副支店長がプライドに賭けて教えた観光名所やレストランの中に、キリコがシカゴに来た時によく足を運ぶ店があった。良い店だよとキリコが言ったので、じゃあそこに行きたいとBJは言う。一人で行っても良かったが、キリコにそんなつもりが毛頭ないことは分かっていた。BJ自身もキリコが一緒に行って当然だと思っていた。そんな自分を浅ましいと考えないように、少しばかりの努力が必要だった。
「先に食事?」
「そうしようかな。腹ごしらえしてから観光したい」
夜のシカゴには光と音が溢れている。行き交う人々の多くは生命力に溢れ、夜空を刺すような摩天楼の輝きの中で思い思いの時間を楽しむ。海風が少し冷たい季節になっても、人々と音、光の熱気がそれを忘れさせようとしていた。
店まではそう遠くない。二人で並んで歩いた。キリコが取り留めのない話を振り、BJがそれに答える形でたまに会話をする。この男はこういう気配りが上手い、とBJはこんな時にいつも思う。沈黙で気詰まりにならないように、だが過剰にならない程度の何気ない会話の空間を作り出すことが上手い。
「──ああ、そうだ」
食事の前に、とキリコが不意に言った。
「寄り道しよう。食事の前に行かないと閉館しちまうから」
「寄り道?」
「せっかく来たんだ。行って損はないよ」
BJが返事の言葉を考えている間にキリコは流しのタクシーを止める。ドアを開けてくれたキリコを見ると、何かを可愛がるような笑みを僅かに浮かべられた。
「当たり前の顔をして先に乗るといい。ドアを開けるのが当たり前だと思ってる男といる時はね」
BJはやはり返事ができなかった。自分が全く洗練されていない、不格好で醜い女なのだと思った。キリコがそんなことを思っているはずがないし、これは気障な男の隣に立つに相応しい、少しばかり上質な女であるためのレクチャーをしてくれだけだと分かっていても、根深い劣等感がこんな時に邪魔をする。
だがそれをキリコにぶつけるのは筋違いだ。後でキスをしてペットネームを捨てればまたただの他人、それどころか廃業を願う商売敵に戻る。そんな相手に劣等感を喚き散らして曝け出したところで何の意味があるだろう。そんなことをするくらいなら物わかりのいい女の顔で従ってしまった方が建設的だ。
「ええ、覚えておくわ。──スタッド、ちょうどいいわ、やり直しましょう」
「──いいよ、クッキー」
高飛車な女の顔と声音で恋人ごっこの再開を宣言し、タクシーに乗り込んだBJにまた可愛がるような笑みを向け、キリコもその隣にゆっくりと乗り込み、深くシートに沈んでドライバーに「シアーズタワーへ」と短く告げた。それがひどく格好良く、そして品良く見えて、ああ、この男は上流なのだ、とBJは思った。
当たり前のように手を取られ、男の膝の上で指を絡められる。恋人にする仕草なのだろうと知った。抵抗しようとは思わなかった。今は恋人ごっこの時間だ。手を取られても指を絡められても誰にも言い訳をする必要はなかった。
タクシーの中では特に話すこともなかった。賑やかで華やかな夜の街はアルコールが入っていないからか、先日ロサンゼルスで二人でタクシーに乗った時のように流れる夜景には見えなかった。あの時は少し距離が近くなりすぎた。肩を抱かれて窓の外を見ていた。そして今日、もしかすると──BJは思う。ロサンゼルスのあの時から、もしくはその少し前から、適正な距離を取れていない。わたしたちは少し近付き過ぎてしまったままだ。さっきだってあのまま電話がなかったら、きっとわたしはこの男に抱かれていたんだろう。
この男は危険だ。わたしを簡単に愚かな女にしてしまう。そして大切にされていると思わせてくれるたびに思い知らされるんだ。
わたしは醜い。こんなに上質な男の隣にいるべきじゃないって、きっと誰もが思うほどに醜い。スマートなマナーも知らない。男がタクシーのドアを開ける? 何それ? ビジネスの場なら分かるけど、でもそんなのわたしの世界にはないことだった。男がわたしに優しいなんて嘘だ。──いくら今が嘘だらけの時間でも、その中じゃ最高に質の良くてわたしを惨めにしてくれる嘘だ。
「百貨店のシアーズ。知ってる?」
「──え?」
物思いに耽りかけたBJをキリコの声が引き戻した。はっとして顔を上げると、死神ではなく優しく洒落た恋人の顔をした男がそこにいた。その向こうのサイドウィンドウに芸術のような縫い目を持ったツギハギの女が映っていた。ああ、醜い、と思ったが、顔には出さないようにした。キリコに恋人ごっこの再開を持ちかけたのは自分だ。台無しにするわけにはいかなかった。
「百貨店って言っても日本のスーパーマーケットのランクでね。でも世界最大規模の店舗数で、いわば大企業だ」
「ふうん」
「その本社ビルの103階まで上がれる。ちょっとした観光名所だから行っておこう」
「103階!?」
目を丸くしたBJの顔が可愛くて、そして驚かせた満足感にキリコは微笑む。
「日本じゃまだ60階が精々なのに!」
「サンシャイン?」
「そう」
「日本は地震の問題があるから設計と施工が大変なんじゃないか? シカゴやニューヨークは大地震の危険がない。超高層ビルでも心配ない」
「103階なんて地上何メートルなのか想像もつかない」
「シアーズタワーそのものは110階で、400メートルくらいだったかな」
「大気圏まで行けそう」
摩天楼が建ち並ぶシカゴの夜の街の中でも、シアーズタワーはひときわ高く夜空を貫いていた。ライトアップされた周辺のビルの光と共に夜を駆逐するかのような輝きを誇っている。正面玄関前でタクシーを降りたBJは思わず足を止め、悠然とそびえ立つ超高層ビルを見上げてしまった。
ぽかんとしたその顔にキリコが笑う。笑われたことに気づき、恥ずかしくなって照れ隠しに睨み付けたBJに、可愛いね、と小さな声で言った。途端にBJは唇を噛み、ふいと視線を逸らす。ロサンゼルスのバーで言われたこと、それから──ベトナムで言われたことを思い出し、意識的に忘れた。すぐにキリコはそれを見抜き、悪かったよ、とまた小さく言った。それが嫌だと思ったBJは、敢えて明るい声になった。少しでも好きな男といられる時間を楽しみたかった。
「スタッド、上に連れて行ってくれるんでしょう。早くシカゴの街を見下ろしたいわ」
「──そうだね。21時で終わるからもう行かないと」
キリコがごく自然にBJに向かって軽く肩肘を曲げる。それがどんな意味か分からないほど無知ではなかったが、BJはキリコを僅かに見上げてほんの一瞬目を合わせ、何も言わずに先に歩き出した。
キリコは僅かに溜息をつき、脚の長さに物を言わせてすぐに隣に並ぶ。洒落た死神にしては珍しく、BJが立つ左側の手を無作法にジャケットのポケットに突っ込み、肩を抱きたい衝動を堪えた。ボーダーラインを守って。距離を間違えないで。さっきのベッドは間違いよ。──女がそう言っているのだと分かったし、それがおそらく自分たちにとって正しいことなのだと思った。
光に溢れる摩天楼の街に相応しく、正面玄関も華やかにライトアップされていた。社名の入ったビル名が誇らしげに電飾で掲げられた大きなドアを抜け、閉館間近でも高層階からの景色を楽しみたい観光客のために解放されたエレベーターへ向かおうとする。
だがその手前でBJは溜息をついた。警備員に柔らかな言葉で、だが厳しい声で呼び止められたからだ。この見た目と人種だから、ともう慣れたことを思いながら口を開こうとしたら、キリコが「黙ってて」と小さく日本語で言った。
「失礼、ちょっとした質問だけです。形式だと思ってくれれば」
BJに声をかけた直後、警備員は半歩前に出たのが背の高い白人だと知り、やや怯みを見せた。分かりやすい世界ですこと、とBJは皮肉なことを思う。一日に二度もこんなやり取りをするのは流石に珍しかった。
「私たちが何か?」
キリコの声は決して非友好的ではない。だが不当は許さないという意思が伝わる声音であることは確かで、警備員の居心地を悪くし、エレベーターへ向かう観光客たちの目を集めずにはいられなかった。BJは何も言う気になれなかった。この男には分からない──そう思った。キリコにはきっとわたしの気持ちなんか分からない。正しいけれど誰もが嫌な気持ちになる正義感。この男を愛してる。でもこういうところは──ううん、嫌いじゃない。こういうところもきっとわたしは好き。
でも、わたしはこんなことをしてもらうたびに惨めになる。
「そちらの女性、その──観光?」
「観光だよ。彼女は日本人、パスポートもビザもある」
「確認していいですか」
「私の社会保障番号カードも必要だね」
「いえ、あなたは──」
「これ。早くして」
キリコの正義感と好意を無駄にすることは分かっている。だが今の空間がとても嫌だ。だからBJは素早く証明書を出し、警備員に突き出した。キリコが眉をひそめたが、この空間を作り出したことを後悔していた警備員が物も言わずにやはり素早く受け取り、ろくに確認もせずにBJに返した。それからキリコが口を開く前に早口で言った。
「仕事なんです。悪く思わないで」
「分かってる。慣れてるから平気。お仕事ご苦労さん」
「ありがとう。──慣れてるなんて言わせて悪かったよ。楽しんで」
「ありがとう」
BJは頷き、先に歩き出した。キリコは大きく息を吐いた後、警備員を一瞥してその後を追う。警備員は溜息をつき、仕事に戻った。ヒスパニック系である自分にもかつて彼女と同じ経験があった、と苦々しく思い出していた。自分がそんな思いをさせる側になるとは──だが同時に、彼女には守ってくれる人間がいるのだ、と少しばかり羨んだ。
「先生、待って。少し考えるんだ。自分の権利を主張しないといけない時もある」
「誰もがそうしたいわけじゃない」
「何だって?」
「銀行でもそうだったし、今も。守ろうとしてくれてありがとう。でも──」
でもキリコが守りたいのはわたしの権利じゃなくて、キリコの正義なんだと思う──だがそれを口にすることはできなかった。この国で、そして倫理としてこの男が正しいことがよく分かっている。だからこそ言えないこともある。仕方なく別のことを言った。
「よくあることなんだから、いちいちあんなことで時間を取られたらもったいないと思わない? 早く上に行って景色を見たい。せっかく連れて来てもらったんだから」
この時代のこの国じゃ見下される人種の上にこんなに醜い女なんだから、不審に思われても仕方ない──その思いを、あるいは諦めをキリコに伝えても理解してもらえるとは思えなかった。
守られるたびに惨めになるの。それを言うわけにはいかなかった。彼は正しい。そうだ、自分だってきっとキリコが不当な扱いを受ければ同じように口を開くだろう。そういうことだ。
キリコは明らかに溜息を押し殺す様子を見せた後、分かったよ、と言った。それでいいとBJは思った。
簡単に展望台まで上がれるわけではなかった。セキュリティやチケット購入のために何やかやと時間を取られる。全てキリコが手配してくれた。途中でBJの外見に好奇の目を向ける者もいたが、大きなトラブルに発展することはなかった。
閉館間近の展望台へ向かうエレベーターは駆け込みの観光客で混んでいた。否応なしにキリコと身体が密着し、BJはつい俯いて唇を噛む。ベッドで感じた体温を思い出しそうだった。
押し潰されそうな空間の中、指先にキリコの指が触れた。あたたかかった。握られることも絡められることもなく、避けられることもなく、触れるままにされている。だからBJもそのままにしておいた。これだけで嬉しい。寂しいと思うことが間違いなのだと自分に言い聞かせた。
気圧差に鼓膜の変化を感じて誰もが耳抜きをする頃、地上よりも空に近い場所に到着するエレベーターに吐き出された先は展望台だ。そして誰もが感嘆の声を上げた。
「──すごい」
一日の全てを忘れた気がした。BJはそれしか言えなかった。シカゴ中の街の光が洪水となって足元からせり上がり、闇と共に自分を飲み込んでしまうのではないかと錯覚した。光の海の向こうには深く彩られた青い水の世界がある。それがミシガン湖だと思い出す前に白い霧が流れ、光の海と青い湖畔を幻想のように駆け抜けて行く。雲が高層の世界を通り過ぎたのだ。
キリコが窓の壁際へ連れて行ってくれた。BJは言葉もなく光の洪水を眺める。闇すらも飲み込む光は全て人間の作り出したものだと信じられないほどあたたかく、その中で生きる人々の悩みなど何の意味があるのかと思わせてくれた。どれほど深い意味があっても忘れてもいい時があるのだと思えた。
「連れて来てくれてありがとう」
キリコを見上げ、笑って素直に礼を言えた。キリコは微笑み、黙って女の額に唇を落とす。拒む気になれず、わたしはこういうシチュエーションに弱いみたい、とBJは自分で自分がおかしくなった。
展望台の中には小さなバーカウンターもある。夜景を見ながらカクテルを楽しむ客も多い。運よく窓際の席が空いていた。食事前に1杯だけ飲むことにした。
「何にする?」
「選んで」
「──ちょっと待ってて」
カウンターで酒をオーダーするスタイルのため、キリコがBJを待たせてその場を離れた。どんなカクテルを選んでくれるのだろうかと楽しみになりながら、BJは光の洪水の夜景に目をやった。窓ガラスに映る女は相変わらず醜いと思ったが、それでも楽しそうな顔をしていることに気付いてつい笑った。一日の中で起きた不愉快な出来事を、溢れる光が飲み込んでくれたような気がした。この後の食事も楽しみだと思えて、それも嬉しくなった。
「先生?」
不意にかけられた声はキリコではなかった。驚いて顔を上げると、そこに同じように驚いた顔をしている男がいた。昼に手術をした患者の家族だ。手術の後、典型的な上流階級の白人はBJにあっという間に熱を上げ、家族の驚愕を尻目に熱烈な求愛をした。
驚いた顔の後、すぐに彼は喜色を満面にたたえた。ああ、嫌だ──BJは思う。勘違いした男の求愛なんて。この後わたしはまた惨めな思いをさせられる。
「今日はありがとうございました。父が元気になれるなんて」
「どうも。あまり私と話さない方がいい。依頼以外で関わる相手じゃありませんぜ」
「そうおっしゃらず。ここにはよく来るんです、ご存知の通り家が近いから。──座っていいですか?」
「連れがいる。ご遠慮下さい」
窓の外に目をやったままにべもなく応えたBJの態度にもめげず、男は肩を竦めて笑ってみせた。
「じゃあ少しだけ。──昼に先生に言ったことは嘘じゃないんです」
BJは何も言わず、光の洪水だけを眺めていた。窓ガラスに映る女が急に無表情になっていた。好きな男が戻るまでには機嫌を直せよ、と心の中で彼女に言い聞かせた。
昼にこの男に言われたことなど思い出せない。多くの男から、あるいは女から、似たような言葉をいくらでも聞いているからだ。あなたを好きになった、あなたを医者ではなくひとりの人間として、もっとあなたを知りたい──そのたびににべもなく断り、それで引き下がる相手にはそれ以上何も言うことはない。引き下がらない相手が厄介だ。一方的に押しつけられる感情に戸惑い、そして不愉快になり、最後に彼らが思い出した時には惨めになる。思い出した時──目の前の医者は医療の舞台を降りれば醜い女だということを思い出した時。
「先生、今すぐじゃなくてもいい。日本に帰っても連絡をしたい。たまに電話をしたり──」
男は勝手に喋っている。熱の籠もったその声が、そしてその視線が、あとどの程度の時間で冷えたものに変わるだろうかとBJは考える。この場を立ち去ったところで勝手に付いて来ることも明白で、それなら一方的に喋らせて、一方的にいなくなる時を待った方が楽だった。慣れている。見た目と人種で差別されることも、勝手な感情を押しつけられ、押しつけた感情を目の前で捨て去られることも。
ああ、でも──不意に思い出した。でも、早くいなくなってもらわないと。キリコが戻ってくるし、カクテルを飲みたいし、食事にも行きたいし。
男の言葉は止まらない。一方的に作り上げた理想の女の姿を褒めそやし、大切にすると臆面もなく宣言し、聞こえた周囲の席の観光客たちが面白そうに振り返っては愛の言葉を受けている女の傷に驚いて目を逸らす。男が多少気が済んだ隙を狙い、BJはゆっくりと顔を男に向けた。やっと視線をもらえた男は嬉しそうな顔になったが、その前でかきあげられた前髪の下の傷と皮膚を見て明らかに強ばる。ほら、言わんこっちゃない──BJはこみ上げる笑いを堪えながら髪を戻し、それから静かに言った。
「お会いした時から見ていたでしょうに」
「いえ、その──忘れるくらい、何もかも先生が素晴らしかったから──」
「身体中もこんなものですよ。皮膚の色が違うのは顔だけですがね。私としては気に入っている色なんですが、想像できます?」
「想像?」
明らかに自分の中の瞬間的な熱の冷めように困惑し、早くこの場を立ち去りたいとまで思っている感情を浮かべる男は、それでも礼儀として聞き返す。BJは内心でその態度を褒めてやった。この手合いの中ではまだわたしを人間だと思えているようだ。ほとんどはもう逃げるように立ち去る連中ばかりなのに。
「こんなツギハギの女を抱くこと。日常生活で、それから社交の場で、パートナーとして隣に立つこと」
男は答えない。明らかに言葉を探している。悪い奴じゃないな、この階級の白人様にしちゃ珍しく差別的でもないんだろうな、と思いながら、BJは救いの言葉をくれてやった。
「お父様にはお大事にと。さよなら」
「──ありがとうございました。さようなら」
最後の礼儀としてだろう、差し出された手をBJは握らなかった。察して手を下げた男は自己嫌悪に塗れた顔を隠し損ね──この時代にしちゃ倫理観がそれなりにニュートラルな奴なんだろうなあ、感情と一致しないってのは大変なもんだ、とBJに思わせる態度だった──不快な思いをさせたに違いない女に背を向けてエレベーターホールへと歩き去った。BJは溜息をつき、窓の外を見る。雲が霧となって光の洪水の中を通り過ぎて行った。綺麗だと思った。だから周囲の好機と侮蔑の笑い声を気にしないでいられる、と自分に言い聞かせることができた。
「今のは?」
テーブルにカクテルが置かれた。入れ違いにキリコが戻って来たのだ。
「見てたのか」
「声をかけようとしたら彼が行っちまったんだ。何かトラブルでも?」
言いながらキリコは好奇の目を向けたままの周囲に目をやった。気付いた彼らはあっという間に視線を逸らし、まるでBJたちの存在など忘れたかのように振る舞い出す。
「昼の患者の家族が挨拶に来た。それだけ」
「本当に?」
「これは?」
その話は終わりだという宣言の代わりにカクテルの説明を求める。キリコはBJを見つめた後、静かに頷いてスツールに座り、BJの前に置いた透明なのにあたたかい光のような色のカクテルの名前を教えてくれた。サザン・スパークルと聞き、知らない、とBJは呟いた。この男は本当に色んなことを知っているんだ──そう思った。
「フルーツリキュールとジンジャーエール、それからパイナップルジュースとレモンジュースをステアするんだ。食事前にちょうどいいよ」
「美味しそう。キリコのは?」
キリコのグラスにはスライスしたライムが沈んだ透明度の高い液体が満たされていた。ソコ・ライム・トニック、とキリコは言った。
「何が入ってるの」
「先生のカクテルのジュースをトニックウォーターとライムジュースにしただけ」
「そっちも美味しそう」
「そうだね。──クッキー、話を聞かせて。言えることだけでいいから」
恋人同士の顔をすれば言えることがある。もはや二人はそれを理解している。だからこそ今、キリコはそれを口にした。BJは静かに「ねえ」と言った。
「スタッド、その前に訊きたいのよ」
「何でも」
「わたしから話を聞いてどうするの」
「正しくないことがあれば正すよ」
「わたしのために?」
「もちろん。俺のためでもある。銀行でも言っただろう。自分の女を侮辱されるのは、俺が侮辱されているのと同じ意味だ」
「そう」
「そうだよ」
「ごっこ遊びにしては重いわ。わたしはあなたの女じゃない」
静かに、だがすぐに言われたその言葉にキリコは返事をしなかった。ゆっくりとカクテルグラスを口に運び、BJから見れば恐ろしくいい男の仕草で唇を湿らせる。
「じゃあ」
キリコの声も静かだった。窓の外に目をやる男に釣られ、BJも外の光の洪水に視線を移す。光の洪水を見ていたはずだったのに、窓ガラスの中の二人は視線を交わし合っていた。そしてキリコは小さく言った。
「全部捨てろ」
仮初の優しい恋人の声ではなかった。窓ガラスに映る男のそれは明らかに真実の声だった。ガラスの中で視線を合わせたまま、男は続けた。
「俺の女になれよ」
光の洪水にその声が沈んでしまえばいいのに。BJは思った。窓ガラスの中の女が唇を噛み、眉をひそめた。醜い女だ。そう思った。彼女が何かを言えるようには見えなかった。
今にも泣きそうだったからだ。
だから自分が話さなくてはならなかった。彼女よりは冷静に話せるはずだ。だってわたしは泣きたいことなんてなくて──そのはずなのに。
「あんまりじゃない?」
そのはずなのに、泣き声になったことが不思議でたまらなかった。窓ガラスの中の男が視線を外して眉をひそめた。それが女を泣かせた自己嫌悪からのものだとBJには分からなかった。ただ、きっとこの後、キリコがごめんと言うのだろう、言ってくれるのだろう、そして今までの不穏な時間を埋めるように素晴らしいエスコートをしてくれるだろうと予想した。願望なのかもしれなかった。
キリコは言った。
「謝らねえよ」
今日会って初めて、キリコはBJへの気遣いと上品な男の顔を捨てた。謝罪の言葉で全てをなかったことにしたがった女を逃がそうとしなかった。
「他に何ができる。──どんな方法がある?」
俺は捨てない。捨てられない。愚直なまでに自らの生き方を貫く死神は呟いた。
「ひとつしかない」
わたしだって。愚直なまでに自らの生き方を貫く天才医師は言った。わたしだって捨てられない。
ならば二人に残された方法はひとつしかなかった。どちらかが口にすれば全てが解決するたったひとつの方法を、それでも二人は口にすることができなかった。躊躇う程度には愛しているし、愛されていると知っていた。
もう会わない。こんな遊びをしない。
どちらかがそれを言えばいい。だが口にすることができなかった。
「権利なんてどうでもいい」
BJは言った。呻くような声だった。銀行から、いや、ロンドンで初めて自分のために抗議をしてくれた時から思っていたことだ。今話すべきかは分からなかった。だが止められなかった。まるで正気に返ったかのような態度で立ち去ったさっきの男まで思い出した。気分が悪い。一口も飲んでいない酒で悪酔いをしたことにしてしまいたかった。
「庇われるたびに惨めになるわたしの気持ちなんて全く考えないで、自分が気持ちいいばっかりの男に何が分かる」
「不当な扱いを受け入れる先生がどうかしてる」
「そんなのキリコの思い込みだ」
「いつもどんな顔をしているか分かってるのか」
「鏡を見て歩き回る馬鹿がどこにいる?」
「いっそ馬鹿になりゃあいい。言われることには慣れている、だから傷付いちゃいけないって顔をして。それって」
それって、傷付いているってことだろう。キリコは言った。周囲の迷惑にならないほど小さくても、二人の距離なら充分に聞こえる声だった。
「それとキリコがしゃしゃり出ることに何の関係がある? 正義の味方の真似をして気持ちよくなりたいだけなら他のアジア人の女を探してよ」
「──本気で言ってるわけじゃないのは分かってるが不愉快だ。二度と言うな」
「本気って言ったら?」
「想像してみろ、って言うね」
俺が他の女に同じことをしている姿を想像しろよ。キリコは言った。想像するまでもなかった。筋違いの──筋違いだと信じなければならないとBJは自分に言い聞かせた──嫉妬が沸き上がっり、胸の奥で熱く渦巻く。ひどい。そう思った。
「ひどい」
「先生ほどじゃない」
「諦めさせてもくれないわけ?」
「こっちの台詞だよ」
「大嫌い」
「好きなくせに」
「どうしてそんなこと言うの」
BJは必死で泣くまいとする。涙は辛うじて目尻でとどまった。窓ガラスの向こうの光の洪水が目に痛かった。シカゴの街の光がぼやけた。周囲の観光客たちは楽しそうだ。どうしてわたしはこんなところでこんなこと──自嘲する気にもなれなかった。だからキリコに言葉をぶつけた。
「どうしてわたしに、嫌なことをさせようとするの」
「嫌なこと?」
「戦わせようとしないで。惨めにさせないでよ」
慣れてるって思わせてよ。呻くBJの姿を見て、キリコは雷に打たれたかのような衝撃を得た。BJは続けた。きっともう、今しか言えなかった。この男に言っても仕方ない──そう思ったのはつい数時間前だ。だがここまで二人で踏み込んでしまった以上、言わずにはいられなかった。
「正当な権利なんてどうでもいい。戦わなくたっていい。侮辱される義務なんてないけど、いちいち戦っていたら切りがない。今日だってもう三回も。シカゴに一日いるだけでこれだもの」
「三回?」
銀行と入り口の警備員だけじゃなかったのか、とキリコは問う。関係ない、とBJは吐き捨てた。
「醜い傷を持った黄色人種の女が侮辱されるたびに、上流階級のハンサムな白人男性が颯爽と現れて助けてくれる。めでたしめでたし。──わたしはちっともめでたくない」
だって。BJは言った。口を挟もうとしたキリコを封じるためでもあった。今は男の言葉を聞きたくなかった。
「すぐに離れればすぐに忘れられる。だからそこにとどまって戦いたくない。他のことを考えていたいし、惨めな現実を思い出すなんてもううんざり」
「先生、分かった。俺の気持ちはひとまず置いて、──話をしてくれてありがとう。だから俺の話を聞いて」
「まだ話してる。アメリカ人のディベート文化に付き合ってやる筋合いなんかない」
分かった、とキリコは頷いた。BJよりも早く冷静さを取り戻していた。そして少し前の自分を呪った。感情に流されて、言う必要のないことを言ってしまった。
BJは続けた。もう泣き声ではなかったが、キリコの後悔を抉る程度には悲痛なものだった。
「わたしは醜い。黄色人種だから醜いんじゃない。言いたいことは分かると思う」
「同意できないけど理解はするよ。そう思いたがることに限ってね」
「勝手にして。それからキリコはいい男だ」
「ありがとう」
「ベトナムで戦傷を負った英雄で、上流出身のハンサムな白人でプロテスタントだ」
キリコは思わず言葉を失い、まじまじとBJを見つめた。それで全てを理解した自分を殴りつけたくなった。否、今まで理解していなかった自分を殴りつけたかったのかもしれない。ほら、言わんこっちゃない──相手は違えど今日二度目のそんな感情を抱きながらBJは続けた。
「そんな男に気持ちよく庇われる女が醜いなんてどんな冗談? 出来の悪いコメディよりももっと酷い」
「──先生、待ってくれ。そうじゃない。──そうじゃないよ」
「そうじゃないって、一体、他の誰が分かる? わたしに分かるのは──」
どうしてあの女が隣にいるんだろうって思われる、惨めな感情だけ。BJはそう言った。宣言にも等しかった。
そうだ、宣言だ。
おまえは何も分かっていない。わたしの劣等感なんて分からない。容姿のことでどれほど、どれほど、神への芸術の敬意と、それを理解できない人々の目の間で苦しんでいるか、悩んでいるか。
「本間先生の芸術を消すつもりなんてないし、これはわたしの誇り。でも、──でも」
苦しいと思う気持ちも本当で、それは人として当たり前だと思う。哀しい思いをしたらやり過ごしたいと考えるのは当たり前だと思う。
そう言うとキリコは静かに頷いた。相槌ではなく、それがBJの考えだと理解した頷き方だった。だからBJはこの男を憎めず、嫌いにもなれないと思ってもどかしい。もどかしさに泣きたくなるほどに。
「わたしはわたしを守りたいから、戦わない。それが間違ってるなんて思えない」
「言い訳をしたい」
「『俺は間違っていない』って?」
瞬時に決めつけて、撥ね除ける。これは自分の悪い癖だ。分かっている。だがこうでもしなければ自分の心を守り切れない瞬間を経験し過ぎていた。だがキリコは撥ね除けようとした女の言葉を丁寧に受け止め、丁寧に返した。
「先生は間違っていない。でも俺も間違っていない」
「──話は終わりだね」
ここまで卑怯な言い方をするキリコを見たのは初めてだった。いっそ新鮮で、そして絶望する。だがそれが早急すぎる結論だと理解できたのはキリコの次の言葉のお陰だった。
「違う。話し合えるし、分かり合える部分だ」
「まさか。頭がおかしくなった?」
「人生を賭けて貫き通したい価値観ってわけじゃない」
何を言われているのか分からないはずがなかった。愛し合わないと決めた理由だった。天才外科医と安楽死医の、譲れない、交わらない道を生きるから愛し合えない。理解しているからこそ、それでも諦め切れないからこそ、二人でこんな時間を過ごし続けている。ペットネームを使い捨てて、その場限りの恋人遊びを今にも踏み越えてしまいそうなボーダーラインの上で──そんな関係で良いのだと納得し合っていたはずだった。
話し合う、分かり合うという言葉に、納得し合っていたはずの何かが崩れるのではないかとBJは不意に思った。だって、と思った。だって、──だって話し合うなんて、分かり合うなんて、そんなの──まるで喧嘩をした恋人同士みたいなこと──
「先生が傷付けられた時に俺が怒るのはおかしいことか?」
「その訊き方は卑怯だと思う」
「だったら、俺は先生が傷付けられたら怒るとしか言えない」
「──何も解決しない」
「じゃあ先生は、先生が傷付いた時、好きな男に庇われなくても哀しくないのか」
BJはキリコを見た。残酷な言い方だ、と思ったからだ。やがてキリコは「ごめん」と小さく言った。いいよ、とBJは言った。そして付け加えた。
「キリコは、好きな女を庇わなきゃいけないと思う?」
「俺は旧い男なんだ」
「旧い?」
「好きな──」
そこでキリコは一度言葉を切り、黙った。好きな女、という言葉を飲み込んだのだとBJは知る。自分とて好きな男とは口にしていない。何て不自由で馬鹿な真似をしているんだろう、と思った。──わたしたちは何て馬鹿な真似をしているんだろう。
「人生最後の女が傷付いていたら、守りたいと思うのは当たり前だろう」
何を言えるだろう。何を言うべきだろう。分からなかった。BJは唇を強く、血が出るのではないかと思うほど強く噛み、ずるい、あんまりだ、という言葉を必死で堪えた。
好きだと言えない女に向かって人生最後の女だと告げる。こんな残酷なことがあるだろうか。ロンドンを思い出す。愛するなと突き放された直後に愛していると言われた時と同じほどに残酷だ。
何て残酷な男なの。何て自分勝手な男なの。なじってやろうと思った。口を開いた。それなのに声が出なかった。出たのは涙だけだった。キリコが手を伸ばし、涙を拭ってくれた。この手を取って頬に当てたかった。きっとそうしてもキリコは拒まない。だが最後の理性がBJを押しとどめた。今は冷静ではないからと自分に言い聞かせた。
「キリコ」
「うん」
「今日は帰る。連れて来てくれてありがとう」
「──分かった。帰ろう」
「一人で帰りたい」
今回はこれで別れよう。BJは言外にそう告げた。理解したキリコはしばらくBJを見つめた後、そうだね、と言った。
スツールを降り、BJはもう一度窓の外を見た。相変わらず足元から光が溢れかえり、見下ろす摩天楼の中で繰り広げられた愚かな男女の恋など何の価値もないもののように飲み込もうとしていた。飲み込んでくれればいいのに。そう思った。
展望台からは一人でエレベーターに乗った。降りるとあの警備員がいた。彼はBJに気付き、少しばつが悪そうに、だがそれなりに友好的に軽く手を挙げた。BJは軽く手を振っておいた。キリコがいないことを不思議がるかもしれないが、警備員として当然だろうと考える。案の定、彼の前を通る時に呼び止められた。先ほどのような警戒心の声ではなく、ごく穏やかに、むしろ何かを心配するようなもので、この男はいい奴だ、とBJに思わせてくれた。
「どうだった? 最高だったろ」
「とっても。こんな景色は初めて」
「それなら良かった。──あの、彼は?」
ほらやっぱり、とBJは自分の予想が当たっていたことに満足した。不愉快にも哀しい気持ちにもならなかった。肩を竦め、「上で別れた」と曖昧な言い方をしておいた。驚いた顔になる警備員に笑いかけ、正面玄関へ向かった。観光客を当て込んで待っているタクシーを拾うつもりだった。
だが正面玄関を出たところで足を止め、つい溜息をつく。たまにいるんだ、勘違いした奴が──自分で自分に教えてやった。勘違いした奴。ブラック・ジャックという人間を恋愛対象として見てしまう奴。
「先生」
帰ったはずの男はずっと正面玄関前で待っていたのか、BJを見つけた途端に駆け寄って来た。
「お父様の看病を」
「ナースが常駐していますし、帰ったら必ず。どうしても先生ともう一度話したかったんです」
BJは隠すことなく溜息をつく。また前髪を思い切り持ち上げてやった方がいのだろうか、とまで考えた。シアーズタワーから次々に吐き出される観光客たちが、夜景の余韻に浸って自分たちを見ないことが有り難いほどだった。
「先ほどは失礼しました。どんな言い訳も許されないかもしれない」
「別に。気にしてくれなくて結構ですよ」
「頭が冷えたんです。確かに私たちの間には色んな問題が生まれるでしょう」
私たち? おまえさんの沸いた頭の中だけだろうさ──口にすることはなく、BJはタクシーへ向かって歩き出そうとした。だが男はそれを遮る位置に回り込む。一瞬怯み、つい足を止めたのが悪かった。男は勝手に話し出した。
「先生は確かに傷があります。それを理由に色んな経験をしていると思う」
「あまりそういう話は──もう行きたい、どいて下さい」
「お願いです、時間を下さい。──でも考えたんです。私ならその傷も受け入れられる」
BJは男を見上げた。何て美しい言葉を吐く男だろう。あの男とは大違いだ。そうだ、あの男はさっき自分が言いたいことしか言っていなかった。ずるくてあまりにも酷いことばかりを言った。それに比べてこの男は何て──
「先生がその傷を気にするなら、私は決してその話をしない。容姿に触れられたくないなら我慢します」
「──我慢?」
何て──
「私が先生を綺麗だと思う時にも、先生が嫌なら言いません」
何て美しい夢を語るのだろう。
見上げるBJに向かって男は微笑んだ。まるで驚いた女を慈しむような笑い方に、この男は本当に育ちが良くて、そして優しいのだろう、と知った。だがその笑い方を好きになれそうにない自分に気付いた。
彼はまだ夢の中にいるのだ。明るい朝日の中でわたしを見れば、きっとこの彼は後悔するだろう。さっき逃げ出したようにまた逃げてしまうのだろう。
わたしは醜い。どうしてそれをすぐに理解してくれないのだろう。時間が経てば経つほど、わたしは惨めになるばっかりなのに──わたしの前から慌てて逃げ出して、次の女を探しに行くに決まっているのに。
その瞬間だった。小さな悲鳴を上げるほど強い力で抱き寄せられた。誰かなどとすぐに分かった。彼のにおいを覚えている自分が滑稽だと思いながら、それでも泣きたいほどに──
「俺の女に何の用だ」
泣きたいほどに、嬉しかった。
洒落た言動で粋な自分を演出することが得意な男が、二流の映画の登場人物のような台詞を口にしている。それでも嬉しかった。嬉しいと思いたくなかったのに嬉しくて仕方なかった。
「この女を」
視界の端にあの警備員が映ったBJはキリコの腕の中で顔を巡らせる。持ち場を離れてしまっているだろうに、正面玄関の手前まで出て来てこちらを窺っていた。BJの視線に気付き、少しばかり苦笑してまた持ち場へと戻って行った。彼は一体何を──戸惑うBJの頭上から、好きな男の声が聞こえた。
「人生最後の女にする覚悟があるなら、俺から奪え」
あの警備員がエレベーターを降りたキリコを見つけ、急いだ方がいいかもしれないよと教えてくれたのだと言う。親切な警備員もいたもんだ、とBJは笑い、全くだ、とキリコも笑った。そして腕の中におとなしく身を預ける女にキスをした。
「みっともない真似をした。恥をかかせてごめん」
行き交う観光客たちに気にされていないと思っていたのに、それでも見ていた数人に囃し立てられた。安い映画のちょっとした盛り上がりを楽しんだ彼らの無責任な声の中、今度こそあの彼は立ち去り、BJとキリコは足早にタクシーに乗り込まなければいけなくなった。
「そんなことない」
確かに嬉しかった。だから、嬉しかった、と小さな声で言った。キリコは答えなかったが、抱く腕の力を強くした。
アテンダントが慣れた様子で酒と料理を置き、ベッドで肌を重ねるような深さでソファに沈む男女の前から音もなく姿を消した。この店はそんな客しかいなかった。
副支店長が教えてくれたシカゴを楽しめる場所のひとつには随分と閉ざされた店があった。流れるジャズはシカゴの名物、その中でも敢えて穏やかで静かな曲を流すフロアはいくつにも仕切られ、ふたりの時間を過ごしたい人々に秘めやかな空間を与えてくれる。
「シカゴでよく来る店ってここ? こんな店に誰と?」
「初めて来たよ」
俺が行く店はまたの機会にしよう、とキリコは言った。BJは頷いた。その機会が訪れるのかどうか、それはどうでも良かった。
酒も料理も二の次で、何度もキスをした。どうしても呼びたくなった。だから、スタッド、と呼んだ。何ひとつ解決していないと分かっていながらまた嘘の恋人同士の顔をした。
キリコもまた何ひとつ解決していないと分かっていながらBJの望みをかなえた。それが自分の望みと同じだと知ったからだった。
「クッキー」
あとどれほどもしないうちに捨てるはずのペットネームで呼ばれる。それでも良かった。低くて甘い声に呼ばれる幸福が甘美な痺れのように全身に広がっていく。抱いてくれる腕があたたかい。
「ごめんね」
「──何が?」
普段の自分なら眉をひそめてもおかしくないほど甘えた女の声になってしまう。キリコが少し笑い、可愛いね、と言ってくれた。嘘のように嬉しかった。この男にそう言われて、初めて嬉しいと思えた。ベトナムで言われた時は怖かった。チェコスロバキアでは言いたいのに我慢していると言われた。今は言われて嬉しかった。不思議だったし、もう分かっていた。──わたしたちはもう、離れたくないと思ってる。そう思うたびに、今日のような哀しい感情のやり取りをしなくてはいけないかもしれないとしても。
「やっぱり俺は変えられない」
何を、とは訊かなかった。きっとこれからもこの男は、わたしが侮辱されたら怒るのだろう。わたしと自分のために怒るだろう。それが分かった。本当はそれが幸せだと思うべき立場なのだとも。そう思えない理由があっても、今は静かに頷いておいた。
変えられないことがそれだけではないとも分かっていた。それは自分も同じことだ。それがあるからこそ愛し合えないのだから。
「でも」
キリコは言った。おまえは俺の最後の女だよ。
BJは言った。愛してるわ、スタッド。嘘にまみれた遊びを装って、嘘の呼び名を借りて真実を言った。そうだね、クッキー、俺もだよ、愛してる。そう答えてくれることを願った。
そしてキリコは願いをかなえてくれた。
その後に与えられた少し深いキスを、しばらく忘れられないだろうと思った。