藤波の夜の花房に 03



「あの」
迷いに迷った、という声が不意にかけられた。小十郎は幸村の存在を思い出し、我に返った吉も慌てて小十郎から身を離す。幸村は夜目にも分かるほど顔を赤くしていた。衝撃的だった事実や光秀との刃の交し合いより、目の前で男女が抱き合っているということに、状況も忘れて照れてしまっている。
「きつ様」
「ん」
「それがし、深い事情は御聞きできる立場にありませぬ」
「ん」
それでも聞きたいと言うのなら話そう。小十郎と吉は同時にそう思っていた。だが幸村は違うことを言った。
「先に戻ります。御邪魔して申し訳ございませんでした」
「ん」
吉は幸村に微笑んだ。感謝の笑みであることは幸村にも、小十郎にも分かる。小十郎は何も言わなかったが、自らも確かに幸村に感謝した。
「わらわももう、戻る」
「え」
幸村は吉を見る。小十郎は頷いた。──頷きたくはなかったが。
主賓が長時間席を空けすぎている。しかも小十郎と幸村もいないとなれば、他の出席者が訝しみ始めるかもしれない。光秀も一度席を外している。宴に隠れて大勢力と新興勢力同士の密談かと思われてはことだ。別の観点からしても、幸村が一人で、小十郎と吉が二人で後から戻ればまた好奇の目に晒されることになる。何らかの言い訳を考え、三人で戻ることが良策だった。
「では」
暫し迷った後、幸村が言った。
「それがしが先を歩きますゆえ」
言うなり二人に背を向け、歩き出す。
小十郎は吉の手を握った。幸村が振り返らないことを知っていた。
吉は黙って、夫に手を取られながら歩いた。
妻の歩みは遅い。小十郎もまた、それに合わせる。幸村は振り返らず、歩みを緩めもせずに歩いて行く。いつの間にか距離が離れていた。それは先を行く幸村自身も分かっていることだった。だが、それで小十郎は吉の手を離さずに歩くことができた。
やがて宴の喧騒と灯りが先に見える。幸村が不意に歩みを止めた。ここで三人揃おう、と、背中が語っていた。少年は誰よりもこの状況を理解している。三人で戻らねばならぬことも、ここから先は小十郎も吉に謙らなければならぬことも。
宴の警備をしていた兵たちが三人に気付き、何事かを囁き合っている。やがて彼らは恐る恐る、三人へ向かって駆け出して来た。
吉の指が夫のてのひらを撫でる。
小十郎が何か言う前に、吉はその手を離した。
そしてあの美しい唇から──

「右目、紅色の子」

小十郎も幸村も、これもまたこの女の真実の顔なのだ、と思い知る厳然とした声が流れ出た。

「世話になった。礼を申す」

小十郎と幸村に、何を言えるだろうか。
何も言えるはずがないのだ。
小十郎が動く。
膝を着いた。
そのまま黙って、小十郎はその場に平伏した。
幸村はその姿を見、唇を噛み、そしてそれに倣う。
吉は二人を一瞥することすらなく、迎えに駆け寄った兵たちに「大事なし」と言い置き、宴の灯りへ歩いて行く。
その姿が完全に遠くなったと気配で確認してから、小十郎は頭を上げ、立ち上がって服の埃を払った。
「きっちりした女だ」
小十郎は苦笑する。
「真田、もういい。立てよ」
幸村は暫し、そのまま動かなかった。顔を上げたくなかった。
顔を上げれば泣いてしまうのではないかと思ったからだ。
自分のことではない。自分が辛いわけではない。
だが、辛かった。
苦笑してみせる小十郎を、辛いと思った。
小十郎は困ったように息を吐いてみせる。少年が今どんな顔をしているのか、想像がついてしまった。
泣きそうなのだろう。自分のことではなくとも、目の前でぶつかりあった他人の激しい感情を目の当たりにした衝撃は大きかっただろう。
敬愛する女が取り乱してまで夫と離れることを嫌がった姿、その女が支配者の顔で夫の手を離し、再び元の世界へ戻ったこと──武芸といくさに生きる少年には強すぎる衝撃だったはずだ。
その裏に隠された哀しみを感じ取り、自分では分からないまま、泣きたくなっているのだろう。
──優しいんだな。きつがお前を可愛がる理由も、分かる。
幸村に言うつもりはない。だが確かに思った。
──お前は政宗様に、似ている。
「おい、立てよ。戻らねえと信玄公が心配するぞ」
それでも幸村は動かない。小十郎はまた苦笑した。
「仕方ねえな」
「──うわ!」
幸村が悲鳴を上げた。腕を掴んで起こされただけならともかく、そのまま米俵のように肩に担ぎ上げられたとあればたまらない。
「お、降ろされよ!」
「うるせえ、長く席を空けた詫びがいるだろうが」
「ど、どなたに詫びる!」
「あの弾正に決まってるだろう、仮にも主催だ」
小十郎は担ぎ上げた幸村がばたつかせる脚を片手で押さえ、宴の座に向かって歩き始める。幸村は暴れようにも落下を本能的に恐れ、小十郎の背中を掴むしかなかった。
座に戻った二人の姿を見て、一同が唖然とする。久秀でさえ言葉を失ったほどだった。
信玄は見た瞬間、唖然としたが、やがて息を吐き、苦笑にも似た笑い方をする。
政宗は状況が把握できないものの、自分が口を出さない方がいい、ということは理解した。
首座にいた吉が二人を眺める。
一同はこの不調法とも言える右目の行為に、気難しい女がまた癇癪めいた様子で場を蹴るか、または今度こそこの場で癇癪を起こすのではないかと内心で怯えた。
だが吉は穏やかな口調で言った。
「伊達の蒼に武田の紅。交わらぬと思うておったが、どうしてどうして、きょうだいのようではないの」
そしてくすくすと笑う。座はその笑い方で和んだ空気を取り戻し、久秀も余裕を持って二人を眺める。
「長く空けたと思えば、趣向を凝らした戻り方だね」
主催としては長く席を空けられることは面白くないが、このような趣向があれば歓迎の態度を見せざるを得ない。小十郎がそこまで計算していたのなら流石のものだと思った。
「幸村、お前は何をした」
信玄の呆れ果てた声に、ようやく小十郎は幸村を降ろした。これ以上は幸村の恥になる。幸村は顔を真っ赤にして席に戻り、信玄に何やら言い訳を始めた。小十郎は一同と──吉に目礼し、政宗の隣へ戻る。
「あーあ」
政宗が小さく溜息をついた。
「俺も行きゃ良かったなァ。なーに面白いことしてんだよ」
「申し訳もなく」
頭を下げる小十郎に、政宗は「ま、いいけど」と言い、供される酒を口に運んだ。何も聞かないよ、という横顔だ。
だから小十郎は、また深く政宗に頭を下げたのだった。




夜更けまで続いた宴の後、宿泊場を提供するのも主催者の重要な役目だ。財によってはそのためだけに豪勢な宿舎を建てる場合もある。今回も久秀の主導により、宴の場からそう遠くない場所に簡易だが贅を尽くした宿舎が用意されていた。
だが家康が当然のように安土の城に泊まると言い、吉は答えはしなかったものの、勝手にしろ、という顔であるのは明白だった。小十郎には二人の関係ははっきりとは分からなかったが、戦国武将にとって最大の機密である城に気軽に迎えるのであれば、気心の知れた関係であることは確かだろう。
明日は朝席の茶会の後、解散となる。今夜は政宗に危険がないよう、小十郎は不寝番をするつもりだった。
まず吉が宴の座から退き、それからはめいめいが動き始める。政宗は信玄に挨拶に行き、どちらかと言えば信玄よりもついでで声をかけた幸村と話し込む。小十郎が信玄に恐縮してみせるはめになった。
「気にするな、右目。若い者の行儀が良すぎてはいっそ心配よ」
信玄は豪快に笑った後、声を潜めて小十郎に囁く。
「いつの間に、あのきぐるい女と縁を結んだ」
表情を動かさずに済んだだろうか、と小十郎は思った。
「何を仰るかと思えば。酒が過ぎられたか、甲斐の虎ともあろう御仁が」
冗談を、と小十郎は流そうとする。信玄はにやりと笑った。
「佐助がな。肝心の部分を幸村が聞かぬで困ったと申しておったわ」
小十郎は言葉を失う。そして感情に溺れていた自らの不覚を呪う。
あの忠実な忍が、主を一人で歩かせるはずがなかったのだ。たとえ主が気付いていなくても、影のように闇の中に忍んでいたのだろう。
小十郎の絶句を見た信玄がまた豪快に笑ってみせた。
「ま、良い、良い。いくささえ無くば夫に尽くすような平凡な女じゃろ。時が来たらば大事にしてやれ」
「時が──」
「あの娘っ子が招く時か、はたまた他の誰ぞが招く時かは分からぬが」

一度出逢った男と女、断絶を望まぬ限り、二度と道が交わらぬことなぞ、ないわ。

そう言った信玄は、咄嗟に返事ができない小十郎の肩を叩いた後、政宗に挑発されて顔を真っ赤にしながら反論している幸村の頭に「やかましい」と拳骨を落としたのだった。
そこへ久秀が現れる。信玄へ頭を下げ、それから政宗にも同じことをした。
「吉姫からの御言伝なのだが、ね」
「あれが姫か。言い得て妙じゃ」
信玄のぼやきに笑えるほど度胸のある者はこの場にいなかった。久秀だけが律儀に唇を笑いの形に歪めてみせただけだ。
「城主殿たちにはぜひ、安土の城にお泊りをと。仰せつかったよ」
一瞬、一同は視線を絡ませた。織田信長らしからぬ、と誰もが思ったのだ。
夫を傍に呼びたいがために、最大の機密である城の中へいつ敵となるか分からぬ将たちを招き入れるのかと。
だが久秀が続けた言葉は、そんな考えを瞬時に吹き飛ばすものだった。
「城なぞ機密でも何でもない、乗り込まれし時は既に勝敗は決しているものだ、とね」
久秀は笑う。
「私は武将ではないから、何とも言えぬがね。──挑戦というわけでもないだろうが、乱世の親たる彼女が考えることは難しいものだ」
乱世の親──その言葉に小十郎は貫かれるような衝撃を感じた。
確かにそうだ、と思った。

あの女がいなければ、今の乱世は有り得なかった。諸国の勇将が野望を抱いて時代に躍り出ることもなかったかもしれない。
精々が隣国との小競り合い、よくて地方の統一だろう。
それが今、日の本全てを手に入れたいと願う武将の何と多いことか。

野望を持たせたのは誰か。
機を知らせたのは誰か。
乱世を起こし──

「乱世の親か」

信玄が呟く。

「あの娘っ子、ガキばらの誓いを忘れておらなんだ」

乱世を起こし、
その先に──

政宗を見る。唯一無二の主君。
遊びで天下を獲りに行くわけではない。天下を獲る。獲った先は? 伊達家の反映、日の本の支配──それはどういう意味なのか。
今、初めて考えたような気がする。
その先にあるのは、

安定だ。

かつてないほど強固な、過去の日の本には有り得なかったほど強固な安定が先にある。
それが織田であろうと、伊達であろうと、武田であろうと、徳川であろうと。
日の本というひとつの「国」が絶大なる安定を手に入れることになる。

「はは」
不意に政宗が静かに笑った。お手上げだよ、と言うように。
小十郎と全く同じことを考えたのだ。
「……かなわねえなあ、あの姐さん」
未来の展望がなかったわけではない。奥州が天下を統一するために、夢のような野望に生きる日々、確実にその先を考えていた自信はあった。
だが政宗は思い知っていた。

──見ている場所が、俺とは違いすぎた。

幸村は敬愛する主君と好敵手、その片腕の様子に気付く。
だが彼らのように、深く何かを感じることはできなかった。乗り込まれた時には勝敗が決しているもの──その言葉に感心し、頷いただけだった。
幸村が愚鈍なわけではない、と、その横顔を見た信玄は思う。
愚鈍なわけではない。器が足らぬわけでもない。
ただ、少年にはまだ遠すぎる世界だったのだ。虎の庇護の下、いまだ与えられることが多い生き方をしている。与えられるよりも与える側、奪う側である政宗や小十郎のように、すぐに気付けるはずがない。

──ワシが倒れたら、気付け。若虎。

「よし」
信玄が言った。これは決定だ、という声で。
「娘っ子の挑戦、受けようではないか。きぐるい女が暗殺されても責は我らになし、よかろうな」
「いやはや、物騒なことを仰るものだね」
久秀が笑いを含んだ答えを返し、ちらりと小十郎を見た。小十郎は視線に気付いたが、敢えて久秀を見ない。あくまで政宗を見たのだろうと思うことにした。
席を外した理由を探られている。そう感じたからだった。
「OK、喜んで。土産話にいいな。うちの若いのがさァ、西の話を聞きたがるんだ」
「楽しい話をしてあげられると良いね。──ではこちらへ。少し離れているが、酒を召していると言っても卿たちならば問題あるまい」
「ああ、あれ、美味かった。帰りに少し持って帰りたいんだけど」
「奥州の酒も美味と聞くがね」
「こっちのもキレがあっていいね」
政宗はわざと久秀に雑談を振る。この男に小十郎のことを探らせてはならない、と直感していた。
結局久秀は小十郎に話しかけることもできず、一同を安土の城まで送ることになった。