INFINITY 〜∞〜 06



「僕が喧嘩を売ったわけじゃないよ。アールがこのド底辺のクソ海賊野郎に──」
「俺の客人だ」
海兵の口は大抵悪いものだが、ずば抜けて悪いメアの言い様に、さしものスモーカーも苦笑する。ローが一瞬何を言われたのか分からないほど、その口は悪かった。
「──とっても素敵な七武海のトラファルガー・ロー様に、光栄にもアールがご面倒賜って、だから僕がアールの代わりに御礼申し上げただけ」
「口の回り方は衰えてねえな。真似できねえよ。ロー、悪かった。どうせこいつは謝らねえ、俺が代わりに謝る」
「……ああ、いや、うん」
従軍牧師の口の悪さに驚いた余り、腹が立つだとか無礼だとかと感じる暇もなかった。宗教に関わる者の誰しもが癖のない優しい人間だとは思わないが、こいつはあまりにもあんまりだ、とローは思ってしまう。だが先ほど目を見た時に分かった、医師としての知識がそれ以上の感情の揺れを止めた。まともな人間ではない。ローはこの従軍牧師のメア大尉という男をそう判断した。
「何が客人だよ。ただの公私混同じゃないか」
「そう噛み付くな。話が進まねえだろう」
「何の話? アールをここに突っ立たせておくつもり?」
病院から抜け出して来た男は相変わらず現状が把握できないのか、メアに水を向けられても反応がなかった。スモーカーが「それもそうだな」と小さく呟く。
「話は後だ。連れて帰ってくれ」
「電伝虫での話の続きなら聞かないよ、馬鹿馬鹿しい。何でスモさんがホモなんだろう、嫌んなっちゃうね」
「牧師のくせに差別用語を使うんじゃねえよ」
「神はホモを許容してない」
吐き捨てるように言うメアにスモーカーは苦笑する。ローは口を出すこともできず、さりとて立ち去るにも何となくタイミングを逃し、半ば呆然と二人のやりとりを聞いていた。
「そもそも、別の話があるって言ったのはお前だろう」
「そうだっけ?」
「船の電伝虫でそう聞いたが?」
「そうだっけ? 気が変わったから、気が向いたらね」
「ああそうだな、頼む、俺に話をする気になってくれ」
中将が尉官に言う台詞ではないし、逆もまた然りだ。聞いているローは従軍牧師という立場はもしかするととても強いのか、それともスモーカーが寛容なだけなのか判断しかねていた。
「じゃあ、気が向いたら電伝虫。向かなかったらごめんね」
「向いて欲しいもんだ」
「神のみぞご存知にて、アーメン――アール、行こう」
メアはアールを促し、今度こそその場を去る。スモーカーに背中を向ける直前、ローを睨み付けることは忘れなかった。ローとしては腹が立つというほどではないが、随分面倒な男だ、と思った。事前にスモーカーにも言われていることだし、関わらない方がいいだろう。
「悪かったな。想定外だった」
「女だと思ってた。名前が女だったから」
「会わないと思ってたから説明しなかったんだ」
「ふうん」
「もう接触しないように言っておく」
「……別に」
ローは肩を竦めた。スモーカーの親切とも言える配慮に戸惑った感情を隠すためだった。思った以上に優しくされることに慣れていない自分が嫌になる。
「従軍牧師ってのは」
「ん?」
「戦闘もするのか?」
「自衛のために武器を携行することはあるが、作戦に参加することはねえよ。――あまり気にするな」
「気にしてなんか」
いない、と言いかけて言えなかった。スモーカーの前で嘘をつくことがなぜか難しいと思い始めていた。
「……速かったから、気になってな」
仕方なく正直に言う。スモーカーがゆっくりとローを見た。ローはそれでスモーカーが自分の話をきちんと聞いてくれるのだと分かり、何となく安堵した。
「お前から見ても速かったか」
「まあな。腕そのものはそこまで良いとは思わねえんだが」
「そうだな」
「ただ、やたら速かったような気がする」
剣を操る音が風を切っていた。あの速さはかなりのものだ。ロー自身がメアに負ける要素はないと自負できる程度ではあるが、厄介なラインの実力を持っていることは確かだった。
「あいつはとにかく身が軽い。二刀流でも色んなタイプがいるが、あいつは速さで相手を翻弄するタイプだ。別のタイプとしては、あまり速くはねえが一撃が重くて攻守のバランスがいい二刀流がいるな」
「ああ――ドレーク屋がそのタイプだったはずだ」
「そうだな」
僅かにスモーカーの声が低くなったことに気づく。まるでドレークという名に何か含みがあるようにも思えたが、考えてみればスモーカーは海軍、ドレークは海賊だ。しかもドレークの経歴は――あまり話題にしたくないのだろう、とローは思った。
「まあ、二度と襲いかかってくることもねえよ。アルフレッドを守ろうとしたんだ、悪く思わないでやってくれ」
「あの患者か」
彼も10年前の戦争を知っている男だった。そして頭に受けた傷が原因でいまだ10年前の悪夢の中にいるという。
あの口ぶりならメアも従軍していたのだろう、とローは今更ながら思い至る。メアの年齢はおそらく自分とそれほど変わらないはずだし、それならば当時は16前後だ。戦場に行ったとしてもおかしくはない。海軍の兵士は若い、若すぎると言える年齢も多かった。
スモーカーにそれを言うことは避けた。10年前の戦争の話はスモーカーにしていはいけないし、話して欲しいと言うこともないと決めた。自分に優しくする男を、必要以上に傷つける必要はない。ローは世間が言うほど冷酷ではなかったし、自分で思っているほどに人の心を蔑ろにするわけでもなかった。
「それにしても」
ローは息を吐いた。
「たまには何もしないで景色を楽しめって言われたそばからこれかよ」
「悪かったよ」
スモーカーは葉巻を咥えた。悪かったと言う割には悪びれていない。どこかでこうなることを予測していたのかもしれない、とローは思った。そしてそれに対して腹が立った。
「おい」
「ん」
「まさか、こうなると思ってたんじゃねえだろうな?」
「さすがにそれはねえよ。会う可能性はひとつもなかったし、俺だって後始末が面倒になりそうなことは避けたいからな」
「それもそうか」
とりあえずローはそれで納得する振りをせざるを得なかった。後始末が面倒なこと、という台詞が理解できたからだ。先ほどもあっさり戦闘になったという事実がある。七武海の海賊と非戦闘員(とされる)の従軍牧師、どちらかが大怪我をしたり、最悪で死に至った場合、スモーカーの責任問題にまで発展しかねない。まともな公僕なら遠慮したい状況だろうし、ローが知る限り、破天荒な人材が多い将校の中、スモーカーはややイレギュラーな行動をするだけで、かなりまともな部類に入る公僕だった。
「公僕も大変だな。市民のために励めよ」
「税金も払ってねえ奴に言われたくねえよ」
ローの珍しい軽口にスモーカーは苦笑し、海兵同士のトラブルを収めてようやく走って来るたしぎに目をやった。勝手にいなくなったローに文句を言おうとしたたしぎはスモーカーを見て驚く。
「基地内でメアさんと話してると思ってました」
「予定が変わった。お前はもう好きにしていい、後は俺が案内する」
「でも――あ、はい」
反論しかけたたしぎは不意にローを見、すぐに了解の返事をした。スモーカーがローを案内すると言うなら自分は邪魔すべきではない。
そう、邪魔すべきではないのだ。
たしぎとしては認めがたいことだが――ローはスモーカーの「彼氏」なのだから、時間ができたのならこの島を案内するのは当然だった。
「お二人で、ごゆっくり! 私、何があっても邪魔しませんから!」
「……何か勘違いしてねえか、おい」
思わず突っ込みたくなる物言いに我慢できず、ローは低い声で言う。たしぎは返事をせず、スモーカーにびしりと敬礼し、本人としては気を利かせたつもりか、駆け足でその場を去ったのだった。
「とりあえず」
走り去るたしぎの背中を呆然と見送るローに、スモーカーが声をかけた。
「昼飯でも食うか」
その声はあまりにもいつも通りで、なぜこいつは動揺しないんだろう、もしかしてとんでもなく鈍い男なんだろうか、とローが真剣に悩みたくなるほどだった。
そして考えてみるまでもなく、スモーカーのことをあまり知らない自分を思い知る。優しいと知ったのもついさっきの話で、何度も身体を重ねているのに不思議なものだと思う。
スモーカーがまず案内したのは軍事基地、駐屯地の海兵を相手に商売しているパブだった。昼は食事も出す典型的な店だ。お世辞にも綺麗とは言えない店内だが、島のあちこちに咲いている花が店中に飾られ、ローが知る酒場という存在の中ではひどく違和感を得る店構えだった。
店の中にはちらほらと客がいる。海兵と地元の人間が入り交じっていた。ローはスモーカーと二人で外食をすることは初めてであること、その理由も思い出してつい店の前で足を止め、スモーカーを見る。
「いいのか」
「何が?」
先に店に入ろうとしていたスモーカーが足を止め、振り返る。
「いや、海兵もいるし。俺と飯なんて食っていいのか」
スモーカーと外食をせず、いつもオフィスで軍用食糧や味気ない出来合いで腹を満たすのは、ローが七武海とはいえ、海軍が敵とする海賊であるからだ。海軍将校のスモーカーの立場としては、二人で食事をするほど親しい間柄だと思われるのも不本意だろうとローは思っていた。
「――ああ」
スモーカーは少しばかり考える顔をした。それはローの質問の答えを考えているのではなく、どう説明すればいいのだろうか、という顔だった。
「この島なら構わねえ」
「この島なら?」
「たまにはいいだろう。俺だってお前とまともな飯が食いたい時もあるんだ」
質問の核心をはぐらかされたことはすぐに分かった。いつものローなら質問に答えていないとスモーカーに食い下がったかもしれない。
だが、お前と、という言葉に、なぜか食い下がる気がなくなったのが事実だった。
馬鹿みたいだと自分で思う。どうしてそんな言葉に反応したのだろうか。それはきっとヴェルゴが関係しているのだ、と結論づけた。いつでも自分を子供のように扱っていたヴェルゴの愛人だったスモーカーが、今は自分と関係を結んでいる。ヴェルゴと違い、海賊だと知った上での関係だ。だからきっと、俺は――ローは思う。
――きっと俺は、ヴェルゴを見返したかったんだ。ヴェルゴだけじゃない。ファミリーのすべてを。どうだ、ヴェルゴよりも上だろうって言いたいんだ。ああ、ああまったく――
「……ガキみてえだな」
「俺が?」
思わず呟いたローの言葉に、スモーカーが困ったような顔になる。はっとしてローは付け加えた。
「いや、俺が。その――変なことを気にした」
「ふん」
スモーカーがにやりと笑う。
「お前がガキなのはよく知ってるよ」
その笑い方に心の底から悔しくなったローは、ここが外でなければその白い肌のあちこちに思い切り噛み付いてやりたいと思った。普段のローなら涼しい顔で何かを言い返しただろう。そう、相手が他の誰かなら言い返せたはずだ。だがどうしてもスモーカーには言い返す言葉が見つからなかった。それが酷く悔しい。
スモーカーに促され、店の中に入る。先客の海兵の中にはスモーカーに目で軽く挨拶をしたり、手を上げたりする者もあった。しかしローが一緒であることに気づいた途端、誰もがふいと目を逸らす。スモーカーが一緒でなければ喧嘩を売った者もいるかもしれない。その程度には海兵というものは命知らずだった。ローはそんな彼らに共感することは決してなかったが、理解はできる。
「いらっしゃい」
妙に化粧の濃い、鶏がらのような体つきをした初老の女がカウンターの中で二人を迎えた。スモーカーを見て女は「ふん」と眉を跳ね上げる。
「少佐さんかい」
「残念だが中将だ」
「ここに初めて来た時は少佐だったろ。お見限りだこと」
「見限った気はねえよ」
酒と煙草で潰れたことが容易に分かる声で女は言う。スモーカーは涼しい顔で応え、それが彼女と、つまりこの店との付き合いはそれなりにあるのだとローに教えた。ローはスモーカーの詳しい経歴を知らず、中佐だったのはいつのことなのか、それは何年前なのかも分からなかった。
「基地以外でまともな飯が食えるのはここだけなんだからな。少しは愛想をくれよ、マージ」
「もう来やしないと思ってたよ。半年? 一年?」
「四ヶ月だ。何言ってんだ、ボケるにゃ早いだろ」
「いっそボケちまいたいね」
「馬鹿言え」
「こんな負け犬だらけの島で暮らしてりゃそう思いたくもなる」
マージはローを見て、跳ね上げた眉を今度はひそめた。
「どこの誰かは知らないが、なんて言う気もないけどさ」
投げかけられたきつい声に、ローはつい心の中で身構える。年嵩の女がこんな顔をするとろくなことがないものだ。
「あたしの店でその長物を抜いたら承知しないよ」
「……肝に銘じるよ」
口の攻撃力はともかく非力な女だろうに、とローはいっそ新鮮だった。減らず口を叩く女はいくらでも知っているが、その女たちはことごとく腕に多少以上の覚えがあった者ばかりだ。
店の中にいた海兵たちがたまにローに視線を送る中、二人は空いていた店の奥の席でマージが勝手に作った食事を取る。薄く切った肉に素っ気なく塩と胡椒をまぶし、炒めただけの簡単な代物だが、海兵には人気があるメニューだ。海で長く生活していると保存食以外の肉を食べる機会があまりない。ローもご多分に漏れず、久し振りの味覚に珍しく食が進んだ。
スモーカーは特にローに話しかけることもなく、黙々と食べている。食べ方が綺麗だな、とローは思った。上流階級のような世界の違う上品さというわけではないが、どんな人間と食事をしても不愉快に思われることはない、いわば将校として充分に通用する食べ方だった。
食べている間、沈黙がほとんどの時間を占めた。それでもローは不快だと感じないし、居心地が悪いわけでもなかった。今まで二人きりの時は――そうだ、スモーカーの執務室で本を読む以外、大抵はローがセックスをしたがって、スモーカーはそれに応じて、そのまま眠ることもあれば、スモーカーが仕事に戻ることもあった。元々あまり多くを話していないのだ。それなのに沈黙が不快ではないということが意外だった。ああ、とローは思う。
――ああ、俺はこの男といると――不思議に思うことばかりだ。不思議に思うことばかりだということを、今の今まで気づかなかったのも不思議だ。
店の中に飾られた花の香りが少し強い。店の外にも、島全体に漂う花の香りだと分かってはいても、慣れていないローには僅かにきついと感じられる。そもそも花が身近にある生活などしていない。
「根が強いんだって?」
「ん?」
「島の花の根が強くて、農作物が作れなかったっていう話を聞いた」
「たしぎに?」 
「ああ」
「そうらしいな。七年前に軍がこの島を買い取った時は、そのせいでもっと貧しかった」
「七年前――」
「この煙の少佐さんが責任者でね」
食後のコーヒーをどんと無愛想に置いたマージが突っ慳貪に言う。
「中将だ」
「あたしの中じゃまだ髪の毛をおっ立ててた少佐さんだよ。滅多に来ないから来るたんびに老けて行きやがるし」
そこでマージはちらりとローを見る。
「来るたんびに恋人が違うんだ」
「……ふうん」
だから何だ、と言えば良かっただけだ。だが言えなかった。ローはそれがまた不思議だった。
不思議だ。
一瞬にして不快な気分になった自分が不思議だった。
「マージ、出鱈目はやめてくれ」
スモーカーが苦笑いを通り越し、本気で困った声で言うことも不思議だった。
「コーヒーくらいゆっくり飲ませろよ」
「はいよ、ごゆっくり。どうせあんたに話は来ないさ」
「話?」
「ごゆっくり」
「マージ――すまねえ、ちょっと外す」
スモーカーはローに一声かけ、思わせぶりな物言いで席を離れてカウンターに戻る女を追う。ローは何とはなしに息を吐き、湯気の立つコーヒーを口に運んだ。味が分からないのは腹が一杯だからだろう、と思った。
不意にスモーカーが思い出したようにカウンターから戻ってくる。腰をかがめ、ローの目を覗き込んで短く言った。
「出鱈目だ」
ローが返事をする前にまたマージを追ってカウンターへ行く。
「……別に」
独りごち、コーヒーをまた一口飲んだ。なぜ俺は眉をしかめているんだろう、と疑問に思いながら。
当のスモーカーを見ると、カウンターの中で他の注文を一人で捌くマージに何か言っている。マージは不機嫌そうに返事をしているようだ。少佐、責任者、話。マージが少し口を開いただけでこんなにも分からないことが出てくる。レイの言葉を思い出した。――「付き合ってるんだろう?」――まさかまさか、と心の中で呟く。そんなことを自覚するような出来事は何もなかったし、それに付き合うと言うのなら、もう少し相手のことを知っていて良いはずだった。自分とスモーカーはただの身体の関係だけだ。割り切っていると言えば割り切っているし、二人の立場を考えればそれが正しいはずだ。
「……出鱈目だろうが何だろうが、知ったことかよ」
自分でも呆れるほどに不機嫌に呟き、窓の外に視線をやった。そして「何をどうすればゆっくり過ごせるんだ」と思う。
「マージ、神様が今すぐ僕たちに恵みのパンを与えよっておっしゃってる!」
「あんたが神様って言うといかがわしくって仕方ないよ! いっつも殺し屋みたいな小隊とつるみやがって!」
ほんの僅か前に切り結んだばかりの従軍牧師と、来るたびに恋人が違うという男の直属小隊の隊員たちが現れては、ローとしてはどう考えてもゆっくり過ごすという気分になれはしなかった。カウンターのスモーカーが、「神よ」と彼にしては珍しい単語を呟いて突っ伏した。メアがわざとらしい笑顔でスモーカーに近づく。
「スモさん、基地で食べてるかと思った」
「いつも俺はここだ」
「ほら、今回の彼氏はちょっと違うし? ねえ?」
メアは飾られている花を勝手に花瓶から一輪引き抜いて弄びながら、小隊の隊員たちに同意を求めるように視線を送る。隊員たちは苦笑いをしたり口笛を吹いて同意の意を示す。とっととどこかに座りな、とマージが怒鳴りつける声が響いたが、メアたちはどこ吹く風だ。マージも本気で怒っている声ではないし、他の客は気にしてもいない。いつものことなのだろう。こういった「いつものこと」という光景があまり日常にない、それこそ船の中がすべてになりがちなローとしては新鮮な気分でそれを眺めていた。
メアの「ちょっと違うし」は単なる当てこすりだと分かっている。海軍の牧師が海賊を受け入れるはずなどないのだから、多少以上の当てこすりは仕方が無いと思った。無論気分が良いわけではなかったが、海軍が支配するこの島で、感情に任せて騒ぎを起こすことが得策であるはずがない。
「あ、そうだ、スモさん、話っていうか」
「ん?」
次の瞬間、ローは自分でも信じられないほどに心臓が波打ったことを自覚した。心臓が動いた割には指先が一気に冷たくなったことが不思議だった。
メアがカウンターのスモーカーの首筋に後ろから抱き着いたのだ。
「おい」
スモーカーはすぐさま振り払おうと眉をひそめて手を動かしたが、メアが話し出す方が早かった。
「だからさ、朝の電伝虫の件。別件の」
「――ああ、あれが? どうした」
確かにスモーカーはメアに迷惑そうな顔をしている。だが話の内容に気を取られたのか――ローにはそう見えた――振り払おうとした手が止まった。それが分かったメアはにこりと笑い、周囲には聞こえない、小さな声で何かを囁いている。スモーカーの眉がひそめられ、意識をメアに向けた。どうやら重要な話らしい、ということをローに教える仕草だった。
だから、と言えばいいのか、なぜか、と言えばいいのか、ローにはどうにも判断がつきかねた。だが、恐ろしく不愉快になったのは確かで、無言で席を立ち上がり、面白そうに、あるいは気の毒そうに視線を寄越す隊員たちの間を通り抜け、できるだけ静かに店を後にした。
面白くないことこの上なく、そして面白くない理由に思い至りそうになり、まさかそんなはずはないと頭の中でその考えを打ち消す。
まさかそんなはずはない。何度も心の中で呟きながら歩く。そんなはずはない。
認めてはならないような気がする。認めてはならない理由が分からない。それでも認めようとは思わない。
絶対に認めるものか。
それでも本当は分かっていた。
――あのキチガイ牧師が白猟屋に抱き着いた時、心底ムカついた。
あれは嫉妬だ。
信じられなかった。認めたくなかった。
「……冗談じゃねえよ」
そんな関係であるはずがない。海軍将校と海賊が、本気で心を交わすなど有り得ない。
取り立てて行く場所もない。来るんじゃなかった。そう思いながら、持て余す時間と感情を始末するため、海から離れた丘へ――花が咲き乱れる丘へと歩き出した。


「あの海賊、行った?」
スモーカーに相変わらず抱き着いたまま、メアは隊員の方に首を巡らせる。隊員の一人が「行ったよ」と言った瞬間、凄まじい勢いでスモーカーから身体を離し、触れていた部分を派手な音を立てながら手で払う。
「ああやだ、気持ち悪い、男に触るなんて気持ち悪い」
「勝手に触っておいてその言い草は何だ。――ローがいなくなっちまったじゃねえか」
「追っかければ? 彼氏でしょ?」
「おい」
驚くべき速さでメアの襟元を掴み、自分の方へぐいと引き寄せる。避けられなかったメアが舌打ちをし、店内が一気に静まりかえる。マージでさえスモーカーの様子を窺った。
「嫌がらせの度が過ぎる、いい加減にしろ。今の話をきちんと言え。マージが言ってた俺に来ない話ってやつか?」
「マージがそんなこと言ってたの?」
「あんたが散々酔っ払って、スモさんになんか言うもんか、って喚いてたんじゃないか」
マージの親切な解説にスモーカーは「ふうん」と言い、メアは自分の襟を掴み上げている男の目を見てにやりと笑う。スモーカーはその笑い方に舌打ちをし、突き飛ばすように襟元を離した。強すぎた力がメアを床に転がす。
「上に言えねえ話か?」
「何のこと?」
メアは起き上がったものの、立ち上がろうとせず、床に座り込んでポケットから煙草を出す。隊員の一人が投げて寄越したライターを器用に受け取り、流れるように火を点けた。
「とぼけんな。俺はさっさとローを追いかけたいんだ。手短に話せ、――このキチガイが」
「だから、スモさんになんか言うもんかって僕が言ってたみたいだから、やっぱり電伝虫で言った別件の話はナシってことでいいんじゃない?」
「お前は記憶をなくすまで飲むのをやめろ。マージもこいつに酒を出すな」
「だからさあ、酔っ払った時の方が本音が出るってことで――」
尚も減らず口を叩こうとしたメアの煙草が宙を舞った。目にも止まらぬ速さと言っても過言ではない速度で、スモーカーの十手の先が弾き飛ばしたのだ。
「メア」
宙を舞った煙草が、小さな火の粉を振りまきながらスモーカーの指先にすとんと収まる。それを見たメアが口の中で「クソッタレ」と呟き、隊員たちが「アーメン」と唱和した。
「手短に話せ」
火が点いたままの煙草をメアに投げつけ、スモーカーが言う。顔に当たりそうなった煙草を曲芸のように口で受け止めたメアは、一口吸って煙を吐き出しながら立ち上がった。
「上に言うかどうかなんて知ったこっちゃないね」
「そうか。で、従軍牧師の秘密の話ってのは何なんだ?」
今度はメアが煙草をスモーカーに投げつける。また十手が動き、今度はカウンターの上の灰皿に煙草を投げ入れていた。
そしてようやくメアは言った。
「最近ここいらに海賊が出る」
「――そんな報告が来てたな」
「結構厄介だよ。小隊と僕がフル稼働」
「被害は?」
「海兵の葬送のミサをまとめてやる程度。民間人はまだ犠牲者は出てないけど、怪我人は出てる」
「そうか」
それは結構な被害と言えるだろう。定期報告として届けられる書類にあった情報だが、改めて聞くと実感する大きさだ。ローには言っていなかったが、今回はその確認や対策についての話し合いもするつもりだった。
「その海賊の頭が」
「ああ」
「十中八九で、アダムだ」
一瞬メアが何を言ったのか、スモーカーには分からなかった。
だが分かった。
アダム――特に説明もなくメアがそれだけを言うのなら、あの男しかいない。
まさか、と絶句した。信じられなかった。
「だから10年前、殺そうよって言ったのに。スモさんが殺さなかったから、関係ない人たちが死んじゃったよ」
言葉を失うスモーカーを露骨に嘲笑う笑顔を浮かべ、メアは言った。
「彼氏、追いかけなくていいの?」