──味が、分からぬ。
安土での藤見の夜会、信玄の横に侍った幸村は、美味いはずの菓子の味が分からず、少なからずがっかりした。
満月から降注ぐ月明かりと雪洞の灯りのもと、甘い香りを放つ豪奢な藤棚の下、この日のために訓練を積んだ舞手と奏者が優雅な光景を作り出している。
幸村はそれよりも、招かれている列席者の名前を思い出して溜息をつきたくなっていた。菓子の味が分からぬほどに錚々たる顔ぶれが揃っている。
主君である甲斐の虎、三河の徳川に奥州の伊達、その他にも文化人や役人が勢揃いしているとあっては、いかな無邪気な幸村とて気後れするのは無理からぬことだった。
加え、彼らに伴い、それぞれの副将が一堂に会している。
更に恐ろしく珍しいことに、こういった席に滅多に顔を出さぬと評判の織田信長までもがそこにいた。さすがに安土で会することになれば、これだけの列席者を前にして信長が欠席するわけにもいかない。
そして主催がかの松永久秀とあらば、主君である信長としてはやはり欠席は憚られた。他の武将も同様だ。──松永の誘いを断るのは、風流を解さぬ無骨者という評価を得るからだった。体面も重要な地位にある者としては、興味がなくとも出なければならなかった。
当然のように明智光秀がその後ろにいる。給仕をする女たちがつい熱い視線を送るほどの冷たい美貌は今日も完璧だった。
でも、と幸村は視線を動かす。
──きつ様、相変わらず天女様みたいだ。
主催の久秀の隣とはいえ、首座に座り、緋の着物を纏ったその女は、幸村の記憶の中の姿よりもいっそう美しかった。男たちは花よりも舞よりも、ついその女を見てしまっている。不躾とも言えるような露骨な視線を送る者もあり、性的に未熟な幸村は気味が悪いと思うばかりだった。流石に居並ぶ諸将の中にそんな者はおらず、幸村は辛うじて安心することができた。
ただ幸村には、彼女があまりこの席を楽しんでいないのではないかと思えた。無感動に、無感情に、藤の花の下で繰り広げられる舞や奏を見ているだけだ。胸元から扇子を出し、口元を隠す。あれはつまらない証拠だ、と幸村は思 い出した。幾度か武田の城に吉が訪れた時に見たことがある仕草だ。隣の久秀が少し笑ったようだった。
「お館様」
つい、幸村は信玄に囁きかける。
「きつ様、お楽しみでいらっしゃらないのでしょうか」
「弾正が主催、と言うのが面白くないのだろう」
「え?」
「静かにしておれ。たまには良き雅楽に触れよ」
「はい」
とはいえ、幸村はこういった舞や奏よりも、まだまだ武術に熱を入れたい年頃だった。
目の前で披露される舞や雅楽はさすが松永久秀主催だけあり、日の本でも最高峰の技術なのだろうが、今の幸村では理解しきれない。
暇にあかせ、武将たちを観察する。
光秀はどちらかと言えば、舞台よりも信長の世話を焼くことに忙しいようだった。信長は特に返事をすることはないものの、好きにさせているようだ。
家康は信長の熱心な信奉者であることは知られていて、今日も舞台より信長を見ている。席が離れているのが不満そうだった。
その隣の政宗はこういった雅楽が嫌いではないのか、それなりに楽しんでいるようだった。一度幸村と目が合い、にやりと笑う。幸村は唇の端を持ち上げて笑い、返答に代えておいた。
政宗の隣にいる小十郎は──あれ、と幸村は首を傾げたくなった。
熱心に舞を見ている、と言うよりは──
──きつ様を、見ている?
確かに視線の先には舞女がいる。だが幸村には、それは違うと分かった。
舞女の向こうにいる、信長──吉を見ている。
──あの男が、女性を凝視するとは。まあ、きつ様の美貌に驚いたのかもしれないし──
だが、何か違うような気もする。
小十郎の目は、男が美女を見るそれではなかった。幸村の言葉ではまだ表現できない、もっと深い、そして静かな炎のような感情を秘めた目だった。
対して吉は、小十郎を見ない。それは単に、吉からすれば見る身分でもないというだけなのかもしれないが、幸村はまるで吉が頑なに見ないようにしているのではないかと、理由も分からぬながらそう思った。
吉が幸村の視線に気づいた。目が合う。
すると扇子を外し、この場に来て初めて、にこりと微笑んだ。幸村はすっかり嬉しくなり、笑い返す。途端に家康と光秀が幸村を鋭く見たが、幸村は一 切気づかなかった。──お久し振りにお会いするきつ様がお笑い下さった!──幸村にはまず、それだけが大事件だったのだ。男の嫉妬など気づくはずもなかった。
しっかり気づいた信玄は呆れ、これは本気で嫁取りを考えてやらねばならぬ、と思った。幸村が知る数少ない「女」が謙信や吉、かすがでは、女に対する誤解を持ったまま生きて行くのではないかと危惧したのだ。
久秀が何事かを吉に囁いた。吉も何か答えたようだ。やがて幸村の元に、苦虫を噛み潰したような光秀がやって来た。
「信玄公、恐れ入ります」
信玄に丁寧な口上を述べる。
「我が主が、真田幸村公とお話ししたいとの仰せにござりまして。信玄公、いかがにあらせられましょう」
幸村は席の格式から声を出すことはなかったが、期待をこめて信玄を盗み見る。上目遣いのそれに気づいた信玄は苦笑した。
「気鬱を晴らすには良かろうな」
「気鬱?」
幸村がつい首を傾げると、信玄が「お前にはまだ分からぬ」ときっぱりと言い捨て、聞こえていた光秀が「不本意ながら」と呟いて僅かに頷いた。明智公まで、と幸村は拗ねたくなる。
「幸村、行って参れ」
「──はい!」
「声が大きいわ、馬鹿者」
つい返事の声が大きくなり、舞よりも注目を集めてしまったことを知り、幸村はやや顔を赤らめた。
「まァ、ゆき、元気だったかえ」
「はい、おかげさまで。きつ様もご機嫌うるわしゅう」
吉は先ほどまでのつまらなそうな風情はどこへやら、幸村には笑顔の大盤振る舞いだった。家康と光秀はとても穏やかではいられないが、幸村は全く気づかない。
久秀が口を挟んだ。
「吉姫、紹介してくれぬかね」
きつひめ、という耳慣れぬ呼称に、つい幸村は吉を見る。吉は「ん」と答える。
「甲斐が武田の副将軍、真田幸村公。ゆき、こなたは大和の弾正、松永久秀」
「さようでございますか。松永公、真田幸村にございます。本日はお招きに預かり、大層光栄に存じまする」
そつなく挨拶をすると、吉がくすくすと笑った。その横で久秀も同じような挨拶を返す。
「何がおかしいのだね、姫」
「ゆきが、きちんと挨拶が出来るようになっておるから」
「いや、きつ様、それはどうぞもう……」
初めて「信長」と会った時のことを思い出し、幸村は赤面してしまう。久秀がその話を知りたがり、吉に促された幸村は、話さざるを得なかった。聞いた久秀は穏やかに笑う。
「甲斐の若虎と聞き及ぶが、まさにまさに、だな」
幸村は笑っておくにとどめておいた。──何となく、久秀に得体の知れぬものを感じたのだ。
そして本能が見抜いていた。
──きつ様は、この男に心を許しておいででは、ない。
吉は人と話す時、正面から目を見据えて話す。これは幸村自身よく知っている。
だが今、吉は一度たりとも久秀と目を合わせていない。
「御歳お若いようだね。出雲の国主殿より少し、下か」
「出雲の、と仰いますと──確か、尼子晴久殿であらせられましたか」
「そう。姫のお気に入りでね。今日もお招きしたのだが、またの機会に、と振られてしまったよ」
「さようでございますか。残念でございますな」
「毛利が煩いのであろ」
吉が眉をひそめて言う。幸村は「ああ」と納得した。尼子と毛利の対立は近年目立ち始めている。今回はそのことが絡み、晴久は参加できなかったのだろう、と分かった。
「しかし若虎、姫の気に入りとあらば、たとえ信玄公の陣といえど下には置けないな」
「いえ、松永公、それがし、ここに参りますだけでも過分にございます。何卒お気遣い召されますな」
「若いのに慎み深い。──では、吉姫と積もる話もあろう。私は暫し失礼するよ」
優雅としか言いようのない所作で吉に礼を、幸村に目礼し、久秀はその場を立った。列席者に挨拶に廻り始める。
幸村は吉が明らかに力を抜いたことを見抜いた。これだけで、自分がここに来てよかったと思う。
「きつ様」
「ん」
「お疲れでいらっしゃいますか。ご無理なされますな」
「大事ない、大事ない。ゆきは優しいの」
「きつ様と、お館様には」
吉がくすくすと、見ている方が嬉しくなるような笑い方をした。幸村は知らなかったが、吉がこの笑い方を自然に出すのは珍しい。幸村だけはよく見ていた。
幸村と──夫だけは。
「舞や奏は? すき?」
「え、ええ──まあ」
それだけで幸村の真意を理解した吉は笑みを深める。
「若き殿方なれば、武の方が楽しかろう、ナ」
「はい。実は、こういったものは少々苦手でございます」
そこで素直に言ってしまうものだから、また吉は笑うのだ。彼女の周りに素直に答える者がほとんどいないということを、幸村は知らなかった。
「だがの、ゆき。こういったことも必要だえ」
察した幸村は声を潜める。
「男振りが上がりますか」
「その通りぞ」
二人の間ではすっかり出来上がったお決まりの遣り取りに、揃って笑う。家康や光秀は会話が聞こえず、ありていに言えば気が気ではない。──己も含めた並み居る武将や文化人を差し置いて、あの子供のような幸村が、我が君とあんなに至近距離で!
吉は幸村に、次々と披露される舞の種類やなりたちを簡潔に教え始めた。分かりやすく、また、面白いその説明に、幸村は珍しく夢中になる。二人を遠くから観察していた信玄は驚いていた。幸村が舞や奏に興味を示す姿を初めて見たのだ。
久秀はそんな様子を横目で見ながら、あの薄い笑いを口元にたたえ、一人ひとりの列席者に挨拶をする。
「奥州の竜、本日はようこそ」
「あァ、どうも」
「突然の招きに応じてくれてありがとう」
「いや、驚いたね。俺たちが城下街に入った途端、見つかったんだからさ」
政宗はこの男が好きではなかったが、礼儀として居住まいを正す。横の小十郎は早々に頭を下げておいた。この場では出来る限り、声を出したくなかった。
「出雲からのお帰りの道中と聞いたが」
「あそこと陸路で交易を始めるんでな。一回くらい、見ておいてもいいかと思ってさ」
本当に見ただけだった、とは政宗は言わなかった。晴久にも連絡をせず、小十郎と数人の供だけを連れて隠密に向かい、本当に忍び込むかのように出雲を見ただけだった。
滞在したのは僅かな時間だ。だがそれでも、銀山と言う資本と貿易港、陸路での貿易路を持つ国の強さをひしひしと感じた。ほんの僅か前までは砂と風だけの国だと言われていたはとても思えなかった。
何より出雲は、現守護代の尼子晴久の代になってから飛躍的な発展を遂げている。銀山の所有権を確たるものにした上に、大規模な貿易港の展開に成功し、強い経済力をもって国力としている。
この時代において天下を掌中に収める争いから早々に降り、軍事よりも内政に力を注いだ結果だということは、いまだ為政者としては未熟な部分も多い政宗にもよく分かった。同じ年頃だと聞いてはいるが、自分とは全く性質の違う国主なのだと思った。
出雲の背後に「織田」がいるからこその発展である、とも言われている。織田上総介信長が尼子晴久をひどく贔屓にし、可愛がり、出雲への援助を惜しまないからだ。銀山の所有権が確たるものになったのも、尼子に弓を引く機を窺っている毛利が大々的な動きに出られないのも、全ては織田が睨みを利かせているからだと言う。
晴久のことを「魔王のお気に入り」と陰口を叩く者も多いが、以前、小十郎が政宗に言ったことがある。
──魔王の気に入りであることは確かでしょう。あれほど役に立つ存在はありません。いくさに必要なものは何かお分かりですか。
何だ、と政宗は訊いた。
小十郎は静かに答えたものだ。
──補給です。広い戦線を引く時、いかな織田とて後方支援がなければ厳しいいくさとなることは想像に難くないことです。その後方を担うのが出雲です。出雲は織田の力で発展を遂げましたが、織田もまた出雲に力を借りている。互いの恩の規模は違えど、これは大変な関係です。今の群雄割拠の時代、他のどの国がこんな存在を持ちましょうか。
晴久が織田上総介信長と出会ったのはまだほんの少年の頃で、初恋の君という噂もある。晴久本人もそれを否定しないとのことだった。だからこそお気に入りと揶揄され、あるいはもっと下世話な噂に隠れがちだが、確かに織田と尼子の関係は恐るべきものだ。万一織田が倒れた時、どの国が出雲を手に入れるのか。西の各国では既にそんな水面下の牽制も始まっているという。
──……たまたまそういう関係に相成ったのか、それとも魔王が全てを見越して晴久殿を育てたのか、そこまでは分かりかねますが。
小十郎はそれで話を終わりにした。政宗もそれ以上訊かなかった。
本当はあまり、小十郎は「織田信長」のことを話したくないのだ。それくらいは政宗にも分かる。
「何か足らぬものはあるかね。遠慮なく」
物思いから引き戻したのは久秀の声だった。はっとした様子を隠しながら、政宗は答えてみせる。
「ノープロブレム。これで足らないたァ、なんぼ伊達でも言えねえよ」
「伊達、とは。私はどうも、まだ馴染みがなくてね。いつか奥州で見てみたいものだ」
「いいよいいよ、来なよ。歓迎するぜー、騎馬隊全部並べて待ってるからさァ」
政宗の際どい冗談に、久秀は礼儀正しく笑ってみせた。
「そちらは、片倉殿」
「そうそ。俺の右目」
小十郎は仕方なく顔を上げた。
久秀と目が合う。
──ここが。
背筋が寒くなったことを、認めざるを得なかった。
──いくさ場であれば、俺は刀を抜いていた。
それほどまでに久秀の目は鋭かった。口元には笑みをたたえたまま、目元も笑ってさえいる。
だが目の光が──違った。
探るような、観察するような、値踏みするような──
今度は、
卿から、何をもらおうか。
久秀の目はそう言っていたのだ。
「……ああ、ま、よろしくしてやって」
政宗も明らかに、久秀の目を察している。話を切り上げる意思を示した。風流と礼を解する久秀であれば、これで引き下がるはずだ。
だが久秀は、解するがゆえの言葉を口にした。
「剣術だけではなく、笛の名手とお聞きした。ぜひ、拝聴したいものだ」
いっそ、と政宗と小十郎は同時に思った。
いっそ、自分たちが礼儀を知らぬ者であればよかった、と。
久秀の申し出は、こういった場においては決して断れないものだった。断れば失礼にあたるのだ。笛がないと嘘を言えば、おそらくこの男のことだ、銘入りの新品を用意しているだろう。
「松永さん、唐突だなー。何そのサプライズ」
政宗が得意の南蛮語で話をそらせようと試みたが、何しろ相手はクリスマス休戦を知っている男だ。あっさりと「驚きもまた風流なものだよ」と穏やかに答えてみせる。
小十郎は腹を決めた。
「下手の横好きでよろしければ」
雅楽が止まった。吉と話していた幸村は気づき、つい会場を見渡す。
藤が雪洞や行灯の光に照らされていた。
その中に、笛を手にした小十郎がいる。
先ほどまでの奏者たちは退場し、精悍な武人が笛を手に、そこに現れたのだ。
「ゆき」
「はい、きつ様」
囁くような吉の声に苦悩の色を僅かに感じ、幸村は慌てて返事をした。
「信玄坊主のところへお戻りや」
一人にしてくれ。吉は言外に、そう言ったのだった。
残酷なものだ。愛笛を手に、小十郎は思う。
目の前に妻がいる。あの日別れて以来、ただ一度偶然で会っただけ。
言葉を交わすことも手紙を出すこともできない妻が。
男たちを怒鳴りつけたかった。俺の妻に色目を使うな。重圧をかけるな。見ろ──笑いもしねえ。笑わせることもできねえお前らが、手を出していい女じゃねえ。
俺のものだ。
だが妻が幸村を傍に呼び、笑った顔を見た時──安堵した。
まだ、笑えるのだと。
あの笑顔だと。
笛の音が響く。
はじめは「あの無骨な男がどの程度」という目で見ていた武将たちは、その音色の柔らかさに驚いた。久秀ですら「ほう」と小さく声を漏らす。
小十郎が奏でる曲は、こういった場に相応しい品格のあるものだった。諸将の反応を見、政宗は鼻が高くなる。──どうだい、こいつは誰よりも伊達なんだ。
幸村は雅楽に精通しているわけではない。だが小十郎の笛は好きだと思った。信玄も感心しているようだ。
月夜と藤の香りの中、音は高く、低く、広く広がる。
誰もが知る曲の、誰もが知る難所を見事に吹いた瞬間、誰もが堪え切れずに嘆息を漏らした。
だが幸村は見た。
吉の顔から表情が消えている。
光秀が憎悪を隠しきれない目で小十郎を見ている。
分からなかった。織田と伊達はことを構えたことなどなかったはずだ。
そして思い出す。頑なに小十郎を見なかった吉。小十郎が奏でると知った途端に一人になりたがった吉を。
幸村には何も分からなかった。
それでも、胸の中がざわついた。痛みにも似たざわつきだった。
曲が終わる。
しばらくの沈黙の後──誰もが曲の余韻に浸っていたのだ──割れんばかりの拍手が惜しみなく贈られる。久秀さえもが素直に拍手に混ざっている。
だがそれも、不意にやんだ。
「……ほう」
久秀が笑う。
扇子を手にしたままの吉が、立ち上がった。
その場にいた将たちはひやりとした。気難しいと知られる織田上総介信長が、小十郎の笛に何かの理由で気分を害したのではないかと思ったのだ。
久秀は薄い微笑をたたえて小十郎と吉を見る。
光秀は憎悪を持って小十郎を見る。
小十郎は吉を、
吉は小十郎を、見ていた。
政宗は──このまま、この女が奥州に来ればいいのに、と思った。
哀しかった。
あの雪の日、片倉家であった出来事を思い出していた。
小十郎は動じない。
吉が中央に進み出る。
そして小十郎は、再び笛を吹いたのだ。
幸村は呆然と言ってもいいような顔でその光景を見ていた。
闇と明かりに散る桜の中、緋の着物を纏った、美しい、美しい女が──笛の音に合わせて舞っている。
それは伝承の中にしか存在し得ぬような天女が、まるで地上の男たちに褒美を与えるために降り立ったかのような美しさだ。
そして笛の音の──何と、
切ないことか。
「これは」
感に堪えぬというかのように、信玄が呟いた。
「二度と、あるまい」
夢幻と言っても良い様な光景がそこにあった。
誰もが、吉がここまで見事に舞う技量を持っているとは知らなかった。小十郎が素晴らしい奏者だということを知らなかった。
鼓も、胡もない。
ただ笛だけだ。
それなのに、そこにいる全ての人々を引きつけてやまぬ音と舞がある。
幸村は自分が涙ぐんでいることに気づき、慌てて目を拭った。
哀しかった。
ただ、哀しい。
理由は分からない。それでも、あの二人を見ていると哀しくてたまらないのだ。
政宗と目が合う。泣いた目元を見られた、と焦る。
だが政宗は馬鹿にした目線を送ってはこなかった。
自らも悲しそうに、笑っただけだった。
舞と笛が終わる。
先ほどと同じく沈黙の中、吉は何事もなかったかのように席に戻り、小十郎も同様だった。
人々は言葉も出ない。まさかここまでのものを目にしようとは、という感動が、戸惑いになってすらいたのだ。
「いやはや」
沈黙を救ったのは久秀だった。
「ここにお集まり頂いた諸氏は、今、想像を超えて素晴らしき刻に居合わせたのだと──感動のあまり声も出ないようだね」
それが合図かのように、次の瞬間、先ほどよりも大きな拍手が上がる。素晴らしい、まさかこのような、と口々に言い合っては二人を賞賛する。
「素晴らしいね、竜の右目」
何も知らぬはずの男が──久秀が言う。
笛をおさめ、小十郎は軽く目礼した。
「信長公の御前にて、手前の程度では恐縮するばかりで」
「なあに、この方はそのようなこと瑣末と仰るよ」
知ったような口を利くんじゃねえ──その感情を飲み込み、上座の女を見る。
そして言った。
「笛は、お好きであらせられるか」
途端に場が静まり返る。僅かな間があった。この女が何を言うのか、居合わせた者たちは息を潜めて待つ。
久秀だけが──薄く微笑んでいる。
やがて、女の唇が動いた。
「すき」
小さな声であったのは、声の震えを隠すためだと分かっていた。
分かる程度には、他愛のない日々を共に過ごしたのだから。
政宗が無表情を貫いていたのは自分のためであることを感じ、ただただ、感謝するしかなかった。
他の奏者と舞手がやりにくそうな顔で戻り、再び彼らの仕事を始め、宴はまた進む。
新しい酒が供され、人々は口々に笛と舞について語り合った。
不意にまた、吉が動く。光秀が腰を浮かせたが、吉が何事かをきつく言ったのか、平伏して主を送ることになる。将たちは見ぬ振りをした。これもこういった時の通例のようなものだった。
吉はそのまま、場を出て行く。
「小十郎」
政宗がわざとらしいほど陽気に言った。まるで周囲に聞かせるかごとく。
「弾正サンへの土産。一応かき集めただろ」
「は、それは明日──」
帰る際に渡すための、と言いかける小十郎を制するように政宗は続ける。
「失礼ねえか、最後に確認してくれ。もしあったら今日中に何とかしねえといけねえからな」
小十郎は暫し主君を見る。
主君は腹心の部下の顔を見ず、隣の家康をからかい始めた。
小十郎は深く頭を下げ、できる限り静かにその場を後にした。