※当サイトの時代設定である80年代、一部の国において特定層に対する差別意識は現代より強かったという認識です。
※作者本人に差別賛同の意識はありません。作品上の表現であることをご理解の上でお読み下さい。
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患者に求愛を受けることは珍しくない。患者の家族も同様だ。こんな見た目の女を相手に悪趣味なもんですな、と自嘲半分でかわすことにも慣れた。神の指に命を救われて高揚しているだけだ。BJはそう思っていた。
──熱が冷めれば目の前にいるのはただの醜い女なんだ。まったく、熱が冷めた時に目を逸らされるわたしの身にもなって欲しいよ。
多額の報酬は一括払いだった。日本円にすれば1000万円、そこそこだ、と思いながら帰路につく。患者の家族がホテルまで来るまで送ると申し出たが、BJはタクシーを拾うと言って患者の家を出た。病院の手術室を借りる手配ができず、自宅である金持ち御用達の高層マンションでの手術になったが、成功したのだからそれで良かった。
夕暮れ時のシカゴの街並みは壮観だ。特徴的な高層ビルが建ち並び、ビルの合間を太陽がすり抜けるように沈んでいく。観光客と地元の人々が楽しそうに大声で話しながら行き交うメインストリートにはジャズとブルースが流れ、短い秋の中に忍び込んだ初冬の冷えた空気が人を酒房へ追いやろうとしていた。
少し飲んで行くのもいいかな──BJは考えながら取り敢えず銀行へ向かう。大金を持って歩き回りたくなかった。時間を見ると17時半だったが充分に間に合う。この国の銀行窓口は日本と違って18時まで受け付けてくれるのが有り難い。
正面玄関から行内へ入ろうとすると、露骨に顔をしかめた警備員に止められた。怪しい風体ですまないね、と思いながら反抗せず、ボディチェックを受ける。二言三言質問され、金を日本に送金しに来ただけだと言うと、また露骨に顔をしかめられた。今度は「ジャップかよ」堂々と侮蔑の言葉を吐かれたが、気にするほどではなかった。
「日本人は好きじゃないんだ」
「好きで日本人に生まれたわけじゃない」
「金にあかせて下品な旅行をしやがって」
「それは私のせいじゃない」
傷だらけの女の否定に警備員は眉を跳ね上げかけたが、BJは僅かに付け足すことによってそれをとどめた。
「でも、確かにそうだろうね。下品な真似をしないようにするよ、忠告をありがとう」
「──もう行け。送金窓口は5番だ」
「ありがとう」
同意されることによってそれなりに溜飲を下したのか、警備員はそれ以上絡もうとしなかった。BJは送金窓口を教えてくれた彼の親切の方を覚えておこうと決めた。
終業間近の銀行はそれなりに混雑していたが、送金窓口の行員たちは既にカウンター奥のデスクへ入り、帰りたい風情で手元を緩慢に動かしている。待っている他の客もなく、BJの手続きはすぐに終わるだろう。
「送金をお願いします。日付処理は明日でいいから」
窓口に一番近い場所にいた白い肌の女性行員が面倒そうに振り返り、そして警備員よりも露骨に大きく顔をしかめた。慣れてる、とBJは自分に言い聞かせる。必要事項を書く用紙をくれるかと思ったら、立ち上がりもせずに行員は言い放った。
「今日はもう終わったわ。さようなら」
「まだ6時(米国は軍隊以外12時間表記)になってない。頼む資格はあると思うけど?」
「日本人でしょ。変わったメイクね」
「お褒めに与りまして」
「明日、日通に行けばいいわ。敷地内に銀行があるはずよ。ニップ向けだから分かりやすいでしょう」
日本人向けの通運サービス会社の名称と、日本人へ対するやや古い蔑称を口にし、いかにも親切をしてやったでしょうというわざとらしい顔をしてから、彼女はまた自分のデスクへ顔を戻した。BJは溜息をつき、他の行員が対応してくれないだろうかとカウンターの奥を見て、「誰かお願いします」と声をかける。誰一人返事どころか視線を向けようとしなかった。
もう一度溜息をつき、今日はホテルに戻っておとなしくしているしかないかと諦めかけた時、隣からいやに身体を寄せてきた男がいた。どけってことかよ、と腹を立てながらも避けようとしたが、その前に腰を抱かれた。わざとらしい悲鳴を上げるか殴りつけるか一瞬迷った時、その男はカウンターの向こうへ声をかける。
「失礼、送金を頼みたい」
「──ったく」
BJは三度目の溜息をついた。戸惑いを隠すためだった。どうしてキリコが、と思いはしたが、どうせ私たちはこんな偶然でしか会わないのだからと思い至り、素直に喜べればいいと願った。キリコがここに安楽死の仕事の関係でいるのであれば喜ぶことはできなかった。
「あら、ええ、どうぞ」
身なりのいい白人男性に対しては業務を遂行すると態度で示し、行員は用紙を手に笑顔で窓口へやって来る。BJにちらりと目をやり、早くどきなさいよ、と言いたげだった。彼女からはこの男性の腕が黄色い猿の腰が添えられている光景が見えなかった。
「あなた、早くどいてくれる? ──こちらへご記入を。日付処理は──」
「どうして私の連れが場所を移動する必要が? クッキー、これが用紙だそうだ。書いて」
「──分かったわ、スタッド」
ペットネームを呼ばれた途端に始まる二人の恋人遊びだ。ルールはただひとつ、ボーダーラインを踏み越えないこと。もう悩む振りをすることもなくなった。互いにその時間を楽しみ、今では待っているとすら思える。
行員は目を白黒させ、半ば口をぽかんと開けながら──この時代、人種差別の強いシカゴで白人男性がアジア人女性を恋人にすることはあまりにも珍しかった──BJとキリコを交互に見る。こんなのロンドン以来だな、と思いながら、BJは用紙に記入して行った。腰を抱いてくれている手があたたかかった。
「ドクター・キリコ、もうお帰りになられたかと。お車をお待ちで?」
キリコに声をかけて来たのはいかにも役職付きの、だが見目の良い、若い白人男性だった。この国の銀行員は誰もが見目良く、知的な顔をしている。その彼はちらりとBJを見たが、女性行員のように何らかの感情を表すことはなかった。
「ああ、いや、大切な女性がここにいたからね。クッキー、書けた? 彼女に渡して。きっとすぐに手続きしてくれるよ」
「よろしく」
「あ、ええ、──どうも、お待ちになって」
急な上席の登場と、その上席に明らかに一目置かれていることが分かる銀髪の男、それから目立つ傷のある日本人女性に忙しく視線を動かしながら、行員はカウンターの奥へと消えて行った。
「その──奥様で? ご結婚しているというお話は伺っておりませんでした」
嘘だろう、とばかりの声音を隠し切れなかった。BJは腹も立たない。──確かにこんなスタッド、日本語で言うならイケメンが、わたしみたいな女を『大切な女性』なんて言ったって信じられないだろうし。
「あなたに言う必要はないね。ところで副支店長、あなたに頼みたいことができてしまった」
「ええ、ドクター、何でもおっしゃって下さい」
「さっき継続で頼んだ信託について、数日中に弁護士から破棄の連絡をさせるよ。連絡が入り次第、早急に手続きを頼みたい」
「──何ですって?」
「すぐに手配するべきなのは分かっているんだが、違う銀行を探すのにも手間がいるしね。少し時間をもらうことになる。申し訳ない」
信託だの弁護士だの世界が違う、とBJは思わず唸りそうになってしまった。身なりや言動から分かってはいたが、確かに金はあるだろう。何しろこのバブル時代でありながら、日本の都心の一等地にあれだけ大きな自宅兼医院を持っているのだから。しかし副支店長自らが相手をするような価値ある信託をも持っていたとは想像外だった。
そして、知的階級だ、と妙に強く感じた。どん底から這い上がり、泥濘と闇の中を生きる自分のような人間とは違い、「社会的に生きる方法」を知り、実行している階級だと思った。
「──どういう──いえ、お話は分かりますが、何か不手際が」
「預金も引き上げることになる。大した額じゃない、あなたが気にするほどでもないさ」
「ドクター・キリコ、恐れ入りますがお話を」
「この銀行と私の感覚が一致しないことが分かっただけだ。気にしないで。どうしても知りたければ彼女に」
手続きを終えて控えを持って来た行員を目で示す。気付いた彼女は一瞬びくりとしたものの、BJにいやに丁寧に「お待たせ致しました」と声をかけ、上司の厳しい視線から逃れようとした。副支店長は持ち前の頭脳を素早く回転させ、彼女が何か無礼をしたのだろうと察する。それなりに長い付き合いのこの顧客が、無闇に腹を立てることがないと知っていたからこその洞察だった。
「事情が分からなければ謝罪することもできません。どうかお話を」
「口にするのも嫌な話さ。私の大切な女性が日本人と言うだけで侮辱された。──詫びは結構、誰しも抗い難い感情があるものだから」
すかさず謝罪の言葉を口にしようとした副支店長を有無を言わせぬ程度の強さの口調で制し、キリコは穏やかに告げた。
「私としては強く抗議したい。だが私の大切な女性がそれを望まないことは分かっている。騒ぎが嫌いな人だからね」
控えをコートのポケットにしまいながら、BJはようやくキリコが何を言っているのかを理解した。それから、そこまでやらなくていいのに、と思った。差別には慣れている。抗議したところで意味がないことが分かっているから騒ぎにしないだけだ。
「ただ、もうこの銀行には関わりたくない。以上だ」
「ドクター・キリコ、お詫びのチャンスを与えて下さい。私どもは決して──」
「ご機嫌よう。長い間ありがとう。クッキー、おいで。こんな場所にいつまでもいてはいけない」
BJの医療鞄を取り、肩を抱いて正面玄関へと促す。周囲の視線が控え目に集まる中、BJは青ざめるどころか顔色を白くした副支店長と、今にも卒倒してもおかしくないほどに震え始めていた行員を交互に見て、ああもう、と心の中で呟いてからキリコに言った。──ああもう、こんなことされたらいたたまれないし、──それなのに嬉しいって思わせないでよ。
思わせないでよ。
どうせただの恋人ごっこなのに。
「スタッド、待って。わたしのこととあなたの信託は別の話でしょう。彼の顔を潰さないで」
「考え方を変えて。視点をね」
「え?」
「俺を侮辱した銀行で取引を続けて欲しい?」
「侮辱されたの?」
「自分の女を侮辱されるってことは、俺が侮辱されたのと同じだ。金を預ける気にはなれないよ」
「それは──」
自分の女って──BJはひどく混乱した。自分の女。──そんなのひどい、と思った。そんなのひどい。
愛するなって言ったくせに。
愛してる、でも愛し合っちゃいけないって言ったのは自分のくせに。
今だって、ただの恋人ごっこなのに。
「とにかく行こう。騒いで悪かった、ごめんね」
BJが混乱したことを見抜き、そしてその原因が自分の発言だと気付いて、キリコは自らを内心で叱責しながらBJを促した。だがBJは唇を噛む。
惨めだ、と思った。つまらない、と思った。
惨めだ。つまらない。
今日の恋人ごっこは楽しめない。
「──クッキー、落ち着いて。すまなかった」
肩を抱いた手を振り払われたキリコは自責の溜息を押し殺しながら謝る。BJは首を横に振り、いつもの恋人ごっこにしては強い口調で言った。
「彼ときちんと話をして。言いたいことだけ言って、気持ちよくなるのはあなただけよ」
「そうじゃない。──もう行くんだ」
「行くのはわたしだけ。あなたは彼と話して。話をつけたらわたしを迎えに来てもいいわ」
「どこに?」
「どこかにいるわよ」
「──ランガムへ。タクシーで行って。レセプションに電話しておくから俺の部屋にいるんだ」
「ホテルなら別に取ってる」
「じゃあ俺は彼と話をしない」
「──さっさと電話しておけ、馬鹿!」
我慢しきれずに普段の言葉で罵り、溜息をついたキリコを睨みつけてから、一人で正面玄関へ向かった。周囲の目に嘲笑われているようで気分が悪かった。
「騒ぎを起こすなよ」
あの警備員に声を投げつけられた。返事をする気にもなれなかった。銀行前に列を成すタクシーに乗り込む。
「どちらまで」
「ランガムホテル」
ルームミラーでBJの顔の傷と肌の色を確認したドライバーは一瞬驚いたように「おお」と声を漏らしたが、すぐにアクセルを踏んだ。それきり到着まで何も話しかけられることはなかった。皮肉にも、銀行へ足を踏み入れてから一番楽な時間だと思った。
流石はシカゴでも有数の高級ホテル、街中に氾濫する人種差別など完璧に隠したレセプションで、フロントマンが慇懃に対応してくれる。既にキリコが電話でBJが向かうこと、ルームキーを渡しても良いことを連絡していた。
案内のホテルマンがつき、穏やかな笑顔で部屋まで連れて行ってくれる。最上階の部屋だった。ベッドルームにリビングルーム、広く大きな窓からは、シカゴ名物の摩天楼と、海軍埠頭と呼ばれるビーチが両方見える贅沢さがBJを驚かせた。キリコは一人でこんなところに泊まってるんだ、と思った。
リビングルームには一人掛けのソファと二人掛けのカウチがあった。少し迷って靴を脱ぎ、カウチに足を伸ばして座った。迷ったのはロンドンのホテルのテラスを思い出したからだ。同じようなカウチに二人で座って時間を過ごして、そして愛するな、愛している、と言われた。
室内を見て回ろうかと思ったが、靴を履き直すのが面倒だった。
──それに、ここ以外に行く必要もないし。
バスルームもきっと広くて豪華で、そして上品だろう。ベッドルームもきっとそうだ。それからミニバーやアメニティも──でもいいや、と思った。キリコが戻ってくれば食事に連れ出してくれる。その後、自分で取ったホテルに戻る。そこで今回のペットネームを捨てて別れる。それだけのことなのだから、部屋のあれこれを詳細に知る必要はなかった。
カウチにごろりと横たわる。窓の外を見ると、シカゴの摩天楼がいつの間にか訪れていた闇を追い払うように輝いていた。こんなに綺麗なのに、と思った。──こんなに綺麗な街の中に、あんな連中がいるんだな。
警備員と窓口の行員を思い出し、息を吐く。普段ならどうということはない。気分が悪いことは確かだが、慣れているのだから自分で対処できる。だが今日はどうしても惨めさが拭えなかった。キリコにあんな真似をさせたことが、──それがボーダーライン上の恋人ごっこの延長でしかないことが惨めだった。遊びにあんな馬鹿な真似をして、と思った。馬鹿な真似をして。迷惑をかけて。騒ぎを起こして。なんて惨め。
なんて惨め。
恋人なんかじゃないのに、同情されてあんなこと。
自分の女だなんて、遊びの中でも酷い台詞じゃない?
鼻の奥がつんと痛くなり、顔をしかめてやり過ごそうとする。失敗した。
まだキリコは来ないから、と自分に言い訳をし、少しばかり涙腺を緩ませることにした。
他のどんなことでも滅多に泣くことはなくなった。患者を救えなかった時くらい、そしてそれは数少ない。
それなのに、キリコのことで泣くのは二度目だ。
悔しいと思った。
悔しくてたまらなかった。
わたしを愛しているくせに。わたしが愛しているのに。
愛し合ってはいけないと決めた男のせいで泣くなんて、こんなに惨めな思いをするなんて、どうして──いいや、違う。
怖かった。
わたしはさっき、怖かったんだ。
怒った男性というものが怖かった。
過去のあの男のように豹変するんじゃないかって。
キリコはそんなことをしないって分かっているのに。
怖かった。
怖くて、怖いと思う自分が惨めだった。
嫌になる──自分を奮い立たせて起き上がり、靴を履いた。キリコに泣き顔を見られるのは悔しかった。バスルームを使う気にはなれないが、ウオッシュルームの洗面台で顔を洗うくらいならいいだろう。
そしてまた惨めになる。一人で泊まっていると思った自分が愚かだった。そうだ、あれだけのいい男が、こんな部屋に一人で泊まるはずがない。
洗面台にあった女物の片方だけの華奢なイヤリングを指で弾き、惨めだ、とまた思った。鏡の中の女は泣き顔で、そしてひどく醜く見えた。
キリコの女が来ては面倒だと不意に気付き、大きく息を吐いてから思い切り顔を洗った。洗面台の周囲が随分と濡れたが、少しばかりの意趣返しになればいいと願う。その程度には自分が陰湿だと分かっていたし、今の自分の気持ちを知った多くの女性は賛同してくれるはずだった。──イヤリングを忘れて行った女性以外は。
「……何が自分の女だ」
遊びの中でも言うべきではない台詞だ。失礼極まりない。愛し合ってはいけない女に対して遣ってはいけない言葉だし、ハイクラスのホテルに私物を置いて行くような女性がいるのなら、そもそもこんな遊びすらしなければいい。
誰かが聞けば不誠実だとキリコを怒るかもしれなかった。だがBJはそれに反論するだろうと自分で思った。気分は悪いが反論するだろう。彼はわたしの恋人じゃない、二股かけられてるってわけじゃない。
タオルハンガーにあった柔らかいタオルで乱暴に顔を拭き、濡れてしまった顔前の髪から滴る水滴も適当に拭ってウオッシュルームを出た。
「先生? 顔でも洗ってたのか」
タイミングが良いのか悪いのか、一度恋人遊びを中断した顔のキリコがちょうど部屋に入ってきた。BJは溜息を押し殺し、返事をせずにカウチの横に投げ出しておいたコートを手に取る。逆にコートを脱ぎかけていたキリコは面喰らい、どうしたんだ、と言った。
「待たせたのは悪かったよ。だからってそれはないだろう」
「私なりの親切だよ。銀行ではありがとう、キリコがいなかったら送金できなかった」
「どういたしまして。──待って。急いで出て行く理由でも?」
「ねえスタッド、豪華な部屋ね。ロンドンで一緒に泊まった時ほどじゃないけど。わたしなんかがいていい場所じゃないような気がするの」
遊びの時にしてはやや険のある、明らかに皮肉を込めた口調にキリコは眉をひそめないように少々の努力を必要とした。それなりに長い付き合いで分かっている。BJがこんな皮肉を口にする時、明らかに感情が乱れている。
健康とは言えないメンタルの女であることは昔からよく知っていた。今は銀行での出来事──あからさまな差別はどれだけ慣れていても都度ショックを受けるものだ──が尾を引いているのだろうと思った。
「今は乗れないよ、先生。少しゆっくりしよう。寝室のバルコニーに出てみるといい、摩天楼と海がもっと綺麗に見える」
今はボーダーラインでの遊びに逃げて、落ち込んだ精神状態を騙すより、落ち着かせる必要があると判断してキリコは言った。だがBJは不愉快そうに眉をひそめて言い捨てる。
「おまえさんの女が帰って来たらどうするんだ。鉢合わせなんて御免だね」
「俺の女?」
流石にキリコは問い返す。俺の女──考えるまえでもない。おまえだよ。他に誰がいるんだ。そう言いたかったが、銀行での態度を思い出し、BJが混乱することを知って口にできなかった。
だがBJはキリコのその態度をわざとらしいと鼻で笑う。自嘲混じりだったことは気付けない。気付いたのはキリコだけだった。
「こんな部屋に一人で泊まるわけがないって、入る前に気が付けば良かったよ。今は外出中? それとも先に帰ったとでも? ──どっちでもいい、聞く必要も興味もないから」
「その態度で興味がないって? 先生にしちゃまずい演技だ。何を見てどう勘違いしたのか教えてくれよ」
ウオッシュルームにピアスが──言おうとしたがやめた。嫉妬深い、みっともない女だと思われそうだったからだ。わたしたちは愛し合っていない、一緒になったわけじゃない、付き合ってるわけじゃない。自分に言い聞かせながらもう一度鼻で笑ってやった。あまり上手くいかなかったと分かったのは、キリコが困ったように僅かに首を傾げたからだ。
「先生、──クッキー? 教えて、何があった?」
ずるい。なんてずるいんだろう。BJは目の前の男を罵倒してやりたくなった。恋人の顔をして甘い声で甘やかせば、わたしがその演技に乗る振りをして本心を吐き出すって分かってる。なんてずるいんだろう。
「……ウオッシュルームに」
なんてずるいんだろう。
それから、わたしはなんて愚かなんだろう。
「ウオッシュルーム?」
「──言いたくないわ。自分で見て頂戴、スタッド」
言いながら息を吐いたのは、情けなさで溢れかけた涙を堪えるものだ。キリコが返事をする前に寝室へ歩き、言われた通りにバルコニーに出てみることにした。こうなっては部屋を後にすることができない。──キリコと二人で過ごす時間を捨てる勇気を出せなかった。わたしは醜し愚かだ、と思った。
一人で泊まるには余りにも広い寝室には、柔らかそうなソファに最高級の寝具と分かるリネンに埋もれたキングサイズのベッドが鎮座ましまし、バルコニーに続く窓から見える摩天楼とビーチは確かにリビングルームで見るよりも美しかった。闇が全てを支配する時間帯なのに、人工的な灯りが街中を照らしている。水面に反射する光はビーチを見下ろす数々のホテルの光だった。
高層階でもバルコニーに出られるホテルは珍しい。広いとは言えないが、都会的なデザインのティーテーブルが置かれたバルコニーに出て、海の香りが混ざった空気を吸い込んだ。冬の訪れを予感させる冷たさがBJに僅かな冷静さを取り戻させようとした。
「先生」
やがてキリコが半ば笑いながらやって来る。何がおかしい、とBJが怒る前に、いや、ごめん、とキリコは言った。
「これ?」
「他になければそれなんじゃないか」
キリコがてのひらに置いたイヤリングを見せられ、BJは自分でも冷静な声だと信じられない口調で言った。キリコが笑いを堪えているのが分かった。わたしはこんなに嫌な思いをしているのにどうして笑えるんだろう、この男も結局わたしを馬鹿にして──そう思いかけた時だった。
「ユリのだ。昨日泊まってね。忘れて行ったんだろ」
「……ユリさん?」
「妹」
「覚えてる。──ユリさん?」
「先生と会う前に銀行から出て行ったんだ。あいつの名義の信託もあるから、その話をしていてね」
嘘ばっかり。そう言ってやればいいし、そう言うべきなのだ。多くの女性がそう言って怒りを表し、男性に機嫌を取らせようとするだろう。男性は理解して機嫌を取る振りをして、それを女性が受け入れて機嫌を直す光景は幸せな恋人同士だ。
だがBJは言えなかった。
「ああ、そうなんだ」
言ったのはそれだけだった。
幸せな恋人同士の振りをする必要がなかった。
「そうだよ。あいつの信託の話が終わったら先に帰った。今頃成田行きの飛行機を待ってるか、もう乗ったか」
「ふうん」
他に言うことは何もないと思った。言ってはいけないと思った。──わたしたちは恋人同士じゃないんだから、そんなことを言ったって仕方ない。
だがキリコが僅かに苦笑した。
「俺を愛しているんじゃないのか?」
ずるい男だ。BJは溜息を押し殺す。もちろん、あなたがわたしを愛しているように愛してる、という言葉を押し殺す。お互いに言わないと約束した言葉だからだ。
約束を守っている限り、二人で時間を過ごせると知っている。
約束を破った時、それはきっと何かが破綻する瞬間だ。何かの正体は分からない。だが愛し合ってはいけないということだけは二人とも理解している。
ずるい。また思う。最近、キリコは約束の中で無意識に引いたボーダーラインを超えようとしているのではないかと思わせる時がある。
「そんなことを言うなら帰るよ」
帰りたくない。だからそう言った。もう少しキリコと二人でいたかった。好きな男と一緒にいたいと思って何が悪いのか。──わたしは醜い。こんないい男の隣に立てるような女じゃない。
それでも、この男がわたしに帰るなって言ってくれるなら、もう少し一緒にいたって何が悪いのか。
ごめんね、とキリコが小さく謝った。それからBJを両腕で抱き寄せ、髪に唇を落とした。
「悪かったよ。帰らないで欲しい」
BJは答えなかったが、息を吐いて受け入れたことを伝えた。ありがとう、と呟いたキリコが唇に触れるだけのキスをする。
「あと1時間もすれば副支店長と行員が謝りに来る」
「勝手に決めるな。どうでもいい」
「彼に謝らせるチャンスをくれてやれよ」
「気持ちいいのはキリコと彼らだけで、付き合わされる私は気分が悪い」
キリコの胸をやや強く押し、腕の中から逃げ出す。気分が悪い、その言葉は嘘ではない。
「私に謝らなきゃ信託と預金を引き上げるって脅しただけだろう。私のために謝りに来るんじゃない。仕事のためじゃないか。そんなことにどうして付き合わなきゃいけないんだ」
「彼らは今後繰り返さないようになるし、それで救われる有色人種が増える。少なくともあの銀行で嫌な思いをする人が減るよ」
「私は?」
「ムカつく連中が頭を下げる哀れな姿を見てざまあみろって思える」
どんな綺麗事を言われるかと構えていたBJは、涼しい顔で意外にも下卑た言い方をしたキリコを見上げて思わずぽかんとした。キリコはその顔が可愛くてキスをしたくなったが、堪えて笑ってみせた。
「まあ、副支店長はそこまで先生を──有色人種を見下していたわけじゃなかった。彼の弟の奥さんはアジア人だそうだしね。ただ、この辺りじゃWASPと黄色人種のカップルが珍しくて驚いたらしい」
「どこまで本当だか」
「先生だって本当に日本人? 俺がアメリカ人って確証はどこに?」
「なるほどね」
キリコの言わんとするところを察し、BJは頷く。それからテーブルにつき、煙草に火を点けた。落ち着いて来たと判断したキリコも同じことをする。人工の光が夜闇を照らし、まるで物語の中の不夜城のようだと同時に思っていた。
遠くから微かに音楽が聞こえる。トランペット、サックス、──ああ、とBJは思った。ああ、ブルースだ。シカゴはジャズとブルースの街だもの。
「変なの」
「うん?」
「有色人種への差別が強いのに、ブラック音楽のジャズやブルースは高評価だなんて」
「確かにね。差別を超える力があるってことかもしれない」
「好きなの?」
「何?」
「ブラック音楽」
「嫌いじゃないよ。特にシカゴのバンドは聴いてて楽しい」
「ふうん。モーツァルトがお好きかと思ってた」
「コメントに困るね」
キリコは苦笑し、煙草の灰を灰皿に落とす。
「先生こそ、音楽は?」
「詳しくないけど、一時期ヴァイオリン曲はよく聴いてた」
「ヴァイオリン?」
「ストラディバリウスに興味を持った時期があって」
「いい楽器だ」
「──あとはピノコが見るテレビで聴くくらい」
「お嬢ちゃんか。流行に敏感そうだ」
BJが意図的に話を逸らせたと気付き、キリコはそれ以上訊かなかった。それから不意に思う。──俺たちは案外、俺たちのことを知らない。知っていることが少ない。
「甘いものが好き」
「え?」
急にそんなことを言ったキリコをBJはついまじまじと見る。キリコが甘いものを好む姿を見たことがない。するとキリコは僅かに笑い、また言った。
「案外可愛いものが好き」
「何?」
「お嬢ちゃんに着せる服はついピンクを買いたくなる」
「──何、ちょっと」
「酒には目がない、甘めのフレーバーが好き」
「やめてよ」
BJは顔を赤くした。自分のことを言われていると分かったからだ。だがキリコは続けた。
「煙草はヘビー、メンソールは嫌い」
「2日で1箱までにしてる!」
「チキンが好き」
「外れ。鶏は安いし栄養豊富だから食べてるだけ」
妙な遊びを始めたと思ったBJは、反論を挟みながら笑い始める。キリコも笑う。
「俺が払う時は牛を食べなさい、トリプトファンが優秀だ。──香水をつけない」
「興味ないし病院に行きにくくなる」
「着た切り雀」
「大きなお世話!」
「天才外科医」
「お褒めに与りまして」
「俺のことが好き」
BJは答えず、キリコを見た後、眉をひそめて微笑んでみせた。仕方のない男、とでも言いたいように。だからキリコも同じように微笑んでみせた。
今度はBJが言った。
「重い煙草を吸うくせに健康に気を遣う」
「我ながら矛盾している自覚はあるよ」
「肝臓を切ったくせに大酒飲み」
「先生ほどじゃない」
「野菜とフルーツをよく食べる」
「栄養バランスは大切だ」
「お洒落」
「光栄だね」
「廃業したい」
「外れだ!」
「正義感が強い」
「スタンダードだよ」
「私のことが好き」
キリコが声なく笑い、それからゆっくりとBJの手を取る。顔を近づけられてキスを期待したBJと額を合わせ、しばらく無言で互いの体温と感情を共有した後、小さな声で呟いた。
「クッキー、──好きだよ」
BJは小さく息を吐き、失望した自分を内心で叱りつけた。これでいいはずなのだと言い聞かせた。
「わたしも。──わたしも好きよ。スタッド」
これでいい。互いにそう思ったことを知った。これでいい。こうでなくてはならない。
破綻が待つとしか信じられない未来を共有することはできない。
決して重ならない道を今だけでも思い出さないように、どちらからともなく唇を重ねていた。
不夜城の夜の中、吹き抜ける海風は少し冷たい。中に入ろう、とキリコが優しく言った。BJは無言で頷いた。
バルコニーから中へ戻ると大きなベッドが否応なしに目に入り、自分でもはっきり分かるほどに顔が赤くなった。テラス窓を閉めたキリコに肩を抱かれる。見上げると同時に唇が降りてきて抱き竦められた。普段するキスとは違う深いそれにうまく応じられなくて恥ずかしくなる。それなのにキリコの唇が優しくて嬉しくなった。
遊びなんだから大丈夫。──遊びなんだから。そう言い訳をしようと必死になる自分を誤魔化すために、背の高い男の首に腕を回して深いキスをする。
唇を合わせたままいつの間にかベッドに導かれていて、慣れてる、最低、と言ってやりたくなった。ベッドに沈められて覆い被さるようにまたキスをされて言えなかった。
濡れた音がするキスを繰り返し、キリコの指が丁寧にリボンタイを解き始める。ふ、とBJは息を吐く。
そしてその時、電話が鳴った。キリコの指が止まり、唇を合わせたまま、神よ、と呟いてからBJの上に倒れ込んだ。BJは笑ってその髪を撫でる。丁寧な手入れを感じさせる手触りが心地良く、熱を収めるような穏やかな感情を抱かせた。
「いつの間にルームサービスを頼んでたんだ?」
「ロンドンの再現をしてくれなんてルームサービスは頼んじゃいない」
「だから来なくていいって言ったのに。早く出れば?」
「shoot」
そこそこ品のいい部類に入る罵りの言葉を吐き、BJの濡れた唇を名残惜しくぺろりと舐めた後、キリコはしぶとく鳴り続ける電話へ向かった。どうせあの副支店長と行員がやって来て、レセプションに取り次ぎを頼んだのだろう。
BJはしばらく寝転がったまま、リビングから聞こえるキリコと電話の向こうの会話を聞きながら、舐められた唇を指でなぞって息を吐き、よいしょ、とわざと大きめの声を出して勢いよく起き上がったのだった。
来たのは副支店長だけだった。窓口担当の女性は家庭の事情でどうしても来られないと言う話だったが、BJは別にどうでもいいと聞き流した。これで互いに体裁が整えられたのだから構わないと思った。キリコも特に追加で何かを言うつもりはない風情で、おそらく銀行で言うべきことを全て言ったのだろうとBJに予想させた。
「わざわざありがとう。もう気にしてない。この人の預金と信託も守られると思う」
キリコは苦笑し、そうするよ、と言ってBJの髪にキスをする。副支店長は明らかに安堵し、改めて心底の詫びを口にした。
「いえ、それは──引き上げられても言い訳のできないことです。申し訳ありませんでした」
「もういいから。本当にそう思ってくれているなら、ちょっと頼みを聞いてくれる?」
BJの要求に副支店長は「何でしょう」と心の中の構えを出さずに答えた。構えたな、とBJは見抜き、キリコはBJが何を言うつもりなのかと横目で見る。
「この辺りでこの時間から楽しめる場所を教えてくれたら嬉しい。入国してからすぐ仕事だったから、まだどこにも行っていなくて」
副支店長は思わずぽかんと口を開け、それから慌てて閉じ、そして話さなければいけないと気付いてまた口を開けた。そのあまりの忙しさにキリコは笑いを堪えるための咳払いをし、BJはそんなキリコを軽く小突いて全ての問題が終わった宣言に代えた。