警備の兵士は吉を見ても微動だにせず、共に歩く男の存在など目にも入っていないかのようだった。
間違いなく、よく躾けられた上質の兵士だ。奥州ならばこうはいかない、と小十郎は思う。
吉は何も言わずに歩く。小十郎は半歩遅れて付いて行く。
その先におそらく本丸があるということは、初めてこの城に入る小十郎にも分かった。
いいのかと訊く気も起きない。吉が行くならば行く。それだけの話だ。
長い道を歩き、途中で何人もの警備の兵士とすれ違う。
贅を尽くした城の造りに目を奪われてもおかしくはない。だが小十郎の目にはそれすら入らなかった。軍師としてはよく見ておくべきだと分かっている。
それでも自らを愚かだと思う。
造りよりも、どこかにあるかもしれない極秘の仕掛けよりも、共に歩く妻を見ていたかった。
月光の下、艶やかな黒髪と白い肌が、何かの美の結晶のようにも見える。
本丸の中に入り、いくつもの階段を上がる。油ではなく蝋燭を惜しげもなく使い、灯りには不自由しない。短い階段もあれば長い階段もあり、それはいつ終わるともなく繰り返された。防衛上当たり前のことと分かってはいても、他の武将の城とは桁が違う防衛意識だ。これはいっそ芸術だとまで小十郎は感じていた。
これほどの階段を上がれば、普通の女なら息が切れるものだが、吉は一切呼吸を乱していなかった。
どれほど歩いただろう。小十郎が明り取りの窓から見える月の位置が高くなったと思った時、吉が不意に足を止めた。
言われなくても小十郎には分かった。最上階──天守閣だ。
小十郎の知る天守閣とは違い、まず目の前には襖があった。吉がその襖を開ける。
ああ、と小十郎は声を出しそうになった。
天守閣は日常、生活に使う場所ではない。城主は大抵、本丸に平屋の建物を建ててそこに住む。生活の利便性を考えれば吉も例外ではないはずだ。
だからこそ、この部屋が特別なのだと分かった。
実戦にはほぼ使われないはずの天守閣に、ごく普通の部屋がある。障子の向こうから月の光が差し込んでいた。
むせ返るような甘い香りに目眩がしそうになる。それでもどこか心が穏やかになるような香りだと気付く。
部屋には驚くほど多くの藤の花が飾られていたのだ。
「いつもは」
小十郎は本丸に入って、初めて声を出した。
「ここじゃねえんだろう」
「ん」
吉は頷き、部屋に入る。小十郎が足を踏み入れてから、自ら襖を閉めた。
「たまさかに。ひとりになる時」
「そうか」
「誰ぞも、入れたことはのうて」
「そうか」
「お座りあそばし」
上等の畳の上に、吉が座布団を出す。まさかこの女が、と誰もが驚く行為だろうが、小十郎は当然の感覚でその上に腰を下ろした。
吉は妻としての場所に座り、息を吐く。そして少し笑った。
「長く歩うて、きつい」
「そうか? そうは見えなかったがな」
「滅多に、ここには参らぬのだえ」
それもそうだろうな、と小十郎は微笑んでやる。吉もどこか安堵したように微笑み返した。
襖の向こうで控えめに鈴の音が鳴る。何だ、と小十郎が警戒する前に、吉が立ち上がり、僅かに襖を開けた。顔も見せぬまま下がった使用人──小十郎には男か女かすらも分からなかった──が運んだ酒と茶があった。本当によく躾けられているのだろう、と小十郎は改めて思う。きっと明日、魔王が竜の右目を特別な部屋に引っ張り込んだことなど、誰も知らないということになっているのだろう。
「お酒でよろしの」
「今日はもう、茶でいい」
「あれ、竜の右目は下戸なのかえ」
「どこかの魔王と一緒にするなよ」
吉が笑い、夫に茶を用意した。
温かい茶を口に運び、小十郎は息を吐く。噎せ返りそうな藤の花の香りの中、きちんと茶の味が分かることが不思議だった。
「きつ」
「はい」
「さっきは、悪かった」
「何のお話」
首を傾げつつも、本当は分かっている。隠し切れない感情の波が白い美貌に浮き出ていた。だから小十郎は余計に罪悪感を感じる。通常は稀に癇癪を起こすという噂を聞いてはいるが、政務で感情を制御することなど慣れているはずなのに、今はそれができないほどに大きな衝撃だったのだろう。
「離縁の話」
「……はい」
「嘘だ。すまなかった」
吉は答えない。小十郎は続けた。
「俺の方が、そんなことできやしねえ」
吉はやはり、答えなかった。ただ夫をじっと見ていた。
小十郎は居住まいを正す。
「俺はこんな城を建てる甲斐性も、能力もねえ。ずっと傍にいられるわけでもねえ。それでも」
吉の目を見て、ゆっくりと、だが、はっきりと告げた。
「それでも、死ぬまで、俺と夫婦でいいか」
最後まで。死ぬまでだ。
たとえ離れていようと、二度と会えることがないかもしれなくても、それでも、
最後まで、夫婦でありたいと強く願う。
不意に吉が小袖で顔を覆った。肩が小刻みに震えている。
これには小十郎も面食らう。心から言ったのに、笑うとは何と言う態度だ。
「お前」
「もう」
言いかけた小十郎を制すわけではないだろうが、吉が声を発した。今度は小十郎は驚くばかりだった。
泣き声だったのだから。
「もう、もう──」
「どうした」
「どのような顔をすればよいか、分からぬ」
「どのような、って……」
「もう、忘れた」
泣き方が分からない。
呻くような泣き声に、小十郎は胸の奥を鷲掴みにされたかのような感覚に襲われた。
小袖を手首ごと柔らかく掴み、顔を隠すことをやめさせる。
唇を噛み締め、嗚咽を堪える女をいとしいと強く思った。
「泣きてえか」
だが吉は首を横に振った。激しく振った。そうか、と小十郎はそれだけを言い、吉を抱き寄せた。吉がその胸に縋りつく。
ここで声を上げて泣いてはいけない。吉はそう思っている。小十郎はおぼろげながらに理由が分かる。
泣けば吉は気付いてしまうだろう。思い出してしまうだろう。
自分が普通の女だということを。
戦乱の親であるために、死に物狂いで精神的な尽力をし続けていることを。
俺の前でくらい、泣いていいんだぜ──伊達な男ならそう言うのかもしれない。伊達の名を借りた身勝手な男ならば。
だが、身勝手な伊達男になることは、軍師として戦乱を知る今の小十郎にはできなかった。
吉の夫としても。
妻の耳元で囁く。
「お前の役目が終わったら」
夢物語だ。それくらい分かっている。
だが今、言ってはいけないはずがなかった。
「俺のところへ来い。必ずだ。迎えに来る」
奥州へ行くんだ。
お前にとっては田舎だろうが、いいところだよ。
俺の両親に会って、一族に会って、俺の嫁を紹介する。
空気が綺麗だ。夏も涼しい。
冬はお前には辛いかもな。
あの時も寒かっただろう。
寒い日はあの時のように一緒に寝ればいい。
騎馬隊の連中は口は悪いが、優しい奴ばかりだ。
俺の畑を見るか。出来がいいんだ。
零れ入る月明かりと藤の香りの中、小十郎は語った。
吉は頷き、時に微笑んでみせる。
夢としか思えない将来を思い描き、嬉しそうに微笑むさまは、誰が何と言おうと──ただの、女だった。
自分でも驚くほど優しく吉を抱いた。
欲よりも何よりも、ただ、抱くことによってこの女にいとしさを伝えるにはどうすればいいのかと思えば、そうするしかできなかった。
「寝てるわけねーだろって感じ」
誰ともなしに呟き、政宗は溜息をつき、あてがわれた寝所から縁側へ出た。
「いやー、お見事な庭。エクセレント」
小十郎が座っていた場所に同じく座り、月明かりに煌々と照らされた庭を堪能する。
──……今頃、姐さんとうまくやってんのかね。
不寝番を始めた小十郎に気付き、いいから寝ろよと声をかけようとした時だった。あの女が現れたのは。
障子の向こうで動く影ふたつを、寝具の中から眺めていた。
日頃冷静な小十郎が、感情に任せて女を抱き締めたように見えた。
あの、別れた日のように。
あれは恋という言葉ではない。政宗はそう思う。
──恋、なんて、ぬるい言葉じゃねえ。もっと別の──
「もしも」
月を見上げる。見事な満月だ。
「小十郎があんたみたいに自由なら、いつでも姐さんに会いに行けるんだろうな」
自由なら。
何の気なく発した自分の言葉に、そうか、と政宗は納得した。
「……俺のせいで、自由になれねえんだよなあ」
月は答えない。
「でも、俺、あいつを自由にする気もねえんだ」
──俺のもんだから。必要だから。
「もしあいつがあんたに愚痴ったら、聞いてやってくれよ」
遥か古代から人間の全てを見ていたはずの月は、素知らぬ顔で柔らかい光だけを地上に投げかけていた。
少し眠ってしまっていた。眩しい光で覚醒した小十郎は慌てて飛び上がる。
もう朝なのではないかと怯えた。──離れる時間になったのではないかと。
朝ではなかった。
いつの間にか障子が開かれていた天守閣の立ち場に、まるで世界を覆い尽くすのではないかと思ってしまうほど近い場所から月の光が注いでいたのだ。
言葉を失った。
そこに立ち、小十郎に背を向けて地上を見る女の姿に。
満月の光の下、裸にそのまま打掛を羽織っただけの姿だ。ともすればはしたないと言われてもおかしくはない。
今、この姿には誰もそんなことは言えない。小十郎は思う。
確かに妻だ。それは分かる。
分かってはいても──ああ、違うのだ、と思った。
俺の妻であっても、
そこに立てば、違うのだ。
将としての嫉妬心すら生まれない。ただただ、違う、と思った。
月に抱かれるように天守閣に立つ女は吉ではなかった。
──これが、戦乱の親だ。
乱れた打掛から覗くうなじも細い肩も小さな背中も、それはただの女のものであるはずなのに。
背中だけで分かる。
これが戦乱の親だ。
これが織田上総介信長だ。
ゆっくりと女が振り返った。
そして微笑む。
月の光の下、見惚れることすら眩しく思うほどに美しい女が微笑む。
そして言った。
おまえさま。
「お眠りあそばして。もうおひなるの」
もう起きるの、と夫に問うただの女が、片倉小十郎の妻が、そこに現れた。
突然、この天守閣にはあまりにも不釣合いに見えた。
だから小十郎は微笑んでみせる。
ああ、と思う。
──俺の前だけでは、俺の妻でいるんだな。気負うことなく。
「眠る予定じゃなかった」
「そ」
「お前は寝ろ。疲れただろう」
「なんも」
起きていたい、と妻は言う。そうか、と夫は頷く。
吉は小十郎に寄り添うように座り、月を眺める。
小十郎はその肩を抱き、やはり月を眺める。
月が太陽にその場を明け渡すまでには、この場を出なければならない。
共に出ることはできない。
それでもいい、と小十郎は思う。
吉は何も言わない。だが、それでもいいと思っていることを小十郎は感じ取る。
あの日のような絶望の別れではない。
夢物語でもいい。
夢の中でも確かに約束をしたのだから。
俺たちは、死ぬまで、夫婦だ。
「いつか」
白みかけた空を遠くに眺め、小十郎は呟く。
「迎えに来る」
吉が静かに頷く。
夢物語だと分かっていても頷く。
確かにした約束のために。