G-5の図書館はローが思っていた以上に充実していた。仕事の後にここで自主的に勉強していく兵士もいるようだ。見るからに元々は教養がなく、軍に入るまでは文字も読めなかったかもしれない男たちが難しい顔をして本のページをめくったり、何かを書き付けている。ローにとってはその光景が意外だった。彼らは軍の中では最下層でありながら、上へ行く方法を知り、実践しているのだ。
「外科医」
意外な光景に思わず入り口で足を止めていたローに、受付カウンターにいた兵士が声をかける。スモーカーと同じくらいの年齢だろうか。
「目の下の隈がひでぇな、医者を呼ぼうか」
「医者なら間に合ってる」
「ごもっとも。不養生にご注意」
顔も知らない兵士だったが、このG-5という部隊に限らず、おそらく海軍軍人は初対面でもこんな口を利くことを是としているのだろう、とローは思う。遠巻きにされることの方が多いが、最近G-5の兵士とは気軽に言葉を交わすことが少し増えていた。
「ところで外科医、何をしに来た」
「本を読む以外に何がある」
「お前さんが読むような専門書はあんまりないぞ」
「いや、専門書じゃないんだが。多分」
「多分、かよ。タイトルは?」
ローは少し考え、やがて肩を竦めるはめになった。覚えていなかったのだ。あの本を手に取ってから感情が揺れ動くことが立て続けで、ローには珍しいことだが、すっぽりと抜け落ちていた。
「白猟屋の部屋にあった史書」
「そんなの知るかよ。……ったく、史書で探せばいいのか」
「海軍の史書、だな」
「ああ、それならいくつかあったはずだ」
兵士は分厚いノートを手元に引き寄せた。在庫表だと分かったローはカウンターを覗き込み、息を呑むことこそしなかったが、つい医師の目になったことは自分でも否定できなかった。
ノートをめくる兵士の両足は、大方の人間が想像する位置に存在しなかった。兵士はローの視線に気付き、死の外科医を目の前にしているにしては不敵に笑う。
「忘れて来たんだよ」
「忘れやすいにも程があるんじゃねえのか」
「ガキの頃から忘れっぽくてね。お袋によく叱られた」
これも泣きながら叱られたよ、と笑いながら、兵士は本のタイトルと収蔵位置が書いてあるページを慣れた手つきでめくっていく。ローは彼が司書の役割を仕事にしているのだとようやく思い至り、おとなしく待つことにした。軍の基地の中では軍人が全ての仕事をする。食堂のコックまでもが軍人だった。
「その位置で切断処置してあるんじゃ、患部はもう少し下か。随分出血しただろう。運が良かったな」
「ああ、良かったとも。スモやんが小隊長だったからな。死神も避けて通りやがるって有名だった」
「……いつの戦線だ」
スモーカーの今の地位で率いるはずのない小さな部隊の単位にローは驚いた。精々尉官が率いるものだ。スモーカーのそんな時代を知っている男がG-5の基地にいたとは。
「外部の奴にどこ、いつって言ったって分かるもんかね」
「大きい戦線なら大抵は分かる」
「命がかかればどれも大きいさ。……ああ、これじゃねえのか、探してる本。スモやんの部屋にあるなら海軍の直接編集だろ」
ノートの該当部分を指で叩き、ローに示す。書架番号が書かれていた。
「こんなもん、誰も読まねえから一番奥だ」
「手間をかけたな」
兵士は答えたくなくてはぐらかしたのだ、とローは分かった。だからそれ以上訊くことができなかった。これが海賊同士であれば食い下がったかもしれない。だがこの基地ではそうしてはいけないと、海で海賊を名乗って生きる者としてよく分かっていた。
「図書館に来なくても、あんたならスモやんに借りられるだろうに」
「読みたい部分が破れてたんだよ。10年前の内戦の――」
「あの部分を? ――スモやんにしちゃ乱暴なことをするもんだ」
低く笑い、兵士は来訪者を待ち受ける書架の方を顎でぐいと示し、もう行け、と言外に告げた。
「俺の足があったら拾っておいてくれ」
「忘れ物を?」
「そこに忘れて来たもんでね」
「……ふうん」
「閉館の19時半までに見つけてくれよ」
「祈ってろ」
何かを憎むことを誤魔化すかのようなおどけた口調で言う兵士に、ローはただ頷くしかできなかった。あの女海兵のようだ、とローは思う。何かを憎んでいるような目、口調をするのに、それが何なのかローには分からせない。海軍の軍人であるからこそ分かる。そんな感情が確かにここには存在するのだろう。
目当ての書架は思った以上に奥にあった。図書館は想像よりも広く、様々な分野の本を収蔵している。少ないながらも医療分野についての専門書もあり、つい目的を忘れて手を伸ばしそうになった。
目当ての本を探すまで、それほどの時間はかからなかった。埃だらけだ。普段誰も触らない書架なのだろう。
スモーカーの執務室にあった本と同じものだ。既に読んだ部分を飛ばし、10年前の内戦の記述を探した。暫しの後、司書の男の右足を奪った時間が記されたページを見つけた。
一番奥の席に座り、文字を追う。スモーカーが踏み込むなと目で訴えた――初めてローを拒否した原因がそこにあるはずだった。
――……この時に、ヴェルゴと。
たしぎが言っていた。
スモーカーはこの時にヴェルゴと別れたということ。
だがそれよりも、本当に衝撃を受けたのは――ヴェルゴがスモーカーを利用するために近づいたのではなく、スモーカー自身がヴェルゴに近づいたという事実。クザンが言うのなら間違っているとは思えない。青雉と白猟の強い結び付きは広く知られていたし、稀に顔を合わせるヴェルゴも「あれは気をつけるべき関係だ」と口にしていたことを覚えている。
「青雉も何処にいるもんだか」
小さく声を出して呟くことによって、破られた10年前の記録を探すことに意識を戻そうと努力する。単に拒否された原因を知りたいだけであり、スモーカー自身の恋愛のことなどこれ以上考える必要性はないと自分に言い聞かせた。
人によって読書は苦痛を伴うものだが、ローにとって文字を追うことは習性になっている。いつの間にか習性がローの意識を本の中へ誘導し、そこにある文字の羅列を映像として脳裏へ届けた。
一度読み始めれば滅多なことでは本から意識を逸らすことはない。
だが、今はそうもいかなかった。何度も途中で読むことを中断し、息を吐き、美しい文章の中に隠された真実を想像しては、世界を統治する組織の闇にうんざりしそうになる。
たしぎの話を聞いていなければ、字面の通りに受け取っていただろう。
10年前の内戦は恐るべき勢いを持った反政府軍が小さな国を占拠し、実質上の統治を行おうとしたところを世界政府が阻止した、という形になっている。世界政府が誇る海軍が大きく動員され、最終的には地上戦となった。
ローは記憶の中から反政府軍のついての知識を引っ張り出そうとしたが、どうしても革命軍の印象が強く、思い出すことができなかった。少なくとも現在、名を馳せるような存在ではなくなっているということだ。
記述によれば地上戦は終盤まで苦戦を極め、多くの死傷者が出た。民間人にも被害が及び、海軍の戦線展開の強い反省点とされている。
「……何が戦線展開の反省点だ。海軍が出るような戦線なら地上戦にしねえのがアタマの仕事だろう」
終盤、青雉クザンが直属の部下のスモーカーとその直下の30人から成る部隊を率い、何と1000人にも及ぶ兵力を抱える反政府軍に乗り込み、見事勝利を収め、海軍史上でも稀な大戦果を挙げた。
――……それだけの大戦果が、おおっぴらに語られていない、って言うのもな。
不自然だ、とローは思った。軍人ではないものの、海賊を生業とする以上、軍事や軍の成果に対する評価の仕方は分かっている。時にはハートの海賊団のためにそれを真似ることもある。大小関わらず戦闘を意識して生きる集団では当然のことだ。
それを考えるとこの史書はあまりに不自然だ。これだけの大きな戦果はただ事ではない。たしぎの言う通り、クザンとスモーカーが二階級特進をしたのは当然と言えるほどのものだった。それなのにまるで隠蔽するかのように、海軍が直截編集した史書の中だけに記してある。
――俺なら二人の功績を伝説の英雄クラスにして、軍の内部だけじゃなく、世間にも流布する。
特にこの戦線は、勝利を収めるまでに民間人にも被害を及ぼした。遺族の嘆きや怒りを封じ込めるため、軍の華々しい功績を利用しない手はない。いつの時代も英雄はこうして生まれて行く。
――だが軍はそれをしなかった。英雄を祭り上げても隠しきれねえ後ろ暗いこと、公にできねえことがあったからだ。それは――
たしぎが思わず言ったあの件だろう。上層部が戦線を見捨てて逃げた。こんなことが世間に知れれば海軍のみならず、世界政府の威信に関わることになりかねない。
七武海としては興味を引かれないはずのない話だ。何かあった時に巧く使うことができるかもしれない。
そしてそんな事情があれば、海軍で正義というものを貫こうとするスモーカーがこの件に触れるなという意思を示したのも理解できる、と思った。
もしこの話の裏付けを取ることができれば、ハートの海賊団は今以上に世界政府、海軍に対して強い態度に出ることができるようになる可能性がある。
――良いネタだ。あの女海兵に礼を言ってやってもいいくらいだな。後は細かい事実と裏付けが必要だが、叩けばいくらでも埃が出てきそうだ。
そして舌打ちをしたい事実に思い至った。
――ヴェルゴが生きてりゃ、細かい話も聞き出しやすかったかもしれねえ。
史書にはヴェルゴの活躍も書かれていた。最前線に配置され続けたクザンやスモーカーとは違い、要人や民間人の警護、保護に当たる部隊で目覚ましい働きを賞賛されている。いわば後方での功績が大きかったということになるが、前線での華々しい戦果を求められる直截編集の史料において、こういったことが詳しく記されることは珍しい。誤魔化したい何かの目くらましにされることが多い。
たしぎの言が本当であれば、戦線を真っ先に離脱した船団にいたことになる。それがヴェルゴの意思であったかどうかは分からないが、クザンやスモーカーと最後まで戦線を共にしたわけではないことは事実のようだ。
それにしても、とローは本気で感心したくなる。クザンとスモーカーが常人離れした戦闘力を持つ男たちであることはよく知っているつもりだったが――
「……30人の小隊で2個大隊規模を相手に生還してんのかよ。化け物か」
「クザンがいなけりゃ死んでいた」
不意にかけられた声と鼻腔をくすぐった葉巻の香りに、息を呑んで振り返った。いつの間に、と思った。いくら思考に耽っていたとはいえ、真後ろに現れるまで人の存在に気付かなかったとは。
「20時までかかるんじゃなかったのか」
「20時だ」
音もなく現れたスモーカーが顎で壁の時計を示した。ローは「あれ」と口の中で呟く。確かに20時だった。思った以上に図書館で時間を過ごしていたらしい。
「レイが帰れねえって電伝虫を寄越したんだ。さっさと退館しろ」
「レイ?」
「レイ少尉。入り口にいただろう」
「ああ、あいつ。司書の」
「お前がいつまでもいるから図書館を閉められねえんだよ。出るぞ」
「そりゃ悪かった。あいつに頼まれて捜し物をしてたんだが、中々見つからなくて」
「捜し物?」
「足」
スモーカーは数秒、ローの顔を見ていた。ローもスモーカーを見る。やがてスモーカーが先に目を逸らせ、静かに言った。
「レイの足は小型地雷で吹っ飛んだんだ。木っ端微塵だ、見つからねえよ」
「……ふうん」
「早くしろ、飯だ」
ローを促し、スモーカーは身を翻して歩き出した。ちくしょうめ、とローは小さく罵ったが、罵る相手が誰であるのかは自分でも分からなかった。分かりたいとも思えなかった。――思わず誰かを罵らなければ感情が罪悪感の方向に蠢いてしまいそうだと思う程度には、スモーカーが身を翻す寸前、全ての感情を消し去った表情を見せたからだった。
いっそ執務室で見せたような表情であれば、こんな気分にならなくて済んだのに。そう思ったローはまた、小さく罵りの言葉を漏らした。
「見つけてくれたか?」
来た時と同じように入り口にいた司書――レイが皮肉な笑いをローに向ける。ローは唇を動かし、声なく「うるせえ」と言った。レイは低く声を出して笑った。
「スモやん、もう閉めていいかい」
「ああ。悪かったな、時間を守れねえガキのせいで残業させて」
「俺が捜し物を頼んだのが悪かったんだ、あまり叱らないでやってくれ」
まるっきり子供扱いだ。だがこれも海軍の流儀であり、ここにいる以上は外部の者でも同じ扱いなのだと、ローは何度かこの基地へ来るうちに分かり始めていた。たしぎが「大佐ちゃん」と呼ばれているのもそうだろう。ここの男たちはいかに実力があろうと、年齢や軍歴で平常時の扱いを決めている。年下と言うだけで子供扱いは当たり前なのだ。
それが軍隊の弱点だ、とローは思っていた。それが弱点だ。年功序列、縦の関係。そんなものが蔓延るから、本来の実力を発揮できないまま埋もれていく者がいないとは言い切れない。
「相変わらず味気ねえな。俺んとこの船のメシが美味すぎるってわけでもねえはずなんだが」
「嫌なら食うな」
スモーカーはローを街の店へ誘うことは絶対にない。七武海とはいえ、海賊と一緒に食事をしている姿を見られたくないのだ。ローとて海軍中将と馴れ合っていると囁かれるに違いない姿をわざわざ晒そうとは思わなかった。
大抵は執務室に続くスモーカーのプライベートルームで適当な食事をする。プライベートルームと言っても簡易なベッドと物入れ、電伝虫がある程度だ。緊急事態で家に帰れない時に使うことになっている部屋だった。
食事も配給の軍用食で、ローがあと少しでも食に対してこだわりがあれば、とてもではないが日常で食べたいものではない。カロリーと腹持ちだけが利点の、前線の生命線だった。食事用のテーブルなどあるはずもなく、さりとて執務室にある来客用のテーブルに移動するのも面倒で、二人してだらしなくベッドに座り、軍用食のシリアルバーの包み紙を破っては口の中に放り込むと言う、粗野かつ合理的な栄養補給に勤しんだ。
「あのレイって奴」
「ああ」
「同じ小隊にいたんだって?」
「随分仲良く話をするようになったんだな」
「今日初めて話した。医者の目を引くには充分な身体つきだろ?」
「お前が医者って言うといかがわしい」
「流石に酷いんじゃねえか、それ」
「我ながら的を射たと思ったんだがな」
スモーカーはふんと鼻で笑い、ローが食い散らかした軍用食の包み紙を片付ける。いかがわしいと言われた医者はコートの胸ポケットにある心臓を本当に握り潰してやりたくなった。
陽はとうに落ち、ブラインドを下げた室内の明かりはベッドサイドに置いたスタンドライトだけだ。薄暗い光が殺風景な部屋を更に無機質に見せていた。
「ロー」
「ん」
「さっきも言ったが、過去には付き合えねえ。勘弁してくれ」
最後は掠れるような声だった。ローは何かを言おうと思ったが、何を言えばいいのか分からなくなる。
そうじゃない、そんなつもりじゃない、ただ俺はレイの話を――そう言えばいいのだと気付いた時、スモーカーは手元にあった最後のシリアルバーを噛み砕き、飲み込む前から葉巻を手に取っていた。ローはそれを拒否だと感じた。また何を言えばいいのか分からなくなり、そして、分からなくなっている自分に戸惑うはめになった。
分からない。戸惑う。スモーカーといるとそんな瞬間が多いことに気付く。こんな自分は知らなかった。苛ついたり悩んだりすることがないとは言わない。だが全て自分で解決できるものばかりだった。それが今はどうだ。二年前にはヴェルゴの愛人としか認識していなかった男に、今は訳の分からない感情の揺れを自覚するようになっている。
「おい」
不意に、煙のにおいと苦笑と共に手を捕まれた。
「どこまでガキなんだ、お前」
知らない間に爪を噛んでいた。自分でも驚く。同時に顔がかっと熱くなった。恥ずかしい、と純粋に思った。本当に子供のような真似をしてしまったことが恥ずかしい。思わずその手を振り払っていた。かなり強い力にスモーカーは痛みを感じたかもしれない。だが怒ることはなく、むしろ薄い笑みを浮かべ、葉巻を咥えた口元を小さく動かした。可愛くねえな、と。
途端、ローの中で感情が爆発する。自分でも驚いた。うるせえんだよ、とスモーカーを怒鳴りつけていた。怒鳴られたスモーカーは驚いたと言うより、見た目からは想像もつかないようなきょとんとした顔をした。だがすぐに息を吐き、ああそうか、悪かった、と言った。それがまたローの爆発に油を注いだ。だからまた怒鳴った。
「俺はてめえの部下じゃねえ、ガキ扱いするんじゃねえ!」
「だってお前――……いや、いい」
言い掛けたスモーカーは煙を吐き出して言葉を切った。それにまた苛立ったローはみたび怒鳴りかけ、流石に理性を総動員して自分を抑え込む。二度怒鳴ったというだけでも我ながら驚きだ。先ほどとは違う羞恥心を感じた。余りにも普段有り得ない自分の様子に、誰よりもロー自身が戸惑うことになった。
「ロー」
「うるせえ」
顔が熱い。今の自分は耳まで赤い。鏡など見なくてもそれが分かった。滅多にない自分の醜態にどうしたら良いのか分からないほど動揺した。動揺の中、スモーカーが溜息を押し隠したことに気付かなかった。
「ロー」
「うるせえよ」
こんなことを言いたいわけではない。だが言葉が見つからない。どうすればいいのか分からない。怒鳴ったことに対する身勝手な戸惑いが、胸の奥でぐるぐると嫌な渦になってローを息苦しくする。
「分かった。ガキ扱いして悪かった。海軍の悪い癖なんだ」
「俺は海軍じゃねえ」
突っ慳貪な声になった自分を情けなく思う。なぜいつものように皮肉に返すことができなかったのかと悔しい。
「そうだな。ここにいると忘れちまうんだ。悪かった」
スモーカーはベッドボードの灰皿で葉巻の火を消す。吸わないローには稀に不快にも感じられる煙が消えた。
「悪かった。気をつける」
スモーカーの手がローの頬を撫でた。ローはその手を掴む。不思議だ、と思った。
不思議だ。他の誰かにやられていたら手を振り払っていただろう。だが今はそんな気になれない。どこかで安堵すらしている。
そうだ。怒鳴ったことを怒らないスモーカーに安堵した。
非礼を詫びる振りをしながら、本当は許してもらえたことに安堵した自分がいた。
安堵した。そして悔しい。悔しい理由が分からない。それでも安堵する。そして信じられないほど大きな欲が出る。まるで子供のような欲だった。
「白猟屋」
何を言えばいいのか分からなかった。
「何だ」
だからこう言うしかなかった。他に言葉が見つからない。仕方ないだろう。自分にそう言い訳しながら言うしかなかった。仕方ないだろう。俺だって分からない。でも。それでも。
「ムカついた。やらせろ」
それでも、触れなければ本当の意味で安堵ができないような気がするんだ。だから仕方ないだろう。
自分に、そう言い訳をした。
スモーカーは息を吐くように笑い、ローがそれ以上何かを言う前に、キスで承諾を伝えた。
この夜、いつもより強く噛み付いたかもしれない。痛ェよ、というスモーカーのいつもの台詞が、いつもよりも僅かに本気の色を帯びていた。
それでも止められない自分をまた恥じながら、ローはただ、スモーカーの体温が自分を拒まない瞬間に安堵していた。
スモーカーが眠ってからベッドを抜け出し、再び図書館へ向かった。戸締まりをしたはずの図書館でも、ローには関係がなかった。能力を使った移動はお手の物だ。誰もいない暗闇の中、窓から注がれる月の光を頼りに歩く。
あの史書を引っ張り出し、一番大きな出窓にだらしなく腰掛けてページをめくる。幸いなことに月の光だけでも文字を追うことができた。
もう一度ゆっくりと字を追う。何度読んだところで書かれている文章は何ひとつ変わらないと分かっていても、ページをめくる手を止められなかった。
やがてその手を止める。本から顔を上げることはなかったが、できるだけ冷たい声で問うた。
「いつまで残業なんだ、海軍の司書ってやつは」
「お前さんがまた足を探してくれるような気がしてな。待ってたんだ」
司書のレイ少尉は死の外科医に怯えることなく笑った。厄介な奴だ、とローは眉を顰めたくなる。こういう笑い方をする男は好きではない。こういう笑い方――地獄を見た笑い方と言えばいいのか。あの戦線を知るのなら確実に地獄を見ているだろうし、ある意味、どんな相手にでも動じることなく対応できるのも頷けた。
「随分古い車椅子だな」
レイがカウンターの中にいた時には気付かなかったが、車椅子を使っていた。年季の入ったそれは見るからに重そうで、進むたびにぎいぎいと音を立てる。
「軍の支給品なんてこんなもんさ」
「義足にしねえのか」
「高いし、軍の補助と俺の給料だけじゃ賄えねえ。スモやんが上に掛け合ってくれてんだけどな、まあ、G-5じゃ中々難しいよ」
「……そうか」
医者としてはそれしか言えない。スモーカーの話は意外だった。少尉とはいえ、戦傷に対する補填のような出世だったことは想像に難くない。軍とはそういうものだとローは知識として知っていた。言い方は悪いが所詮は使い捨て、末端の兵士だ。武で名を馳せるスモーカー中将ともあろう男が、こんな末端兵士のことまで気にかけるものなのか。
「それとな、その本」
「ああ」
「忘れてた、貸し出し禁止なんだ。気に入ってるみてえなのに、悪いな」
「ふうん」
答えながら、これはレイの牽制だと察する。こんな本を読みたがる、そしてその理由が理由である自分をレイは警戒し、だからこそ再来を予想して待っていたのだ――ローは理解し、もしも俺が来なかったらどうするつもりだったんだろう、職務熱心な男だ、と内心で賞賛した。
「野犬の子分も使い勝手の良い犬、ってことか」
「何だい?」
「何でもねえ。貸し出し禁止か、残念だ」
禁止も何も、海軍ではないローが持ち出せるはずもない。黙って持って行くことはいくらでも可能だし、下肢が不自由なレイには止められない。だが司書が言いたいことはそんなことではない、とローは分かっていた。
レイは――あの戦線を生き抜いた男は牽制している。
探るな、とローに言っているのだ。
何かを隠蔽しようとした政府のためか。それとも不名誉を忘れようとする海軍のためか。どちらでも下らねえもんだ、とローは鼻で笑いそうになる。
だがレイが言ったのはそのどちらでもなかった。
「どうしても知りたいなら、俺が話してやる」
「……何だって?」
「俺の足が吹っ飛ぶまでだがな。そこで意識を失って、気がついたらお袋が泣いてたもんだから」
ローは暫く考え、レイをじっと見る。ロー自身は意識していなかったが、生半な者ならそれだけで怯えるような眼光だった。だがレイは――一介の司書は全く怯えた様子を見せないどころか、僅かな怒りさえその目に浮かべていた。
「それで満足しろ。スモやんに思い出させるんじゃねえ。――酷すぎたんだ」
レイは呻くように呟く。
あの日の誰かを憎むように。
「酷すぎた。……本当にあれは酷かったんだ。お前さんだって色んな戦場を知ってるだろう。でもな、10年前のあれは――スモやんも、青雉だって、話したがりやしねえよ」
俺だって本当は話したくねえくらいだ。レイはそう言った。だが首を振ってまた言った。
「ああ、いや、分からねえ。俺は話したいのかもしれねえ」
ローはそっと本を閉じる。レイの胸中を考えることはなかった。ただ、スモーカーに思い出させるなという言葉が強く耳に残った。
戦場で傷ついた男が、同じ戦場で傷ついた男を守ろうとしている。
そんなこともあるのだ。ローは些かの感動と共にそれを知った。
「聞かせろ」
窓から差し込む月光の中、古びた車椅子の上で、男は呪詛を吐くように過去を語り出した。