降りしきる雨は強さを増す一方だ。空は不機嫌そうに唸り、雷を徐々に近づけ始めていた。
小十郎も部下たちもずぶ濡れになり、雨雲に覆われた空から投げられる光の恩恵も期待できぬ中、足場の悪い崖近くを歩くことに酷く難儀した。若い青年たちは足場の悪さに冷や汗をかき、自らを鼓舞するために悪態をつきながら歩いた。
それは相手も同じことだっただろう。むしろ馬を操らねばならぬ分、徒歩の小十郎たちよりも細心の注意を払って歩いていたかもしれない。
そう言えば、鎧を纏う姿をこんなにも近くで見たのは初めてだ──小十郎は表情を動かさないようにしながら馬上の女を眺め、周囲に倣って頭を下げた。まさかこんな所で、どうして、と、小十郎の後ろにいる青年たちは無言のまま僅かならず混乱していた。彼らの無言の混乱を背で止めるられるよう、小十郎は努めて慇懃に振舞うことに決める。
織田上総介信長は雨に濡れながらも、馬上から周囲を一瞥し、「大儀」と短く言う。その声の威厳に小十郎以外の者は肝を冷やしながらようやく頭を上げ、小十郎は「知らない女だ」と強く思った。
政宗がいない今、口上を述べるのは小十郎の役目だ。馬上の女を見上げ、自分でも不思議なほど淡々とした声を発した。
「織田上総介信長公には久方の御挨拶申上げる。奥州伊達軍が軍師、片倉小十郎に」
「是」
知っている、というように信長が頷く。知らない女だ。小十郎はまた思った。
「久し、ナ」
「まことに」
最後に会ったのは藤見の会だ。あの時のことを思い出すと──小十郎は敢えて思い出さないように努める。
馬上の女の目が、揺らいでいなかったからだ。
縋った手を振り解かれるように別れた夫を目の前にしても、何ら感情を見せぬ、只々、支配者として傲然たる顔を持つ魔王だ。
──俺の知る、俺の妻ではない。
二度と会えないかもしれない。そう思っていた。だが出会った。ろくな会話なぞ望めもしない状況で、偶然擦れ違っただけの存在として。
南蛮の白い鎧は美しかった。魔王が美しいのか、鎧が美しいのか。小十郎には分からなかったし、どちらでもよかった。
──きつじゃねえんだ。どちらでも知ったことじゃねえ。
雨が冷たい。こうしている間にも強まって行く雨の勢いとその音に声がかき消されぬよう、僅かに声を張り上げる。
「我ら、所用の後に奥州へ帰参する道中にて」
「是」
「この天候、此方にて御無礼を」
「通るを許す」
魔王の声は静かなままだった。雨音にかき消されないことが不思議なほどに静かだったが、なぜかその場にいた全ての者が言葉を聞いた。
「御許可に恐れ入る」
魔王が率いる軍勢にしては数が少ない。今は少人数で動いている小十郎の隊とほぼ変わらぬ数、精々十名だ。戦があったという情報も入っておらず、なぜ魔王がここにいるのか、小十郎には計りかねた。だがそれを問える立場ではない。政宗であれば別であろうが、あくまでも奥州の第二位に過ぎぬ小十郎が口にしても良いことではなかった。
かの明智光秀の姿もない。何処に行くにも影の様に付き従う男の姿がないということだけで、魔王の行軍にしては不自然だ、と小十郎は思った。
「──先に行かれるのであれば、我らが一時下がるが、いかがなさるか」
道幅は狭く、数歩行けば崖から足を踏み外しかねない中、いくら小十郎たちが徒歩とはいえ、擦れ違うことは難しい。少し戻ればある程度の広さが確保された道があることを思い出した小十郎はそう言った。背後の青年たちは不満に違いない。一歩も引かぬ奥州騎馬隊が徒歩、しかも道を開けるなどと。だが声に出さないのは、相手が悪すぎると分かっているからだ。小十郎は彼らの分別を後で褒めなければならないと思った。
「伊達軍、引きィ」
魔王は当然のように命じる。小十郎は頭こそ下げなかったが、軽く目礼した。なるほど、これは心酔する部下も多かろう、と小十郎が納得するほど、自然でありながら人を支配する声だった。
「峠の中腹まで戻る。足元に気をつけろ」
「はい!」
半ば自棄になっているのか、青年たちは織田が少々ならず驚くほどに声を張り上げた。小十郎はつい苦笑するが、良い傾向だ、とも思った。魔王に萎縮していることは確かであるはずなのに、彼らは自分を奮い立たせる意志力がある。
「我らが先に」
「是」
普通ならその程度で会話は終わりだ。だが、つい、小十郎は付け加えてしまった。普段の自分なら言わないだろう、と自覚しながらも、言わずにはいられなかった。
「道幅が狭い。お気をつけられたし」
魔王は答えなかった。小十郎を見ることすらなかった。小十郎は寂しいと思うことはなく、ただ、これはこれで正しい態度なのだ、と分かっていた。何かを期待した自分がいたことに嫌気が刺す。こいつの方がよほど分かっているさ、と、冷静な自分が自分を嘲笑していた。
小十郎たちが方向を変え、元来た道を戻り始める。小十郎は織田側の先頭を行く魔王の馬の前を歩く形になった。背後で、豪雨に馬が怯えていることが分かる。同時に小さな声で馬を励ます女の声に気付いた。
大事なし、大事なし──大丈夫、大丈夫、と馬を励ましている声だった。
その声が誰のものか分からぬほど、自分の心を殺せはしない。
足を止め、訝しむ織田側を無視し、ただ魔王だけに──馬を励ます優しい女に、言った。
「馬が怯えている」
女の手が鬣を掴んでいるように見えて、実は首を撫でていたことも、その時知った。
──なぜ、俺は。
「よろしければ、お引きしよう」
──この女を、妻ではないと思ってしまったのか。
優しい女だ。怯える馬を叱り付けず、静かに励ます。当たり前のようでいて、実際にできる者は少ない。大抵は馬を叱り付け、余計に怯えさせることが多いと言うのに。
「伊達に借りを頂戴する気なぞなし」
馬に囁いていた声はどこへやら、女の声は冷たい。交流のある国とはいえ同盟を組むまでには至っておらず、しかも昨今は頭角を現している国の軍師の手を借りたくはない、と、いかにも国主らしい返事ではあった。
小十郎は表情ひとつ変えず、尚も言った。
「この状況で馬に何かあれば、当方も被害が及ぶと思った次第。請けては頂けぬものか」
僅かの間が流れる。魔王の背後に従う少数の男たちの表情が険しくなっていた。見ただけで分かる精鋭揃いだ。その中に知った顔があることに、小十郎は初めて気付いた。
──……前田、か。
いまだ戦場で直接出会ったことはないが、勇猛果敢を誇る前田利家の姿を認めた。ある意味では有名なあの妻はいないようだ。その男が口を開いた。
「御気使いには能わず、それがしが信長公の馬をお引き申し上げよう。御親切な御申し出には──」
感謝する、と言う間もなく魔王が口を開く。
「犬が馬は誰ぞが引く。よいわ」
「しかし!」
「右目、引きィ」
言いながら魔王はさっさと手綱を外した。これで決まりだ。小十郎は軽く頷き、馬の頭の横に立って轡を指で握り、片手で手綱を持った。馬が戸惑う間もないほどに素早く、正確な動きだった。ふむ、と利家が小さな声で感嘆を示す。この状況でなければ「さすが奥州、馬の扱いは大したものだ」と素直に言っていたかもしれない。
馬は誰もが驚くほどに小十郎に従順で、怯えた様子を見せずに歩くようになった。雨に打たれながらも小十郎の言うことを聞き、稀に鬣を撫でる女の手の感触を喜んでいるのかもしれない。
足場はぬかるみ、先を行く青年たちは細心の注意を払って歩き続けた。足を滑らせでもすればあっという間に傾斜を転がり落ちるはめになる。つまりは崖底だ。それは織田側も同じであり、それ以上に馬の扱いも難しい。ともすれば歩いている小十郎たちよりも危険な状況だった。
雨はますます強くなって行く。馬の歩みを遅くせざるを得ず、小十郎としては馬を下りて歩け、と織田に言いたかった。しかしそこまで口を出していいものかと迷うのも事実だ。武士の見栄として、雨で馬を操れないと思われたくない者もいるだろう。相手が奥州騎馬隊であれば降りろと命令するところだが、よりにもよって織田軍だ。いくら伊達と友好関係にあるとはいえ、とてもではないが言えることではない。
だがその時、背後から視線を感じ、僅かに振り返る。信長──吉だ。小十郎を見ている。
小十郎は瞬時に、迷いなく頷いた。吉は頷くことなく視線を外す。同時に小十郎は馬の歩みを止めさせた。付き従っていた利家たちも慌てて馬を止める。
「──歩く。個々にて馬、引け」
魔王の宣言は命令だ。うまいものだ、と小十郎は思った。これで武士たちは「命令だから」と自分を納得させて馬を下り、騎乗よりは安全に歩くことができるようになる。
「ひい様──信長様、それがしの手を」
利家が真っ先に下り、吉を馬から下ろそうと駆け寄る。ひい様、という呼び方を慌てて変えたのは小十郎の手前だ。そんな呼び方をされているのか、と小十郎は意外だった。姫様、などと。しかしこの天候と足場の中、吉の元へ駆け寄ったことは賞賛に値した。利家の馬をすかさず他の者が抑えていることにも感心する。
──冷酷だと噂される織田軍だが、縦と横の両方の繋がりが出来上がっている。さすがだ。
感心半分、軍師としては嫉妬半分かもしれないことを思いながら、小十郎は利家が主君を馬から下ろす姿を見守る。吉も慣れた様子で利家に身を預け、狭い道幅の中、ぬかるみでも滑ることなくしっかりと立った。いつもこんな時はこうしているんだろう、と、小十郎は努めて冷静に考えることにした。
「右目」
「──は」
「大儀」
「恐れ入る」
答えながら、小十郎は見る。吉は地に立っても馬の首を撫で続けている。
他に誰もいなければ、小十郎は妻に向かって微笑んでいただろう。ああ、やはり俺の嫁だ、馬のことが分かるんだな、と。
利家が前方に目をすがめ、小十郎に言った。
「伊達軍、随分先に行ってしまったようだなあ。雨でこちらの音が聞こえなかったか」
「ああ、──本当だ。あいつらめ」
騎馬隊の青年たちの姿が、雨にけぶって見えなくなっていた。後方も常に気にするように、と言い含めていると言うのに。後で説教をしなければ。
「まあ、いいだろう」
利家が小十郎に屈託のない笑顔を向ける。
「滅多にない機会だ、共に行こうではないか。ね、ひいさ──信長様!」
吉は答えなかったが、肩を竦めた。不意に、魔王からただの女に戻る瞬間だった。だから小十郎は、この利家が「吉」にとって心を許せる数少ない者だと知る。
「早う湯にあたりたい、雨はいや」
その声も既に魔王のものではない。少々ならず我儘で高慢な、だが、利家たちにとっては何よりも敬する主君のものだ。だから彼らは続いた緊張を解き、どことなく笑顔になる。
「分かってますよ。ちょっと急ぎましょう。犬が馬を引きます」
「馬が犬は誰ぞが引く」
「逆です、逆」
「アレ、間違うた」
利家たちがどっと笑った。小十郎は呆気に取られた後、苦笑する。妻が一人ではないことへの安心感、そしてどこかしら嫉妬する自分への苦笑だった。
「馬は右目が引く。犬は己の馬を引きやれ」
「え、でも」
伊達の軍師にそんな、と利家たちは困惑した様子を見せる。小十郎は言った。
「それがしでよろしければ引き続いて。馬なら慣れている」
言葉を崩さないのは、あくまで伊達と織田は一線を引くという意思表示だ。小十郎にとって吉は妻だが、織田と家族の付き合いはできない。
「では参ろ。──ほんにもう、いや。重うてならぬわ」
宣言と共に吉は突然、白い兜を脱いでしまった。利家が呆れた顔をしながらも、当然のように受け取る。
雨で冷え、血の気を失っている肌に黒髪が纏わりつき、男なら自制心を試されるほどの艶が露になる。織田の男たちもそれに思い至り、小十郎の反応を窺ったが、伊達の軍師は女の艶が目に入っていないかのような顔のままだった。
「具足は脱がないで下さいね」
「犬なぞ常々、裸ではないの」
「着てます! ちょっと少ないけど着てますよ!」
吉と利家の掛け合いに笑いながら歩き出す。小十郎は面白くも何ともなかったが、付き合いの微笑を見せる。多少の笑みを浮かべることが礼儀だと分かっていた。
「さあ、頑張って歩いて下さいね。早く先へ行かなきゃ。犬も頑張りますよ」
「わらわがもっとも、先へ参ることを望んでおるわ」
「そうでしょうねえ、ここいらは妖が出るって噂ですしね」
「やかましわえ」
「ひい様、妖の類は大嫌いですものね」
「やかましわえ!」
吉としては「夫の前でよくも」という気分だったのだろう。赤面するほどの焦りように利家たちは笑い、小十郎は妻の知らぬ一面を意外に思う。
雨は変わらず酷い降りだ。徐々にまた勢いを増し、雷鳴も近付いている。そのうちに大声を出さなければ話すらできないようになった。
足元は更にぬかるみ、馬の怯えが酷くなる。そして吉にも隠し切れない疲労が見え始めていた。露骨に疲れた様子は見せず、むしろ隠そうとしえはいるが、僅かに足取りが乱れる。滑りそうになり、小十郎が慌てて支えることが数度あった。後ろに続く利家たちも、この雨で馬を引いて歩くとなれば相当の疲労のはずだ。
「信長公、今少し──」
あと少しで道幅が広くなる、と小十郎は告げようとする。吉は声が聞こえなかったのか、首を傾げた。状況を忘れてつい顔を近づけ、もう一度、小十郎は同じことを叫ぶ。吉はようやく頷いた。利家たちの空気が一瞬固まったことにも気付かなかった。
雷鳴が轟く。今までにない大音声だ。馬が限界を超え、一斉にいななき、怯えから逃げ出すかの如く身を捩った。狭い道で馬が暴れれば危険極まりない。小十郎は吉の馬を見事に押さえ、織田もそれぞれが押さえようと動く。
吉のすぐ後ろにいた利家の馬が少しばかり大きな動きをした。利家が何とか押さえようとしたその時──
「──あ」
「ひい様!」
「信長公!」
利家の馬から距離を取ろうとした吉が、足を滑らせた。身体が傾いだ先には地面がなかった。
具足越しでも分かるほどに小柄な身体が、宙を舞う。
小十郎は手を伸ばす。
吉がその手を掴んだ。
瞬時、利家たちは安堵の表情になりかける。
だが無情にもぬかるみは小十郎の足場をも奪う。
掴んだ手を重力に逆らって渾身の力で引き寄せ、小十郎はいやに冷静に、妻が兜を脱いでいることを思い出し、胸元に抱き締める形になりながらも、大きな手でその後頭部を守った。
瞬時にその行動ができた小十郎を誰もが賞賛するだろう。それほどまでに素早い動作だった。
急な傾斜を転がり落ちて行く。落下するも同然だ。身体の操縦なぞ出来はしない。崖に叩き付けられ、背を打ち、息が詰まりながらも、小十郎は感じていた。
妻の手が、自分の頭を必死の力で抱えていることを。
どれほど意識を失っていたのか。長い時間か、それとも短い時間か。全身に強い痛みが走ったが、武者ゆえの本能か、生命に別状のある痛みではない、と現実に戻りかけた意識の中で判断した。
とはいえ、痛みがないわけではない。数日は打撲に悩まされそうだ。こればかりはどうにもならない、と思いながら目を開けた。雨の音は相変わらず酷い。雷は去ったのか、また遠くで鳴る音が聞こえるだけだった。
そういえば雨が身体に当たる感触がない──気付いた時、剥き出しの岩の天井が目に入った。どこかの穴倉のようだ。なるほど、これなら確かに雨は当たらない。
──……崖から落ちたはず、だが。
そしてその瞬間、思い出した。
──きつ!
抱いて転がり落ちたはずだ。落ち切るまで抱いていることはできただろうか。それとも手を離してしまっただろうか。どちらにせよ無傷ではあるまい。ぞっとして飛び起きる。全身に強い痛みが再び走ったが、気にしてなどいられなかった。
「きつ!」
「はい」
「え」
血相を変えたと言っても良い勢いで名を呼んだすぐ傍から、静かな返事が聞こえた。つい拍子抜けしつつも声の方を見る。
あの白い南蛮鎧の上だけを脱いだ姿は、やはり日の本の鎧の下に着る小袖姿とは異なっていた。黒い布で西洋風に仕立てた袖を絞り、脇は細い鎖で編まれている。日の本の鎖帷子とはまた違う造りだが、丈夫であることは見て取れた。妻の濡れた髪から滴り落ちる水で、自分がそれほど長く気を失っていたわけではないと理解する。
「……怪我は」
「おかげさまで、なんも」
「手」
「え」
「見せろ」
転がり落ちる時、夫の後頭部を必死で守っていた指だ。鎧を着けていたとはいえ、無傷とは思えないし、骨が折れていてもおかしくはない衝撃だったはず。
おとなしく両手を差し出した妻の指を検分する。驚くほど、傷ひとつなかった。
「指も」
夫の心配が分かったのか、吉は静かに説明した。
「ぜんぶ、守るもので」
横に置いてあった、細かい細かい鎖で編まれた手袋を見せる。小十郎には分からない造りだったが、明らかに、このお陰で妻の指が無傷で済んだことだけは分かった。
「それより、おまえさまは。お怪我は」
「全身が痛ぇが、まあ、お前のお陰で頭は大丈夫だ」
「骨は」
「いや、──大丈夫だな。俺も堅く出来ていたもんだ」
安心させるように笑ってみせる。吉は眉をひそめて微笑んだ。夫が痛みを隠していることなど、過去、数多の武者の戦い振りを目にしているのだから分からぬはずがない。だがそれを指摘したところで仕方のないことだった。
「わらわは、斯様な具足であるからして。ほんに、ご心配なされますな」
「そうか。凄い造りだな。傍で見たのは初めてだ」
「でも、おまえさまも」
「ん?」
「下に──」
「ああ、これか。戦でなければ滅多につけねえんだが、今日はたまたま」
上着の下の脇楯を示す。
「ふつうの、脇楯の形ではなく」
「まあ、俺のはな。動き易いように作ってある」
「いつも、戦でも小具足であられるの」
いつも完全な鎧武者姿ではないのかと言う妻の問いに、そういえば、互いに戦場での姿はあまり知らぬのだ、と小十郎は思った。
「俺はこれくらいがいいんだ。昔から、これ以上着ると鬱陶しくてな」
「伊達軍のひみつをひとつ、頂戴いたしたわえ」
「言ってろ」
同時に笑い、小十郎は吉の頬を撫でる。
「無事でよかった。雨が止んだら上に行く道を探してやる、少し休んでろ」
はい、と返事をし、吉は微笑んだ。それから小十郎は息を吐いた。
「男の矜持として訊きたくねえ気もするが、そうもいかねえな」
「何え」
「俺を運んだのはお前か」
転がり落ちている間に小十郎は意識を失ったのだ。運よく穴倉に転がり落ちるなど有り得ない奇跡だし、利家をはじめ、従者たちもこの崖を降りては来られない。吉がこの場を見つけ、小十郎を運んだと考えることが自然だった。
吉は僅かに決まり悪そうな顔をし、頷く。
「おまえさまが、その、背がお高うて、お身体がおみおおきゅうて」
身体つきがしっかりしているから、と呟く。
「わらわでは、背が足らぬで。おみ足を引き摺らせてしもうて、申し訳もなし」
言われて初めて、自分の膝から下が他の部位より泥に塗れていることを知る。吉は小柄な身体で、自分よりも相当背の高い夫に肩を貸して運んだのだ。それに思い至った途端、小十郎は大きく溜息をつき、ああ、と思った。──ああ、やはり、この女は俺の妻だ。
「ほんに、申し訳も」
小十郎の溜息を誤解し、吉が慌てたように言葉を重ねようとする。その様子に小十郎は微笑み、指を妻の唇に当ててみせた。
「そうじゃねえ。──よくやった」
天下の魔王に言う台詞ではない。だが小十郎だけは許される。小十郎はそれを知っていた。吉も怒りはしない、むしろ──
「アレ、ええ、──果報なおっしゃりよう」
自分に言われた時だけは、喜んで微笑んでみせるということも。
笑い、妻を引き寄せる。味気ない小具足が、妻の熱を伝えてくれないことがいささかならず不満だった。吉もそれが不満なのか、いやに強く身体を押し付けて来る。
──とはいえ、これ以上脱げとも言えねえしな。
雨は降り続けているし、身体も冷えている。今は互いに具足のお陰で低体温になる危険性を免れているだけだ。いとしいがゆえの欲に流されるわけにはいかなかった。代わりとばかりに何度も唇を合わせる。
「せめて、火が起こればよいのだけれど」
「火打石が──ああ、濡れたな。駄目か」
銃を使う時に用いる火打石を胸元から探したが、びっしょりと濡れてしまっていた。試しに打ってはみたものの、予想通り、湿った音がするだけだ。
「そう言えば、お前、布はどうした。あの紅い布」
魔王の象徴とも言えるあの翻る旗のような布だ。上の鎧を脱いでいるのは分かるが、辺りに見当たらない。
「あれは、落ちた場所の近くの木に結んでおいたわえ。雨がやめば犬がわらわを探すゆえ、目当てにと」
「ここはそこから遠くねえのか」
「まァ、それほど。犬ならすぐ分かろ。あれは嗅覚が鋭いゆえ」
「犬の名は伊達じゃねえ、か?」
「──犬を伊達と称するは、ううん──少々ならず、悔しわえ」
「それもそうか、悪かった」
小十郎は気分を害することもなく笑い、素直に詫びる。少しの時間だけでも分かるほどの忠義を見せたあの男を、確かに奥州の言葉で表現されることは、吉にとって面白いことではないだろう。
──犬、か。あの娘も、子分の一人を犬と呼んでいたな。
まだ少年だった頃、父と共に極秘で織田領へ行った時のことを思い出す。変わった、だがとても可愛い、そして哀しい娘がいた。あの娘も「ひい様」と呼ばれていた。
「何がおかしゅうてあられるの」
今思えば、あれが自分の初恋だったのだろう。目の前にいる妻とは全く別の部分であの娘を思い出せば、懐かしい気持ちになることが不思議だった。
「いや、織田は部下のことを犬って呼ぶもんなのかと思ってな」
「そ? あれは犬千代と申すから」
「前田利家殿、だろう」
「幼名。まァ、子供の頃からおったゆえ」
「そうか」
少年の頃、彼女に出会って良かったと思う。あの後、人生の転機が何度も訪れた。辛くないとは言い切れぬことが山のように。そのたびに彼女に誓ったことを思い出すしては自らを奮い立たせていた。
何を誓ったか。簡単な、だが、今になれば分かるほどに、難しいことだ。──いい男になってやるよ。いつかお前が嫁に来ても恥ずかしくねえようにな。
あの娘はどうしているだろう。おそらくはそこそこの名家の娘であったろうし、とうに良縁に恵まれて嫁に行っただろう。吉に訊けば分かるかもしれない。だが、訊こうとは思わなかったし、訊く必要もないと分かっていた。初恋は思い出の中にあるからこそ、いつまでも大事に抱えていられるものなのだから。
「おまえさまとて」
「ん」
「まことは、景綱様であらせられるではないの」
「お前に名乗ったことがあったか?」
小十郎、という名しか妻には言ったことがないはずだ。
「名乗りを頂戴したことはなけれど伊達の名将の名くらい、存じておるわえ」
「ああ、そうか。──そうだよな、そうだ、うん」
言われてみれば、と小十郎は自分の感覚に苦笑したくなった。一国の主、しかも天下を掌中に収めんとする者が、それなりの勢いがある国の重臣の名を知らぬはずがない。
俺の中では、妻はやはり妻なのだ、と強く思った。あの日のままだ。一人では何もできない、可愛いだけの。
──その女が。
いや、誰かが聞けば言うだろう。魔王ならやるさ。それくらい。当たり前だろう。
それでも小十郎は思うのだ。
──俺を、ここまで一人で運んだんだ。本当によくやった。
「寒い」
吉が呟く。確かにそうだ、と小十郎は理解した。鍛えている小十郎とて寒い。あれだけの雨に打たれ、今は動いて体温を動かすことも難しい場所にいる。このまま夜になったら、と、互いに焦り始めなければならない頃だ。真冬ではないとはいえ、濡れた身体が乾くことは決してない気温だ。夜が深まれば歯の根が合わなくなるような事態になりかねない。小柄な妻では凍え切り、おまけに清潔とは言えないこの環境では、風邪どころか肺炎の可能性すら否定できない。
「……?」
不意に小十郎は感慨を振り切り、意識を研ぎ澄ませる。抱き寄せた吉も同じことをしている。同時に無言で視線を絡ませ、僅かに頷き合い、再び感覚で気配を探った。
──……誰か。
この穴倉の中に誰かがいる。最初からいたわけではないはずだ。それならば吉が気付かぬはずがない。確認のために吉を見ると、やはり無言で首を横に振る。いなかった、という意味だ。
まだ陽は落ちていないが、土砂降りの雨で光は遠い。夕闇に近い中、目で探すことは困難だった。
──どうするか。
刀はある。吉がすぐ傍に置いてくれていた。だが敢えて動かない。刀を取った途端にその誰かが襲って来ないとは限らない。
暫しの間の後、いやに澄んだ少女の声が聞こえた。
「驚かなくても、よいから」
びくり、と吉の身体が弾けるように震える。小十郎は声よりも吉の様子に驚きつつも、抱く腕に力を込めた。
「雨が酷いから、こちらへ。迎えに来た」
空気が揺れる。温かい空気だった。少女が提灯に火を入れていた。
吉がぎゅうと強く、小十郎にしがみつく。まるで怯えているかのような仕草に驚きを深くし、小十郎は妻を抱き締めた。
「どうしたの。凍えてしまう。早く」
声の主を見る。
──……嘘だ。
嘘だ。本気でそう思った。なぜか妻をまた強く抱き締めた。
町の娘が着るような服をきちんと纏った、美しい少女だ。化粧気はなく、それでも、少女ならではの輝きと、知性を感じさせる瞳が何よりも印象的で──また小十郎は、嘘だ、と思う。
彼女が僅かに微笑んだ。
「久し振り」
嘘だ。何度も何度も、そう思うしかなかった。
遠い昔、少年の頃、津島で──織田の地で出会い、子供同士の短い恋をした、あの少女が笑いかけていた。
「……きみは、なぜここに」
「この先に、皆がいるから。早く」
凍えてしまう、ともう一度彼女は言った。
吉は声を発することも、少女を見ようともしない。ただ夫にしがみつき、何かに怯えるように身体を押し付けている。
しがみつく手が氷のように冷えていることにようやく気付いた小十郎は、暫し考え、意を決した。
「この先に、火があるのか」
「火も、湯も。だから」
だから早く、と、彼女は言った。
「分かった。言葉に甘える」
「──おまえさま」
吉が顔を上げる。その顔に怯えの色を確認し、小十郎はまた迷った。
だが、しがみつく手の冷たさに再び迷いを捨てる。火がある。今はそれが何よりも重要だ。
「そのうち、利家殿が来るんだろう。雨がやむまでだ」
「でも」
「大丈夫だ。俺がいる」
励ますように妻の背を軽く叩く。
「俺から離れるな。必ず守ってやる」
なぜ、守るなどと思ったのか。この先に何かがあると、本能が嗅ぎ付けているのか。
行かないことが正解かもしれない。だがここで世を過ごす危険性を考えれば行った方がいい、むしろ行くしかない。心を鬼にして少女が持っている提灯の火を奪ったところで、燃やせるものが何もないのだ。
──俺は夢を見ているのかもしれない。
あの日の少女が、あの日の姿のまま現れるはずがない。分かっている。
だがそれ以上、考えられなかった。
既に夢の中にいて、夢に囚われかけているのかもしれない。そのことも分かっている。
だからこそ、現実を思い出すために、立ち上がる前に妻を強く抱き締めた。
「仲良し、ね」
少女が嬉しそうに微笑んだ。
小十郎は答えなかった。
吉は、震えていた。