INFINITY 〜∞〜 02



自分の性質は良く知っている。自身を理解するのもまた、己の立場には大切なことだとローは常に自らに言い聞かせていた。
あの男のことを妙に考えることが増えたのは、初めて軍人というものに感嘆すべき時があったからだと分かっていた。あの冷たい世界の中、普段ほとんど感情を動かさないローですら驚くほどの熱量を放ちながら、決して感情に流されることなく、自分の部下への被害を最小限に抑えようと奔走した挙げ句、あまつさえローを子供のようにすらあしらった。
あの状況で、とローは思い出して笑いたくなる。あの状況で。ヴェルゴが出会った時から裏切っていたと知ったあの状況で。そんなこともお構いなしに後から後から絶望したくなるようなことが湧き続けていたあの状況で。
――こいつは、一言もぼやきを漏らしやしなかったな。
その事実に気付いた時、ローの中でスモーカーという男は確固たる軍人として姿を持った。ヴェルゴに長い間利用され続けた哀れな男という事実は消えはしないが、確かにそれ以外の確固たる姿を持った。
今目の前にいる男はあの日の姿が嘘のように、おとなしく、淡々と書類を片付けている。性に合っていないのは顰められた眉で分かるが、仕事だと割り切ってやっているのだろうという風情だ。この男の葉巻の消費量には辟易するが、害のある煙を嗜む軍人は少なくない。
執務室という、やはりこの男の見た目からは想像できない呼称の部屋は一面が窓で囲まれていた。どんな時間でも太陽が沈まない限りは光が入り続ける構造だ。精神安定のため、陽光の必要性をよく知っている医師としては、僻地の建物にまで気を配る世界政府に対して賞賛を、七武海、海賊としては、クソッタレという言葉を贈りたくなる。
この部屋に入り込むようになってそれなりに時間は過ぎている。ふらりと現れては好きに振る舞うローに、スモーカーが嫌な顔をしたことは一度もなかった。たしぎやG-5のメンバーが驚愕し、嫌な顔をしていた時期もあったが、今では諦められたのか、それともスモーカーが何か言ったのか、訪問時に顔を合わせるたしぎが眉を跳ね上げる程度になった。
スモーカーの態度と言えば、ローの存在には気付いているが、特に話しかけるでもなく、ローに何かを禁止するようなことを言うでもなく、淡々と自分の業務をこなしているだけだった。たまに話をしても当たり障りのない、大抵は天気や海の様子の話だった。
ローも普段はこれと言って話しかけることもない。そもそも用事があって来るわけでもない。ただ何となく、たまにこの男の顔と葉巻のにおいが脳裏をよぎる。ことに時化が続いた日には気分の変化を求めるゆえか、妙にこの場を思い出すようになっていた。
一度だけ、スモーカーがローに対してきつい言葉をかけた。あの時は俺もおかしかった、とローは今でも自分を振り返っては溜息をつきたくなるのだ。
酷い時化が続いた時だった。この場に訪れた時、いつも通り話すことなど特になかったのに、妙にどうでも良いことを口にし続けたことがある。医師のプライドを考えると認めたくないことではあるが、あの時の自分は精神的にどこかバランスを欠いていたのだろう。時化が続き、無意識に鬱々とするのが人間、船乗りと言うものだ。食欲のなさを言い訳に、その症状を抑える栄養素を取っていなかったことが災いした。
流石と言えば流石、スモーカーは一瞬でそれを見抜いた。そして言った。
野菜とフルーツをたらふく食って、そこのソファで昼寝をしろ。俺の言うことを聞け。――言いつけを守ることなんて子供でもできる、そうだろう?
後半は憎まれ口を返そうとしたローを封じ込めるための言葉だったが、成人男性に投げるには尊厳を傷つける瀬戸際のきつい言葉だった。
スモーカーが厳しい態度を見せたのはその時だけだ。ローが全く抵抗しなかったかと言えば嘘になるが、自分でもうんざりするほど聞き分けの良い子供のように、素直に従ったことは確かだった。
昼寝と言う仮眠から目覚め、回復を実感した途端、猛烈に腹が立ったこともよく覚えている。執務室のソファで言われるがままに眠ってしまったことも腹立たしかった。とうに陽が暮れ、一面の窓が真っ暗になっているのに、まだ書類と向かい合っていたスモーカーにも腹が立った。
ああ、起きたのか、と静かに言われ、メスの発動を返事に替えた。衝撃と僅かな苦痛の発生に眉を顰めたスモーカーは、どうしようもねえな、と呟いて葉巻の火をもみ消していた。その姿にもまた腹が立ち、結局は朝までスモーカーの身体のあちこちに噛みついて憂さを晴らすことになった。痛ェよ、と言いながらスモーカーは怒る風情すら見せず、余程でなければローの好きにさせるという態度を崩しはしなかった。
今日も今日とて、スモーカーはローの好きにさせている。本棚の軍事書を無断で引っ張り出して読み耽るローを一瞥することもなく、眉間に皺を寄せて書類と格闘していた。ローはいつの間にか来客用のソファではなく、日当たりの良い壁際の窓の下を自分のテリトリーにして座り込むようになっていた。書類を取りに来たたしぎが大げさに溜息をつき、ソファのクッションを無言でローに投げ付け、ローを唖然とさせ、スモーカーを笑わせたのはつい先日のことだ。
執務室の本棚はローの知識欲を刺激するには充分すぎる品揃えだった。語学、軍事にとどまらず、政治や歴史の本も揃っている。G-5に赴任してから暇というわけではなかっただろうが、確実に一度は目を通していることは明白だった。どの本からもあの葉巻の香りがする。腕っ節で将官まで駆け上がって来たと思われがちなスモーカーが、実はそれなりに読書家であることを証明していた。
「ここ、何で破れてるんだ」
スモーカーが仕事をしている間に話しかけることは滅多にないが、本の一部が破られていることに気づいたローは流石に気になり、声をかけた。スモーカーは仕事中としては珍しくローを見やり、書類を一度意識から解放する。
「何の本だ」
「近年の地上戦のダイジェスト。10年前の内戦の部分が全部破られてる」
海軍の地上戦の記録なんて滅多にない、と思って手に取ったのだ。読んでみれば案外と面白かった。破れていたページは近年では珍しいほどに世界政府軍が苦戦した内戦の記録の部分だ。
だがローは驚くはめになる。執務室や自分の前では大きく表情を動かすことが滅多になかったスモーカーが顔色を変えたのだ。それはほんの一瞬のことだったが、確かに大きな動揺をローに見せつけた。
「そういえば、破いたな」
「何で」
「……間違っても読みたい部分じゃねえからさ」
言いながら葉巻を燻らせる。既に動揺を煙の中に封じ込めることに成功したことを喜ぶように、その香りは執務室の中に静かに漂った。
「俺の知ってる海軍中将閣下が」
煙の中にスモーカーが隠れてしまうような気がした。だからほんの僅かに声を大きくして、早口で言った。隠れないで欲しいと思った自分には気付かなかった。
「本にこんなことをしてるのを見たのは初めてだ」
葉巻の香りが取れなくなっている以外、スモーカーの本の扱いは几帳面と言っても良い程だった。書物というもの、内容、筆者に敬意を持っている人間の扱い方だ。そんな男がページを破るなどという蛮行に出るとはどれほどの内容だったのか。
「面白ェ部分だったのに。俺はこの地上戦の時はまだガキだったから――」
ろくに知らねえんだ、と言いかけ、口を噤む。そして床に座ったまま、デスクチェアのスモーカーを見上げる。スモーカーと目が合った。
分かるだろう。スモーカーは――海軍の男はそんな目をしていた。

分かるだろう。
触れるな。
触れてくれるな。

初めて、そんな目で見られた。

言葉にするな。触れるな。
ここから先は入らないでくれ。

スモーカーがそう伝えている。今までローにどんなことでも、まるで子供に目の届くところでなら何をしても良いとばかりに好きにさせていたスモーカーがそう伝えようとしている。
そんな義理はねえさ。そう言うことは可能だ。ローは知っていた。そんな義理はありゃしねえ。俺が知りたい。なぜこの部分を破ったんだ。分かるだろう、なんて目をしたって、分かるもんか。分かりゃしねえ。
それを言えば良かったし、言っても良いと思う。七武海とはいえ海賊であることに変わりはなく、相手は海軍の中将だ。その心を慮る義理も理由もありはしない。
だがローはそれ以上言うことができず、黙って本を閉じ、さも億劫だと言うように立ち上がって、本棚にそれを突っ込むしかできなかった。
不意に、胸の奥にじりじりとした焦りが沸き上がる。あの日、ヴェルゴに利用されていたスモーカーを哀れだと思った直後に感じた焦りと似ている、説明し難い嫌な感情。
出会って初めてだ、と気付いた。
そう、初めてだった。
スモーカーがローの行動を拒否したことはこれが初めてだった。
「ロー」
スモーカーが言った。
「今と未来は付き合う。だが」

過去は付き合えねえ。

普段と同じ声だった。だが何かが違うということが分からないほど、ローが愚鈍であるはずがなかった。過去に触れるな、教えてやるつもりもない。スモーカーはそう宣言していた。裏を返せば、それほどまでのものを背負っているということだと――分からないほど、ローは海軍の将官というものを理解できないわけではなかった。
それがどうした。俺には関係ねえ。俺が知りたい。
そう言うことは簡単だ。だが言ってはいけないと胸の焦りがロー自身を強く戒めていた。なぜ言ってはいけないのか。それは分からないまま、それでも、ローはその戒めを受け入れるしかないと諦めた。早く焦りを忘れたい一心だった。この感情はどうしても好きになれない。長引けば恐怖になる、忌々しい感情。
「俺がいつ、付き合ってくれなんて言ったんだ」
口から出たのはいつも通り、棘のある言葉だ。聞いたスモーカーが苦笑した。
「そうだな」
「早く終わらせろ、読書も飽きた。飯食ってセックスしようぜ」
「後にしろ。俺だって忙しいんだ。言うことを聞けねえなら、帰るか、たしぎと遊んでもらえ」
「メス」
「……ったく」
スモーカーが眉を潜める。心臓を引きずり出される感覚にはもう慣れた。会うたびにやられていれば慣れざるを得ない。それでもやはり気分の良いものではない。
「預かってる間はおとなしくしててやるよ」
「そいつはいい、だったら貸しておくのが良策だな。21時には終わる」
「ひでえ残業。でも残念、俺の腹具合じゃ20時がリミットだ」
「善処する」
「約束しろよ」
「海賊と約束なんざ、誰がするか」
「目的があるなら守るさ、いくらでも」
てのひらの心臓に強く唇を押し当てる。スモーカーがぞくりと背筋を震わせた姿を確認し、ローはようやく焦りをどこかへ放り出すことが出来た。
「ガキのおしゃぶりじゃあるまいし。良い子にしてろ」
「20時に」
「盛りやがって」
「中将閣下よりだいぶ若いもんで」
ローはもう一度心臓に口付け、スモーカーが愛撫にも似た感覚に耐える息を吐く姿を見、満足してから執務室を出た。
20時まで二時間ほどだ。勤務を終えたG-5が帰路に就く時間になっていた。ローが軍隊のことで不思議に思うことのひとつとして、地位が上がれば上がるほど残業が多くなるという事実がある。稀に顔を合わせていたヴェルゴもそんなことを言って苦笑いしていたものだった。
ヴェルゴを思い出した途端、ローは溜息をつきたくなる。あの瞬間を思い出した。あんた可哀想だなあ、とスモーカーに言った時のことだ。
スモーカーは動じもしなかった。眉ひとつ動かさず、言ってのけた。
お前ほどじゃねえよ。
あの言葉の意味がいまだに分からない。訊けば答えてくれるのだろうか。それすらも分からないし、訊きたいとも思わない自分がいた。それでも思い出せば苛立つ記憶であることは確かで、時間が忘れさせてくれる日を待つしかなかった。
――……ヴェルゴか。10年前の内戦って言えば、ヴェルゴはもう海軍に入り込んでたはずだ。
その時の記録が残っているかもしれない。ヴェルゴが内戦鎮圧の地上戦に参加していたのなら名前が出ているはずだ、と不意に思った。
――もしそうなら、……破いてあったって、不思議じゃねえ。もしかすると破いたのはつい最近かもしれねえ。
そう、つい最近かもしれない。
ヴェルゴがずっと、最初から自分を裏切っていた――否、愛情を利用していただけだと知った後に破ったのかもしれない。
兵士の教養施設区域にある図書館にでも行くか、と思った時、背後から声がかけられた。
「トラファルガー」
どう贔屓目に考えても友好的とは言えない険のある女の声だ。
「何だよ、ブス」
「……子供みたいな悪口言われたって、別に気にしませんから! 無駄ですから!」
その反応が面白いからわざと言うのだ、ということをいつ伝えようかと思いながらもローは振り返る。案の定、眦をつり上げそうな自分を必死で抑えているたしぎがいた。
「スモーカーさんに言われたので、遊んであげます!」
「前から思ってたんだけどな、白猟屋もお前も良い具合に馬鹿だよな」
「誰が馬鹿ですか! そんな子供みたいな悪口言われたって――」
「あんまり怒ってばっかりだと、眉間の皺が消えなくなるのを知ってるか」
にやりと笑って眉間を指で示すと、たしぎははっとして自分の額ごと眉間を隠す。こういう部分は女だよな、とローは思った。
「俺と遊んでやれって? 白猟屋が言ったのか」
「正確には『20時までガキのお守りをしてやってくれ』です。私なりに言葉を選んでみました」
「迂闊に訊くもんじゃねえな、一気に腹立たしい」
「あなた、お医者さんの割には気が短いと思います」
「とっとと大怪我して俺のとこに来い、医療ミス装って殺してやる。――調べ物があるから図書館に行く。お守りはいらねえ」
「装う気もないくせに。――図書館は19時半で閉まります、気をつけて。それと、残って勉強してる兵士の邪魔はしないで下さいね」
「俺がここで誰かの邪魔をしたことがあったか?」
「いつもスモーカーさんの邪魔をしているのは?」
「世界の悪事とつまらねえ事務作業だろ?」
減らず口の応酬を諦め、たしぎは溜息をついた。この男と時間を共有すると溜息を吐く回数が多くなるような気がしてたまらない。
「調べ物って? 何を?」
「別にお前に言うことじゃ――」
だがそこでローは思い至る。いくら若くても、仮にも大佐という地位にあるのなら、軍の歴史にはそれなりに詳しいはずだ。本で調べる以外にも知っていることがあるかもしれない。
「10年前の内戦」
「……地上戦にもつれ込んだ?」
「ああ、それだ。流石だな」
珍しく素直に賞賛したローの表情が意外にも少年のようで、たしぎはつい驚きそうになる。だが同時に、なぜそんな話を持ち出したのかと疑念を抱いた。
「そんなこと、どうして調べるんですか」
「白猟屋の執務室で史書を読んだら、そこだけ破られてたんだよ」
訝しむ顔をするたしぎに、もう少し簡単に、分かりやすい理由を添えてやることにする。あまり聞きたい名前ではないかもしれないが、言っただけで理解するだろう。
「ヴェルゴが関わってるかどうか、知りたいだけだ」
「……ああ、ヴェルゴさ……ヴェルゴ、ね」
躊躇う呼び方ひとつで、あの男の存在と裏切りがG-5にとってどれほど大きかったのかを知らしめる。まあそういうことさ、と口の中で呟き、ローは帽子の鍔をぐいと引き下げた。何となくそうしたかった。
「私、あの頃はまだ軍にいませんでしたけど」
「だろうな。だから本で――」
「いなくて良かった、って思えるような地上戦だったのは聞いてます。ただ、クザンさんとスモーカーさんが最後まで最前線に配置されて、揃って二階級特進するくらいの功績を挙げたっていうのも、古い兵士に聞きました」
「……へえ」
二階級特進はかなりの功績を挙げたという証明だ。かなり、という言葉でも足りないかもしれない。本来は戦死した者に与えられる最後の名誉として扱われることが多く、生きている者が授与されるケースは滅多になかった。
「でも、スモーカーさんがご自分で話したことは一度もないはずです」
「そりゃ、ページを破くくらいだからな」
たしぎは頷き、言葉を失ったかのように口を閉ざした。その表情は悲痛そのもので、ローをうんざりさせるには充分すぎる。女が敬愛する上官を労る時の顔ほど、他人の男に取って扱いに困るものはない。
そしてあの目を思い出す。初めて拒否をされたあの時の目を。触れてくれるなという目。
もういい、と言おうとした時、たしぎが早口で、そして小声で言った。
「ヴェルゴは地上戦の時、本部の上層部の護衛艦に配置されていたはずです。絶対に沈まない艦でした。だって――」

上層部が、決戦直前の前線を見捨てて真っ先に撤退したんですから。
沈むはずがないわ。

何も言うべきではない。ローはそれを理解した。女の眼鏡の奥の目が、時間を超えた憎悪に彩られたからだ。海軍だからこそ、軍人だからこその憎悪だった。だからローには何も言えなかったし、言う資格もなかった。
「図書館に、あると思いますよ」
そう言ったたしぎの目からは既に憎悪が消え失せ、いつもの通りの彼女がそこにいる。消え失せたのか、隠しただけなのか、ローには判断ができなかった。
「そういう史料は揃えてありますから。ちゃんと書いてあります。――海軍がとってもかっこよく、ね」

真実なんて書いていないわ。

たしぎは言外にそう告げた。

「ヴェルゴのことも結構書いてありますよ。二階級特進ほどじゃないけど、あの人もあの内戦でそこそこ活躍して出世してますから。今となったら悔しいけど、スモーカーさんがあの時にヴェルゴと別れたのが不思議なくらい、いい男だったみたいですよ」
「……あの時に?」
「あ、これ」
言っていいのかしら、とはっとしてたしぎは口を押さえる。ローはじっとたしぎを見るが、たしぎは目を泳がせるばかりだ。
やがて沈黙に飽きたローは唇を動かすことにした。
「――メ」
「私も直接は知りませんけど! スモーカーさんが出張中に! クザンさんが来て! オフィスで勝手にお酒飲んじゃって酔っ払った時に!」
ス、という語尾を飲み込み、ローは的確な判断をしたたしぎににっこりと笑いかける。滅多にない死の外科医の笑顔の大盤振る舞いは、彼の美貌を考えれば女として見惚れたくなるほどのものだったが、今のたしぎには恐怖の象徴にしか思えなかった。
「まさかスモーカーさんにもヴェルゴにも訊けないですから、本当にクザンさんが言ったことだけなんですけど」
「まあいい、言ってみろ」
「命令しないで下さい」
「メ」
「クザンさんが言ったことだけなんですけど!」
「ROOM」
たしぎは恐怖の中、ローがROOMを発動させたことを知り、思わず剣に手をかける。だがローは軽く両手を挙げ、その必要はない、と態度で告げた。
「誰が聞くか分からねえから、一時的に外から遮断しただけだ」
「……あなたにとって、そんなに大事な話なんですか」
「大事?」
「ヴェルゴとスモーカーさんが内戦の時に別れた話、そんなに大事なんですか」
「そんな話、ずっと昔から知ってた。ただ、いつ別れたかは知らねえし」
そうだ、知らなかった。知らなかったし、気にしたこともなかった。
だが――不意に気になったのだ。
いつ別れた、いつ――いや、本当はそんなことじゃない。

いつ知り合って、いつヴェルゴはあいつを利用しようとしたんだろう。
あいつはどうやってヴェルゴを受け入れる気になったんだろう。
どうして別れることになったんだろう。

ああ、
どうして、

どうして、こんなことが気になるんだ?
「……俺だって、ヴェルゴとの付き合いは浅からぬ、だからな。もちろん白猟屋みてえな可哀想な扱いじゃねえけどよ」

可哀想。ああ、本当に可哀想だ。ローは思う。可哀想に。本気で好きだったんだろう? ヴェルゴと恋愛していると思っていたんだろう? たとえそれが過去の話でも。
それなのに白猟屋、ああ、可哀想だな。
利用されていたんだ。心を。愛情を。青雉のお気に入りだったから。
情報を引き出すために。
あいつはそういう奴だった。

「可哀想って、どういうことですか」
たしぎの眉が跳ね上がり、不快感をローに示した。ローは首を傾げたくなる。私の上官を可哀想なんて言わないで――女の純粋な怒りが見えたような気がしたから。
「……なるほど、可哀想だと思わないのも部下の仕事か」
忠実な部下も大変だな、と笑うと、たしぎはローを睨み付け、更なる不快感を示す。
「スモーカーさんが可哀想なんて、あるはずないじゃないですか」
「利用されていたのに? 恋愛を仕掛けられて、受け入れて、利用されて。それでも可哀想じゃねえのか」
「違うわ」
何てことを言うの、という感情を強く込めた大きな声だった。ローはつい、まじまじとたしぎを見てしまう。たしぎはもう一度、違うわ、と言った。
「あなた、誤解してます」
「何がだよ」
「私もクザンさんが言ったのを一度聞いただけだから、本当に、本当かどうかは分からないけど。でも、クザンさんがスモーカーさんのことで間違えるなんて思えない」
「……何がだよ」
鼓動が跳ね上がった。ああ、あいつの心臓はコートの内ポケットだ、随分強く聞こえるもんだ、と、そう思うように努めなければならなかった。己の鼓動だとは決して認めることができなかった。
たしぎはローを見据える。あなたが可哀想なんて言うからよ、だからこんな話をしなきゃいけないんだわ――その目はローをそう責め立て、どこかで憎んでいるのではないかというほどの色を湛えていた。
「クザンさんが言った、っていうのを忘れないで下さいね」
そしてたしぎは言った。

「ヴェルゴをそういう関係に誘ったのも、内戦の時に別れを決めたのも、スモーカーさんです」

だからあなたが可哀想なんて言うのは間違いよ。

どういうことだろう。何を言っているんだろう。
ローは脳裏で何度もたしぎの言葉をリフレインするはめになる。理解が追い付かないことなど滅多にない。だが今、確かにそうだった。
嘘だろう。信じられない。そう思った。
別に何かを期待していたわけではないし、期待することなど何もなかった。
何もなかったはずだった。
それでも、事実だと思い込んでいたことがただの誤解だったのだというこの事実に混乱する。

最初から利用されていたんじゃないのか。
本気だったのか。
ヴェルゴはどうだったんだ。

「トラファルガー」
たしぎの声が遠くに聞こえる。
「私はもう帰ります。ROOMを解除して頂戴」

内ポケットの心臓の鼓動がやけにうるさい。
頭の中にまで響くほど。
それはあくまであの男の心臓だ。
ローはそう思っていた。
そう思わなければならなかった。

何よ。

たしぎは唇を噛み、心の中で呟く。

何よ。
死にそうな顔しちゃって。
ばっかみたい。
まるで私が悪者みたい。