安心の中 02



導かれた先は穴倉の奥にある道だった。こんな道があったのかと小十郎は気付かなかったことに不審を抱く。道があれば空気の流れで分かりそうなものだが、一切感じなかったのだ。吉は無言で小十郎の陣羽織を強く掴んでいる。手を握ってやりたかったが、吉の意図を悟り、やはり大した女だと内心で褒めながら歩いた。万が一の危機、刀を即座に抜けるよう、吉は夫の手を自由にさせているのだ。そしてようやく小十郎は、吉が上半身の鎧を脱いだままであることに気付いた。あの場に置いてきてしまったのだ。戻って取って来るべきかと悩んだが、提灯を持って歩く少女に「止まってくれ」と言うことができなかった。
暗闇の中、先を歩く少女が持つ提灯以外の灯はなかった。あの灯が消えれば何も見えなくなるだろう。歩きながらふと振り返ると、先ほどまで寒さに震えていた場所からは相当遠くなりつつあった。
──道は一本だ。何かあったらすぐに引き返せる。
それにしても吉の怯え方が気になった。妖の類が苦手だと聞いたが、この少女が妖だと思っているのだろうか。
実際、小十郎とてこの状況がおかしいと分かってはいる。ずっと昔、まだ自分がほんの少年だった頃に出会った少女が変わらぬ姿で現れるはずがない。それでも生命の危機を天秤に掛ければ腹を括って歩むしかなかった。大袈裟ではなく、あの状況下で一晩を過ごせば吉の生命に関わりかねない。歩いている間も暖かいとは言い難く、小十郎でさえ歯の根が噛み合わなくなりそうだった。
遠くに灯が見える。周囲が岩で囲まれているが、街の入口めいた門が構えられていた。少女は振り返ることなく歩いて行くが、遂に小十郎は声をかけた。
「あそこに行くのか?」
彼女は答えない。聞こえなかったのかと思い、小十郎はやや声を大きくした。
「おい、あそこに行くのか?」
少女がようやく、ゆっくりと振り返った。同時に吉が陣羽織を掴む指に力を入れた。
その途端だった。
小十郎の視界が歪む。空間そのものが歪曲したような感覚は目眩にも似ている。だが違う、これは違う、と小十郎は直感した。
妻の名を呼んだかもしれない。自信がない。意識が薄れ行く。もう一度呼んだ。
きつ、と、大声で呼んだ。




自分の叫び声で目が覚めた。同時に飛び起き、全身にぐっしょりとした感触を覚える。寝汗をかいていたようだ。寝間着が汗で濡れていた。
──……俺の部屋?
あたたかい布団に火鉢、家具、装飾品、全て見慣れたものばかりだ。
意識が混乱することを何とか理性で抑えた。行軍中に織田と擦れ違ったことそのものが夢だったのだろうか。そうでなければ自分の部屋にいることの説明がつかない。
だが夢にしては余りにも生々しい感触が思い出せる。時として現実感の強い夢を見ないわけではないが、今回は余りにも異質なような気がしていた。
雨の音に気付く。酷い降りであることは土や屋根を叩き付けるような音で分かった。この音のせいで夢を見たのだろうか。──違うだろう、と小十郎は考える。だが結論が出ない。
不意に障子の向こうに気配を感じた。小十郎、と声をかけられる。
嘘だ。
小十郎は強く、思った。
「あら、なあに、大きな声できつさんを呼んだと思ったら」
くすくすとからかうような笑い声を含ませて言いながら入って来た女は、姉だった。
「……姉上?」
「随分寝過ごしたわね。今日からしばらく、輝宗様がお休みを下さったから構わないけど」
「輝宗様?」
「そうよ。──嫌ね、昨日酔っ払って帰って来たから忘れてるの? あなたにしては珍しいわね」
歳の離れた姉は笑っている。火鉢の炭を掻き回し、火を強くした。
「風邪なんて引いてないわよね、あなたじゃ。きつさんはどうか分からないけど」
「──きつ」
「まあ、あの人も健康そうだから大丈夫かしら。……それにしても、ねえ」
姉はまだ笑っている。小十郎は混乱する。小十郎と歳の離れた姉はずっと昔に嫁いで行った。今は季節の折々でも小十郎が継いだ本家に帰って来ることはなく、両親の住む隠宅に顔を出す。なぜ俺の部屋に姉上がいるのだろう、そしてなぜきつの話をするのだろう──おかしい、と思うしかなかった。
「それにしてもねえ。夢でもきつさんと一緒なのねえ。あなたたち、結婚したら本当にどうなっちゃうのかしら。さっきのあれ、夢の中ではもう呼び捨てにしてるってこと?」
「え」
「顔を洗ったらご飯を食べなさいね。だいぶ冷めたけど、寝坊した人に文句は言わせないわ」
言うだけ言うと気が済んだのか、姉は部屋を出て行った。
火鉢が温めるぼんやりとした空気の中、小十郎は考えることしかできない。
おかしい。『結婚したらどうなっちゃうのかしら』。おかしい。そう思った。吉との結婚は親にも明かしていない。持ち込まれる見合いの話を片端から断っている態度から、心に決めた女がいると分かってはいるはずだが、その女がどういった素性なのかは知らないはずだった。奥州で知る者は政宗だけだ。
その吉と「これから結婚する」と思われている。
おかしい。健康そうだから、と姉は言った。吉を見知っているということではないか。
姉がここにいることもおかしい。
休みをくれた輝宗という名も、今はもう遠い場所にいる人物のものだ。
雨の音に誘われるように障子を開ける。ひやりとした空気に襲われるかと覚悟していたが、なぜか暖かい──生温い、と言ってもいいほどの空気がそこにあった。
土砂降りの雨に打たれる庭は震えるほど寒そうに見えるのに、小十郎は全く寒さを感じなかった。
──……ああ、そうか。
不意にそう思う。
本当に、不意に、そう思ったのだ。
ふ、と息を吐く。
「……夢を」
そっと障子を閉め、部屋に入り、いつの間にか姉が用意してくれていた着替えを手に取った。
「夢を、見ていたんだな」
着替えを終え、部屋を出る。早く食事をしなければ、いい加減に姉に小言を言われそうだった。
それだけは御免被りたい。毎回、姉の小言は長すぎる。


着替えた覚えはない。吉は無言のまま身を起こした。いつの間に夜着になったのか覚えていない。いや、布団に入ったことも、この家に──かつて住んでいた織田家の屋敷に足を踏み入れた記憶もない。
雨の音がする。土砂降りだろう、と感覚が分かっていた。
まだ父の代の頃、自分が使っていた部屋だということは一目で分かった。
暫し考え、布団から出る。隣の部屋へ続く襖を迷わず開けた。やはり、と無表情のまま思う。予想通り、昔と同じ衣装部屋がそこにあった。
片端から勢いよく箪笥を開け、中を検分する。特に選ぶこともなく一着の着物を無造作に引っ張り出した。同時に引き摺られた他の着物がどさどさと箪笥から畳の上へ音を立てて落ちるが、吉は全く気にしなかった。
身分に似合わず、一人で着付けを終えてしまう。織田本家の女ともあれば侍女が総出で着替えさせるものだが、吉は全く気にしなかった。
「ねえさま、起きた?」
障子の向こうから声をかけて来たのは──市だ。吉の返事を待たず、市は勝手に部屋に入る。
「今日はそれにしたの? 綺麗ね」
「ん」
「ねえさまは、蒼がとってもお似合い」
「そ」
反応が薄い姉の態度など慣れていると言わんばかりに、市はにこりと笑う。
「それならきっと片倉様へお嫁に行っても、みんな喜ぶわ。主家の伊達様が蒼をお好みだって言うし」
雨の音がする。細い、か弱い娘らしい市の声が掻き消えてもおかしくないほどの土砂降りのはずなのに、吉にははっきりと聞こえていた。
「ねえさま、おなかは? すいてないの? お寝坊したもの、遅いけど食べましょう」
市が姉の袖を軽く引く。吉は好きにさせておいた。振り払う気にはなれなかった。
「市、ねえさまが起きるのを待っていたのよ。かあさまは先に食べたけど」
だから早く食べましょう、としきりにせがむ妹に、吉はふっと微笑んでみせる。市も微笑み返す。
「でも、ねえさま。随分お寝坊したのね。いつもはきちんと起きるのに」
「ん」
吉はゆっくりと立ち上がる。
「夢」
雨の音がする。
「夢を、見ておったようで」
どんな夢、と市が話をせがむ。さあ、忘れた、と吉は答える。
これだけ寝坊をすれば母は小言を言うだろう。何かと小言を言いたがる母だ。それを聞き流しながら食事をすることはもう慣れていた。


食事の部屋には父と母がいた。父は苦笑い、母は難しい顔をしている。
膳に並ぶのは小十郎の好きなものばかりだ。
両親の様子に笑いを堪える姉の給仕で食事をしている間、小十郎は落ち着かない。どうやら姉ではなく、母に小言を言われるのだろう、と予想した。それにしても、両親の監視の下で食事をするのは消化に悪くて仕方ない。好物なかりだと言うのに、普段よりも箸が進まなかった。
「小十郎」
「はい」
食後の茶を前にした時、母が重々しく口を開いた。小十郎は覚悟を決め、背筋を伸ばす。
「昨日、随分と帰りが遅かったようね」
「……そのようで」
「あのね」
母は咳払いをする。
「いくら好き合っているとはいえ、祝言前。少しは考えなさい」
「……はあ」
小十郎は苦笑する。父も似たようなものだ。目で「お前の気持ちは分かるぞ」と、男同士ならではの意志を伝えて来ていた。姉は相変わらず笑いを堪えている。
「おこうが出入りの納豆売りから聞いたと言うことだけど、こんなに雨が酷いのに、二人で東の市へ行ったのですって? しかも、ええ、その──」
「傘がひとつで?」
悪戯めいた口調で言う姉をやや睨み、母は顔を赤らめ、そう、そうよ、と呟く。小十郎はまた苦笑するしかない。確かに母の時代からすれば考えられないことかもしれない。
「しかも、あんなに遅くまで。お酒まで飲んだのですって?」
「そのようで」
酔っ払ってたから覚えてないのよ、と姉が軽快に笑い、母は更に難しい顔をする。
「あなたはいいですよ、男なのですから」
「はあ」
「でも、きつさんに悪い噂が立ったらどうするの。あんなに良いお家のお嬢さんがお嫁に来てくれるのに、あなたときたら」
「確かにねえ。片倉が織田の長女をお嫁にもらうなんて、考えられないわ」
「そう、それよ。そもそも考えられないことなんですから。それなのに小十郎、あなたときたら、あんな深窓のお嬢さんを祝言前に連れ回すなんて!」
「小十郎ったら、二人で東の市に行って片時も離れなかったんですって」
「あなたはお黙りなさい!」
「あら、母上、ご自分だって父上とそんなふうにしてみたかったっておっしゃってたのに!」
「──何てことを言うんです、はしたない!」
姉を叱り付けながらも母は真っ赤になっていた。思わず小十郎は父を見、息子の視線に気付いた父は心なしか赤面して小さく咳払いをする。
いつものことだ。平和なものだ。小十郎はそう思った。だから言った。
「好いた女が喜びそうな場所に連れて行くのは気分が良いものですよ、父上」
「ああ、──ああ、そうか、うむ、そうか」
「そうよねえ、きっとそうよね、父上もねえ」
姉がくすくすと笑いながら言い、小十郎もつい笑う。
「そういえば、母上がね、東の市でお気に入りの御茶屋さんがあるっておっしゃってたわよ?」
「そうか、うむ、……いや、うむ」
「今はそんな話はいいでしょう! とにかく──」
声を張り上げても顔が真っ赤では迫力がない。小十郎は笑ったまま、分かりました、心がけます、と答える。その態度は何なの、と更に怒ってみせた母だったが、笑う娘と息子に釣られて笑い出してしまった夫に気付き、やがて諦めたように溜息を付くと、結局は共に笑い出したのだった。
「失礼致します」
侍女のおこうが顔を出す。
「輝宗様と政宗様がお越しあそばしました」
たちまち、片倉家はばたばたと大騒ぎになる。


女だけの空間の中、吉は静かに食事をした。食の細い市は先に食べ終えたが、吉は悠然と自分が食べたいだけを食べる。
「ねえさまが召し上がるなら、市ももっと食べたい」
「召し上がり切れませんでしょう」
市の給仕をする侍女がたしなめるが、市は不満だった。本当はもっと食べたいのよ、と吉に訴える。吉は微笑み、黙って頷いた。それで満足したのか、市は我儘を収め、吉が食事を終えるまでじっと待っていた。
「ねえさまは、そんなにたくさん召し上がるように見えないのにね。不思議ね」
「そ」
食べ終えた吉は箸を置く。心得た侍女が無言で膳を片付けた。
「小十郎様も、たくさん召し上がる?」
「……程々に召し上がるわえ」
「そうなの。背の高い人だものね。召し上がるわね」
「ひい様がた、土田御前のお越しに」
母の訪れを告げられ、吉は悠然と姿勢を正す。市はそれを真似ようとしてぎこちなく失敗し、その愛らしい背伸びを見た吉は微笑した。ねえさまみたいにしたかったの、と市はこれまた可愛らしくぼやく。
案の定、母は吉に寝坊の小言を言った。だがどんなに厳しい顔をしようとも、口元の笑みは隠せない。
「昨日は帰りが遅かったから、仕方もないと言えば仕方もなく」
「……そ」
「小十郎殿が祝言前に過ちを犯すはずもないし、ま、良いでしょう」
「過ちって?」
市が本当に分からないと言った顔で首を傾げる。吉は胸元から扇子を出して咳払いをし、母は涼しい顔で「お前にはまだ関係ありません」と片付けてしまった。
「母としては」
「ん」
「祝言前に過ちを犯してはなりません、と、言うべきことは言いました」
「ん」
「──で?」
途端に母が悪戯げな顔になる。吉は扇子の陰で唇を尖らせ、母の様子を窺った。
「どうなの。昨日のそれは。祝言前だけれど?」
「……かかさま、市がおるわえ」
母のあからさまとも言える問いに、流石に吉は顔を赤らめる。
「あら、母にだけ分かるように言ってごらん。お前は頭の良い子だもの、簡単でしょうに」
「──あちらにお聞きたもれ。あちらに」
「祝言まで小十郎殿には会わぬのに。母に楽しみをおくれはしないの」
「かかさま、もう」
本気で嫌がる吉に笑った後、母は不意に溜息をついた。
「まさか織田の家から片倉に嫁入りなんて、考えもしなかったと。とうさまがまだ、ごねてらっしゃる」
「……そ」
「ととさまがあの分では、母が祝言までととさまの機嫌を取らねばねえ」
言の中身は愚痴のようなものだが、母は決して嫌がってはいなかった。娘を嫁に出す男親などそんなものだ、と言うように。
「──母も、最初は驚いた。片倉とは旧知であったけれど、いつの間にお前と小十郎殿が恋仲になっていたなどと、ねえ?」
「でも、素敵だわ」
市がこの時代の武家の娘には到底望めない恋物語に目を輝かせる。吉は苦笑し、ええ、まあ、と曖昧に頷いておいた。恋の話は苦手だ。
「で、きつ」
「はい」
「本当のところはどうなの、昨夜?」
「かかさま、もう!」
顔を真っ赤にし、遂に大声を上げた吉に、母は楽しそうに笑った。
「滅多に大きな声を出さぬのに、珍しいこと」
「かかさまが、おかしなことをおっしゃるがゆえ!」
「かあさま、ねえさま、市は分からない。ずるい」
「ほら、もう、もう、市が!」
拗ねる妹を楯に母に抗議する姿に、母と侍女たちは一斉に笑ったのだった。


「休みなのにすまないな、小十郎」
「いいえ。休暇を頂いて心苦しいほどでございますので」
小十郎の本音の答えに安心し、輝宗は頷いて、隣に座る政宗を示した。
「愚息が剣の稽古をしたいのに小十郎がいない、とうるさくてな。御父上に用事のついでに連れて来た」
「嘘だ。片倉さんちに行くから付いて来いって言ったの、親父だろ」
「おお、そうだったか」
「そうだよ。ボケるにはまだ早ェだろ、しっかりしてくれよ。俺、まだ家督は継ぎたくねえんだからな!」
「母はお前ならもう立派に出来るだろうと言っているのに、情けないことを言うんじゃない」
「お袋は俺のこと、買い被りすぎてんだよ。なあ、小十郎?」
「──小十郎は、政宗様がご立派になられれば満足でございます」
「いつも通りの答えだなあ。これじゃ俺、本当に近々継がなきゃいけねえじゃねえか」
政宗は憮然とする。輝宗は豪快に笑い、息子の背中を強く叩いた。叩かれて噎せる政宗に、小十郎の母が慌てて茶を勧める。
「まあ、俺が継いだってやるこた変わらねえけどな。周りと上手くやって、甲斐ともうまいこと同盟に持ち込めばいいんだろ?」
「その通りだ。精々励め」
「俺が継ぐまでに親父がやっといてくれよ、甲斐はさあ」
「そこは小十郎が。なあ?」
「甲斐、ですか」
「そうだ」
「──小十郎が相努めましょう」
模範的な小十郎の答えは政宗を安心させる。輝宗もそうなのか、父に向かって頷いてみせた。父は感極まった様子で強く頷き返す。
強い雨の音の中、穏やかな時間が流れる。輝宗は片倉家を全面的に信頼し、いずれ継ぐであろう政宗のためにも頼む、とまるで世間話のように言う。それが本当の心だと分かっている小十郎たちは頷き、政宗は照れくさそうに肩を竦めていた。
「小十郎も祝言を挙げることだし、政宗もしっかりしろよ」
「あ、そうだ、来週だっけ」
自分に向けられた言葉は綺麗に無視し、政宗はその話題に乗る。
「織田のとこの姫ねえさんと結婚するなんてさ、意外すぎてさあ」
「そうですか」
「see。あー、でも、小十郎の好みっちゃあ好み? だよな?」
「──それは何とも」
今日何度目か分からない苦笑を漏らし、小十郎は政宗の好奇心を満たす準備をする。どうせこの後、色々な質問をしてくるはずだ。
「だってお前、気が強いけど男を立てる女が好きだし。姫ねえさんもそんな感じじゃねえ?」
「ああ、まあ……そうでしょうねえ」
「昨日、一日中デートしてたって聞いてんだけど。どこで何してた」
「……まあ、その──色々ですよ」
「色々って何だよ」
「政宗!」
輝宗が息子を制する。厳しい声だが顔は笑っている。聞いていた片倉の家族も笑い、政宗も小十郎も笑った。
やがて政宗が小十郎を剣の稽古に誘う。雨ですよ、と姉が止めたが、小十郎は姉を制して立ち上がった。城下にある騎馬隊の道場を使えばいい。この雨では誰もいないだろう。
行くまでは雨が酷いが、政宗が気にしないたちであることは分かっていた。
雨の中、傘を差して並んで歩く。冷たいはずの雨は妙に生温い。身体が冷えることもない。
「実はさ」
道場の近くまで歩いた時、不意に政宗が言った。
「ええ」
「姫ねえさんに、先に急ぎの手紙、出してあるんだ」
「え」
「昼前に道場に行くから見に来ませんか、ってさ」
「え」
思わず絶句する小十郎に、政宗は悪戯が成功した子供のように声を上げて笑う。
「祝言まで待てねえんだろ。この雨じゃ誰もいねえよ。俺に半刻くらい稽古つけてくれたら、あとは好きにしな」
「……政宗様、それはですね」
「ああ、ほら。──姫ねえさん!」
傘を片手に政宗が大きく手を振る。小十郎もその先を見る。
裾を引き摺らない外出用の打掛を着た吉が、政宗の声に足を止める所だった。土砂降りの雨だと言うのにただ一人で外出したのか、と小十郎は驚く。流石に政宗も驚き、小十郎よりも早く吉に駆け寄った。
「一人で来たのかよ。籠にでも乗って来ればいいのに。濡れちまってるじゃねえか、Sorry」
「大事なし」
「道場に手拭があるから入って。あ、荷物、俺が持つよ」
吉が片手に下げていた手篭を持ち、政宗はさっさと道場へ入って行った。吉のために手拭を出しておくつもりだろうと分かった小十郎は、政宗の優しさに胸があたたかくなる。
それから、吉を見た。吉も小十郎を見た。
暫しの沈黙の後、小十郎は静かに言った。
「中に入ろう。風邪を引く」
「……ん」
言いながら、二人は動かない。やがてまた小十郎が口を開いた。
「昨日も、随分濡れただろう。大丈夫だったのか」
「大事なし」
そうか、と小十郎が返事をしかけた時、吉が小さな声で言った。
「……小十郎様、も、大事なければと」
小十郎は吉の目を見る。吉も小十郎の目を見ていた。
同時に、微笑んだ。
「きつ殿に何もなければ、俺に何かがあるはずないだろう」
ふふ、と吉が笑う。
小十郎も笑う。
「入ろう」
土砂降りの雨が更に雨脚を強くし始め、今度こそ小十郎は本気で吉を促したのだった。


半刻ほど、と政宗は言ったが、ひとたび剣を持てば時間など忘れてしまう。小十郎も同様だ。真剣に木刀を打ち込み、小十郎にあしらわれ、主従の別なく叱責を浴びては再び木刀を握り、勝てないと分かっていてもまた打ち込んで行く。
道場の隅に座り、その繰返しを吉はただ見ている。
政宗が小十郎にようやく一本打ち込んだ時、吉が破顔し、大きく拍手をした。政宗は拍手に意外そうな顔をした後に喜び、小十郎も微笑む。
それから予定よりも長い時間を過ごしてしまったと気付いた政宗は、ばつの悪い顔で吉に声をかけた。
「Sorry、退屈させたよな。半刻で切り上げる予定だったんだ」
「なんも」
吉が微笑む。
そして静かに言った。
「……政宗様、の。剣筋を拝見できて、嬉しゅうあるわえ」
小十郎が僅かに、微笑む。
「俺の? ──またまた。小十郎の、だろ?」
そうは言いながらも悪い気はせず、政宗は木刀を仕舞い、汗を拭った。
「じゃあ、俺、帰るから。小十郎とごゆっくり」
「政宗様、小十郎は」
「いいって、小十郎」
「あァ、お待ちを」
長いこと正座をしていたとは思えないほど速やかに、足の痺れも見せずに吉が立ち上がる。
「昼を、持って参ったゆえ。召し上がれ」
「え、いや、いいよ、悪いし」
政宗は本気で遠慮したが、小十郎と吉に同時に勧められ、結局は一緒に食べることになる。
吉が持って来た手篭には見事な弁当が詰められていた。
「美味い。姫ねえさんが作ったの?」
「あァ、その──……その」
素直に感嘆する政宗の言葉に言い澱む吉を見てから、小十郎は涼しい顔で言った。
「うちにも料理番くらい、おりますからね。小十郎も作れますし、何も問題はありません」
「あ、──ああ、そう?」
小十郎の説明の意味を理解した政宗は「意外だなあ」という顔をした後、でもそうだな、うん、と一人で頷く。
「お袋も、料理は苦手だしな。たまに作ってくれるけど、飲み込むのが大変だよ」
「……茶漬け、くらいは……きっと」
呟く吉の声は今にも消え入るのではないかと言うほどに小さい。
「作りたくなったら小十郎に教えてもらえば? 来週には祝言だし、一緒に住むんだし。時間は」
時間はたくさんあるじゃねえか。
政宗はそう言い、笑った。
小十郎と吉も──顔を見合わせてから、同時に微笑んだ。

雨の音が、とても強い。

小十郎は気付いていた。
土砂降りの雨の中、道場の灯り取りの窓から、傘を差したあの少女が微笑みながら覗いていることに。

気付いていながら、気付かない振りをした。