昼下がり、崖の上の家は静かなものだった。春の穏やかな海は柔らかい陽光を受けて、冬を忘れるような優しい風を送り込んでくれる。テラスでピノコに供された紅茶で唇を濡らし、広がる海を眺めながら、日本の春はいいものだ、とキリコは風景を楽しんだ。
正確に言えば、楽しめ、来るんじゃなかったなんて絶対に顔に出すな、と自分に言い聞かせた。
家中に漂う静けさの緊張感に耐え切れず、テラスに逃げたなど口が裂けても言えない。言ったことが知られようものなら書斎でカルテの整理に死力を尽くしている恋人の平手打ちが飛んでくる。間違いなく八つ当たりに過ぎない。そして予想に過ぎない。
だがその予想が正しいと身に染みている男は、カルテの整理を溜め込むからこういうことになるんだ、だらしない、と決して本人には言えないことをまた思った。
「ロクター」
「どうした、お嬢ちゃん」
「14時なのよさ」
「ああ、そうだね」
「お夕飯の買い物に行ってくるのよさ。れもお願いがあるのよさ」
「どんな」
交流が深いと言えば深い関係だが、家の立て付けや家具の修繕以外でピノコがキリコに何かを頼むことは滅多にない。今回もどっちかだろうな、とキリコは思ったが、ピノコは静かに違うことを言った。
「ピノコを連れてお買い物に行くのよさ」
「車を出せと」
「ロクターのためれもあるのわよ」
「俺のためね」
「そうなのよさ」
キリコは海を眺めた後、振り返らずに家の気配を窺い、書斎の方面から肉眼では見えるはずのない黒い空気がひんやりと流れて来るような錯覚に襲われ、静かに頷いていた。
「あなたは実にクレバーだよ、レディ」
カルテ整理のストレスが最大まで膨れ上がっているBJの気配から逃げたい、一緒に逃げよう、とピノコは持ちかけたのだ。闇を知る成人男性であり、かつ夫婦同然の恋人であるキリコでさえ辟易するのだから、いくらBJの感情の波に慣れているピノコでもたまったものではない。
「良い褒め言葉なのわよ。お夕飯にロクターの好きな長芋と明太子のすり身揚げを作ってあげるのよさ」
「クレバーな上にパーフェクトだ。スイーツをご馳走してもよろしい?」
「テイクアウトれしょ」
「更に優しいとはね。天にいくつの才を与えられたものやら」
買い物ついでにどこかで甘いものをと持ち掛けたキリコに、ピノコは言外に「テイクアウトにしてBJにも食べさせてやるべき」と宣言する。優しい女だ、だがそうしないとあいつが知った時にブチ切れるからってのもあるだろうな、とキリコは正解を思った。
「ちぇんちぇい、お買い物に行っれくるのよさ! ロクターを借りるのわよ!」
黒い空気に支配された書斎のドアの外から声をかけ、返事を待たずにピノコはキリコの車へ走り出した。キリコはやや考える。ここで声をかけた場合、かけなかった場合の未来を考える。答えはすぐに出た。怯む暇を自分に与えず、答えが出ると共に書斎のドアの軽くノックしてから開ける。
「マフィン、お嬢ちゃんと買い物に行って来る。おまえも行くか?」
「行けるわけねえだろ、早漏!」
「違う。分かったよ、頑張って。じゃあ行って来る」
これで「声をかけた事実」は残る。今しがたの罵倒など、声をかけなかった場合の未来──黙って置いて行かれたと拗ねるだけなら上々、ピノコが寝た後にお得意の「どうせわたしなんか」が始まるコースだ──を考えればどうということはない。
置いて行かれたと思い込んだBJが後で機嫌を悪くしても、この事実を作ったことによって、声をかけたじゃないか、本当は一緒に行きたかったのに、と反論する手段を確保できた。面倒がらないこのひと手間が、家中の誰もを幸せにする。
玄関へ向かおうとした時、書斎のドアが乱暴に開く。笑わないよう努めながら振り返るのとほぼ同時に、抱き着いて来た女にもう一度「おまえも行くか?」と訊いてやった。答えがノーだと分かっていても。
案の定、BJは頬を膨らませて首を横に振り、それから上目遣いに唇を尖らせた。キスをして欲しかっただけだと見抜いたキリコは望みをかなえてやる。満足したBJは何も言わずに書斎に戻った。今度こそ出掛けられる、とキリコはピノコを待たせている車へやや急いだ。
ピノコが買い物先に指定したのは最寄りのショッピングセンターではなく、地元と言えば地元の商店街だった。何度かBJとピノコに運転手兼荷物持ちとして連れて来られているキリコの顔もBJとの関係も知れ渡っているため、胡乱な目で見られることはない。むしろ商店街では人気が高いBJの恋人として、かなり優遇されている自覚があった。
「ピノコちゃん、先生はどうした。また仕事でいないのかい」
必ず寄る肉屋で店主に話を振られ、ピノコはしたり顔で頷く。キリコはピノコがBJの出張中に一人でこの商店街まで来ていることを察し、合衆国ならあいつが逮捕されているところだな、と文化の差に溜息をつきそうになった。キリコの母国では実年齢はともかく、こんな幼女を一人で何日も過ごさせることは逮捕案件になる犯罪だった。
「お家でお仕事の日なのわよ。らからロクターとお買い物に来たのよさ」
「先生が忙しい日か。じゃあこれはおまけ、先生が好きだろう?」
「きゃーっ! ありがとうなのよさ!」
サービスにしては多すぎる量の、鶏レバーを甘辛く煮た惣菜を持たされ、ピノコは飛び上がって喜んだ。女性には必要だ、悪くない選択だ、いい店だ、と思ったキリコだが、すぐに店主が「先生はこれで酒を飲むのが好きだって言ってたからな!」と言ってピノコと笑い合っていたため、あのドランカークソビッチ、と恋人と医者の両方の立場から心の中で罵っておいた。
ピノコはあれこれと、荷物持ちがいる時ならではのまとめ買いに精を出す。どの店でも必ずBJのことを訊かれ、おまけをもらい、礼儀正しく礼を言うピノコを見て、キリコは感心することしきりだった。見た目通りの年齢ではなくとも、根底の躾が悪ければこうはいかない。たまに常識を無視した生き方を見せるBJだが、自分が産み出した存在には社会的な規範をしっかり教え込んでいることがよく分かった。
「ピノコちゃん、ちょっと奥においでよ。娘のおさがりなんだけど、着られるのがあれば持って行って」
洋品店の女主人に呼ばれ、ピノコはちらりとキリコを窺う。キリコは紳士の顔で頷いた。
「ごゆっくりどうぞ、レディ。お供は車で待ってるよ」
「ありがとうなのわよ!」
たちまち破顔し、ピノコは洋品店の奥へ駆け込んで行った。キリコはその姿を見送った後、車へ戻って一服しようと歩き出す。
車を停めてあるコインパーキングで立ち止まり、振り返らずに言った。
「おまえさん、ここに住んでたのか」
「違いますよぉ、移動中にたまたまお見掛けしたんで」
まあ本当だろう、とキリコは思い、振り返ってやることにする。スーツ姿の若い男が笑顔で立っていた。煙草を咥えた途端に素早く差し出された彼のライターの火で一口吸い込み、キリコは言った。
「新しい薬を頼んだ覚えはないが」
「お見掛けしたら御挨拶したくなっちゃうものなんですよぉ」
男は大手製薬会社の医薬情報推進者、つまりMRだった。社内でかなり優秀な成績を収めているという噂を聞いたことがある。
キリコは日本国内で使う薬の一部を彼に頼るケースが多かった。彼が個人的に闇と繋がっていること、安全、かつ正確に、少しばかり手に入りにくい薬を都合してくれることを知っているからだ。BJもよく彼に薬の都合を依頼している。むしろ無免許である分、キリコよりも依頼する機会は多い。
彼を通さなくても闇から都合することは可能だが、やはり専門知識で正確に対応して欲しい時には、多少手数料がかかっても、彼のような存在が有り難かった。
「で、何の用だ」
「いつもご贔屓を頂いているので、気持ちばかりですが」
高価すぎず、だがみすぼらしくない程度の鞄から取り出した滅菌済みのパウチをキリコに見せる。何の変哲もない錠剤が1シート、12錠並んでいた。彼は笑みを深めた。優秀なMRの笑みではなく、非合法を楽しむアウトローの笑みだった。
「いえ、今ね、奥様のお宅にご挨拶にお伺いして、とっとと失せろ呼んでねえ早漏野郎なら商店街にいるからそっち行け、と缶コーヒーを投げられちゃいまして!」
「……一応訂正するが、結婚してないし、早漏でもない。あと、あいつの失礼は詫びる。事務処理で機嫌が悪くてね」
「ご連絡もしないでお伺いした私が悪いんですよぉ。それに、女医さんに罵倒と缶コーヒーをまとめて頂けるなんて、とんだご褒美じゃないですかぁ!」
MRは楽しそうだ。こういう仕事の奴の対人スキルと精神力は凄すぎる、とキリコは素直に称賛したくなった。そして一応缶コーヒーを渡してやったBJが、案外このMRを気に入っていることを知った。
「楽しんでもらえたなら安心できるよ。──で、それがどうしたって?」
「ええ、こちらなんですけども。BJ先生に罵倒を頂いたものですから、これはぜひドクターにお渡ししなければと思い至りまして! 報酬はいりません、サンプルですからね」
「あいつに罵倒されて俺に渡す理由がよく分からない」
「気にしたら負けですよぉ」
勝ち負けじゃないだろう、と思ったが、同時に何を言ったところで無駄だとも思ったので、キリコはこのまま話を進めることにした。
「効能は」
「男性の夜の耐久力に!」
思わずキリコは煙草を噴き、咳き込んだ。大丈夫ですかと心配する顔を完璧に作るMRに、手を振って大丈夫だと示す。
「先生が早漏とおっしゃったもので──以前ちょっと別の方面からもお聞きしたことが──」
「ガセだ。200%ガセだ」
別の方面って何だ、と凄まじい絶望感に襲われる。闇の連中の前でBJと喧嘩をし、その言葉で罵られた経験がないわけではない。おそらくそれが原因だろう。
「え、ガセなんですかぁ」
「ガセだよ」
「ではまさか、奥様限定で? 本当に仲がよろしいんですねぇ」
「違う。──違うんだ。あいつの言うことを信じるな」
「ええ、まあ、そうでしょうねぇ」
MRはあっさりとキリコの言い分を支持した。顧客へおもねたわけではなく、本気で言っている顔だったため、キリコは男性として心底安心できた。
「そういうことだ。いらないよ、他の誰かにくれてやれ」
「いえ、実際、冗談でして。早漏対策の薬じゃありません」
「馬鹿か」
「話の掴みですよぉ。MRなんて営業みたいなものなんですから、そういうスキルが必須でして──」
「分かった、面白くなかった、どうもありがとう。本題は?」
「こちらが成分表。奥様とお飲みになってはいかがです?」
胸ポケットから出した自筆のメモをキリコに渡し、MRは笑顔をまた深める。ざっと読んだキリコは「ふうん」と呟き、それから苦笑した。
「耐久力の薬が欲しくなる奴がいてもおかしくないだろうな」
「あ、やっぱりいります? サンプル、お出ししますよ」
「俺は不要だ。他の奴に勧める時に抱き合わせしてやれ」
やっぱりって何だ、と心の中で呟きながら、キリコはメモを返した。そしてふと一計を案じ、MRに言う。
「もらうよ」
「ありがとうございます! お楽しみ下さい!」
「確認しておくが」
「はい、何でしょう?」
「俺は早漏じゃねえ」
「──存じておりますよぉ」
MRは笑みを深めた。真偽などどうでもいい、下世話な噂を楽しむアウトローの笑い方で。キリコは絶望し、いつかこの噂を打ち消すために闇に大金を投じることになるのではないだろうか、と思った。
商店街のケーキ屋で買った昔ながらの野暮ったい、だが確実に美味しいケーキを手土産に帰宅したのは、陽が海の水平線へ姿を消そうとする頃だった。太陽からの光が日中よりも紅く、だが淡くなり、周囲を柔らかい金色に照らす時間、いわゆるゴールデンアワーだ。
日没までの数十分、BJはよくテラスで金色の海を眺めながら休憩をしている。今日もその姿を見つけ、金色に染まった自分の恋人がひどく綺麗だとキリコは思った。BJは帰って来た二人を見て、笑って軽く手を振ってみせた。地獄のカルテ整理が終わったのだと分かり、ピノコとキリコは顔を見合わせて安堵の頷きを交わす。
買い込んだ食材の整理は自分でやるとピノコが言ったので、荷物を置いたキリコはテラスへ向かう。BJの髪にキスをして座り、煙草に火を点けた。
「終わったのか」
「何とかね」
「お疲れさん」
次からこまめに整理しろよ、とは口にしなかった。無駄だからだ。車中でピノコに聞いたところ、毎回「明日からちゃんと一件ずつ片付ける」と誓っているという。心掛けだけはいつもしている、実行できないだけだ、そんな人間はいくらでもいる、とキリコはもう諦めることにした。
「カルテの整理をする時は前もって言えよ」
「どうして」
その日は来ないから、とは言わず、キリコは別の言い方をした。
「お嬢ちゃんをもっと気の利いた場所に連れて行ってやれるかもしれない」
BJはやや黙った後、新しい煙草を咥えて唇を尖らせ、ぴこぴこという擬音が聞こえるような可愛らしい動きで煙草を上下させた。可愛い、とキリコは思ったが、同時に「見抜かれたか」と自分の失策を悟り、高速で脳を働かせる。善後策が決定する前にBJが明らかに拗ねた声を出した。
「カルテの整理をするから来るなって言えばいいんだろ」
「そういう意味じゃないよ」
「嘘。流石にそういうの、分かるようになったから」
「そういうのって?」
「嘘じゃないけど騙そうとする」
「人聞きの悪い」
その通り、とキリコは内心で白旗を上げた。無論顔に出すような愚は犯さない。だが予想以上に恋人が自分への理解を深めていたことが妙に嬉しかった。
「嘘はつかないって約束しただろう」
「だから、嘘じゃないけど騙そうとする」
「俺がお嬢ちゃんを気の利いた場所に連れて行くのが?」
「そうじゃなくて」
「うん?」
「そうじゃなくて、……そうじゃないんだけど」
頭がいいはずの女は、こんな時には言葉を探し切れなくなる。充分に可愛い顔を堪能し、満足したキリコは助け舟を出すことにした。
「そう聞こえたら悪かったよ。おまえが忙しい時にお嬢ちゃんを気にしていたら、おまえもお嬢ちゃんも気の毒だと思っただけだ」
BJは返事をしない。キリコも敢えてそれ以上何も言わず、海を眺めながら心の中で数を数えた。6秒ほどカウントした時、BJが「うん」と頷く。
「分かった。じゃあそうして」
怒りは6秒我慢すれば昇華される、と心理学でよく言われる。まさにそれを実践した、否、させたキリコは、自らの手腕に拍手をしたくなった。この女と一緒になってから、随分と小技を使うようになったものだと思わなくもない。
「そうするよ。おまえは可愛いね」
言えば喜ぶ言葉を仕上げに口にし、案の定、嬉しそうな感情を隠すために唇をひん曲げたBJにキスをしようと顔を寄せる。その瞬間、家の中の電話が鳴り響いた。同時に少し笑い、軽く唇を触れ合わせた後、BJは電話を取るために席を立った。キリコは新しい煙草に火を点け、それにしても本ッ当に可愛いよな、と他人には聞かせたことのない、だが確実に知れ渡っているのろけた感情を噛み締める。
「キリコ」
電話を終えたBJが戻って来る。
「うん?」
「ユリさんがさっき彼氏と別れたから一緒にご飯食べたいって」
「またかよ。一ヶ月持ってねえぞ」
「え、別れたってそういうあれ?」
「学生じゃあるまいし、そういうあれだよ。迎えに行けばいいのか」
「うん。S駅まで出るからそこでって言ってた。何ならわたしが行くけど?」
「ああ、いい、俺が行く。──お嬢ちゃん、ユリが来るんだ。一人分増えても平気か?」
言いながらキッチンへ向かい、ピノコに声をかける。先にBJに聞いていたピノコは当然のように「らいじょうぶなのよさ」と頼もしい返事をくれた。
有能な主婦に感謝し、客間に置いてある都市迷彩柄のパンツとバーガンディーのパーカーに着替えて髪を緩くまとめる。いかにもカジュアル、いかにもプライベートな出で立ちだが、これでユリが「気晴らしに遠回りしてどこか洒落た場所へ行きたい」と言い出しても断れる。帰りが遅くなればまたBJの機嫌が悪くなるからだ。ユリの愚痴は車内で聞いてやればいいだろう。
「一時間で戻る。渋滞で遅くなったらごめん」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいなのよさ」
ピノコの手前、キスをせずに玄関へ向かう。背後からピノコの「行って来ますのちゅーくらい許すのわよ」という呟きが聞こえたが、何言ってるんだ、とBJが慌てふためいた声を出していたので応えないことにした。
ピックアップのS駅までは渋滞もなくスムーズに走れた。帰りはちょうど帰宅時の渋滞に巻き込まれそうだが、時間内には間に合いそうだと当たりを付ける。ロータリーで窓を開け、煙草をちょうど一本吸い終えた時、妹ながら素晴らしい美女振りで周囲の視線を集めつつ、ユリが不機嫌にドアを叩いたのでロックを解除してやった。
「何よ、その格好。舞浜に寄って欲しかったのに、それじゃ行けないじゃない」
「そいつは悪かった」
己の先見の明を自画自賛しつつ、キリコはキーを回した。兄が甘やかしてくれそうもないと悟ったユリは助手席に深くもたれ、溜息をつく。先生の家にいなければ気晴らしのドライブに連れて行ってくれたんだろうな、と思った。
昔は恋人よりも優先してくれたものだが、BJと一緒になってからは優先順位が明らかに変わっていることも理解している。それが妹として嬉しいことだということも。そして優先順位が変わったからと言って、家族としてないがしろにされたことは一度もない。
「聞いてよ、ろくな男じゃなかった」
崖の上の家に着くまでは兄を貸し切りにできる。ユリは思う存分愚痴を吐く態勢を取った。
「ろくでもなきゃ別れねえだろ」
「最近の中じゃトップクラスで最低よ! 一ヶ月も経ってないのにやろうとして!」
「ああ、そう」
一ヶ月という期間が長いか短いか、BJ以前の女とは早くて即日、時間をかけても二度目の逢瀬で寝ていたキリコは明言を避けることにし、ひたすら妹の愚痴に頷く作業に徹する。予想通り渋滞に巻き込まれ、妹は延々と別れた男への不満を口にし、兄は延々と頷き続けたのだった。
「あいつの前で言うなよ。理解できなくてショートする」
「分かってるわよ。だから今言ってるんじゃない」
「おまえもお嬢ちゃんも賢くて助かる」
ユリは肩を竦め、少しばかり兄に同情する視線を向けた。
「苦労してるのね」
「もう趣味だ」
「にいさんってマゾだと思うわよ。先生限定で」
「否定しねえよ」
俺に執着するあいつも結構なマゾだが、とは心の中だけで呟く。
「思いっきり買い物したい。お小遣い頂戴」
「働け。おまえ、無職になってどれだけだ」
「ステイツの陸軍病院以来かしら。だって日本だと外国人の看護師の仕事なんてないんだもの」
「だったら国に帰るなり働きやすい国に行くなりしろ。英語圏かスペインならどうにでもなるだろう」
「考えておくわ。それより目の前のお小遣いが重要よ。頂戴」
「誰がやるか、いい加減にしろ」
ことあるごとにねだられる小遣いを言われるままにやっている覚えはあるし、妹に甘い自覚もある。だがそろそろユリは働くべきだとキリコは思う。労働階級に産まれながら労働を忘れた人間は怠惰で傲慢になり、孤独な人生を送るものなのだ。
「わたし、結構疲れてるの。今日の夜、ピノコちゃんが寝てからにいさんと先生が長めの散歩に出ても、早寝して気が付かないかもしれないわ」
「20万」
「愛してるわ、にいさん」
怠惰で傲慢でもいいじゃないか、こいつの対人スキルなら孤独になるこたぁない、とキリコはあっさり思考を変えた。あのMRの彼がくれたサンプルを思い出しながら。
「あ、ケーキが2個しかないんだ。ユリさん、ピノコと食べて」
「冗談でしょ、先生のそういうとこ大嫌いよ」
「何それ、酷くない?」
「恩着せがましいと思わないの?」
「そんなつもりじゃないのに、やめて、そういう言い方」
食後、キリコの土産のケーキの数でいい歳をした女二人が険悪な雰囲気になるものの、キリコが新聞に目を落としながら「三人でつつけ、遠慮する仲でもなし」と言った途端に解決する。
「ロクター、さすがなのよさ」
「お褒めに与りまして」
ピノコに尊敬の眼差しを向けられて悪い気はしないが、BJとユリが互いに無二の好意を持っていることは明白でも、実は根本的に合わない性質同士であると知る瞬間はいつも胃が痛い。
これでもBJは言い返せるようになったのだからまだましだと言うべきだろうか。以前は口論になる前に諦めて黙り込み、ユリを更に怒らせることも少なくなかった。
スイーツの数の心配が解消されれば、あとはいつもの通りの女子会だ。解散はピノコの就寝時間と決まっている。それまで男はやることがない。また二人の女が険悪になればピノコが遠慮なく救助要請に来ると知っているキリコは、やはりいつもの通りに黙ってBJの書斎に避難し、自宅にはない書籍を楽しむことにした。
ふと思い出し、MRからもらったサンプルの錠剤シートを取り出して眺める。成分表は記憶の中にあった。経口摂取から効果が出るまでの時間、効果が持続する時間をざっと計算し、時計を見る。ピノコの就寝時間を考えるとあと30分程度で服用する必要がありそうだ。
やがてリビングの喧騒の種類が変わる。ピノコの就寝準備の時間になったのだ。風呂だ何だと大騒ぎであることは容易に予想できる。
──そう言えばあいつもカルテ整理で疲れてるか。風呂に入ったら眠くなるかもな。
キリコは手元のシートを眺めた。むしろ眠くなる程度に血行が良い方が効きがいい。恋人にゆっくり甘えたいはずのBJは、眠くなってもピノコが寝るまで頑張るだろう。
「にいさん、お風呂空いたわよ」
風呂上がりのユリが、女性陣の夜支度が終わったことを告げに来た。キリコは時計を見、ピノコの就寝時間だと確認してから頷いた。するとユリが付け加えた。
「早く入った方がいいわよ。先生、結構眠そうだったから」
「理解がありすぎる妹も怖いもんだよ」
「もらうものはもらうから気にしないで」
こんな時、ユリの天使のようだった幼少時代を思い出さないように努力する。読みかけの本をしまい、風呂へ向かった。BJの眠気と風呂掃除にかかる時間を天秤にかけ、申し訳ないが風呂掃除は多少手を抜こうと決めた。
入浴の後、普段よりもやや手を抜いた風呂掃除を終えてBJを探す。ピノコは既に眠り、ユリはこの家に置いてある自分用の美容グッズの数々をリビングで駆使していた。次の男は長続きするといいな、と思ったが、口に出したのは別のことだった。
「あいつは?」
「テラスでお待ちかねよ。わたしももう寝てあげるから、どうぞごゆっくり」
大人が眠るには早い時間だが、明日の小遣いのために妥協した妹は、手早く美容グッズを片付けて立ち上がる。
「明後日買い物に行きたいから、明日中にお願いね」
「分かった。だが働け」
「そのうち。おやすみなさい」
「おやすみ」
家族のキスをし、怠惰な妹が普段はBJとピノコが並んで眠る寝室へ向かう姿を見送ったが、近々本気で仕事について説教をしようと思った。
だが今はその時ではない。妹の仕事より可愛い恋人の方が重要だ。
「マフィン」
テラスで海を眺めていたBJに声をかける。BJは振り向き、「遅い」と唇を尖らせた。その顔が可愛くてつい笑い、昼間よりも椅子を近づけてから座る。当たり前のように身体を寄せて来たBJの肩を抱き込むように引き寄せ、少し丁寧なキスをした。
「寒くないか」
「平気。もう春の風だね」
ついこの間までは冬の気配を残していた海風も、今はやわらかく暖かい。しばらくは春の夜を楽しめる。月明りと夜の海を楽しめるこのテラスは贅沢な場所だった。
「珍しいな」
「え?」
「服」
この家では珍しく、BJはセットアップになったスカートタイプのルームウェアを着ていた。裾が長く、立てば踝まで隠れるだろう。
「──ああ、さっきユリさんに言われて」
「ユリに?」
「……にいさんが喜ぶから、って」
「間違いないね」
お見通しの妹に要請されている小遣いを21万まで上げてやろうと決め、キリコは本音を言った。自分は旧い男だという自覚があるし、典型的な女の服を着た恋人にはこの上なく愛しさを感じる。
「それならよかった」
「可愛いよ」
正面から褒められたBJははにかんで、それでも機嫌よく笑ってみせた。キリコも気分が良くなった。
しばらく取り止めもない話をし、話が途切れればキスをする。BJがキリコの指を弄んだり、キリコがBJの顎をくすぐっては小さく笑い合った。
繰り返すキスはやがて深くなり始める。ほんの少しずつ深めるキスを何度も繰り返し、やがてBJの目元が紅くなり始める光景を楽しみながら、キリコはポケットからあの錠剤のシートを出してみせた。
濃密な時間を仕事道具で邪魔されたような気分になったBJはぽかんとしてキリコを見上げる。こんな野暮な真似をされたことがない、という顔が可愛くて、キリコは笑って目元に唇を押し当てた。
「仕事じゃないよ。あのMRにもらったんだ。昼におまえが追い出したんだって?」
「……うん」
女が好きな甘くて低い声を与えれば、BJはたちまちまた恋人の顔に戻る。だが錠剤のシートから目を離すことはなかった。キリコはわざと耳元に唇を寄せ、耳朶を一度甘噛みし、BJをぞくりと震わせてから言った。
「媚薬」
「え」
「の、ようなもの、だってさ」
そういうことにしておこう、とキリコは笑った。BJは安堵の息を吐く。世間に出回る媚薬のほとんどは単なる強壮剤であり、非合法であれば大抵は違法薬物が使われている。あのMRの彼が単なる強壮剤をわざわざ持って来るはずがないし、もし後者ならキリコが受け取るはずがない。
それから少し顔を赤らめた。キリコが「媚薬のようなもの」をわざわざ二人の時間に出してみせるということは、つまりはセックスを意識していることになる。この家ではそういうことをしないという無言の取り決めがあるのに、と半ば焦りに似た感情に襲われ、思わず身体を離しそうになった。
「マフィン」
それを見逃すキリコではない。怖がらせない程度に肩を抱いた腕に力を入れ、BJを引き寄せる。BJが何かを言う前に、ゆっくりと女の下唇をいやらしく舐めた。それだけで甘く震える女が可愛いくて仕方ない。
「一緒に飲もうよ」
「え」
「気分だけでも楽しんでみないか?」
「……でも」
「大丈夫。成分は確認してあるし、サプリメントの域を出ないよ」
「……何が入ってたの」
流石は医者だ、と思いながらもキリコは微笑み、昼にあの彼のメモで確認してあった成分を教える。BJは頷き、だが目元を赤らめたまま俯いた。成分に問題はない、むしろ滋養強壮程度の効果しかないと理解できても、「媚薬のようなもの」としてキリコが示した事実がいやに卑猥に思えて恥ずかしかったのだ。
見抜いたキリコは笑い、可愛いね、と囁いた。またBJが甘く震えた。
キリコの長く節くれだった男らしい指が殊更にゆっくりとシートを押す。その指の動きを見てなぜか──なぜか、と分からない振りをしたくなる程度には恥ずかしかった──BJはずくりと身体の奥が疼いた。喉を鳴らしたなどと思いもよらなかったし、キリコが鳴った喉に喰らい付きたい衝動を堪えたなどと知る由もなかった。
ころりとてのひらに落ちた二錠のサプリメントのうち一錠をキリコが摘み上げ、BJの目を見る。
穏やかな笑みと、だが確かに燻った熱がこもったひとつだけの青い瞳から目を逸らすことができず、そこに映る自分がはしたないほど物欲しげな顔をしていると思いながら、BJは残った一錠を取った。
視線を合わせたまま、キリコが錠剤を持った指をBJの唇に当てる。導かれるようにBJはキリコの唇に同じことをした。
キリコの唇が見せつけるように緩慢に開き、性感を思い出させるような濡れた動きで舌が指ごと錠剤を絡め取った。途端に走った疼きに震えたBJの唇にするりと男の指が入り込み、同じ錠剤を口腔に置いていく。思わず息を呑んだ途端に錠剤はいとも簡単にBJの喉を通り過ぎていた。
錠剤を飲み込んだはずのキリコはBJの手を取り、そのままいやらしく指を舐め上げる。息を詰めて唇を噛んだBJの反応に笑い、手を握り込んで、今度は頬にキスをした。
「ただのサプリメントだよ」
「……うるさい、馬鹿」
「馬鹿で結構」
目元を真っ赤にして減らず口を叩く女の目元にまたキスをする。そしてあの甘く低い声が囁いた。
「可愛いね」
反応に困って身を捩る姿にまた笑い、からかわれたと思って機嫌を損ねる前に言った。
「二人で歩きたいな」
「でも」
「お嬢ちゃんの部屋にはユリがいるし、少しくらい大丈夫だろう?」
ピノコが、と言う前に先手を打たれ、BJは頷くしかなかった。この男はわたしをいとも簡単に浅ましい女にしてしまう、と思いながら。