あいつはまったくもってご立派な軍人だ。奔放で身勝手なようでいて、その実きっちり規律は守り、部下にも守らせる。あのうざったい女に言いたい放題をさせているようで、その実きっちり締めるところは締めている。
中将なんざそもそも俺の相手じゃない。マリンフォードのあの時だって――まだ中将じゃなかったが――どうでも良かった。正直言ってあの時、俺はあいつにあまり興味がなかった。ヴェルゴの関係で名前は知ってたし、能力者だってことも知ってたし、海軍にしちゃ骨のある奴だってことも知ってた程度だ。
俺の邪魔をするなら殺しゃいい。それくらいだった。ルーム、シャンブルズ、メス。あっという間に。今までそうして来たし、これからもそうする。そう思ってた。それが自由だ。俺が手に入れた自由のひとつだ。そう思ってた。
あいつは不自由だ。ご立派な軍人でも不自由だ。あの正義って文字、あの背中に書いてあるあの文字。あれがあいつを縛ってる。可哀想な奴。あんなもん、背中に書いてるから良くなかった。だからヴェルゴにあんな目に遭わされた。だからヴェルゴに――。知ってたよ。あいつは昔、ヴェルゴと出来てた。ヴェルゴが何であいつに手を出したか、はっきり聞いたことはない。だが青雉が可愛がってるあいつを囲い込めば、少なくとも青雉とも近づきやすいし、情報も手に入りやすくなると思ったんだろう。昔のあいつは可愛かったらしい。今からじゃ想像もつきやしない。
それにしても酷い話だ。俺には関係なくてもそれくらいは思ってやっても良かった。
思ったから言った。ああ酷い話だ、お前可哀想だなあ――てっきりあいつは怒ると思った。あのでかい声で怒鳴るんじゃねえかって。だが怒らなかった。怒鳴る気配なんて微塵もなかった。俺はこいつを怒らせたかったんだとその時に気づいた。気づいて、なぜか苛ついた。
お前可哀想だなあ。そう言った俺に、あいつは眉ひとつ動かさずに答えた。そうか、と。――そうか。お前ほどじゃねえよ。
強がりだと思った。強がり、だ。そうであるべきだ。そう思った。そしてまた、苛ついた。そしてまた、俺はこいつを怒らせたかったんだと改めて気づいた。
俺が可哀想って、お前、強がるにも程があるだろうよ。いつも通りの俺の口調で言ったつもりだった。だがどこか違う声音だったかもしれない。自分で自分に違和感を感じた程度には。
あいつはまた、そうか、と言った。今度はそれきり黙った。この話にもう興味がない、なんて顔をしていた。
それが酷く癪に障った。強がりでも何でもなくて、それが本心だと分かったからだ。癪に障る。苛立つ。
俺の前で何言ってんだ? 不思議なことだが急にそんなことを思った。俺の前で。
俺の前で、何を。
俺の前で。
お前が。
苛立つ。腹が立つ。酷く。――メス。
予測はしていたのか、それとも諦めたのか。あいつは少し眉をひそめて言った。――たしぎと入れ替えられるよりゃ、マシか。
そうかい? 少なくともあっちは死ぬことがないんだがな。手の中の温もりを楽しみながら俺は言った。あいつは相変わらずの声で答えた。
やりてえんだろ。たしぎの身体じゃ洒落にならねえよ。
何を言っているんだ。俺は咄嗟に理解できなかった。
いや、理解できない振りを、した。
そんなはずがない。こんな10も年上の、可愛らしさなんて何もない無骨な野郎。やりてえとか。馬鹿か、こいつは。
理解できない振りを。
振りを、するしかなかった。それは分かった。理解できない振りをしなければ、俺はきっと――苛立ちで自己を制御できなくなる。苛立ちが焦りになる。
焦りは嫌いだ。
焦りはいつか恐怖になると、知っているから。
恐怖なんざろくなもんじゃない。思い出したくもないことだが、俺はそれをよく知っている。
こいつを相手に何を焦る。それが分からない。
分からないが、事実だということは分かる。だから分からない振りをした。
馬鹿言ってんじゃねえよ。俺は嘲笑した。この笑い方をすれば、大抵の奴は神経を逆なでされて逆上する。こいつだってきっと。
そうじゃなかった。冷静だった。冷静なのか、呆れていたのか、それとも他の感情だったのか。俺にはよく分からなかった。だが、俺の予想以上に、目の前の海軍の野郎は感情を乱していなかった。
そして俺は自分でも訳が分からないほど、苛立った。
だからだ。
だから、敢えてこいつに酷いことを言った。
お前だって、もしも女がいたら嫌なはずだ。俺なら嫌だね。ヴェルゴのお古なんかとやる気になるもんかよ。
お古って何だよ、俺は女じゃねえ、と、煙か、溜息か分かりにくい息を漏らし、あいつは呟いた。俺はその声を聞きたくなかった。聞きたくなかったから言葉を重ねた。こんな俺は珍しい。自分でも分かるくらいに珍しい。
それに、お前みたいな野郎と何で俺がやろうってんだ。そこまで不自由してねえし、お前なんか趣味じゃねえ。わざわざ男とやるってんなら、せめてもっと小綺麗な奴と――ヴェルゴだって何を考えてお前にしたんだか。他にも青雉のお気に入りがいなかったわけじゃないだろうに。
ああ、ああ、と目の前のあいつは言った。うんざりだ、そんなふうに。それでも怒った声じゃなかった。手を振って、もうやめろ、聞きたくない、と俺に示した。
俺は驚いていた。今、俺はどうしてこんなことを言ったんだろう。何でこんなことを、一気に。ぶつけるように。
手の中の鼓動が響く。本当は俺の中の鼓動がばくばくと音を立てているのだと、俺は無意識のうちに認めるものかと足掻いていた。
あいつは言った。最終通告だと言わんばかりの冷たい声で。でもどこか、呆れた声で。
やるならさっさとしろ、上か、下か?
やらねえなら今すぐ心臓を返せ、暇じゃねえ。
手の中の鼓動が響く。
俺じゃない。
俺の鼓動じゃない。絶対に認めない。
「……ヴェルゴの時は」
「ああ?」
「ヴェルゴが相手の時は、お前、どっちだった」
「ああ」
下だよ。
目の前の軍人は苦笑いしながら言い、それから葉巻を深く吸って、煙をゆっくりとくゆらせた。
その煙の向こうにある目を一瞬見た俺は、今度こそ本気で腹が立った。
何だ、その目。
その。
子供を見るような。
「ちょうどいいや、俺は下になりたくねえから。慣れてんなら助かるよ」
「慣れちゃいねえよ、最後にやったのなんか覚えてねえくらい昔だ」
「ヴェルゴにどう仕込まれた」
「忘れたよ」
そう言いながら笑う男の顔は、いとも簡単に俺を怒らせた。
ああ、そうだな、あの女と入れ替わらせなくて良かった。俺だって女にはちょっとばっかり優しい。
「あまり」
手を伸ばしかけた俺に、男は静かに言った。
「昔の男のことなんざ、気にするもんじゃねえよ」
その、
子供を見るような――目。
腹が立った。本気で。
俺はこいつが大嫌いだ。
女みたいな柔らかさが欠片もない身体に歯を立てながら、何度も言った。
ムカつく野郎だ。殺してやりてえ。
やってみりゃあいいだろう、心臓はお前が持ってるんだ。
俺の乱暴な扱いでも息を荒げて、ヴェルゴによく仕込まれたことを隠しもしないこいつは言う。
だから俺はまた腹が立つ。
腹が立つ。苛立つ。大嫌いだ。ムカつく野郎だ。
殺してやりてえ。
本当に。
殺してやりてえよ。
心臓は俺が持ってるんだ。
俺が。
なあ、
お前の心臓は、
俺が持ってるってことを、忘れるなよ。
忘れるな。