「……嫌だ」
もう我慢できなくて、ずっと思っていたことを言ってしまった。もう嫌だ。本当に嫌なんだ。だって、こんな──
「本当だから。万一俺の思い込みだとしても、俺はきみが可愛いと思うんだよ」
「嫌だ」
それしか言えない。また泣いていた。はっとした軍医がごめんと言う前に、わたしは白状していた。ずっと嫌だと思っていた理由を。
「そんなこと言われたら、好きになっちゃいそうだから、嫌だ」
こんなふうに言われて、凄い医者で、見た目も格好よくて、わたしみたいに醜い女にも優しくて、細かいことも嘘みたいに見逃さないで、──わたしがうなされていてもずうっと傍にいてくれたなんて、凄く、全部、すごく嫌で、嫌で。
だって好きになったって、わたしみたいな女が傍にいられるはずがない。優秀で美しい軍医なんて軍の誉れだ。そんな男にちょっと優しくされたからっていい気になって勘違いして、好きになったって、行き着く先なんて惨めな未来しかない。
こんなの、ただの吊り橋効果だ。ほんの少し前まで危険の真っただ中にいたんだから、そんな効果が出ていてもおかしくない。軍医がわたしを可愛いと勘違いして、わたしはいい気になっても許されると勘違いして、吊り橋の上で揺れるのをきっと楽しんでるだけなんだ。ただそれだけの話だ。
「──好きになってよ」
馬鹿だ。こいつは馬鹿だ。二度と会えないのに。よくそんなことが言える。
「嫌だ」
「好きになってよ」
嘘ばっかり。誠実で真摯な男がわたしのために優しすぎる嘘をつく。
「もう会えない男なんか好きになりたくない。──やっぱり、わたしを可愛いなんて言う男にろくな奴はいない」
「そう言うなよ。俺だって今、好きになっちゃいそうなんだ」
「──嘘つき!」
わたしのためになんて全然ならない酷い嘘を、真摯な顔で平気で抜かす男が本当に酷いと思う。ろくな奴はいない。よく分かった。絶対に、ろくな男はいないんだ。それなのに軍医はまだ言った。
「ごめん、それ最高に可愛い」
「馬鹿!」
「馬鹿でいいよ。──ねえ、手紙を書くよ。宛先を教えて」
「嫌だ。絶対書かないくせに」
「書くよ。基地に帰ったらすぐ書くから。きみが日本に帰るより早く、家に届くかもしれない」
「嫌だ」
「どうして?」
「だって」
「うん」
「届かなかったら、哀しいから」
言ってから、自分で驚いた。わたしがこんなに女々しいことを──女だけど──考えるなんて、嘘だ。きっとまだ吊り橋にいるんだ。ぎりぎりの場所で、まるでボーダーラインの上で演技をしているみたい。きっとそうだ。演技じゃないなんて嘘だ。この男だってきっと、勘違いしてるだけなんだから。
「きみが哀しいのは、嫌だな」
男が眉をひそめて笑った。そんな笑い方をする軍医を初めて見て、泣きそうになっていたわたしは急にその感情を収めることができた。急に、本当に急に、今、この笑い方を見て、この男が真実しか──彼にとっての真実しか言っていなかったと、なぜか強く思った。
それを嬉しいと思えなかった。だってそうだ、もう会えない。いついなくなるか分からないけど、この男は軍に帰る。わたしは日本へ。きっともう二度と会えないのに、嬉しいなんて──好きになりそうな、きっともう好きになっているかもしれないのに、嬉しいなんて思えるもんか。
「でも、俺は手紙を書きたいよ。手紙にきみが可愛いって書く。それからきっと、会いたいって書くよ」
「届かなかったら読めない」
「出せば届くさ」
「届かなかったら?」
「俺が死んだってことだよ」
医者でも軍人だからさ、いつ死ぬか分かんないんだ。軍医はそう言って笑った。だからわたしは信じられなかった。自分で自分に起きたことが信じられなかった。コントロールできなかった涙が馬鹿みたいに溢れ出して、わたしと軍医を驚かせていた。
「──大嫌い」
嫌い。大嫌いだ。
「戦争なんか。大嫌い。大っ嫌い」
おかあさんとわたしを吹き飛ばした不発弾はどうして生まれたのか。どうして投下されたのか。戦争なんか大嫌い。
今度は好きになりそうな男を殺してしまうかもしれない。そうしたらわたしは手紙をもらえない。戦争なんか大嫌い。本当に本当に、嫌い。
軍医はわたしの泣き顔をじっと見ていた。でも、やがて小さい声で、誰かに聞こえることを恐れるみたいに小さい声で、わたしにだけ聞こえるように、言った。
「俺も。嫌いだよ」
それから、ごめんね、と言った。
「もう時間がない。本当はもっと早く、小屋に送ってあげるつもりだったんだ。送ってあげられないけど、ごめんね」
どういうことなのか分からなくて、ただ茫然として軍医の声を聞くしかできない。軍医はふっと笑って──ああ、慈しむということは、きっとこんな顔なんだ──握っていたわたしの手を、今までで一番強く、強く握った。
それからもう片方の手の人差し指で、わたしの唇に触れる。
名前も知らない男なのに、その意味が分かって、わたしは同じことをした。
指越しに、キスをした。
軍医がわたしの涙を指で拭い、微笑んでから立ち上がる。
さよなら、とも、またね、とも、手紙を書くからね、とも言わなかった。
わたしも何も言わなかった。
言ったのは別の男だった。
「その女性は?」
「日本の医療チームだ。関係ない」
樹々の合間から辛うじて分かる迷彩服姿の、銃を持った男が2人、姿を現す。そういうことだったんだ。わたしはぼんやりと理解した。まるで映画みたいだった。映画俳優みたいに格好いい男なんだから、これも当たり前かもしれないなんて、間抜けなことも思った。
「ポイントからヘリで引き上げる。急いでくれ」
「分かったよ。デルタもご苦労さん」
元々の基地から迎えが来たんだろう。無線か何かで連絡をして、時間までここで待っていたんだろう。小屋を断ったのはこのせいだったんだ。時間がないって言ったのも、このせいだったんだ。
もうさよなら。
ほら、期待なんかしたって無駄なんだ。
戦争なんか大嫌い。
「ちょっと待って」
急かされた軍医が彼らに要請して、彼らの動きが止まる。それから軍医はわたしの前にまた膝を付いて、わたしを見上げて、はっきりと言った。
「きみ、可愛いんだからな」
この期に及んで何を言うものやら。馬鹿じゃないの、と言ってやりたかったのに、何も言えなかった。この男が完全に姿を消すまで、声を、気配を感じていたかったから。
「最高に可愛いし、いつか恋人ができたら死ぬほど大事にされるべきってくらいに魅力的だ。大事にしない男だったらすぐ別れちまえ。蹴っ飛ばして走って逃げろ。──俺みたいないい男を見付けるか、また俺に会って恋人になるか、どっちかにしろよ」
笑えたかどうか、自信がない。でも必死で、わたしは笑った。ほら可愛い、と軍医が笑ってくれた。
「俺の恋人になってくれたら、死ぬほど大事にして、死ぬほど大事に抱くよ」
そして軍医は立ち上がり、呆れて待っていた迎えの軍人たちに合図をして、呆気ないほど素早く、そのまま樹々の合間に消えてしまった。
最初からそこにいなかったかのように、本当に、あっさりと、好きになった男はいなくなった。
いつの間にか燃え尽きていた蝋燭と、足元にある煙草の吸殻だけが、そこにいた証明だった。
わたしの記憶でも証明できるのだろうけど、別に夢でも何でも良かった。
だって夢なら哀しくない。夢の方がいい。
膝を抱えて座り直して、しばらくここで休むことにした。
本当にろくな男がいない。わたしを可愛いなんて言う奴に、ろくな男がいないって、よく分かった。
わたしを哀しくする奴ばっかり。
それでも、樹々の中に消えた男のことを、嫌いとも、怖いとも思わなかった。
それが凄くすごく嫌で、でも、時間が経てば思い出として受け入れられるのかもしれなくて、いったいどうすればいいのか分からない。
分からないから、とりあえず、したいことだけをした。
抱えた膝に顔を埋めて、自分を守るために、泣いた。
揺れる吊り橋の上にまだわたしがいるだけで、あの男は先に降りただけだ。そう思いながら、しばらく泣き続けた。
夜が明ける頃、小屋に戻った。早い時間なのに村の中はもう活気が出始めていて、だから軍医は早々にいなくなったんだと分かった。きっと戦争の、軍の都合だ。敵か味方かも分からない村で勝手に医療行為をしただけでも大問題だろうに、そこに堂々と軍のヘリで迎えに行くなんて、明るい時間にできることじゃなかったんだろう。だからわたしは嫌な思いをしたんだ。戦争なんて本当に嫌い。大嫌い。
藪さんは早起きだった。日本にいた頃が信じられないくらいに健康になっているような気がする。きっとそうなんだろう。
それからふと思い出した。思い出したと言うより、思い至った。
軍医のベッドをそのままにして来てしまった。きっとそれでも問題がないからそのままにしていったのだろうけど、もう使う人間がいないベッドをそのままにしておくのが急に嫌になった。
一人で片付けるのが面倒で、藪さんに手伝ってもらうことにする。結局わたしは藪さんにはどんな我儘も、言うだけ言ってみる習性が付いているらしい。
藪さん、と呼ぶと、井戸で顔を洗っていた藪さんは振り返って「おお」と言ってくれた。
「間か。早起きだな、おはよう」
「おはよう。ちょっと頼みが」
急に、そう、急に、軍医が言ったことを思い出した。あっと言う間にナイトが生まれる方法。もし藪さんが呆れて笑ったら──ううん、笑われるのを覚悟しておこう。
もし笑ったら、軍医が嘘をついたってことだ。わたしを騙したって思えるし、ろくな奴じゃないって断言できるようになる。
「頼み?」
「──軍医がもう行ったんだけど、使ってたベッドをそのままにして行っちゃったのよ。枝と葉っぱで自作したやつなの」
「……」
藪さんが固まる。わたしはできるだけぎこちなさを消すように頑張って──女言葉を話すことに頑張りが必要なんて不思議なものだけど──最も重要なことを告げた。
「片付けたいんだけど、わたし一人じゃ重くって。お願い、手伝って欲しいのよ」
笑うかな。──笑えばいいのに。そうすればわたしはあの男を嘘つきだって思えるし、わたしが被害者だって思いやすくなれるから。好きになりかかった男はろくな男じゃなかった、いなくなってよかったって思えるから。
でも藪さんは、笑わなかった。
「……あ、うん、もちろん!」
笑わないどころか、いつもなら何だかんだでぶつくさ言うはずの文句を何ひとつ言わないで、洗った顔をタオルで拭ってわたしに頷く。少し嬉しそうに見えて、不思議。
ベッドがある場所に連れて行って一緒に解体作業をしようとしたら、間はやらなくていいから、って言われた。何だかくすぐったくなったけど、何となく、軍医が本当に言いたかったことが分かった気がした。
思い通りに使える男──そんな男の操り方を教えてくれたんじゃなくて、男が聞き入れてやりたくなるような頼み方や喋り方を、教えてくれたんだと思う。わたしにはまだちょっと難しいし、これから先、必要になるか分からないけど。
「間さあ」
「ん?」
ベッドをあらかた解体した藪さんがわたしを振り返り、少し難しい顔で言った。
「今は俺だったから良かったけどな、使う時は相手を選ぶか、逃げ道を用意してからやれよ」
「え? 何?」
本当に分からなくて、つい藪さんをまじまじと見てしまう。藪さんは派手に溜息をついた。
「ったく、あの軍医も変なこと教えやがって。今まで言ったことないが、あいつがやたら可愛い可愛い言ってたからもう言うぞ。──間は可愛いんだから、さっきみたいに可愛く言うなら気を付けろよ。一歩間違えたら勘違いされるからな」
「え、わたし、本当に可愛くないと思って生きてるんだけど」
「──それ! それも! あざとい!」
藪さんの溜息は止まらない。あざとい? わたしが? 全然意味が分かんない、何なんだ。
でも、今は本音を言わない方がいいみたいってことは分かった。気を付けるよ、と取り敢えず言って、これは本当に気を付けて使うべきなんだろうな、って何となく理解できた。
きっともう二度と会えない男がろくなことを教えてくれたのか、それともろくでもないことを教えてくれたのか。よく分からない。
今頃、基地にいるんだろうか。新しい戦闘地域に行く準備をしているのかもしれない。彼は軍人だし、いつ死ぬか分からない。心ごと生命を救う凄い医者なのに、どうして戦争なんかに行くんだろう。
戦争なんか大嫌い。わたしは本当に大嫌い。
そう思った途端、俺も嫌いだよ、と、立場としては決して言えないはずの内緒話を囁く男の声を思い出せた。彼のことを忘れたとしても、この言葉だけはきっと忘れないんだろうと思った。
だって嬉しかったから。
嬉しかった言葉なら、きっと忘れないんだろう。
他の言葉は忘れてもいい。
俺みたいないい男を見付けるか、また俺に会って恋人になるか──そんな言葉、きっと一番最初に忘れてしまうんだろう。
蒸し暑かったはずなのに、肩が寒い。裸の肩が毛布から出ていたからだ。我ながら緩慢に毛布に潜り込む。ああ、懐かしい夢を見た。忘れようにも忘れられなかった日々のこと。長くあの場所にいたような気がするのに、実際はほんの一瞬にすぎなかった。
一生泊まる予定なんかなかったはずの高級ホテルの一室でしか楽しめない上等の寝具、それから毛布の中、寝室から続いているバスルームから漏れるシャワー音を聞くのが結構好きで、今日もその音が聞こえていて嬉しい。このまま寝た振りをしていれば、シャワーを終えた恋人がルームサービスのコーヒーをオーダーして、届いてからキスをして、優しく囁いて起こしてくれるって知ってるから、余計に嬉しい。恋人とわたしの気持ちのタイミングが一致すれば、そのまま朝からセックスすることも珍しくない。
それにしても懐かしい夢だった。何だかおかしくなって、毛布の中で笑ってしまう。今思い出せば、わたしは馬鹿なことばっかり考えて、馬鹿なことばっかり心配して、そして、わたしのことばっかり考えて生きていた。今もわたしのことばっかりだけど、少なくとも小さな娘や恋人、恋人の妹を忘れることはない。
シャワーの音が止まる。もうすぐ濡れた髪を拭いながら恋人が戻って来るだろう。寝た振りをしようかな。でも夢の中で別れてから一度も会ってないし、今日はもう起きてしまうのもいい。裸で眠っていたから毛布を胸から下に巻き付けて──恋人が好きな格好だって知ってるから──起き上がるのとほとんど同時にバスルームのドアが開いて、恋人がひとつだけの青い瞳でわたしに微笑みかけた。
「珍しい。早起きだな」
「ちょっとね。夢見が悪かったのか、良かったのか」
普段はアイパッチで隠れていて、わたしの前では見せてくれる潰れた左目を彩っていた青さも、夢のお陰で久し振りに思い出した。
「夢見? 悪かった?」
ベッドに上がってわたしにキスをして、元軍医が訊いてくれる。わたしも彼も、お互いが悪夢を──特に過去の記憶に起因する悪夢を──見た時には必ず寄り添って話をする。ふたりでカウンセリングをし合っているようなもので、そのたびに互いを哀れに思って、それからまた互いを愛していると思う時間だった。
「たぶん、良かった」
「どんな夢?」
「軍医がわたしを置いて、いなくなっちゃった夢」
「俺にとっては嫌な夢だ。良かったのか」
ふふ、とわたしは笑ってしまった。彼はそれで安心したのか、もう一度わたしにキスをする。この男は一日に何度もキスをしてくれて、わたしはそのたびに嬉しい。最初は恥ずかしかったけど、もう慣れた。
「可愛いってたくさん言われたから、いいかな」
元軍医は苦笑した。若かった頃の自分を思い出したんだろう。わたしも今になれば分かる。あの時の彼、実はとっても必死だったんじゃないかな、って。私目線で映画俳優より素敵な死神になった今、思い出すのは複雑なのかもしれない。
「夢の中のおまえは、こう言ってなかったか?」
「どんなこと?」
「『可愛いって言うなら抱いてみろよ』」
わたしは悲鳴を上げて倒れ込み、恥ずかしさのあまりごろごろと転がる。元軍医が笑ってわたしを捕まえてから組み敷いて、可愛い、と言った。何度も言ってくれた。
そのまま深いキスをして、コーヒーは後でいいかな、って気分になって、男から香るアメニティのソープの香りを楽しみながら肌を摺り寄せる。わたしよりも先にその気になっていたらしい男の指と唇が肌を早速たどり始めて、早々にわたしは熱い息を吐くことになった。
「ねえ」
あの日のわたしが聞いたら、わたしはそんな声出さないって真っ赤になって怒るような、我ながら蕩けた声で彼を呼ぶ。元軍医は顔を上げ、うん、と返事をした。それでも指は止まらないんだから、男ってやつは、って思いたくなる。
「手紙を書いてよ」
可愛いって書いて。会いたいって書いて。そう言うと、思い出した彼は微笑み、わたしに丁寧なキスをくれた。
「書くよ」
「本当に?」
「今すぐ?」
わたしが悦ぶところに触りながら言うなんて、ずるい。自分でも熱すぎると思う吐息を零してから、やっぱりあの頃のわたしが聞いたら赤くなって怒るような甘い声で、言った。
「死ぬほど大事に抱いてから、書いて」
あの頃のわたしが聞いたら、赤くなって怒った後に、でも本当はきっと言いたかったことだからって白状するだろう。好きになっちゃいそうだなんて嘘だった。好きになってた。あの時のずっと前からきっとそうだった。
それからきっと、この男も。昔のわたしなら考えただけで自己嫌悪に陥りそうな自惚れだけど、でもきっと正しい。今は自己嫌悪なんてしない。間違ってたって何が恥ずかしい? あの日のわたしに言ってやりたいくらい。この男、最初っからわたしのことが好きだったんだから、って。
元軍医はわたしの手を取って指にキスをして、それからわたしの顔を見て、言った。
「仰せのままに、クイーン」
嬉しくて笑い転げて抱き付いて、恋人が作ってくれた雰囲気を台無しにして、それでも恋人が怒らないで一緒に笑ってくれたことがまた嬉しくて、ねえ、と言った。
ねえ、キリコ、早く抱いて。
イエス以外の返事なんかいらないし、イエス以外の返事が返ってくるはずもなかった。
(ちょっと訂正)
(イエスだけじゃなくって)
(可愛いと愛してるも、これでもかってくらいに)