い出す顔をしながら一枚の着物を取り出し、指で丁寧に撫でた。
これからの季節には過ごしやすい紗の生地に、甲斐の虎の心遣いを感じる。
「わらわが嫁ぐことあらば、父の代わりに桐箪笥と着物を遣わそうと。御約束賜ったのだえ」
「……そうか」
「さようで、ございますか」
戦乱の中、織田と武田は激しく衝突した。織田信長の最大の敵だったと言っても過言ではないだろう。武田信玄も全力で迎え撃ち、歴史に残る政治対決と戦を繰り広げた。
それでも、と小十郎は思う。
──それでも分かっていた。あの人は。もしかすると、俺よりも先に。
魔王はただの女だと。
これははなむけだ。
あの人から、きつへの。
天下布武を目指し、
戦乱の親となり、
全てを背負い、
戦い抜き──
日の本へ真の安定への道を記すという偉業を成し遂げた者への。
「きつ」
「はい」
小十郎は我知らず、微笑んでいた。
「よかったな」
吉は暫し無言で、夫の微笑を見つめる。
やがて、夫に笑ってみせる。
小十郎が知る、ただの女が心底喜んでいる笑顔だった。
不意に邸の外がまたざわめく。今度は何だ、と小十郎は顔を向けたが、使用人の取次ぎを待つことにした。
「小十郎様」
ほどなくして、庭番とはいえ使用人の中では信頼が一番厚い源爺がやって来る。幸村に目礼してから主人の傍に寄り、何事かを耳打ちした。
小十郎はつい黙り込む。そして妻を見る。妻はどうしたの、と言うように首を傾げた。
「今日って日は、意味があるのか。お前が段取りしたのか」
「段取り?」
何のことやら、と本気で目で語る吉に、小十郎は溜息をついた。
「──出雲の国主からお前に結婚祝いが届いたそうだ。何で今日なんだ?」
「晴久から!」
また嬉しそうな顔をする上に、名を呼び捨てている。小十郎は疑問を抱く。
「親しかったか、お前。──そういえば尼子は織田と親交があったか」
「弟のようなものぞ」
「弟?」
「そ。晴久が上の弟なれば、ゆきは下の弟というところかえ」
国主や名だたる武将を捕まえてそりゃねえだろう、と小十郎が言いかけた瞬間、幸村が感極まった声を出した。
「きつ様! この幸村、弟と仰られました御言葉、まこと感激にございまする!」
「ほんにゆきは可愛らしいこと」
「光栄にございます!」
可愛いって言われて嬉しいのかい、と屋根裏で聞き耳を立てていた佐助は流石に呆れる。信玄へ対する盲目度とは違った意味で、幸村は吉を崇拝している部分がありすぎた。小十郎は既に何を言えばいいのか分からず、「そうか」とだけ呟いておくにとどめた。
せっかくだから、と幸村も共に晴久からの結婚祝いを改める。見事な硯に筆、石見銀山の貴重な銀だ。信玄からのものと比べても遜色のないものだった。
騒ぎはそれだけでは終わらなかった。その日、続々と各国の国主から結婚祝いという名目の品が届いたのだ。使者の中には道中を急ぎに急ぎ、息も絶え絶えに「とにかく今日に間に合わせよと申し付かりまして」と言う者もいた。
小十郎と吉は彼ら全てをそれぞれ歓待し、礼儀として家に泊めることになるが、あまりの数の多さに部屋が全て埋まってしまった。狭い家でもねえぞ、と苦々しくぼやく小十郎に、吉は笑うばかりだった。
ひとしきりの大騒ぎが終わり、すっかり夜が更けてから、ようやく二人は夫婦の部屋に戻ることができた。小十郎の書き損じの手紙が散乱したままだった。吉が障子を開けたがったが、夏とはいえ夜はやや冷える。吉の身体に良いことではないだろう。安土とは違うんだ、という小十郎の言葉に、吉は諦めて従った。
「しかしまあ、何で今日なんだ。誰もかれも」
「おまえさま」
「何だ」
「よもやご存知でないの」
「何がだよ」
「嫁入りの祝いは月が替わる前に行うものなのだえ」
「──知らねえよ、そんなこと」
思えばこの家に「嫁」が来るのは、小十郎の代では初めてなのだ。姉が嫁いだ時には嫁ぎ先に贈られただろうし、そういった文化に触れる機会がなかった。
それに何より、贈る側からしても、吉の結婚が余りに急で大急ぎだったのだろう。遠方からの使者は本当に急いだに違いない。
吉は嬉しそうだ。疲れた、と言って足を崩してはいるが、幸村たちが来るまでの病人めいた様子が嘘のようだった。やはり精神的な疲労だったのだろう。小十郎は自分を情けなく思った。自分がどうしていいのか分からなかったことを、赤の他人の彼らが──誰よりも、遠く離れた信玄が一瞬で解決してしまった。男として思うことがないはずがない。
これから、俺はこの女を守っていけるのだろうか。そうまで思った。
書き損じの手紙を片付けにかかる。今日のことで親族や敵対する勢力の態度が変わるかもしれない。噂が広まるよう、領民たちの前でわざと吉と幸村たちを引き合わせたのだ。明日には結果が出ることだろう。
──俺にできるのは、これくらいしかねえか。情けねえ。
「ん」
書き損じの手紙を集め、数を数える。一通足りなかった。どこへやったかと見渡すがどこにもない。
「おまえさま、どうなすったえ」
「ああ、いや。一通足りねえんだ」
「足らぬ?」
「書き損じの手紙がな。内容が内容だけに、焼いてしまいたいんだが」
「あァ、それなら」
吉が胸元から折り畳んだ紙を出した。
「これかえ?」
「何でお前が持ってるんだ!」
書き付けた内容を思い出し、焦りながら吉から取り返そうとする。だが吉は笑い、するりとまた胸元へ入れてしまった。
「だめ、これはわらわが頂くえ」
「──お前、中を読んだのか!」
小十郎は一気に真っ赤になった。初めて見る夫の本気の赤面に、吉は声を上げて笑う。
この家に来て初めて、声を上げて笑った。
「よろしでしょ、おくれたも」
「返せ、馬鹿!」
「だめ、だめ」
焦り切って吉を抱き寄せ、胸元に手を入れようとする小十郎に笑いながら抵抗する。
そして言った。
「今日頂いた中で、いちばん嬉しいのだもの。おくれたも」
蕩けそうな顔と声、と言うのは、こういうものを言うのだ──小十郎は観念した。抱き寄せた妻をきつく抱き締める。
そんなものでいいのかよ、と言うと、これがいい、と言われた。
「なら」
照れた感情と、そして自分でも驚くほど幸福な感情を隠すために、溜息をついてみせる。
吉は笑っている。
だから小十郎も笑った。
「持ってろ。他の奴に見せるなよ」
「桐箪笥の奥に、しまっておこ」
「そんなに大事にするものか」
「いちばん嬉しいものだから、にばんめに嬉しいものに隠すのだえ」
その言葉に笑い、小十郎は妻に口づける。
書き付けた文を思い出し、女ってやつは、と思った。
──女ってやつは。
【織田吉殿を当家が嫁と御認め頂かなば】
──あんなもんが、嬉しいのか。
【某 生涯 嫁御を娶る心積り無し 何卒御理解願ひ賜りたく候】
──こんなことで、いいのか。
「きつ」
「はい」
「今日は夜更かしするぞ」
「──はい」
夫の言葉の意味を悟り、吉は僅かに赤くなる。
この家に来てから、夫とそういったことに及ぶのは初めてだと気づいた。とにかく寝てばかりだったのだから。
もうすぐ日が変わる。間に合わせてくれた人々に感謝してから、いとしい夫婦の時間を始めよう。
その時だった。
空気を裂くような音が邸に響き渡る。
鉄の筒から空気が抜ける音、どすりと重量のあるものが地に足を着ける音と衝撃。
「……まだ、日は変わっちゃいなかったか」
「何と、まァ」
「勘弁しやがれ」
小十郎様、と流石に緊張した源爺の声が襖の向こうから響いた。いかな源爺とはいえ、「あの」出で立ちを見れば緊張して当たり前だろう。
「起きている」
「只今、空より御使者が中庭に──」
「分かってるさ」
今日何度目か分からない溜息をついた。吉は困ったように夫を見る。
「本多忠勝って奴だろう。徳川からの祝いを持って来たんじゃねえのか」
ご明察で、と源爺が言った。
小十郎は今日で一番大きな溜息をついた。
「家康の奴。こっちは初夜みてえなもんだってのに、邪魔しやがって」
「おまえさま!」
破廉恥な、と吉が真っ赤になって怒ってみせる。
その顔が余りに可愛くて、小十郎は笑った。
吉はしばらく怒った顔をしていたが、やがて小十郎につられて笑い出してしまった。
この女が笑うと、俺も笑える。小十郎はそう思った。
──だから、笑ってろ。
「きつ」
──お前が笑うなら、俺は何でもするさ。
「死ぬまで夫婦だ。分かったな」
吉が笑った。
そしてはっきりと言った。
「はい」
今日で一番、嬉しそうな笑顔だった。