月明かりの川べり、草叢と木々の中、緋の着物の女が歩いて行く。小十郎はその後姿を眺めながら歩いた。
男の歩幅の方が広いのは当たり前で、すぐに距離は縮まる。
互いに何も話さなかった。
宴の光が届かぬ場所まで来る頃には、小十郎が手を伸ばせば簡単に腕の中に収められる距離までに近付いていた。
だが小十郎は手を伸ばさない。
言わなければならないと思っていた。
訊かなければならなかった。
吉が歩みを止める。だから小十郎も立ち止まった。
「話がある」
吉は答えない。だが聞いていることは分かっていた。だから続けた。
「この先、二度と会えるか分からねえ」
それは真実だ。
これから天下は織田のものになる可能性が濃厚だった。そうなれば「織田信長」は日の本に完全な政治体制を整え、安定を脅かすであろう勢力を地方に封じるはず。
それは奥州とて例外ではない。むしろ昨今、飛ぶ鳥を落とすかのように躍り出た奥州の若い力は、最も警戒される勢力のひとつだった。
その奥州を、軍事だけではなく、政治の天才とも言える「織田信長」が侮るはずがない。織田が天下を取れば奥州は身動きが取れなくなる。奥州の地から離れることができぬよう、様々な手が使われるだろう。
政宗に人生を捧げる小十郎が、奥州から離れられなくなるという意味でもある。
「だから、どうする」
吉は答えない。小十郎は続けた。
選択肢を示す以外、今は何もできなかった。
「このまま、俺の妻でいるか」
それとも、と続けた声が喉に張り付くようだった。
「それとも、離縁して、他の男と結婚するか」
自分で言っておきながら目眩がしそうだ。
言いたいはずがなかった。だが言わなければならないことだった。
織田のためにはそれがいい。小十郎は分かっている。吉も、誰よりもよく分かっているはずだ。
夫婦である限り、一生こんな偶然の出会いを期待することになる。今まではもしかするとそんな偶然が、あの場に行けば夫が、妻が、と思うこともできた。
だがこれからは──織田が天下を取れば、考えることすら無意味になるのだ。
家康と結婚することが一番いい。あるいは武田の誰かと。そのあたりの国と縁を強固にし、天下を磐石たるものにするためにはそれが一番手っ取り早いことだった。
吉が結婚していることを知っている者は限られている。逆に言えば、政宗と光秀以外は誰も知らない。対外的に新たな結婚は容易いことだ。
どうする、ともう一度小十郎は妻の背に問いかける。
妻は振り返らなかった。
振り返らないまま、言った。
「お好きになさりし。わらわを離縁して新しい妻を娶るも、おまえさまがお決めになられること」
「──お前、そういう話じゃねえだろう」
「そういうお話」
妻の声は静かだった。小十郎は歯軋りをする。女が意地を張っているのだと思った。
「お前は耐えられるのか」
「何を」
「二度と会えるか分からねえ。もう会えねえかもしれねえんだ」
「そ」
「耐えられるのか」
ゆっくりと、本当にゆっくりと吉が振り返った。
「おまえさまは」
今にも、
「かもしれぬ、で」
泣きそうな顔で。
「わらわをいらぬと、仰るの」
そうじゃねえ、と小十郎は言った。
「そうじゃねえ。お前、俺の言ったことが分からねえのか」
「何が、そうではないの」
「だから──」
「いっそ」
吉の声が大きくなった。泣いていないことが不思議なほど、悲痛な声だった。その声は小十郎を抉る。言いたいことではなかった。それでも言わなければならないと思っていた。
だが──傷つけるとは、思ってもいなかった。
「お心が変わられたからと、仰ればよろし!」
「──そんなはずがあるか! あるわけねえだろう!」
小十郎も思わず大声を出した。怒鳴っていた。妻の前で怒鳴ったのは初めてだった。
妻を傷つけたという自己嫌悪が、怒鳴り声になって迸った。
吉は相変わらず泣きそうな顔で夫を見ている。怒鳴られたことに驚きはせず、ただ、泣きそうな顔のまま。
「嘘でも言えるか! お前、俺がどれだけ──」
怒鳴っていた。誰にも言ったことのない、言ってはいけなかった心を吐き出していた。
目が眩むような美しい舞を見た瞬間、笛を投げ捨てて両腕に抱き締め、叫びたかったことを。
「自分の妻を奥州に連れて帰りたいと思っているか、分かってねえのか!」
吉の唇が戦慄いた。泣くのではないかと小十郎は焦り、我に返る。泣かせたいわけではなかった。
だから女が泣く前に抱き締めようと手を伸ばし──
それは本能に近い反射行動だった。
伸ばした手を咄嗟に腰の刀にかけ、素早く吉を背後に隠す。吉は身動きひとつせず、息を潜めることもなく、小十郎の背に触れることもなかった。小十郎は知る。背後に隠された瞬間、妻は「吉」ではなくなった。背中に感じる空気が瞬時にして研ぎ澄まされ、夫であるはずの小十郎の背にも、信じられない重圧を与えた。
「そこの」
小十郎が低く言った。
吉と同時に感じた、木の陰の何者かの気配へ。
「夜目の利く獣と言えば、鼠か猫か。──名乗れるなら名乗れ。名乗れねえなら」
刀の鯉口を切る。
「斬らせてもらう」
気配の主は出て来ない。既に居場所が知られたと分かっている様子はありありと感じられたが、何かの戸惑いの中に佇んでいるようだった。
場合によっては、小十郎は本気で斬るつもりだった。今の話を聞かれてしまった可能性が高い。己の迂闊さを呪ったが、今は自責している時ではない。
竜の右目の妻が魔王であること──知られていい話ではない。
不意に吉が動いた。夫の背に触れたのだ。
「お待ちあそばし」
「お前」
背中の重圧が消えていた。
「違う。──出ておいでたも」
吉の声は優しかった。秘密を聞かれた魔王の声ではなかった。
可愛がる何かを許す、そんな声だった。
「出ておいでたも、──紅色の子」
小十郎は目を見張る。
数秒の戸惑いの後、木の陰から姿を現したのは──幸村だった。
「きつ様が、どこに行かれたのかと──それがし、心配で」
「そ」
「僭越ながら、探しに参ったのです」
「ありがとう、ナ」
今聞いてしまったことが信じられないと言う顔で吉を見、小十郎を見、それから困り切ったように足元に視線を逃す。吉が眉をひそめて微笑んた。
「おまえさま」
「ああ」
「ゆきは、賢い子だえ」
本気で言っているのか、と小十郎は反射的に言いたくなったが、そこは曖昧に頷くに留めておく。今はそんなことより、もしかすると最悪の相手に聞かれたのではないか、ここをどう切り抜けるべきかと考えることが先決だった。
「申す相手と、申さぬ相手は、ようよう選べる子であろ」
「まさか」
見逃せ、と吉は言っているのだ。小十郎は賛同しかねた。たとえ今、同じ藤見の宴にいようとも、政宗とこの幸村が好敵手と言われようとも、伊達と武田は友好な状況にあるわけではない。この話を政治的にどう使われるか分かったものではない。
小十郎が口を開く前に、幸村が言った。彼にしては小さな声で。
誰にも聞かれてはいけないのだろう、と理解している声で。
「きつ様」
「ん」
「お館様にだけは、申し上げねばなりませぬ」
「──ん」
吉は頷く。小十郎は刀の柄から手を離さぬまま、幸村を見ている。
「それから」
「ん」
「佐助にも、申すやもしれませぬ」
抱えるには大き過ぎる秘密だと、幸村は感じていた。理由は知らない。二人の過去にどんな経緯があって、どんな理由で今の状況なのかは何も知らない。
それでも感じていた。あの笛と舞の時に感じた哀しさは──二人が哀しい状況にあるからだと。
事実として、情報として主君には伝える。これは忠実な家臣として当然のこと。
感じ取ったものを私人として一人で抱えておくには、幸村は余りにもまだ若く、幼かった。
「佐助は、誰にも申しませぬ。それがしが申すなと申し付ければ、必ず」
「そ」
吉はまた、頷いた。分かっている、というように。
分かっている。
小十郎も分かっている。
あの忍は確かに、幸村に危険がない以上は口を噤むだろう。信玄とて言い触らしはしない。
だが──おそらく回避できないであろう、いずれ来る織田と武田の衝突の時、この情報を有利に使うことは分かっている。
小十郎は迷う。騒動覚悟でここで刃を交えるか。それとも吉の言う通り、見逃すか。
幸村は丸腰ではない。あの紅い二槍を持っている。宴の時にはなかったものだが、吉を探そうと場を離れた時に手にしたのだった。
幸村が顔を上げる。小十郎の意を感じ取ったかのように。
「右目殿」
「ああ」
「それがしを、信じては頂けぬか」
小十郎は言葉に詰まる。即答できない。
幸村の人となりはよく知っている。嘘をつけない、馬鹿がつくほど正直な子供。
それでもただ信じるには、この話は大き過ぎる秘密だった。
どうするべきか。
その時だった。
悩む小十郎の勘が鈍ったことは否め得ない。
幸村が素早く二槍を構え、吉が暗闇の叢の奥に目を向けた。小十郎は我が身の不覚を呪いながら、遅れてその視線を追う。
そして思わず刀を抜こうとした自分を必死の力で止めなければならなかった。
「信長公」
そこに現れたのは──あの鎌を背にした、光秀だった。
白い美貌が闇に浮かび上がる。
「信長公、もうよろしいでしょう。お戻り下さい」
吉は何も言わない。おかしい、と小十郎は感じる。光秀に対しての態度は宴の間でよく分かっていた。何か言われれば必ずきつい言葉を返す。光秀はそれを困った顔をしながらも喜んでいた。
今とて、何も言わないはずがない。去ね、程度は言ってもおかしくはない。
だが吉は何も言わない。
夫の着物の背を、ぎゅう、と掴んだ。
その仕草に光秀が忌々しいという顔をする。
「信長公。皆様がお待ちですよ」
吉は答えない。
「私がお連れします。片倉殿、真田殿。我が主の気晴らしへのお付き合い、感謝いたします」
さあ、と光秀は言った。
「さあ、帰りましょう。信長公」
「お待ちあれ」
言ったのは幸村だった。二槍の構えを解くことなく、死神のような男を見据えている。
「それがしと、右目殿でお送りいたす。ご心配なさらず、宴で主殿の代わりをお努められよ」
「ありがたい御申し出ですが、それではこの方は朝までお帰りになられません。それでは困ります」
小十郎はただ、光秀を射抜くかの如き目で見る。視線に気づいた光秀が、突如として苛立ちと憎悪をあらわにした。
「あなたがいると、鬱陶しいのですよ」
「残念だったな、惚れた女が俺の妻で」
「女?」
光秀は一瞬意外そうな顔をする。
それから笑った。冷たい、嘲りの笑いだった。何も分かっていない、お前は哀れだ。そんな笑い方だった。
「きつ、なる女に用はないのですよ」
「──何だと?」
「そんな、ただの女。夫を恋しがって無様な舞を舞い、首座を抜け出す女なぞ、私は全く興味がない」
「無様であるものか、無礼な!」
幸村は思わず叫んでいた。あの舞を侮辱することだけは許せないと強く思った。吉の心を踏み躙られるような気がした。光秀はちらりと幸村を見たが、相手は小十郎だと決めたようだ。
「戻りましょう、信長公」
信長公。
その呼び方で小十郎は知った。
この男は──織田信長というものにしか興味がないのだ、と。
吉という女の夫を憎悪の目で見たのはそれが理由だったのだ。夫が傍にいればただの女になる、魔王の姿など見たくなかったのだ。
今も、あの雪の日も。
──だから俺を、憎んだか。
光秀が歩を進める。小十郎も幸村も、視界にないかのように、悠然と歩く。
「信長公」
男にしては白い手が差し出された。まるで小十郎に差し出されているかのようだったが、背後にいる女への手であることは明白だ。
「さあ、戻りましょう」
背を掴む妻の手が、と、小十郎は気づいた。
妻の手が、
震えている。
「いや」
吉が声を出した。震える声だった。光秀が目の前にいなければ、小十郎は振り向いていたはずだった。幸村も驚いて吉を見る。こんな声を聞いたことがなかったのだ。
光秀もその声の意外さに眉をひそめる。
「どうなさったのです。私ですよ」
「いや」
「信長公。光秀めを」
ああ、と小十郎は思った。
思い出した。
この言葉を聞いた。
あの日に。
「光秀めを困らせあそばしますな」
あの、雪の日に。
「──いや!」
吉が叫んだ。悲鳴だった。ただの女の悲鳴だった。
夫と引き離されることに抵抗する、ただの女の悲鳴だった。
「いや、──いや!」
闇を引き裂くような悲鳴に、光秀が上品な貌にそぐわぬ舌打ちをする。小十郎の横から手を伸ばした。腕を掴まれ、夫の背後から引きずり出された吉が更に悲鳴を上げる。
「いや!」
幸村は小十郎を見る。このまま行かせるのか、と言うように。
小十郎は、
動けなかった。
あの日の記憶が蘇る。
あの苦痛の瞬間に支配される。
それは吉も同じことなのだろう。だから取り乱している。誰もが知るあの女だとは思えないほどに。
あの日、
このまま別れた記憶が二人を支配する。
「右目殿!」
幸村が叫んだ。小十郎は身体を震わせた。
少年の声は雷鳴の如く、小十郎を貫いた。
「奥方が連れ去られようと言う時に、そのざま!」
それは少年の、素直な絶叫だったのだ。
「男として、恥を知れッ!」
その瞬間、全ての呪縛が解けた。
刀を抜いた。常人であればただ一振りで斬り捨てていたに違いないほどに鋭い抜きの一閃だった。だが相手は光秀だ。吉の手を離すことなく、それどころか片手で抱きすくめて紙一重で避け、背後に飛び退り、あの鎌を目にも止まらぬ速さで構える。
いや、と吉がまた悲鳴を上げた。光秀の鎌が動く。
小十郎はそれを見なかった。武人としては最悪のことだった。
それでも今、あの雪の日の記憶と交錯する現実の境目で、ただ妻を探した。
吉に手を伸ばす。
雪の日に尾張から迎えに来た男の手から逃れようと、夫に手を伸ばし、もがく妻に。
「愚かな」
光秀が獲物を仕留めると確信した呟きを漏らす。それほどまでに小十郎は無防備だ。
突如、二槍が襲い掛かった。普段なら鎌で受け止めたかもしれない。だがこの条件ではさしもの光秀もかわすことが精一杯だった。
同時に吉の腕を掴んだ小十郎が、妻の身体を確と抱き締める。
「先に!」
動こうとした光秀を制するかのように、幸村が再び叫ぶ。
「お戻りになられよ! 主殿はこちらにあられる御夫君、片倉小十郎殿がお送りいたす!」
ああ、と小十郎は思った。
ああ。
だから、妻は──この少年を信じたのだ。
不利を悟った光秀は鎌を納め、小十郎に「くれぐれも」と短く告げる。あの憎悪の瞳で。
そして再び、闇の中へ姿を消した。
吉が夫の腕の中で呻いた。
おまえさま、と。
幸村がいることも構わず、小十郎は妻を強く抱き締める。
あれは嘘だ。そう思った。
あれは嘘だ。
離縁なんざ。
できるものか。
俺たちは、死ぬまで、夫婦だ。