安土の城の絢爛は夜目にもはっきりと分かる。幸村は圧倒されるばかりだ。安土の豪奢な噂は耳に届いていたし、吉がその城主だとよく知っていたつもりだが、実際に目にすると、気さくに声をかけてくれる女がこんな城に住んでいるとは驚くばかりだった。
案内された二の丸の部屋も隅々まで行き届き、有り余る富を惜しみなく見せ付ける。しかし決して悪趣味なものではなく、城主の教養が覗える調度品が揃っていた。
幸村は主の部屋の前で不寝番を務めるつもりだったが、寝間着の信玄に呼ばれる。
「はい、お館様」
「付き合え」
言い置き、信玄は部屋を出て歩き出す。城内のどこへ行ってもいいと言われていた。城主が住む本丸へ入りたければ入れ、とも。それは吉の本心なのだろう。城に敵が入った時、それは織田の終焉を意味するものなのだ、と。
「さすがに本丸に入るほど図々しくはないわ」
明り採りの格子から差し込む月の光が眩しかった。幸村は信玄の後ろをただ歩く。
やがて信玄は庭へ降り、何かを探すように歩き始める。どこへ行かれるのですかと問うことも憚られ、幸村は付いて歩くしかなかった。
不意に信玄が足を止める。そして一点を指で示した。
「見よや」
「失礼いたします」
信玄に並び立ち、指差された方向を見る。
息を呑んだ。
眼下に広がるのは夜の城下街、日の本で一番の活気を誇るという安土の街だ。今は眠りについているが、陽が上れば力に溢れた喧騒が生まれるのだろう。
息を呑んだ理由はそれだけではなかった。一目で分かった。
この城がどれほど計算され尽くしてこの地に作られたのか。
遥か遠くまでを見渡すことができる。堀の向こう、城下街の向こう、それこそ地平線がそこにあっても何も見逃さぬであろうほど、完全な視界を確保している。
「これは」
喉が鳴った。
「きつ様がここに城を作られたのは、これが目的なのでしょうか」
「恐らく、な。二の丸でこの眺めだ。天守閣からは更に見えるであろうな。──どうじゃ、幸村」
「どう、とは」
信玄は僅かに笑う。いつもの豪快な笑いではなく、まるで父親が息子の成長を待つような笑い方だった。
「きぐるい女が、恐ろしいと思ったか」
「それは」
幸村は言葉を選ぶ。まだ多くの言葉を知らない少年は、どう説明していいのか分からない。
だから思ったままを言う。
「恐ろしくは、ございませぬ」
「魔王が?」
「魔王でも。──魔王と称せられねば、お辛い時もおありでしょうし」
「……ほう」
「いくさでは、恨みも生まれましょう。おなごの身で一身に背負われるならば、魔王とならずばお辛い時もきっとおありでしょう」
言いながら、幸村は不思議に思う。
きっと吉は想像を絶する恨みや憎悪を向けられる立場のはずだ。信玄とてそのような立場であり、幸村とて規模は違うがいくさのたびに呪詛のひとつやふたつは向けられる。
吉の立場であれば、その呪詛の数も強さも幸村の想像の及ばぬものであるだろう。
「なぜ」
「うむ」
「きつ様は、お心をいつも確として、笑っておられるのでしょうか。おなごの身であられながら」
──いとしい御夫君と共にあられることもできぬ身で。
たくさんの呪詛を、きっと──幸村は言葉少なに主君に語る。
信玄は黙って聞いていたが、やがて、いつもの声よりは幾分柔らかい声で答えた。
「きぐるい女は、死に物狂いじゃ」
「──え?」
「昔から、な。あれほど平凡な女もそうそうおらぬ」
「へ、平凡!?」
「声が大きい」
「申し訳ござりませぬ」
謝りつつ、幸村は「平凡」という言葉に驚きを禁じ得ない。あの吉のどこをどう見れば平凡などと言う言葉が出てくるのだろう。
「平凡だからこそ、死に物狂いよ。平凡でありながら時代に役目を負わされ、平凡でありながらその才が時代に見出されたばかりに」
信玄は語る。
平凡だからこそ、非凡たる者になれる。
求められる非凡を知っているから。
非凡を求める人々が理想とする姿になれる。
「あれは本当に、平凡な娘っ子じゃ。かかさまが自分を嫌うのだ、みんな大嫌い、とワシの前で大泣きしたこともあるぞ」
「え!?」
「普通に嫁に行って旦那様と幸せに暮らすのがいい、とも言うておったなあ」
「え、──え!? きつ様が、ですか!? いつ!?」
「ワシが織田の先代と話をするために、尾張の津島に行った時に──」
言いかけ、信玄は言葉を切った。
「ま、これはいずれな」
「──そこまで仰ってやめるなんて、酷うございます……」
恨めしげな幸村の目に、信玄は豪快に笑う。声が大きいと幸村を叱ったことも忘れて。
「いずれ、どんな話も笑って聞けるようになれば話してやろう」
今はまだ早いと言外に言われ、幸村は頬を膨らませて黙るしかなかった。
そして話を戻す。あれは平凡で、と。
「平凡だが愚鈍ではない。むしろおなごの身であるのが惜しいほどに頭が切れる。天才、とはあの女のことを言うのであろうな」
「でも、平凡なのですか」
「時代に選ばれねば、天賦の才に気付かずに過ごした、平凡な女じゃ」
信玄は言った。良家の姫として良い縁談を整えられ、嫁ぎ先で大事にされ、気を許した側近に囲まれて、夫のこと、家のことだけを考えていればいい、平凡な人生だったはずだ、と。
「心を確としていられるのは──死に物狂いで理性を保っておるからであろうな。昔より笑わなくなっておるのは、流石に近年の重圧が凄まじいのか」
何よりも、と信玄は言う。
「何よりもあの女が戦っているのは、自らの心に忍び込む闇であろう。ワシには想像もつかん」
幸村は不思議に思う。
武田と織田は明日にでも武力衝突をしてもおかしくない。織田が何かするたびに、信玄が忌々しいという顔をしている姿を何度も見ている。信玄と吉が顔を合わせた過去数度、吉が「信玄坊主、早う隠れよ(死ね)」と悪態をついている姿も見ている。世間では犬猿の仲、不倶戴天の敵とも言われている。
それなのに今の信玄はそんな様子をかけらも見せない。
──まるで、娘御を心配なさる父御のようだ。
「にしても。さしものワシも気付かなんだ。幸村、手柄じゃ」
「え?」
「右目と、まあ、そういうことじゃ」
「いえ、あれは右目殿がそれがしを突然肩に担ぎ上げられまして!」
「そのことではないわ、馬鹿者!」
「不覚を取ったとはいえ、しかしお館様、右目殿の体術は流石のもので!」
「何の話をしたいのじゃ、幸村!」
幸村は佐助があの時闇に潜んでいたことを知らなかったし、信玄に重大な報告をまだしていない。だから何を言われているのかが理解できない。そして信玄は、さすがに城内でこの話を詳しくすることができず、幸村と頓珍漢な問答を繰り返すはめになった。
不寝番はいらねえよ、と政宗が言い渡した。
「この城で、今日、俺に何かあるとは思えねえ」
それは小十郎も同感だった。伊達に対抗する勢力の者はいない。織田とて伊達とは長い付き合いで、互いに友好な関係を保っている。
何より、自ら招いた吉が、諸将に何かをするとは考えられなかった。魔王という名からは意外だが、吉──織田信長の義理堅さは有名だった。
とはいえ、小十郎はやはり不寝番を務めることにした。織田を疑うわけではない。要は眠れなかった。ただそれだけだ。
政宗が寝静まった頃を見計らい、その部屋の前に腰を下ろす。
供された部屋は中庭に面した場所で、月明かりの下、贅と趣向を凝らされた中庭の美しさを存分に堪能することができた。
吉を傷つけたことを謝れなかった、と改めて思い出す。二度と言葉を交わすこともできないかもしれないと言うのに。政宗であればともかく、小十郎では文を書くことも憚られる。
なぜ手を離す前に言えなかったのか。
あの──平凡な女に。
平凡な女は夫に一方的に離縁を迫られ、酷く傷ついていた。幸村が来なければ泣いていただろう。
泣かせたいわけではなかった。いとしいと思う存在を泣かせて何も思わぬほど、小十郎は心を捨ててはいなかった。
──……信玄公もご存知だったのか。
時が来たらば大事にしてやれ。
あの言葉は吉が平凡な女であると知っているからこその言葉だろう。
織田と一触即発でありながらあそこまでの言葉を言えるとは、信玄の懐の深さ、人間性の広さに感心するしかなかった。
あの娘っ子、ガキばらの誓いを忘れておらなんだ。
その話を聞きたかった。吉の幼少時代を知っている。その誓いとは何であるのかも。
吉をいとしいと思う。奥州にこのまま攫って帰りたいほどに。吉を見る男たちに、これは俺の妻だ、と言い放ちたいほどに。
だが、吉を知り尽くしているわけではないということを思い知った。
平凡な妻は戦乱の親たる女だった。今日、気付いてしまった。
あの平凡な女は、時代が必要とする才能を持って生まれてしまったのだと。
中庭を照らす月を見上げる。奥州で見る月とは少し違う、それでも美しい満月が、安土の地に柔らかい光を注いでいる。
女々しいものだ、と自分で思った。
「……万代に」
古い歌だ。思い出してしまった。知識として知ってはいたものの、まさか実感を伴って思い出す日が来ようとは。
「万代に 照るべき月も 雲隠り 苦しきものぞ 逢はむと思へど」
幾万年もの日々を照らす月さえもが雲に隠れ
見ることすらできず 苦しくてたまらない
どれほど逢いたいと思っているか
静寂が中庭を包んでいる。小十郎が小さく呟いた声さえも響くのではないかと言うほどに。
「射干玉の」
小十郎は動かなかった。嘘だろう、と思った。
「その夜の月夜 今日までに」
嘘だろう。
消え入りそうな声が耳に届いた。
この城でそんな声を出していいのか。そう思った。
泣きそうな声だ。あの威厳も強さもどこにもない声だ。
嘘だろう。
またそう思いながら、ゆっくりと首を巡らせた。
いつの間に、本当にいつの間に──そこにいたのか。
「我は忘れず 間なくし思へば 」
あの夜の月をなぜ今日、忘れられましょう
あなた様のことを
ずっと思っておりますのに
いつの間にそこにいたのか。
泣きそうな顔で。
ああ、と小十郎は思う。
ああ、葛藤したのだろう。ここに来ていいのか。俺に会いに来てもいいのか。
かつてない葛藤だったのかもしれない。
どの武将を攻め滅ぼす時よりも、どの城を手に入れる時よりも。
葛藤しただろう。
この、平凡な女は。
吉の唇が戦慄く。あの時のように泣くのではないか、と──今度は小十郎は思わなかった。
葛藤の中、平凡な感情と非凡な理性が戦っている。それが分かる。
だから小十郎は待った。
これが答えになるのだ、と思った。
俺たちは死ぬまで夫婦だ。
だが、
お前の役目を俺の存在が阻むと言うのなら、
俺もお前も、ひとりで、生きて行く。
吉の唇が動いた。
掠れた声だった。
それでも──全ての感情が迸った。
「いらして」
それだけで充分だった。
小十郎は立ち上がる。
妻と向かい合う。
小柄な女だ、と思った。知っていたことだった。だが、今初めて、妻が頼りない小さな女に見えた。
再び吉が掠れた声を放つ前に、小十郎は力の限り、その身を抱き締めていた。