「吐いてやりたいくらい気分が良くない」
助手席で俯き、黙り込んでいたBJが声を発したのは随分と時間が経った頃だった。
「グローブボックスに袋がある」
「グローブボックスに吐こうかな」
「それはやめろ」
苦笑しながらキリコはハンドルを切った。ちょうど見えた大型のサービスエリアだ。東京へ向かう湾岸線だが、行くつもりはなかった。BJを落ち着かせたら崖の上の家に戻る予定だ。
深夜でも大型サービスエリアはそれなりに賑やかだ。長距離トラックや夜行バス、カスタマイズした車が夜闇などお構いなしにエンジン音を立てて入り込み、そして出て行く。深夜まで営業している店で休憩する者、眠り込む者、騒がしい者と様々だ。都会とは違った目の粗い喧噪の中、BJは車を降りずにシートを倒して横になった。
「コーヒー飲みたい」
「おまえが一緒に来るなら買ってやる」
「買って来てよ」
「この時間、女を1人にしてどこかに行く男はいないよ」
「トイレに行きたくなったらどうするつもり」
「そこは臨機応変。──ほら、行こう」
渋々といった風情で起き上がり、BJは車を降りる。
「どうしてここなの」
「おまえが吐きたいって言ったからな」
「気分じゃない」
「じゃあ、コーヒーを飲みたい気分になったんだろう」
「どうして」
「うん?」
「──何でもない」
どうしてわたしをそこまで甘やかすんだ。そう言おうとしてやめた。それがこの男の愛情表現で、当たり前だと思っていること、そしてそれに甘えていいことを知っていた。
それから、きっと、と思った。──きっとあの奥さんも、分かっているんだろう。だから──
「甘えてるんだろうね」
「おまえが甘えん坊なのはよく知ってるよ」
「わたしじゃない。あの奥さんの方」
キリコは数秒考え、いやいやおまえも相当だよ、という言葉を飲み込んでから頷いた。
「そうだろうな」
「結局」
「うん?」
「旦那さんのカウンセリング、どういう話をしたの」
「守秘義務」
「藪医者にしては強情だね」
「おまえほどじゃない」
サービスエリアでは味気ない自動販売機のコーヒーしかないだろうとBJは思っていたのだが、大手のコーヒーチェーンがあった。自分好みのカスタマイズを大胆にできることで人気を集めているチェーンだ。少なくとも自動販売機のものよりは美味しいコーヒーが飲める。
「全然分かんない、ここ初めて」
「何でもいいんだ。最初にベースのドリンクを決めて──フラペチーノもある。冷たくても良ければ」
「じゃあそれ」
キリコはBJに好きなだけコーヒーのカスタマイズをさせた。はじめは戸惑っていたBJもやがて面白がり、親切な店員のアドバイスもあって、派手だが味が保証されたドリンクが出来上がる。もうコーヒーじゃないな、別の飲み物だ、と思いながら「よかったね」と嬉しそうなBJに声をかけ、自分は普通のコーヒーにした。
「美味しい」
「そりゃ良かった」
「キリコは普通のなんだ?」
「何だかんだでシンプルが一番だ」
深夜のサービスエリアは柄の悪い者もいる。目立つ外見の2人に既に目を向けている輩もいた。面倒に巻き込まれる前に車へ戻った。自分たちが巻き込まれやすい体質であることなどよく知っている。
「これ、全部飲んだら身体が冷えそう」
「ゆっくり飲めばいい。まだ走る?」
「キリコが走りたければ」
「じゃあもう少し」
キリコが、と言いながら自分がまだ家に帰りたくないだけなのだとBJは内心で認める。キリコもそんなことは分かっていた。そろそろ会話をするタイミングだ。以前はキリコが心療内科的な水の向け方をして話を始めていたが、最近はBJが自分で口を開くようになっていた。
「ピノコが悪いんじゃなくて」
「うん」
「でもわたしも悪くない」
「ふうん」
高速道路の本線に出る。走る車は少ない。開通して何年も経つ道路だが、完成するまでは更に何年も必要だと言う。走りながら見える工事現場の光や重機が不思議と洒落た夜景になっていた。BJはそれを眺めながらコーヒーと分かりにくい飲み物のストローを囓り、それから息を吐く。
「大怪我をした妻を捨てた男を知っているから」
「……うん」
「病める時も健やかなる時も、って言葉は基本的に──なんていうか、信じてないわけじゃないけど」
「うん」
「信じられない人がいてもいいじゃない、とは思う」
「そうか」
大怪我をした妻を捨てた男、という話を深く聞くべきかキリコは心療内科医の立場でやや考える。だがBJが機先を制した。
「おかあさん」
「──おまえは勇気がある女だよ。愛してる」
声を震わせながらも口にしたBJを素直に称賛し、キリコは心から言った。
今言う話じゃない気がするんだけど、と言いながらBJは話した。話したければ話せばいいんだ、と言いながらキリコは聞いた。キリコが知っていることもあったし、知らないこともあった。流れる不思議な夜景を眺めながら、BJは静かに話し続けた。キリコはたまに相槌を入れ、静かに聞き続けた。
「と、いう話さ」
少しおどけた口調で言い、BJは話を締めくくった。同時に勢いよくドリンクを飲む。キリコは「なるほど」と言って自分の冷めたコーヒーを口に運んだ。車はもう都内へ入っていた。崖の上の家に戻るよりも自分の家が近い場所まで走って来てしまったが、今夜は崖の上へBJを帰したかった。
「さっき、わたし」
「うん」
「あの奥さんは自分が病気だと思ってない、って言ったけど」
「うん」
「そうじゃないかもしれない。病気なのを分かってて、旦那さんに甘えることで恐怖を忘れたいのかもしれない」
「──うん」
「キリコはそう思った?」
それは問いの形を取った確認だった。キリコは僅かに考えた後、うん、と頷いた。
「そうかあ」
「うん」
「だから、また来るって言ったんだ?」
「まあな」
「どうして分かった?」
「──守秘義務」
「旦那さんのカウンセリングで?」
「守秘義務だ」
「むかつく」
「そう言うなよ」
残りのコーヒーを飲み干し、キリコはハンドルを切った。ほんの数台しか停まれない小さなパーキングエリアだ。都内ならではの狭さと言っても良かった。狭さや停められない可能性を嫌がるドライバーが多く、むしろいつもすいている穴場でもある。キリコの狙い通り停められるスペースが空いていた。
「何、こんなとこ」
「眠くなった。少し寝る」
「え、わたしが運転しようか?」
「いいよ。気分じゃないだろ」
「……まあ、そうだけど」
安全運転のために数十分の仮眠を取るのはよくあることだ。BJも長距離運転の時にはたまにやる。だがキリコがこんなことをするのは初めてで、BJは少し戸惑いながらも声をかけた。
「どれくらいで起こせばいい?」
「まあ、気が済んだら」
「何それ。そんなに眠い?」
「眠いね。寝言を言いそうだ」
その言葉の意味が分かり、BJは唇の代わりにまたストローを噛んだ。残り少なくなったコーヒードリンクはすっかりぬるくなっている。その横でキリコはシートを倒し、目を閉じて息を吐いた。守秘義務は守る。だが寝言で言ってしまう可能性はある。その寝言が意図的であることは、表向き本人にしか分からない。
医者としてそれはおかしい、医者にあるまじき行為だと誹られても構わなかった。あの夫は確かに自分の患者だが、BJの患者である妻の治療方針に深く関わる内容のカウンセリングをした。協力してもおかしいことではない。──たとえそれが、自分の女を落ち着かせたいだけの理由で口にするとしても、そんなことは自分だけが知っていればいい。女はどうせ気付かない振りをする。
「不治に等しい病だと知ってから、哀れで愛おしくて仕方ないそうだ」
キリコは寝言を言った。BJは黙って窓の外を見た。都内に入ったこのパーキングエリアから見える夜景はすっかり都会のものになっていた。
「でもその気持ちの通りに愛すれば愛するほど彼女の死期は迫る。だから彼女が甘えたがっても突き放すしかない。喜ばせて寿命を縮めたくない」
突き放す、優しくしない、抱きもしない。それが妻の命のためだと夫は言った。
涙を堪えながら言っていた。
優しくしたい。甘えてきたら甘やかしたい。抱きたい。でもそんなことをしたら妻の命は。
「寝言に質問なんてナンセンスなんだけど」
BJがストローを囓りながら言った。
「キリコは何て言ったんだろう」
眠っているはずの男はしばらく間を置いた後、穏やかに言った。
「心療内科医としてはあまり正しくないことを言ったよ」
「どんな?」
「『私なら』」
私なら、彼女を愛で満たすでしょう。
あなたが今、しているように。
彼はやり方こそ間違えていても、愛で妻を包んでいる。
少しでも長く妻の生命を長らえるために、彼が考え得ることを全力で。
涙を堪えながら。
それが妻の希望と一致しないだけなのだ。
「あとは心療内科医としてはありふれたことしか言ってないな。『2人で話し合うとよろしいでしょう』」
その寝言にBJは返事をしなかった。男の寝言はまだ続いた。
「2人ともまた来るよ。愛している相手のためにね」
無言を貫く女が思考の淵に立ったことを感じてキリコは目を開ける。身体ごとシートを起こし、窓を少し下ろして煙草を咥えた。センターコンソールのデジタル時計はもう日付が変わる寸前の時刻を示していた。
「病める時も健やかなる時も、なんてことを信じない人間がいたっていい」
くゆらせた紫煙が窓の隙間から夜の空気へ逃げて行く。その先にある都会の夜景は光に満ちて、人間の悩みなど無責任に飲み込んでしまいそうだった。そうなってしまえばいい、とキリコはこんな時にはいつも思う。もしそんなことができるのなら、きっと俺は好きな女を連れてあの光の中だけで生きていけばいいのだから。
「でも、信じている人間がいるってことを認めたって構わないと思うよ」
この女が悩むことなく生きていられるのなら──だがそれはできない。もしもそんな光があったとしても、好きな女が決してその光の中に入ることはないであろうと知っていた。
そして好きな女がその理由を口にした。
「だったら救う。2人でいたいなら少しでも生きるために足掻けばいい」
愚直で傲慢な医者はこれからもそうなのだろう。傲慢が過ぎるだろ、無免許医のくせに、と言いながらキリコは口元の緩みを隠すために煙草を咥えた。大きな世話だとBJが怒った。
「もう帰る」
「まあ、それがいいだろうな。お嬢ちゃんが謝ったら許してやれよ」
キリコはエンジンキーを回す。ゆっくりと発進する車の音に隠れるようにBJは溜息をついた。
「わたしも謝らないと」
「おまえたちのことに口出しをする気はないが、おまえが謝る必要はないと思う」
「今まさに口出ししてる」
「寝言さ」
「居眠り運転はやめて」
悔し紛れに言い捨てて、それでもキリコが言っていることも正しいのだと理解する。シートにどさりと深く寄りかかり、だらしなく足を投げ出した。
愛し合う2人なら当たり前。病める時も健やかなる時も。ピノコはそう思っていて、そう信じていて、そう思わない人間を知らなかっただけだ。BJがそう思わない人間だと知らなかっただけだ。だから互いに謝る必要がなかった。ピノコは勝手にカルテを見たことを謝ればいい。二度とやらないと約束してこの話は終わりにすればいい。
それでいい。そう思いながらBJはまた夜景に目をやった。都会の光はもう背後に押しやられ、また重機や建設途中の不思議な夜景に戻りつつあった。
吸い口がすっかり噛み潰されたストローをまた囓る。運転するキリコを見ないまま、今日最後の質問をした。
「キリコは」
「うん?」
「信じてる?」
何を、と言う必要はなかった。キリコはギアを上げ、車の速度を安定させてから答えた。
「おまえが健やかなる時をついぞ知らないもんでね。その言葉に意味を見いだせないよ」
「は?」
「初めて会った時からメンタルに大問題。いつ健康なおまえを見たことがあるって?」
「──ひどくない? そういう話じゃないって分かってるくせに!」
「俺にとっちゃそういう話だ」
意味がないんだよ。キリコがそう言うと、BJは訝しげにキリコを見る。視線に気付いたキリコはちらりとだけ目をやってまた前方へ戻し、ハンドルを指で叩きながらもう一度言った。
「意味がないんだよ」
──病んでようが健やかだろうが。
「死ぬまで一緒なのに、いちいち考えたって意味がない」
BJは答えなかった。そのまま視線をまた窓の外へ向けた。キリコはその顔が少し赤くなっているだろうと予想して、そしてそれは正しかった。
「新しいコーヒー、買って帰ろうか」
哀れな姿になったストローを口に押し込む気配を感じ、キリコは言う。BJは咥えたまま「いらない」と言い、それから残ったドリンクを吸い上げようとして失敗し、ストローを噛み潰したことを後悔した。買ってやるよ、と一生一緒にいる予定の男が笑った。
翌朝は全員が寝坊した。一番最初に起きたのはキリコだ。女の人数分、つまり3人分のカスタマイズドリンクの空になったカップがリビングのテーブルに置きっぱなしになっている光景に溜息をつき、揃ってまだ寝ている彼女たちの代わりに片付ける。
深夜に結局全員分を買って帰って来た。ピノコとユリはまだ起きていて、ピノコがカルテを勝手に見たことを謝って話は終わった。あとはお土産のドリンクを飲みながら遅すぎる時間の女子会が始まってしまった。キリコが場を強制的に解散させたのは2時を回った頃だ。基本的に規則正しい生活をしている家族には珍しい夜更かしだった。
欠伸をしながら朝の一服をするためにテラスへ出る。もう朝と言うよりも昼の光を反射する水面を眺め、煙草を一本吸ったら3人を起こそう、と決めた。
それから流れる紫煙を追って、ラフなルームウェアではなくきちんとした服を着ておくべきだった、と後悔した。
手を繋いで坂を登ってくる夫婦が自分に気付いていないと察し、素早く家の中へ戻る。BJを叩き起こして着替えさせなければ。
BJはひとしきり大騒ぎをしながらも見事なまでに素早く着替え、騒ぎで起き出したピノコとユリも同様だ。ユリに至ってはフルメイクまでもこなしてしまった。キリコがBJを起こしてから5分も経っていない。女ってのはこういう時ばっかりは行動が素早いんだ、と半ば呆れながらキリコがタイを結び終えると同時にチャイムが鳴った。
「ようこそ。また来ると思ってましたよ」
自信たっぷりに言いながら迎え入れたBJに、キリコは「どの口が」と内心で苦々しく呟く。
揃って泣き腫らした顔をした夫婦は顔を見合わせ、それから同時に笑った。
愚直で傲慢な天才医師に縋ると決めた話し合いの内容までは、当の天才医師にもその隣に立つ死神にも分からない。
だが確かに難病と闘うと決めた患者とその夫に笑いかけ、お話を、と促せるということは分かっていた。
BJが言った。
「お話を」
それだけで夫婦を安堵させたBJのその声を、ああ、綺麗だな、とキリコは思った。病んでいようが健やかであろうが関係なく、一生一緒にいる女の声が愛おしく、そして誇らしくてたまらなかった。