地獄の話なんか慣れている。そう思っていたし、実際そうだった。自分が経験した時間の中には地獄と呼ぶに相応しいものがあったという自負はあるし、誰かが語る話の中にも地獄があった。地獄なんて人それぞれだ。ローは確かに思っていた。そしてそれは間違いではない。
だがそれでも、ローが今聞く戦場の話は地獄と呼ぶに相応しかった。その戦場に足を忘れて来たと言う男は何かを憎悪する目をしながらも静かに語る。
「10年前だった。お前さんが読んだその戦争だよ」
レイの声はいっそ静かだったかもしれない。スモーカーが話したがらない10年前のその話を、ローは出窓に腰掛けたままじっと聞いた。
「俺とスモやんは同期だ。と言っても、スモやんは青雉のお気に入りだったし、何よりどんな奴と比べられないくらい優秀だったから、俺たちと違って若いうちから出世して行ってた。ヒナもそうだったな、あいつも同期だ」
「へえ」
「今でこそああだけどな、スモやん、昔は――10代の頃はすげえ美少年だったんだ。今よりずっと細くて、でも同期の誰よりも強かった。ヒナと並んで歩いてるのは一種の名物だったよ」
あいつも黙ってりゃ可愛いからな、とレイは笑う。ローは特に思い入れのある女でもないので、付き合って笑う必要を感じなかった。戦争の話には関係ない情報だが、人は重大な話をする時、何とはなしに思い出したことまで語りたがる性質があるものだ。
スモーカーが美少年という呼称が似合う容貌をしていたことをやや意外に思いつつ、特に追究する話題でもないとすぐに判断した。雰囲気や傷で見逃してしまう者も多いかもしれないが、顔の造作だけで言えば、スモーカーはかなり整った風貌をしていることは確かだ。今更驚くに価するほどではなかった。
「まあ、話が逸れたっちゃあ逸れたがな。とにかく、その戦争は――始まった時は戦争だなんて誰も思ってなかった。革命軍に刺激された地方の粋がった連中が、ちょっと派手なおいたをしたって程度にしか考えてなかったんだ」
だがそうではなかった。レイは続けた。ローはただ聞いていた。今はまだ質問をする必要性を感じる内容ではなかった。
最初は地方の田舎者が、革命軍の真似事をして火遊びをしただけだと思われていた。世界政府は海軍に扱いを一任し、海軍も僅か200人の人数を向かわせ、鎮圧に当たらせた。だが火遊びでは終わらなかった。その組織は思った以上に統率が取れており、攻撃力も生半可ではなかったのだ。
「敵のアタマが異様に優れた軍略家だったらしい」
「らしい?」
「俺はその頃、まだ軍曹だった。そんな機密を詳細に知る立場じゃなかった」
「白猟屋は?」
「スモやんは大尉だったから俺よりは知ってた。クザンの直下だったしな。俺がいる小隊を率いてたんだ。同期なのに俺の上司になったわけさ」
「ふうん」
「まあ、そういうことでな。とにかく予想以上に苦戦した。苦戦どころか、先遣の200人は完全敗北したんだ。奴らのテリトリーになってた地域の港に入ることもできなかった」
「……そんなことは」
ローは手にしていた史書の表紙を軽く指で弾く。
「一言だって書いちゃいねえな」
「書いてどうする」
レイは笑った。鼻で笑ったと言っても良かった。
「当時の海軍のお偉いさん――今のお偉いさんもちょっとはいたけどな。まあ、お偉いさんが相手を侮りすぎて、200人をほぼ全滅させてしまいました、なんて物語の書き出しは格好がつかねえだろ?」
「意外性はあるが興味を引かれねえのも確かだ」
「だろ。俺だってそんなの読みたかねえよ」
レイは語る。ローはじっと聞く。
反乱軍と呼ばれるようになったその組織は完全にその地方を掌中に収めた。世界政府の支配下からの完全な独立を謳うだけならまだしも交渉の余地はあったが、過去の支配への巨額の――それこそ荒唐無稽なほど巨額の――賠償金を求め、更に海軍の一部を譲渡するよう求めたのだ。とてもではないが飲める話ではなかった。むしろ本気ではなく、何かの冗談を言っているのではないかと思った者も多かったほどだ。軍の中では一種、笑い話にすらなったものだった。
「でも俺の知る限り、青雉とスモやんは笑わなかった。先遣の200人がやられてるんだ。精鋭部隊じゃなかったのは確かだが、海軍の連中が200人、田舎の反乱分子にあっさりやられるなんてのは異常事態だった。そのアタマの野郎は――史書に名前があっただろう」
「ああ」
ただでさえ記憶力が良い上に読んだばかりだ。間違えるはずもなかった。指導者についての人と為りについてはろくに書かれていなかったが、従軍したレイなら知っているのだろう。そしてローはひとつの可能性を結論に近い確率で導き出す。――海軍が史書に詳細に残したくないほど、「できる」男だったのではないか。
「アダム。ありふれた名前だな」
200人の殲滅と荒唐無稽な要求に揺れる海軍を嘲笑うかのように、アダムという指導者は本拠地の近辺の支配を強めて行った。今後も世界政府の影響下にあることを望む者は期限を切って退去させ、新しい秩序を求める者には寛大に振る舞い、求心に余念がなかった。その手腕は見事としか言いようがなく、情報を収集した海軍を唸らせたものだった。
「言ったのは青雉だったかな。――革命軍とは違った意味で厄介だ、善悪がはっきりし過ぎている、ってな」
聞いているローは本の表紙を指で撫でる。そうしたところで書かれていない歴史が分かるわけでもないが、無意識に何度も繰り返していた。
「アダムって奴はとにかく頭が良かったし、おまけに残虐で慈悲深かった。傘下の奴にはどこまでも慈悲を与えて全力で守り、敵には容赦がなかった。それこそ昨日まで味方だった奴が離反すれば迷いなく殺してた」
「詳しいな」
「海軍も間抜けじゃねえ。情報収集はしてたし、俺くらいの階級でもその程度は耳にできた」
「それだけの男が反乱軍のアタマだった、ってのも初めて聞いた。海軍の情報統制が珍しく完璧だったってことか」
「ああ、完璧だった」
レイは笑った。子供の勘違いをからかうような笑い方だった。
「何しろ、生き残った奴が余りにも少ねえからな。そいつらが口を噤めば情報なんざ広がらねえよ。しかも生き残ったのは青雉やスモやんと同じタイプだ」
余計なことを言わない男たちだけが生き残った。レイはそう匂わせた。ローは軽く頷き、話を続けろという意思を示す。
アダムという男は善悪の線引きを恐ろしいまでに明確に設定し、かつ実行した。世界政府は情報収集と可能な限りの事態の穏やかな収束を目指し、のらりくらりと話し合いを続けようとしたが、反乱軍はそれを許さなかった。従わない地域には苛烈を極める攻撃を開始し、アダムに心酔した一般人たちは即席のゲリラ兵となり、昨日までの隣人を敵とした。海軍は即時殲滅派と極力交渉派に分かれることになる。
クザンや他の大将も異常を理解し、即時殲滅を提案したが、世界政府が前代未聞の状況に中々結論を出せず、軍は溜息をついて待機する日々になった。
「スモやんも待機だった。そりゃ、クザンの直下だったからな。何だかんだでそのまんま戦況は悪化して、俺たちに出撃命令が出た時は反乱軍の勢いが最高潮になっちまって、海上より地上戦線が展開されることになっちまった」
「厄介なもんだ」
「そうさ。流石だな」
分かってるじゃないか、とレイは律儀に褒める。戦意が上がった敵を相手にする時ほど戦場の人間として面倒なことは無い。
「俺たちは海軍だ」
「そうだな」
「海の上なら敵はねえ」
「そうだと良いな」
海賊としてはイエスと言えず、ローはそう答える。レイは肩を竦めた。
「ま、地上でも動けるよ。お前さんだって、頂上の時やパンクハザードで分かってるだろう」
「軍人が窮屈ってのが分かった程度だ。あれじゃ白猟屋が気の毒だ」
「スモやんはそういう役回りになりやすくてな」
「へえ」
「そうさ。昔っからお人好しでいけねえんだ」
レイは一瞬だけ冗談に記憶を紛らわせようと、唇を笑いの形に歪めようとした。だが出来なかった。眉をひそめ、また10年前に時間を戻して行く。
「そうだ。――そういう役回りなんだ。いつも。あの時だって、スモやんは負わなくていい責任を負って逃げそびれた。俺たちのことなんか置いていける立場だったのにな」
「上層部がこぞって逃げたって話か?」
「誰から聞いたかは想像もつかねえ、ってことにしておくよ」
ローは敢えて反応しなかった。たしぎが部外者、しかも海賊に機密事項を漏らしてしまったという事実を、目の前の戦傷兵は即座に予想をつけている。と言うことは――ローは表情を変えない下で思った。
――あの女海兵、馴染んでるように見えて、G-5の一部には要注意の立場ってことか。それともこいつみたいな奴……白猟屋と旧い付き合いの奴にそう思われてるだけなのか。
レイは書斎の椅子に優雅にもたれるかのように、古い車椅子に深く座り直す。ギィ、と耳障りな音が静かな図書館に響いた。
「ま、上は全部逃げたよ」
「お前は逃げなかったのか」
「俺はたかが軍曹だったんだぞ? 逃げたのは尉官以上だった。スモやん以外の、な」
「白猟屋は何で残ったんだ」
「ああ、本当は青雉が首根っこ掴んで連れて帰ろうとしたんだが――撤退の船から逃げ出したんだ」
思い出して何がおかしいのか、それとも別の感情からか、レイは笑う。
「他の連中は戦場から逃げ出すってのに、スモやんは逃げ出す船から逃げ出して、俺たちのところへ戻って来てくれた。嬉しかった」
ローは何も言わなかった。そうだな、嬉しかっただろう――それが分かってしまいそうだったからだ。海兵の気持ちなど分かりたくない。自分は海賊だ。海兵を特段憎んでいるわけではないが、理解したい存在でもなかった。
それでも想像はできる。上層部が逃げ出した戦線の混乱と絶望は酷かったことだろう。そこに自分の部隊の長、しかも旧くからの付き合いの男が帰って来たのだ。嬉しくないはずがない。
「でもな。本当の地獄はここからだった。反乱軍が海軍の撤退を知って、残った海軍に一週間後に総攻撃を仕掛けるって宣言をして――まあ、降伏を勧めて来たわけだ」
海軍とて黙ってやられていたわけではない。地上戦にもつれ込んだ後、確保した区域もあった。反乱軍に従うことを拒んだ村や街は海軍の保護下にあった。上層部の撤退後は秩序が乱れると誰もが危惧したが、スモーカーや部隊の必死の調整で辛うじて秩序は保たれ、同時に保護下の人々に反乱軍への一時的な降伏か、土地を捨てて遠くへ逃げるよう説得に回ることになった。
尉官以上の軍人が既にスモーカーしかいない状況下、全ての判断も説得も何もかも、スモーカーが行わなければならなかった。
見ていられなかった。レイは言った。
「見ていられるもんかよ。スモやんが住民に罵られるんだ。海軍の役立たず、能なし、死んじまえってな。スモやんは一言も言い返さなかった」
見ていられなかった。俺たちが辛かった。レイは何度も言い、ローは何も言わなかった。俺なら。ローは思った。俺ならそんな奴ら、見捨てる。でもあいつは――絶対に見捨てられないんだろう。昔も、今も。自分がどれだけ傷ついても、そうだ、パンクハザードの時のように。
「でも、一部は説得に応じる連中もいた。そういう奴は大抵が降伏より遠くへ行く方を選んでたな。いわば難民だ」
ローは無反応を貫いた。難民と言う単語で何かを思い出しそうになり、無理矢理記憶の中に封じ込める。今は失った時間のことよりも知りたいことがあるのだ、と自分を誤魔化した。
「まあ、酷すぎたのはここから先だ。――街の中には降伏する住民もいてな。そういう連中はそういう連中で固まって、海軍の保護下を早々に離れたんだが、反乱軍にちょっとゴマを摺りたかった奴もいたんだろう。海軍の邪魔をしたわけだ」
「よくある話だ」
大規模な戦争、大軍の指揮の経験こそないが、ローとて対立勢力や格下と刃を交える時がある。敵勢力から投降する人間がその後の好待遇を狙い、「手土産」を持参しようとすることは珍しくなかった。生きることに必死になるのは戦時下の民間人も変わらない。海軍の邪魔をするのは考えられることだった。
「逃げ出す街の中にちょっとした土産物を置いて行くんだ。海軍が後で家に入って略奪をすると思ったんだろうな」
「土産物?」
「小型の爆発物なんかは簡単に作れるよな」
「……ああ、そういうことか」
手製の爆発物を捨てる街のあちこちに仕掛けた者がいたのだろう。見回りに来た海軍兵士に人的損害を与える可能性がある。
「でも、そんな状態の海軍がいちいち家捜しなんかするのか。保護下の民間人がいなけりゃ正々堂々と逃げ――撤退できるんだし」
逃げる、という言葉は避けた。10年前のスモーカーは逃げなかったのだと知ったからだ。海軍に払う敬意などないが、10年前のスモーカーを――海軍を必要以上に貶める必要はないということは分かっていた。
「その予定だった。でも予定ってのは狂うもんだ。街を一度出た家族が一組戻って来て、どうしても家に取りに行きたいものがあるって言ってな。もう封鎖した区域だったから、民間人だけで行かせるのは危険だった」
不意にレイが深く息を吐いた。ちょっと待ってくれ、と言いたいような顔だった。ちょっと待ってくれ、言葉を探すから――そんな顔だ。今まで流暢に、時には笑みさえ浮かべて語っていた男の様子とは思えなかった。
だからローは、この家族の話がたしぎやレイが瞳に滲ませる憎悪の理由だということを予想する。大きな戦争、悲惨な歴史の中では埋没して当然の一家族という単位が、実際にその場でその時間を過ごした軍人、話を聞いた軍人をひどく傷付け、憎悪を抱かせたのだ。
「ばあさんの病気の薬だか何だかを忘れたって言うもんだから、俺たちも断れねえ。ちょうど見回りに出なきゃいけなかったし、まだ反乱軍も来てねえ区域だったし、俺と何人かと、それから――許可を出したスモやんも一緒に行った」
「そんな小さい話、お前らだけで行けば良かったじゃねえか。何であいつが行くんだ。その時の最高責任者だったんだろう?」
「人が足りなかった。上層部が撤退した直後にでかい戦闘があって、相当やられた。――俺たちの人数はもうギリギリだった。それくらい死んだ。俺たちの――スモやんの小隊も三分の二は、スモやんが戻って来た時にはもう死んでた」
ローは何かを言おうとし、言葉が見つからずに黙り込む。それがどれほど辛い事実なのか分からないほど愚かではない。軍人と海賊という埋められない溝のある世界の住人同士とはいえ、その状況が余りにも辛く、思い出したくもない事実になることは分かった。
しかもスモーカーはその集団の中の最高責任者にならざるを得なかった。上層部が捌ききれずに起こった敗残の悲劇の終幕を降ろす役目を、自ら戻ることによって担ったのだ。
「まあ、それでな。その家族の中に女の子がいたんだ。小さい、4歳だったか5歳だったか」
「ふうん」
「スモやんをなぜか気に入ってな。くっついて歩いて、まあ、可愛いもんだった。スモやんもああ見えて子供が嫌いじゃねえから、何だかんだで面倒見てたよ」
街は既に全ての住民の避難や投降が完了していた。誰もいない街の中、家族が捨てた家へ向かった。家に入る前に爆発物やトラップが仕掛けられていないかを充分に確認してから家に入った。幸いなことに荒らされておらず、祖母の病の薬もすぐに見つかった。
「それでな」
レイは低い声で言った。声が震えることを隠そうとしているのは明白だったが、ローは気付かない振りをした。
嫌な予感がする。思い出話を聞いているだけなのに、なぜこんなにも嫌な予感がするのか。それは簡単な理由だ。予測したからだ。――ああ、もしもあいつなら、絶対に忘れられないことが起きるだろう。
「女の子が自分の部屋のぬいぐるみを取りに行きたいって言い出した。ここまで来たらもう同じことだ、俺たちは二階のその子の部屋を調べた。爆発物もトラップもなかったから入室OKのサインを出した」
ぬいぐるみはベッドの上にあった。その子は喜んでぬいぐるみを抱き、スモーカーに見せていた。ああ良かったな、じゃあもう行こう、とスモーカーは女の子に手を伸ばした。彼女は片手でぬいぐるみを抱き直し、片手でスモーカーの手を握った。
その時だった。
ぱん、と何かが弾けるような音がした。
まるで風船が弾ける程度の音量で、軍人なら聞き慣れた音だ。
ぬいぐるみの内部に仕掛けられていた小型の爆弾が爆発した音だった。
人間の身体など脆いものだ。
そして小型の爆弾は思った以上に狭い範囲で効果を発揮するものだ。
小さな彼女はスモーカーの手を、スモーカーは彼女の手を握ったままだった。
周囲が爆風を感じることもなかった。それほどまでに狭い範囲での爆発だった。
スモーカーの手を握ったままの、その手から先にあるはずの身体は、スモーカーが浴びた返り血以外は跡形もなく吹き飛ばされていた。
そこで話を一度切り、レイはローを見上げる。そして疲れたように笑った。
「俺の脚が華麗に吹っ飛ぶところまで話すつもりだったんだが」
「そうだったな」
「ここでおしまいだ。充分だろう? 確かに戦時中ならもっと悲惨なこともあるし、いちいち語ることじゃないかもしれねえ。それでも」
それでも。
レイは言った。
「それでも、スモやんに話させることじゃねえってのは分かっただろう」
「そうだな」
ローは辛うじてそれだけを言った。今の話だけで充分だった。後悔した。聞かなければ良かった。
俺だって、俺も、俺は昔――言おうと思えばいくらでも言える。それでも言いたくなかったし、そして同じ次元のようでいて、全く違うものであることも本当は分かっている。
後悔した。
ヴェルゴとのことが気になっただけだったのに、なぜこんな話まで首を突っ込んでしまったのだろう。
なぜあの時の自分は、ヴェルゴとスモーカーのことをああまで知りたかったのだろう。
今聞いた話の光景を、そしてローが知り得ない他の光景を、スモーカーは思い出しただろう。だからこそあんな顔をした。触れるな、触れてくれるなと。ここから先は入るなと線を引かれた。
当然だ。思い出したくもないだろう。
ロー自身に触れられたくない、思い出したくもない記憶があるように、スモーカーもまたそんな記憶があった。
――俺はそれを、興味本位で思い出させた。
そのことに気付いた瞬間、胸の奥から急速な焦燥感が溢れ出た。自分でも驚愕した。
焦燥感は一気に心拍数を上げ、冷たい汗と吐き気すら招き寄せる。精神的なものだと医師としてのローは冷静に判断したが、身体の変化を押さえ込めるほどの力はなかった。荒い息を収めようと戦い、冷たい汗を疎ましいと思いながら焦燥感が遠ざかる時を待つ。
「おい」
唐突なローの様子の変化にレイが眉をひそめる。
「外科医、どうした」
答えられなかった。答える余裕がなかった。なぜこんな焦燥感が生まれたのかも分からなかった。ただ、思い出させた、思い出させてしまった、そして線を引かれたと言う事実が関係しているとしか考えられない。どうして俺はこんな――たかが他人の――そう思った時だった。
どくん、とコートの胸ポケットの中で波打つ何かを感じた。
心臓だ。あたたかい。
戯れに奪った心臓を返していなかったのだ。
――……あいつの。
胸ポケットに手を入れ、心臓に触れた。あたたかかった。血液が流れる音を奏でて動くそれは僅かに乱れたリズムだったが、至って健康で、生命を如実に感じさせる存在だった。
あたたかさに触れたまま、深く息を吸い、長く吐く。
不思議なほど急速に冷たい汗が引き、呼吸が収まった。焦燥感が完全に消えたわけではなかったが、少なくとも冷静さを失うほどではなくなった。
「大丈夫か、どうした」
「何でもねえ」
「そうか」
レイは訝しむ顔をしたものの、ローが何も言わないと理解し、それ以上の追求はしなかった。ローは軽く息を吐く。呼吸は戻った。もう大丈夫だ。まだ触れている心臓は規則正しく鼓動を刻んでいた。安堵の溜息を隠しながらコートから手を出す。スモーカーの鼓動に触れていた指だけがあたたかかった。
そして舌打ちをしたくなった。思った以上にレイの話にのめり込んでいた自分を不甲斐ないと思う。今日だけで二度目だ。
「さっき、鼓動が乱れたな。何かあったのか」
今日だけで二度、スモーカーがすぐそばにいても気付かなかった。ローの声に応じるように、レイの後ろの本棚の影から白い姿が現れる。
「心臓を返せと言いに来た。ガキのオモチャじゃねえ、返せ」
「預かったのも忘れてた。――不整脈か? 煙のやり過ぎだ、控えた方が良いぞ」
あの鼓動の乱れが、混乱したロー自身を救ったことは確かだった。偶然とはいえスモーカーに救われたのだ。海賊を救ったなんざ不本意だろうな、といっそ気の毒に思えた。スモーカーはローが七武海ゆえに今の関係に甘んじているに過ぎない。少なくともローはそう考えていたし、正しいと思う。この誇り高い海軍将校が他の理由で恋人でもない男に身体を預けるはずがなかった。
「やめたらストレスで死んじまう。――レイ、すまなかった」
「聞いてたのか」
「最後だけ」
「一番面白いとこは聞いたってわけか。――俺こそ、出過ぎた真似だった」
旧い付き合いの中将と少尉は軽く拳を合わせる真似をする。ローには分からない、軍人の男ならではの儀式のようなものだろう。
最後だけ、と答えたスモーカーの声は冷静だった。普段の彼の声だ。だがローはなぜか、またあの焦燥感を感じそうになる。僅かに胸の奥が苦しくなった。
「おい」
苦笑と共に、スモーカーに頬を指で軽く叩かれる。はっとしてスモーカーを見た。
「何でお前が死にそうな顔をしてるんだ。出るぞ、本当にレイが帰れねえ」
そんな顔をしていたとは思ってもみなかった。どんな顔をして良いのか分からなくなる。スモーカーはそれ以上ローに構わないかのように歩き出す。動かないローに、レイが溜息混じりに言った。
「もう行った方がいい。その本は置いて出て行くんだ」
お前に命令される筋合いなんざねえんだよ――いつものローならそう言えたかもしれない。だが今は言えなかった。
知りたいことは知ることができないままだった。あんな話を聞いた後に訊けるものか。ヴェルゴは。あいつとヴェルゴはどうだったんだ、どうしてあの戦争で別れたんだ。この男に、そしてスモーカー自身に、絶対にそんなことを訊けるはずもなかった。酷く下らない話に思えて仕方ない。そんなことを気にしていた自分すら下らない存在に思えてくる。
「もう行きな」
スモーカーと旧い付き合いの男が、ローに手を出し、言った。
「持っている本をここに置いて出て行くんだ、坊や」
その呼称に反論する気も起きなかった。レイに本を黙って渡し、言われた通りにその場を去るしかなかった。
意外にも少し歩いた所にスモーカーが待っていた。追い付いたローを一瞥し、また歩き出す。二人で黙って図書館を出、静まりかえった基地の中を歩いた。夜番の兵士たちの詰め所の灯りがぼんやりと見えた。
執務室へ向かって歩く中、ようやくスモーカーが口を開く。
「具合が悪かったのか」
「え?」
「いや、吐くんじゃねえかと思ってな。驚いたんだ」
「……隠れて見てんじゃねえよ」
動揺した時の姿を見られていたことに赤面する。幸いにも先を歩くスモーカーには見えなかった。だがあんな姿を見られたくはなかった。見栄と言わば言え、男はこんなことにこだわってしまうものだ。
だが、ふと気付いた。
コートのポケットの中で不意に乱れた鼓動が、ローを動揺から救った。
驚いたんだ。スモーカーはそう言った。驚いたから鼓動が乱れた。
ローのことで驚いた。
ローはその事実に、なぜか驚いた。
「具合が悪かったんじゃなくて」
「ああ」
「……ごめん」
「はあ?」
思わずと言ったようにスモーカーが足を止め、振り返る。ローも釣られて立ち止まり、息を吐く。顔に不審感をありありと湛えたスモーカーの顔を見て、俺の謝罪はそこまで不審なのか、とローはいささかならず傷ついた気分になった。
「思い出させたのは悪かったと思う。許してくれとは言わねえが、今後は気をつける」
「――ったく、ガキが素直だと調子が狂う」
誰がガキだ、またお前は――そう言いたかった。だが言えなかった。まるで息をするかのように自然に、こんなことは大したことじゃないとでも言うかのように何食わぬ顔で、スモーカーに帽子の上からキスされたからだ。
今までキスをしたことがないわけではない。肌を重ねる時には性感を高めるために、そして高まった性感をより楽しむために、何度も唇を合わせている。もっとずっと深く、食い合うような、セックスを楽しむためのキスなら何度もしている。
それをたかが帽子の上から――正確に言えば帽子にキスをされた。
「ロー、――お前」
それだけで、たかがこれだけで。
スモーカーにそんなことを、まるで恋人の真似事をされただけで。
「やっぱり調子が良くねえんじゃねえのか。心臓を返したらさっさと寝ろ」
夜目にも分かるほど赤くなるなど、自分で自分が理解できなかった。
「……いや、別に」
「しっかりしやがれ。自分で言うのも何だが、俺はお前が思ってる以上に忙しいんだ。お前の不調の面倒まで見切れねえ」
「さっさと寝りゃいいだろう。わざわざ起きて探しに来やがって。そんなに俺が恋しいか」
「ベッドを抜け出して中々帰って来ねえから、船に帰ったかと思ったんだ。心臓を持って行かれたままじゃたまらねえよ」
「え」
思わずローはスモーカーを見上げる。スモーカーが眠ってからベッドを出たのだ。だが今のスモーカーの口ぶりは、ローがベッドを抜け出したことを知っているかのようだった。
「――起きてたのかよ」
「癖だ」
「癖?」
「相手が寝るまで眠れねえんだよ」
「相手?」
「寝る相手」
ふうん、とローは答える。それしか咄嗟に言えなかった。
スモーカーがまた歩き出し、ローはその背中を見る。
10年前はきっともっと細かっただろう。今よりもずっと権力を持たない立場で、それでも、否、だからこその記憶を一生背負うことになった。
正義の文字の下にはそんな記憶がある。誰がそれを知るだろう。少なくともローは知らなかった。そして10年前を知らない人間も詳細は分かりはしない。たしぎとてレイのように細かいことは分からないだろう。
同じ時間の中で同じ光景、同じ悪夢を見た人間にしか知り得ない。クザンも、そして同期のあの女――ヒナもその戦争を知っているのだろう。ローが知らない10年前の記憶を、正義の文字の下、スモーカーと共有している。
それから――
「……ヴェルゴも?」
なぜこの時、その名前が口から出たのか。最悪のタイミングだ、と思った。最悪のタイミングで思い知った。
――俺は本当に、ヴェルゴとこいつのことを――
スモーカーが立ち止まってゆっくりと振り返り、ローを見る。
――知りたくて、仕方ないんだ。
違う、そういう意味じゃない、今のは違うんだ、別のことを考えていて、つい――何から説明すればいいのか分からず、ローは半ばパニックになりかける。
そのローの様子に呆れた様子でもなく、だが確かにローには分からない感情を湛えた目で、スモーカーはふっと笑った。
「前にも言っただろうが。二度も言わせんな」
ローに歩み寄り、スモーカーは静かに言った。
「昔の男のことなんざ、気にするもんじゃねえよ」
窘められているようだ。ローはそう思った。まるで聞き分けの悪い子供に――いや、聞き分けの悪い恋人の嫉妬を宥めるような言い方だと思った。
ふざけやがって、馬鹿にするな、と言いたかった。
言えなかった。
軽く帽子を持ち上げられ、額に下りてきた唇に、言おうと思った言葉を忘れた。
その唇の感触をひどく心地良いと感じたことが、不思議だった。
「白猟屋」
「ん」
「……やらせろ」
自分でも馬鹿のように直截的だと呆れたくなる。だがそれしか言葉が見つからなかった。
性欲ではないような気がする。だが今確かに、スモーカーという人間と触れ合いたいと思った。それが肌の感触なのか、唇の感触なのか、それとももっと違うものなのか――ローは答えを導き出すことができず、ただ思ったことをそのまま言うしかなかったのだ。
「お前」
今度こそ呆れた顔で、だが苦笑いを口元に浮かべてスモーカーはローの頬を軽く叩く。それも心地良いとローは思う。
「さっきもやったじゃねえか。散々噛み付きやがって。どれだけ盛ってんだ」
「うるせえ」
軽く踵を上げ、不意打ちのようにスモーカーの首筋に噛み付く。
「いってェ!」
やや強めの甘噛みではあったがスモーカーの虚を突くには充分で、驚愕の声にローは一矢報いた気分になった。
「お前、いい加減にしろ」
「盛ってんだよ」
「明日は朝から遠出だ、やらねえ。寝るぞ」
「遠出?」
「無責任な海賊とは違ってな、軍人には出張ってもんがあるんだよ」
「へえ」
寝るぞ、と再び言い、スモーカーは歩き出す。数歩歩き、後を着いてくるローにふと思い出したように言いながらまた立ち止まった。
「無職の暇人」
「……無職じゃねえ、海賊だ」
「犯罪行為を職業として名乗るんじゃねえ、阿呆」
これには反論できない。海賊を嫌うスモーカーの本音が垣間見えた一瞬だった。
「どうせ暇だろう。お前も来い」
何で俺が海軍の出張なんかに。
何で俺が。
何で。
頭の中に疑問符が飛び交う。顔にも出ていたかもしれない。
それでも――
「……うん」
ノーと言わなかった自分は、おそらく今は本当に暇なのだろう、と思った。
「そんなに」
そう思うことにした。
「そんなに俺と一緒にいてえのかよ」
精々憎まれ口のひとつも叩いておく。プライドの高い軍人のことだ、気分を害することだろう。今日はやり込められてばかりのような気がして、眠る前に少し不機嫌そうな顔を見てやりたかった。
だがその密かな野望はあっさりと潰えた。
「嫌なら、来いなんて言わねえよ」
ああそう、分かった――その返答は我ながら小さな声で、スモーカーに聞こえたかどうかは分からなかった。
それよりも何となく顔が熱くなったような気がしたが、指で頬に触れるスモーカーが特に何も言わなかったので、きっと気のせいだ、と自分に言い聞かせる方が重要だった。