身体を重ねる回数が増えれば疎かになりがちな事後の時間も、今はまるで初めて抱き合った時のようにいとしくて離れがたかった。何度もキスをくれては甘い言葉を囁き続ける男を本当に好きだと思いながら、BJはされるがままだ。
「キリコ」
「うん?」
「ありがと」
「何だ、それ」
「わたしのことなんてもう好きじゃなくなっちゃったのに、抱いてくれてありがと」
「──話が戻った。待て」
これだけのセックスをしておいて何を抜かす、と言いたい気持ちをぐっと堪え、キリコは腕の中のBJを抱き締める力を強くした。思い込みにもほどがあると呆れつつも、今この誤解の原因と究明し、解決しようと心に決める。
「どうしてそう思った?」
「あの子に花をあげたんだから、そういうことだし」
「そうじゃない、どうしてそんなことにこだわるんだ」
本気で意味が分からなかった。あんなもの、と思った
「あんなもの、大した意味なんてないだろう」
「本気で言ってる?」
BJが拗ね切った声で言うのだから、これはもうたまったものではない。額に唇を落として正直に言った。
「言ってくれなきゃ分からないよ。話して」
キリコが促したが、BJは黙り込んでしまった。キリコの胸に顔を押し付けて隠れてしまおうとする。可愛いと思いながらもキリコはその髪に唇を落とし、話して、ともう一度言った。やがてBJが口を開いた。
「きっと勘違い、かもしれない」
「そうだな、勘違いだ。でもどうしてそう思ったのか知りたいんだよ」
BJはまた黙り込んだが、辛抱強く待つキリコにやがて観念して「だって」と小声で言った。
「バレンタインにもらうなんて。花を返すなんて」
「それが嫌だった? どうして?」
「それが分からない」
「嫌だった理由が?」
「違う。キリコが分からない理由が分からない」
涙声になったBJを慌てて抱き締め、天井を仰ぎ、ええと、と必死で考える。だが分からない。余りにも理解不能だ。これはもう正面から、むしろ一から言うしかないと気付いた。
「マフィン」
「うん」
「バレンタインってのは、男が恋人に、夫が妻にプレゼントを渡して喜んでもらう日だろう?」
「え?」
「それ以外なら、世話になった人に小さなプレゼントをして、受け取った方が返礼するなら当日中か近日中だ」
「……え、え?」
「え、って何が」
「──え?」
キリコの胸に顔を埋めていたBJが顔を上げ、ぽかんと口を開けてキリコを見る。可愛かったので目元にキスをしてから、どうしてこんな顔をするんだ、と思った。
BJがゆっくりと身体を離した。キリコを見上げてしばらく言葉を探した後、あの、と呻くように言う。
「それ、キリコのオリジナルバレンタイン?」
「……俺が育った環境でのバレンタイン」
「つまりアメリカ?」
「うん。──……ん……?」
キリコは黙る。そして考える。BJも黙っている。お互いに見詰め合い、それから同時に口を開いた。
「文化の違い」
「文化の違い」
再び見詰め合い、そして同時にぐったりと抱き合って、シーツの上をごろごろと緩慢に転がった。互いに互いの文化に振り回されたことを理解し、一気に何もかもが馬鹿馬鹿しくなった瞬間だった。
「え、……わたし、本気で10代の子にキリコを取られると思ってあんな真似したんだ……」
「あ、そうなの」
「……そうだよ……」
「大層お可愛いらしゅうあられました。ご馳走様でした」
「やめて、思い出させないで、死ぬ」
可愛かったのに、と思いながらも機嫌を損ねないためにキリコは話を元に戻す。
それにしても病的な思い込みだ、流石は精神の安定性に欠けるこの女だ、と思わざるを得なかった。大丈夫、そこもひっくるめて愛してるから、とも。
「日本のバレンタインはチョコレートを食べる日じゃないのか」
「年に一度だけ女性が告白しやすい日」
「と言うと」
「好きな男性にチョコレートを渡すのが告白の意味。義理で配るのもあるけど本来はそれ」
「……知るか、そんなもん……」
「日本の文化」
「ワタシアメリカジンデス」
「何、そのふざけた発音」
「日本人はこういうの好きだろ」
道理で、とキリコはここ数日の街の様子に納得した。女性たちが普段よりも熱心に、あるいは面倒そうにチョコレートを選ぶ姿をよく見かけた。百貨店の売り場も凄まじい混雑だった。そこも女性客ばかりだった。
「確か、本当は菓子の会社がチョコレートを売り込むために始めたキャンペーンだったんだけど、まんまと定着しやがったっぽい」
「しやがった、とは」
「極貧の大学時代、ラボの連中にチョコ期待されるのが死ぬほど嫌だったからあんまり好きじゃない」
「いつ? ベトナムの後?」
「前も後も。わたしが医局を追い出されるまで。畜生、あいつら普段は邪魔してたくせにバレンタインの時だけよくも」
「待て、バレンタインに変な記憶を改めて紐付けるな、毎年来る日なんだぞ」
キリコはやや本気で止めた。これからバレンタインのたびに嫌な記憶を思い出すことになりかねない。BJも理解し、ぐぬ、と妙な呻き声を漏らしてキリコの胸から顔を上げた。
「って言うか、話戻すと」
「うん」
「わたしが怒っても仕方ないと思うのは、やっと分かった?」
「まあ、そういうことなら──だからってお前、あれはないだろう。ちゃんと言えよ」
「そういうこと言うからキリコはわたしのこと好きじゃないって思うんだ」
「いい加減にしろ、馬鹿」
「わたしがあの状況で説明できるもんか。自慢じゃないけどパニックだった」
恋人ならそれくらい分かるはず、とBJは頬を膨らませた。キリコは曖昧に頷いた。それくらい分かるはず、という無茶苦茶な言い分への理解ではなく、BJがそう思っていることを理解した。
「じゃあ、おまえ」
「ん」
「もらった菓子を捨てようって言ったのに、どうして怒った」
「──最低」
不意に零れた呆れ切った声と軽蔑の目が、女性問題で「女性の意に反する意見」を口にした時の妹と全く同じものだと知り、キリコは罵倒を覚悟した。俺の家の女たちは罵倒が上手いんだ、お嬢ちゃんでさえ本気になれば俺の心を抉るだろう、と明後日の方向に意識を向ける準備をする。
「10代の女の子が勇気を出して、憧れの男の人に持って来た手作りの菓子を捨てるなんて有り得ない」
「……ああ、そう」
有り得ない、有り得ないって、おまえ今日何回言ってるんだよ、しかも最初はあれだけ怒って今この言い分かよ──口に出せば再びの開戦になりかねないことを過去の経験から悟っている。戦争を回避したいキリコは心の中の言葉を隠して神妙に頷き、敗北者として傾聴の態度を貫いた。
「しかも文化の違いがあるのを分かってない、あの子」
「何を」
「ピンクの薔薇、あげちゃった」
「そこまで見てたおまえが凄いよ。この部屋だろ? 結構距離があるぞ」
「嫉妬で視力が上がった」
「医者としてどうなんだ、その発言」
「宇宙人まで治療した天才外科医に何言ってんだ」
「宇宙人の治療に医師免許はいらないってことはよく分かったよ」
BJの話が妄想か真実かどうかなど考えないようにしていた。恋人を理解したい、だが全てを理解する必要性はない──BJと出会ってからそう思う回数が増えたことは確かだ。
「どうするかな、今度会ったら訂正した方がいいんだろうか」
「それも酷くない? わたしがいることは知ってるんでしょ」
「知ってたよ。家にもう来てるのを知ってるのかと思ってたんだが、全く違う話だったわけだ」
キリコが溜息混じりにその時の会話を説明するとBJは苦笑した。文化の違いは本当に洒落にならないようだ。
「わたしのことを知ってるなら放っておけば? 元々はっきり言われたわけでもないんだし」
「それは確かに。もらってくれるだけでいいって言ってたな」
「じゃあいいじゃない」
「ただ、ご近所なんだよな。あそこの親とはたまに会うから面倒くさい」
「知らんぷりしておけばいいじゃない。ワタシアメリカジンデスって」
「まあ、そう言う手も──ん?」
かりかりと言う音に気付き、キリコは顔を上げる。BJも同じく顔を上げ、それが扉を引っ掻く音だと知って、ああ、と言ってベッドを降りた。裸のままの後姿を見て、いい身体だよな、とキリコはしみじみ思う。
「ごめんね、待っててくれたの?」
「うにゃ」
ドアを開けると猫がするりと入り込んで来た。抱き上げたBJがベッドに戻り、キリコは「ご苦労」と言って物分かりの良い猫の顎をくすぐってやる。
「にゃおう」
「痛ェな、何だ、おまえ」
BJに抱かれたまま、猫はべしべしと前脚でキリコを叩く。猫ぱんちはだめ、とその脚を取ってから、BJはふと気付いた。
「ご飯かも。もう遅いし、最後にご飯あげたの、キリコが帰って来る前だし」
「それなら結構経ってるか。悪いことしたな。よし、猫、サーモンがあるぞ。マダムにはいいもの食わせてもらったってちゃんと報告しろよ」
「いいなー、サーモンいいなー、くろおも食べたいにゃあん」
「人間用のだ、俺たちも食べよう」
ふざけるBJに笑ってキスをし、猫を抱いてキリコは先に寝室を出る。BJはあらゆることへの満足の息を吐き、勢いよくベッドから飛び降りてクローゼットを開けた。
本来なら男の服しかないはずのそこに、自分の部屋着があることが嬉しかった。キリコの好みで買ったドルマン袖のトップスと、セットアップのロングスカートのルームウェアに着替える。
それから床に落ちた薔薇の花束に気付き、誰にも横取りされるはずがないのに、わたしの、と急いで抱え上げてから寝室を──出ようとして、慌てて出窓に置いてあったものを取って、今度こそ寝室を出た。
猫の食事を手早く用意して食べさせていたキリコが、薔薇の花束を抱えて階段を駆け下りて来たBJを見て微笑む。笑ってくれたことが嬉しくてBJも笑い返した。
「これ活けて。明日持って帰るまでに萎れたら可哀想だから」
「いいよ。──けちがついたな、明日新しいのを買うから置いて行けよ」
「だめ、これがいい。花は悪くないから」
「おまえは本当に可愛いね」
頬にひとつキスをして、キリコは花束を持って花瓶を取りにリビングを出る。
餌皿に顔を突っ込んで夢中でサーモンを食べる猫の背中をひと撫でし、BJはどさりとソファに腰を下ろした。それからコーヒーテーブルにあった、あの女子高生のチョコレートの袋と、自分が手にしていたショップバッグを入れ替える。
「ふーん、かーわーいーいー」
棒読みの無感動な声を出しつつ勝手に袋を開けて取り出したチョコレートは5粒、全て洒落ていて可愛かった。アメリカンチェリーにチョコレートがコーティングしてあり、ラッピングも手が込んでいる。
外すのももったいないほど可愛らしいラッピングを容赦なくばりばりとむしり、BJはひとつ口に放り込んだ。
齧った途端、美味しい、と素直に認めた。噛んだ瞬間にチェリーの果汁と果肉に染み込んだブランデーがじわりと滲み出したと思ったら、コーティングのビターチョコレートを溶かして舌の上で融合し、味蕾の上を蕩けていく。ブランデーは間違いなく高級品だ。
──あの子、きっとお酒なんて飲んだことないだろうに。キリコが大人の男だから、一生懸命作ったんだろうなあ。
「ま、それもわたしが食べちゃうんですけどねー」
「にゃあ?」
「おまえさんはだめ、猫はチョコ禁止」
大人げないとは自分でも分かっている。恋人の存在を知っていても懸命に作って、勇気を出して憧れの男性に渡したこのチョコレート、きっとわたしにだけは食べられたくなかっただろうなあ、と思った。
花は悪くない。チョコレートも悪くない。きっと世間はあの子も悪くないって言う。
でもわたしは嫌、でも捨てるなんて可哀想でできない。
だからわたしが食べちゃう。
キリコには絶対食べさせない。
大人げなくてごめんあそばせ。
わたしの男に手を出すな、なんて、10代の女の子に正面切って言うほどみっともない女じゃありませんけれど。
それでも。
「玄関に活けて──……何、おまえが食べるのか、それ」
「うん。キリコは食べなくていいよ」
「そうするよ」
何かしらの闇を見せた女に内心で背筋を震わせながら、キリコは遅くなった夕飯の支度をしにキッチンへ向かう。その背にBJは声をかけた。
「ねえ」
「うん?」
「今度会ったら、美味しかったって言ってたよ、って伝えてね」
それでも、釘くらい刺しておかなくっちゃ。
わたしの男に手を出すな、ってね。
「……俺が言うのか」
「他に誰が?」
「……そうだね」
よろしくね、と微笑み、BJは可愛いフルーツチョコレートボンボンをまた口に入れる。キリコに言わせる自分が醜悪だと思ったが、そもそもは大人の迷惑を考えない子供の一途な我儘のせい、と開き直ることにした。
キリコはあの少女が「あの先生にはあげないで」と言っていたことを思い出す。どうやら俺は日本文化を理解できなかった罰として、少女に酷な宣告をする役目を与えられることになったようだ、と溜息をついた。そしてBJには内緒で、もう少し別の言い方をしようと決めた。保身だ世間体だと言わば言え、死神と言えど悪魔になりたいわけではないし社会生活もある。
「自分の手を下さないくせに正面から叩き潰しにかかろうなんざ、おまえも大した女だよ」
「何」
「何でもない」
「あんまり酷いこと言わないで。いいことないよ」
「言わなかったらどんないいことがあるんだ」
「たぶんあれ」
サイドボードの上に置いたショップバッグを指で示す。何だよ、と言いかけ、それが何かを知ったキリコは微笑み、それからBJの隣に座って抱き寄せた。
「俺に?」
「何もないとでも思ってた?」
「俺の国のバレンタインは?」
なるほど、男性から愛する女性へのプレゼントが主流の国だったな、とBJは覚えたばかりの知識を改めて思い起こす。
「ありがとう。こんなこと初めてだ、嬉しいよ」
キリコが嬉しそうにキスをしてくれることが嬉しい。自分から抱き付いて何度もキスをした。途中で猫が邪魔しに入り、BJの膝に乗ったので、猫にもキスをしておいた。猫は喜び、だがキリコのキスには猫ぱんちが炸裂した。
「ノイハウスの。ベルギーで食べた時に美味しかったから」
「もちろんおまえも食べたくて?」
「中にね、アプリコットジャムの入ったやつがあるから、それはわたしの」
「──ったく、しっかりしてやがる」
苦笑しながら上品な包装を外し、綺麗に整列したアソートチョコレートを出す。
「だめ、おまえさんはチョコ駄目だってば!」
興味を示す猫を床に降ろす。猫は「うぬぅ」と悔し気な声で鳴いて足元に丸くなった。
「キリコ、これ」
「うん?」
これなの、これが食べたい、と早速ひとつのチョコレートを指定する。夕飯が食えなくなっても知らないぞと言いながら、キリコは口元にそれを運んでやった。
ぱくりとBJの唇が咥えても指を離さず、何かと思って見上げるBJと目が合う。そのままキリコは口元を笑いの形に釣り上げた。
「俺の目を見て」
最初はきょとんとしていたBJが、やがてベッドの嬌態を思い出して目を丸くし、それから一気に耳まで真っ赤になる。それが可愛くておかしくてキリコは声を出して笑い、BJは怒っていいのか恥ずかしがればいいのか分からず、何はともあれチョコレートを飲み込み、そしてはっとして「馬鹿!」と絶望の罵りを上げた。
「馬鹿、味わって食べたかったのに飲んじゃった、馬鹿!」
「だっておまえ──いや、ごめん、他のも食べていいから」
「これはひとつしかなかったのに! 馬鹿! キリコの馬鹿! 大嫌い!」
「残念なことに、俺は好きだよ」
「どうして残念なんて言うのー!」
「じゃあ嬉しいことに!」
また理不尽に怒る女を抱き締めて笑い、二人の声に驚いた猫が飛び上がった姿を見てまた笑う。怒っていたBJもやがて笑い出し、二人で抱き合って存分に笑ってからキスをした。
チョコレートの香りがするキスは悪くない。満足したキリコは深いキスに切り替えながら、来年はどちらの国のバレンタインにするべきだろうと考えたのだった。