Far Away 02

 連れて行かれたのは村の外れで、それでもしっかり村の人たちの生活圏内だと分かる場所だった。樹木の空間の中、枝や葉で作った急ごしらえのベッドがある。その上には軍医の荷物が無造作に置かれていた。
「あんたの小屋は?」
「こっちの方が都合がいいから断った」
 ランプを点け、隣に蝋燭を立てる軍医を立ったままぼんやりと見る。軍医はわたしの様子に気が付いて、座って、と言った。
「ベッドしかないけど、俺はそこに行かないし、何もしないって約束する。でも先にこれだけ置かせてくれ」
 蝋燭に小さな遮光瓶を傾け、数滴垂らす。しばらくすると不思議と爽やかで、南国によく似合う、少しレモンに似た香りが広がった。
「それは?」
「精油。レモングラスだ。虫よけになる」
 蝋燭をベッドの傍に置き、「どうぞ」と軍医は場所を譲ってくれる。少し迷って、ベッドの端に腰掛けた。枝と葉で出来ているだけなのに、予想以上に強度がある。
 蝋燭に温められたレモングラスの香りが強くなった。軍医はそれほど離れていない、でも、たとえばわたしに何かしようとしても、確実に私が逃げられる程度の距離を取って地面に座った。何だか申し訳ないような気もした。でも、隣にどうぞとはとても言えなかった。それから、凄く嫌だと思った。
「何であんなに怒ったんだ?」
「……怒ってないよ」
「言い方を変えた方がいいな。──何であんなに泣きそうだった?」
 この男が凄く嫌だ。凄く、すごく嫌だ。あっさり見抜かれていたのも嫌だったし、わたしの性格なら、泣きそうって最初から言われるより、怒ってるって言われた方が受け入れやすいことを知っていたのも嫌だった。
「馬鹿にされて嫌な気持ちにならない人間なんて、あんまりいない」
「馬鹿にされて? 誰に?」
 答えたくなくて、わたしは黙っていた。意地悪で答えないわけじゃなくて、何だか──答えたらまた哀しくなってしまいそうだったから。わたしは弱い人間じゃないけど、強すぎる人間でもない。だからこんな態度だってしてしまう。
 しばらく軍医はわたしの言葉を待っていた。でもやがて、「あ」と目を見開いて立ち上がりかけて、わたしがそれに驚いてびくりとしてしまったら、今の無し、とよく分からないことを言って座り直した。
「俺とヤブ医者?」
 大正解だ。でもわたしは答えなかった。頷けばいいだけなんだろうけど、何だかそれも嫌で、とにかく全てが嫌でたまらないと強く思った。
 わたしの無言を肯定だと受け取ったのか、軍医は「神よ」と呟いて夜空を見上げる。樹木に覆われて何も見えないだろうに。
「そうか。──そうか、予想外だった。馬鹿になんてしてないよ、本当だ」
「ふうん」
「ふうん、じゃなくて。冗談じゃない、ヤブ医者だってずっと俺に言ってたんだ。あいつは可愛いのに無防備だから、変な気を起こすんじゃないぞって」
「ふうん」
 嘘ばっかり、なんて言う気も起きなかった。きっとこの男は口が上手いんだろう。わたしがここまで、警戒心のない子どものように、それこそ無防備に付いて来てしまったのがその証明だと思う。嘘をついていないように聞こえても、それが本当かどうかなんてもう分からない。
 わたしは不作法を承知で、ベッドの上に足を上げ、膝を抱えた。こんな気分の時には一番楽な座り方だ。軍医はなぜか急に一瞬だけ医者の目になって、それからすぐにその目を隠した。わたしは気付かない振りをしておいた。指摘したってきっと、何もいいことはないから。
「嘘だと思ってる?」
「どっちでもいいよ」
「嘘じゃない。きみは凄く可愛い」
「──軍医」
「うん?」
「それ、やめてくれないか。あんたの国じゃ挨拶なんだろうけど、日本じゃ違うんだ」
「俺の国だって、挨拶でこんなこと言わないよ」
「やめてくれ。惨めになる」
 惨め、と言う言葉は結構強い力を持っている。軍医にもその力が発揮されたようで、しばらく無言になった後、「分かった」とやっと言ってくれた。
「なあ」
 軍医が声をかけてくる。めげない男だ。それから、頭がいい男なんだ。逆の立場なら、きっとわたしはどうしたらいいか分からなくて黙り込むしかないだろう。
「俺は何もしないよ。隣にも座らないし、指一本触らない。きみを傷付けないし、嫌なことを言ったらすぐ教えてくれ。二度と言わないから」
「……ふうん」
「きみだから──医学生だから言っちゃうけどさ。知ってるかもしれないけど、その座り方」
 わたしは軍医を見る。軍医もわたしを見ている。青いふたつの瞳が真剣で、それから優しくて、凄く、すごく、嫌だと思った。
「それ、自分を守る座り方だ」
 ふうん、と返事をしたかどうか。抱えた膝の上に傾けた頬を載せ、どうでもいいかな、と思った。わたしは心理学に明るくない。これからはそういう医療分野ももっと盛んになっていくのだろうけど、わたしはたぶん、まだ手を出す余裕はない。だからどうでもよかった。
「何が怖い?」
 軍医の声は優しい。優しいけど、何て言ったっけ、そう──心療内科。きっとそこの医者ならこんな声を出すんだろう。いつの間にわたしはこいつの患者になったんだ? 心療内科なんて必要ないのに。
「お医者さんごっこなら他の誰かとやってくれよ。専門は違うだろ」
「察しがいいね。一番厄介な患者になれる」
「医学やってりゃみんなそんなもんだろ」
「そうかもね。──分かった、話を戻す。惨めな思いをさせてすまなかった。俺たちの本意じゃなかったし、きみの事情は分からないけど、きみを嫌な気持ちにさせたことは謝るよ」
 何だかおかしくなった。あれだけわたしを可愛い可愛いと言っていた男の声が真摯で、本当に自分を責めているようで、いつもの自信満々の軍医じゃないみたいで。
 それが凄く、すごく、嫌だった。
「別に。もういい」
「本当に?」
「しつこいな」
「どうして俺を責めないんだ? きみには責める権利がある」
 いかにも外国人、って言い方。馴染めない。わたしはこんなこと、たぶん一生言えないし、言う立場にもなりたくない。だからこの男が真摯で、勇気のある男なんだってまた分かる。それが凄く嫌になる。
「責めてどうにかなるのか」
「きみの気が晴れる」
「あんたは嫌な気分になる」
「そりゃあね。でも、それは当たり前だし、受け入れるべき感情だよ。もちろん怒ったりしないし、そんな権利は俺にはない」
「嫌な気分にさせるために責めるなんて、健全じゃない」
「目的が違うよ」
 軍医が煙草を咥えて、軍の支給品だろう四角いライターで火を点ける。軍人はみんなこのライターだ。日本でも出回っていてそれなりに普及してるけど、こいつみたいな綺麗な白人が持っているとまるで映画俳優みたいだった。本当に嫌になる。
「俺を嫌な気分にさせるために責めるんじゃない。きみが本当に嫌だったことを、俺に理解させるために責める──この言い方も日本人には分かりにくいか。何だろうな、説明? ──説明でいいか。俺に理解させるために説明してくれよ。そうしたら俺は二度と同じ過ちを犯さないで済む」
「詭弁だよ」
「違う。真実だ。少なくとも俺はそう思う」
「あんたがそう言うならそうなんだろう。あんたの中ではね」
 わたしの言い草が面白かったのか、それとも別の理由かは分からないけど、軍医は少し笑った。わたしは全然面白くなくて、笑う気になんてなれなかった。だけど何となく感情が落ち着いて来て、礼の代わりに責めてやろうと思った。
「わたしは可愛くないよ」
「俺はそう思わないけど、きみがそう言うならそうなんだろう」
「わたしの中ではね」
「きみの中ではね」
 ほぼ同時に言って、それからほぼ同時に笑ってしまった。それで少し気が楽になった。
「この傷は嫌いじゃないし、わたしの誇りなんだ。本間先生の芸術だもの。でも、だからって──可哀想、とか、気持ち悪い、とか。色んなことを言われたけどさ。でも何回言われたって気分がいいわけないし、自分が可愛いなんて思えるわけがない」
 うん、と軍医は頷いたけど、それは同意の頷き方じゃなかった。欧米人特有の相槌だ。これも映画みたいで、わたしはやっぱり馴染めない。
「それに、わたしを可愛いって言う奴にろくな男はいない」
「ヤブ医者も?」
「あんたもね」
「それは酷い」
 軍医は笑い、わたしも何となく笑う。これは日本人独特の笑い方かもしれない。きっと軍医は馴染めない。
「本当にろくな奴がいなくてね。酷い目に遭わなかったわけじゃないし、それは言うのも嫌だけど。とにかく、わたしはそう言われると」
 そう言われると。そこで言葉を切った。切ったと言うより、言葉に詰まった。ああそうか、そうだ──可愛いって言われるのがあんなにも嫌だった理由。
 軍医はわたしの言葉を待っていてくれる。普通の奴なら話が終わったと思って、何か勝手に話し始めていいはずなのに、黙ってわたしを見て、ずっと待っている。
 嫌だ。すごく、嫌。
「そう言われると」
「うん」
「……怖いんだ」
 軍医は少し黙り、それから、そうか、と言った。それしか言わなかった。──それしか、言わないでいてくれたんだと思う。うん、とわたしは返事をして、膝を抱える腕にぎゅっと思い切り力を入れた。何となく呼吸が浅くなりかけて、深く息を吸ってコントロールに努めた。気付いた軍医が──本当に目敏い医者だ──「横になって」と言ってくれたけど、首を横に振って断った。
「そういう話だよ。藪さんにも言ってない」
「そうか」
「藪さんには黙っててくれないか」
「誰にも言わないよ」
 軍医の声は優しい。殊更に作った優しい声じゃなくて、この男が心底、本当に優しいのだと分かる声で、わたしは嫌で嫌でたまらなくなる。
 可愛いなんて言う男にろくな奴はいない。わたしはきっと一生、そう思って生きるのかもしれない。
 悪夢の中にまで出て来た忘れられないあの男は、いつもわたしを可愛いと言った。わたしは有頂天になっていたと思う。今改めて考えるまでもなく、藪さんの言うことを聞いておけばよかった。でもあの時のわたしはどうしても受け入れられなくて、あの男が言う可愛いという単語と、それからあの男に夢中になっていた。
 それからすぐに、あの男に酷い目に遭わされた。思い出すのも嫌なのに、こんな時に思い出してしまうなんて。
「どうした」
「え」
「──悪かった。無理をさせた」
 軍医が焦っている。何でだろう。変な奴。でもすぐに分かった。馬鹿みたい。わたしは何て馬鹿で、弱い人間なんだろう。
 思い出して、怖くなって、泣いているなんて。
「ごめん。俺のやり方が悪かった。今度こそ責めてくれよ」
 嫌になる。本当に嫌になった。
 だってずるい、卑怯じゃないか。
 慌ててわたしを慰める姿も格好いいなんて。
 哀しいじゃないか。
 こんなに格好いい男がとち狂って、わたしに可愛いなんて言う冗談みたいな幸運を、わたしは怖くて受け入れられないなんて。
 何もしない、近付かないと約束したはずの男が、わたしの前に膝をついて、この男とは思えないほど恐る恐る手を取って来た。でも逃げようと思えなかった。この男はきっと──絶対に、今、わたしに酷いことをしないって、なぜか分かったから。
「すまなかった。ごめん。謝る言葉が見つからない」
 暑さと湿気で湿った手なのに、指先がかさついている。妙に冷静に、そんなことを感じる。それは医療者だからこそ、医者だからこそって、この男だから、そう思えた。
「──消毒でがさがさ。ハンドクリームを塗らないと」
 わたしが言うと、軍医は安心したように微笑んだ。たぶん、わたしの精神状態が過去の悪夢に引きずられ過ぎなかったことに安心したんだろう。
「きみの指はそうでもない。手入れしてるんだ?」
「まだ医学生だから、そんなに現場に出ないし」
「本当は全く現場に出ないはずだけどね」
 軍医は笑い、わたしも笑う。それから涙を拭って、人前で泣くなんて馬鹿なミスを呪おうと思った。でもそんな気になれなかった。この男の前なら、今なら、別にいいんじゃないか、って思ったから。
「ねえ」
 優しくて柔らかい声がわたしを呼ぶ。
「隣に座っていいかな。何もしない。本当に」
 膝を付いたままわたしを見上げる青い瞳が優しくて、嫌になる。
「信じて」
 この男はきっと嘘を付かない。全然怖くない。嘘みたいに。
 嫌になる。
「あんたのベッドだ。好きにしろよ」
「ありがとう」
 軍医はわたしの隣に座り、改めて片手で手を握って来た。握ると言うより重ねるだけで、本当にこの男は何もしないのだとなぜか分かった。
 それから取り止めもないことを話し続けた。取り止めもないことを話していると装って、会話がわたしのストレスを吐き出させるための方向へ誘導されていることには気が付いたけど、抗ったり、指摘する気になれなかった。
 この男は優しくて、それから、医者なんだ。
 身体だけじゃなくて、心も癒そうとする医者なんだ。
 わたしにはまだ手が届かない高い次元の領域で、ずっと先を生きる凄い医者なんだ。
 本当に。本当に──嫌になる。
「可愛いって言われるのが嫌なら、もう言わないけど。でも心の中ではそう思ってるから、それは許せよ」
「わたしに聞こえなければ。悪趣味な奴」
「じゃあ、ヤブ医者も悪趣味だな。俺と同じ意見だったんだから」
「酒で目がやられたのさ」
「じゃあ、俺も目がやられたのかもな」
「片目でしか見てないんじゃないか?」
「だったら片目でもいいよ。それで可愛い女の子を見逃さなくて済むんだから。──今のは心の中で言ったんだ。聞こえてないだろ」
 軍医は片手で自分の左目を隠し、わたしを見て、うん、可愛い、いいや、心の中でしか言ってないからね、なんてわざとおどけて言ってみせる。笑うしかなかった。笑う以外に何ができる?
「馬鹿みたい」
 こんな減らず口を叩くくらいしか、できない。
「馬鹿で結構」
 軍医は笑いながら返してくれた。わたしも笑ってしまった。
「でもさ、ほとんどの男は怖くないから。それはいつか分かって欲しい」
「ふうん?」
「本当だよ。男なんて簡単なもんさ。俺が言うのも何だけどね」
 きっと嫌な話じゃない。きっとこの男は、わたしに嫌なことを何もしない。もう分かっていた。本当は最初から分かっていたけど、悪夢がそれを邪魔していただけだった。悪夢を見たことは覚えている。でももう、全然怖くなかった。
「ちょっと可愛く、は、禁止か。──女の子らしく何か頼んでみるといい。あっという間に従順なナイトが生まれる」
「何それ?」
「俺が言うんだから間違いない。俺もそうだから」
 笑ってしまう。この男が女の子に可愛く言われたくらいで? そんなの信じられない。
「もし今、きみが俺に女の子っぽく頼んだら、たぶん俺は何でも言うことを聞くだろうね」
「ふうん?」
「言ってみる?」
「言って欲しいんだろ?」
 軍医は笑った。わたしも笑った。やっと明るく返事をしたわたしに軍医が安心してくれたから、笑えたんだと思う。
 それから、本当に、嫌だ、と思った。
 嫌だった。この男が優しいのも、この男の下心が何もないと分かってしまうのも、この男が映画俳優みたいに見えることも、この男が──何の見返りもなく、わたしの異性への恐怖心を解そうとしてくれていることも。
 何もかも、本当に嫌だ。
「いいよ。練習してみなよ」
「ふうん?」
 可愛い女言葉なんて使ったことがなくて、すぐに思い付かない。結局、高校生の頃に同じ教室にいた──付き合いなんてなかったし、今思えばいじめられていた気もする。慣れ過ぎてて気が付かなかったけど──派手で美人で、男子生徒に人気があった女子生徒を思い出す。
「──ねえ、お願い、煙草をくれる? 小屋に置いて来ちゃったのよ」
 その途端、軍医の顔が固まった。わたしは思い切り後悔した。呆れられたんだ、あんまりにも似合わなかったんだ! どうしよう、せっかく優しくしてくれたのに台無しだ!
 恥ずかしくて、泣きたくなって、でも泣けばまたこの男は自分が悪いって言うだろうから、とにかく我慢して、それでも恥ずかしくてたまらなくて、重ねられたままの手を避けようとした。避けようとした途端、ぎゅっと掴まれて驚いた。
 軍医が俯き、長く、息を吐いた。ほら、呆れてる。きっと。どうしよう。恥ずかしい。言わなければよかった。調子に乗りすぎたんだ。わたしみたいな醜い女が調子に乗るなんて、やっちゃいけないことだったんだ。
「ちょっと、今の」
 軍医が呻いた。何を言われるんだろう。きっと馬鹿にされる。これは馬鹿にされても文句が言えない失態だもの。恥ずかしくてどうしたらいいか分からない。
 でも、軍医が次に言った言葉は、わたしを馬鹿にするものじゃなかった。
「かなり、可愛い……は、駄目か。でもかなり、こう。──いいと思います」
 どうして最後が丁寧語なんだろう。変な奴。そう思わないとやってられない。驚いてしまってやってられない。
 この男にわざとらしい女の真似が受け入れられたどころか、どうやら気に入られたらしいなんて、驚く以外にできることがなんにもない。
 軍医が顔を上げてわたしを見る。
「仰せのままに、クイーン」
 今の今まで呻いてたくせに、それは信じられないくらい格好よくて、よくて。
 嫌になる。
 軍医が煙草の箱を差し出してくれて、有り難く一本もらう。咥えたらすぐにあの四角いライターで火を点けてくれた。わたしが普段吸う煙草よりもだいぶ重くて、男の煙草だなと変なところで意識する。少し時間をかけて吸わないと、慣れない重さのせいで貧血になるかもしれない。
 それから軍医は自分でも一本咥えて、やっぱり火を点けようとする。
「あれ。──ああ、もう、石がなくなったか」
 火打石の役目をするパーツが擦り減って、火が点けられないらしい。普段は底に入れてある予備の石も使い切っちゃったんだと嘆き、軍医は溜息をついた。
「火、頂戴」
 火の点いた煙草をライター代わりにすることは喫煙者の中ではままある話だし、わたしもたまに経験する。大抵は女の喫煙者同士でやり取りするけど、慣れていると言えば慣れている。
 いつもの癖で咥えたまま顎を上げて、どうぞ、と示した。すると軍医が「ああ」と呻いて、また俯く。
 何だよと言う前に、「ああ、もう」と軍医が言って、握ったままだったわたしの手をまた力を込めて握り直される。何かと思う間もなく青い瞳が近づいて来て驚く。すぐに思い至る。
 ああ、これ──何てミスだ。何て! わたし、何てミスを──
 軍医の唇が、まるでわたしの唇に触れたようだった。もちろんそれはただの錯覚で、彼が咥えた煙草と、わたしが咥えている煙草の先が触れ合っただけだ。
 ほんの数秒で火は移り、軍医の顔がゆっくりと離れて行く。青い瞳の中にわたしがいて、そのわたしがあんまりにも赤くなっていて、馬鹿みたいとしか思えない。
「ご馳走様でした」
「……うん」
 ただのシガーキスなのに、まるでキスをしたみたいに唇の感触がざわついている。嫌だ。凄く、すごく嫌。
 キスしたい。なんて、思ったわたしが、すごく嫌だし、この男が嫌な顔をしてくれないのも、嫌。
「あのね」
「……うん」
「今、俺、凄く我慢した。褒めて欲しい」
「何を?」
「あんなことされたらキスしたくなる。煙草で良かった」
 さっきよりも深く深く、今度は煙混じりの息を吐き、軍医は呻くように言った。わたしは何も言えなくて、どうしよう、本当にどうしようとしか頭の中に言葉が出てこない。
「今のはイレギュラーだ。他の男にやるのは駄目だ。簡単に言いなりにできるだろうけど、いくら言うことを聞くからってやり過ぎだ。加減してやるんだよ」
「も、もう、しない」
 こんなシガーキスも、それから、女言葉で喋ることも、きっともうしない。したくない。だって嫌だ。凄く嫌だ。とにかく嫌で嫌でたまらない。
「ごめん」
 急に軍医が謝る。
「言っても怖がらないでくれないか。本当に本音だから、今言わないと後悔する」
「……何を?」
 本当に本音? 後悔する? 意味が分からない。首を傾げたわたしのその仕草を了承だと思ったのか、軍医は握った手にまたぎゅっと力を込めてから、勝手に言ってしまった。
 禁止だと自分で宣言したはずの言葉を。
「可愛い」
「……っ、……ちょっと、何」
「きみ、めちゃくちゃ可愛い。──可愛い。凄く。可愛くて目眩がした」
 短くなった煙草に気が付かなかった。指を焦がされてやっと気が付いて、慌てて地面に落として踏み消す。その間も軍医は手を離してくれなくて、わたしが火を消したことを確認してから、自分の煙草を同じように踏み消した。
「何もしない。本当。怖がらないで」
 可愛いと言われると怖い。そう言ったわたしのために、軍医は誠実に、必死にも見えるほど真摯にわたしに言う。
「可愛いんだ。凄く。嘘じゃない。信じて」
 そんなの無理だ。こんな短時間、名前も知らない男にちょっと言われたくらいで考え方が変わるもんか。──でもそんな減らず口を叩く気になれない。それくらい軍医は真剣で、わたしに本心だと教えようとしている。
 泣きたくなった。凄く嫌。凄く、すごく──嫌。