バレンタインは日本だけのお祭り騒ぎだ、と言われるが、実際のところはそうでもない。キリコが生まれ育ったアメリカでもこの時期は一大商戦であり、男女はイベントを楽しむ。祖国での習慣を貫けるのはありがたいな、と思いながら目当ての場所へ足を運んだ。
「ああ、どうも、ドクター。いらっしゃい」
「花を」
「今日みたいな日に?」
よく顔を出すフローリストの店主の男が本気で驚いた顔をしたので、キリコも驚いた。店主の妻が苦笑し、「アメリカの方だもの」と言った。彼女は夫よりも少しばかり知識があるようだった。
「ドクターのお国じゃ、男性が女性にプレゼントをする日なんでしょう?」
「その通り。──なるほど、日本ではあまり?」
「男性から女性に、って言う日ではないですね。朴念仁がごめんなさい。わたしがお伺いします、ご入用は?」
朴念仁と言われた店主は立場なく苦笑し、上客のアメリカ人を妻に任せることにした。
「あなたが好きな花、と言いたいところだが、今日ばかりはね」
「そうね、今日ばかりは駄目でしょうね。でもドクターなら──日本の男性じゃちょっと難しい花かしら」
彼女が示した花はキリコの予定通りで、やはりこの店は良い店だと思った。それを28本と言ったら妻は笑顔になり、素敵、と本音で呟いていた。店主は「あの女医さん、28歳なのか。おまえより若く見えるな」と口に出し、笑顔のままの妻に一撃喰らって呻くはめになる。面白い店だ、とキリコは思った。
「こちらはサービスです。女医さんのお嬢さんが喜ぶかも」
「可愛いね。ありがとう」
可愛くラッピングされたピンクの薔薇を一輪添えられ、キリコは微笑む。確かにピノコなら喜んでくれるだろう。彼女には他に焼き菓子を用意してあるが、一緒に渡してやりたいと思えた。
それから豪奢に、だが品良く用意された真紅の薔薇の花束を持って店を出る。
一歩出た途端に道行く人々の注目を集める。そりゃそうだ、とキリコは過剰ではない正しい自意識で納得していた。
長身の銀髪、そして隻眼の外国人が、バレンタインデーの夕刻に真紅の花束を持って都心を歩いているとなれば、この時代の日本では当然と言える現象だった。
すれ違った高校生の男女が目を丸くし、いいなあ、と少女が溜息をついて、少年が悩んだ顔で薔薇とキリコと見る。目が合ったキリコは僅かに笑い、背後のフローリストを少年に示してやった。彼は少し迷った後、顔を赤くして少女の手を握ると、引っ張るようにして勢いよく店へと歩いて行った。
BJが来る予定の自宅まで歩いて帰れる距離だ。目立つことは本意ではなかったが、タクシーや公共交通機関にこの花束を持ち込むのは香りの迷惑になりかねない。薔薇は香りが強く、キリコの自宅の庭にも植えていない花だった。
──自分の車で来れば良かったな。天気がいいから油断した。
散歩がてら家を出た時にはまだ日が高かったが、自宅近くに着いた頃には大分暗くなっていた。すれ違う近所の住民にいつもより声をかけられる。誰もが薔薇の花束に驚嘆し、数人があの先生にでしょう、と言って冷やかそうとした。笑って返事をしながらも、日本はこういうところがアメリカと違うんだよな、とキリコはしみじみ文化の差を感じた。
「あの」
自宅前で不意に声をかけられた。立ち止まると制服姿の少女が立っている。その後ろには彼女の友人と思しき、やはり制服姿の少女たちが好奇の目を隠さずに群がっていた。
「何か」
確か数軒先のお嬢さんじゃなかったかな、とキリコは思い出した。数軒と言っても各家庭の敷地が広い高級住宅街なので、普段ほとんど顔を合わせることがない。だが彼女の父親が近所で車の自損事故を起こした時、簡単な応急手当てをし、その後の経過を気にして家を訪ねたことがあったので、家族の顔を覚えていた。
「先日は、父がお世話になりました」
「何も。お元気なら何より」
「あの──もし、良かったら、なんですけど」
少女の顔が赤い。背後の同級生たちが小さな声で「がんばれ」と言っている。何なんだ、風邪でも引いているのか、と──日本語が堪能な男だからと言って、日本の文化に詳しいわけではなかった──キリコは訝しむ。彼女の不明瞭な話の進め方も気になった。
「あの、いるのは知ってるんです」
「いる?」
「あの──女医さんがいるのは、知ってるんです。花束、素敵ですね」
「ああ、うん、ありがとう」
そうか、もう来てるかもな、とちらりと庭に目をやったが、客用の駐車場にまだBJの車はなかった。少女が勘違いをしたのかと思った。
自分が盛大な勘違いをしているなどと思いもしない。
「あの、チョコレート、お父さんのブランデーが入ってるから、わたしは味見ができなかったんですけど、でもそんなに不味くないと思うんです」
「え?」
「あの──受け取ってくれるだけで嬉しいです。もらって下さい!」
言うなり、彼女は押し付けるようにしてキリコに小さな袋を突き出す。その勢いに思わず受け取り、その瞬間、背後の少女たちが閑静な高級住宅街に似合わない大歓声を上げた。当の少女は真っ赤だ。
キリコは少なからず混乱したが、ああ、そうか、と思い至った。至った先がアメリカ人の成人男性の発想だったと思い知るのはこの少し後だったが、今はとても考え付かなかった。
──父親の件のお礼で手作りの菓子をくれたのか。律儀な子だな。
「どうもありがとう、お父様にはお大事にと」
「──はい。あの、ドクターが召し上がって下さいね。それはあの先生に差し上げないで下さいね」
そうよねえ、それが当たり前よねえ、と背後の少女たちがまた騒ぎ出す。頭痛を覚えそうになり、キリコは話を切り上げることにした。そしてふと、祖国の文化と慣習を思い出す。
「お返しに」
ピノコに渡す予定だった一輪のピンクの薔薇を差し出す。少女は耳まで真っ赤になり、涙さえ浮かべ、震える手で受け取った。背後の少女たちがキリコが怯えるほどの嬌声を上げ、驚いた近所の人々がそっと窓を開けて外を窺ったほどだった。
この時、キリコはまだ知らなかった。あくまで生まれ育った文化の中での対応をしただけだったのだ。
生まれ育った文化のバレンタイン──男性から愛する女性へ愛情を示す日。女性からプレゼントをすることなど滅多にない日だ。
そしてその他に、「家族やお世話になった人に小さなプレゼントを渡し、プレゼントされた側はやはり小さな物ですぐにお返しをする日」と言う慣習もあった。
そんな文化圏で育ったキリコが、「自宅近くで待ち伏せしていた女子高生に手作りの菓子をもらい、ピンクの薔薇をその場で手渡した」ことが、どれほどの意味を持つのか今すぐ理解しろと言う方が無理であるとしか言いようがなかった。
「もう暗い。友達がいるなら送りはいらないだろう。気を付けて帰りなさい」
「はい!」
送ろうとしてくれたんだ、と感極まっている少女と、わたしたちいなければよかった、と大騒ぎする友人たちを理解できないまま別れを告げ、後で少女の家に電話を入れた方がいいかな、とキリコは溜息を堪えつつ家に入る。
タクシーで既に恋人の家に到着し、よく入り込んで来る近所の猫を抱いて、2階の寝室の窓から全てを見ていたBJがいるとも知らずに。
「マフィン?」
「……お帰り」
「何だ、車がないからまだかと思ってた」
とりあえずリビングのコーヒーテーブルに花束を置き、恋人を迎えるために着替えに行った寝室でBJを見つけ、つい破顔した。予想外の時に会えればいつでも嬉しい相手だ。
「おまえもいたのか」
「うにゃ」
普段は傍若無人なマダムの猫が、BJの腕の中でなぜかいつもより遠慮がちな声で鳴く。
「タクシーで来た?」
「……うん」
「どうした? 疲れてる?」
あまり気乗りしない、いわば機嫌が悪い顔のBJにキスをしようとしたが、ふいと顔を背けられた。かなり不機嫌であることは間違いない。仕事で何かあったのかと思ったが、そもそも仕事での不機嫌をこんな形で出すような女ではない。
「どうしたんだ」
「疲れてるわけじゃないけど、気分が良くない」
「何かあったのか」
「──何か? 何? わたしに訊く?」
不意に荒くなった声が怒った女のもので、キリコは少なからず驚く。危機を察知した猫が素早くBJの腕から飛び降り、するりと寝室から逃げて行った。逃げられるおまえはいいよな、とキリコは半ば本気で思った。
「ちょっと分からない、ごめん。俺が何かをしたってことか?」
「窓の前に立って」
「どうして」
「いいから!」
溜息を押し殺し──ここで溜息なぞつこうものなら第七の天使がラッパを吹いて最終戦争の開始を告げるだろう──言われた通りに窓の前に立つ。
「これが何だって?」
「外を見ろって!」
「外」
これも言われた通りに外を見る。庭師が丹精した庭と駐車場、それから──
「うおっ」
思わず驚愕の声を上げ、カーテンを閉めた。その態度にBJは今度こそ明らかな怒りを露わにして「馬鹿!」と言った。
まだ帰っていなかった姦しい女子高生たちが塀の向こう側、門の前で騒いでいる様子が見えたキリコは全てを理解し、だが同時に疑問を抱く。──俺が何をした? 何が悪いってんだ?
「信じられないんだけど!」
「何がだよ、普通のことだろうが!」
「普通!? キリコはあれが普通!?」
「あれって何だよ!」
立て続けに驚くことが続いた上、キリコにとっては理不尽としか思えない怒りをぶつけられたせいで、声が喧嘩腰になってしまったことは確かだ。キリコが反省する前にBJは更に怒り、ユリやピノコの前ではまず見せないヒステリーを起こした女性の顔になった。
「あれって! わたしの前で! よくもそんなこと!」
「だから何だよ! 菓子を作って持って来たから花を返しただけだ! 普通のことだろう!」
「菓子ってチョコレート!?」
「そう言ってたよ!」
「──信じられない! 馬鹿! 有り得ない!」
文化の違いが激突していることなど二人には分からない。互いに互いが間違っている、自分が正しいと思い込んでいる。部屋を覗きに来た猫が一瞬で身を翻して姿を消したことにも気付かなかった。
「まだいるし! 何、もう! 手作りのチョコなんて有り得ない!」
「──ちょっと待ってろ、取り敢えず帰るように言ってくる」
BJの様子で嫉妬していることをどうにか理解できたキリコは、感情を抑えてBJに宣言する。
「早く行け、馬鹿!」
「分かったよ、いい子で待ってろ! それくらいできるだろうが!」
飛んで来た枕を受け止めてベッドに投げ、キリコは今度こそ堪え切れなかった溜息をついて寝室を出た。溜息を聞いたBJが「馬鹿!」とまた叫んだ声は、寝室のドアを閉めることによって遠ざけることができた。
──ったく、子供相手に何を嫉妬してるんだか。菓子を持って来ただけだって言うのに。世話になった相手にならよくあることじゃないか。
再びキリコを見た女子高生たちがまた嬌声を上げるが、キリコは厳しい顔でそれを止めた。
「近所迷惑になる。用事が済んだら帰りなさい」
「彼女を送ってあげて下さいよ」
級友が例の少女をキリコの前に押し出すが、キリコは彼女を見もしなかった。BJが嫉妬している状況であれば、彼女たちの要望を受け入れるわけにはいかない。
「それはできない。もう俺の恋人が家にいるし、きみたちがここにいることを怖がっている」
怒っている、と言うよりは日本人に対して効果を発揮する「怖がっている」と言う単語を使うと、たちまち彼女たちはトーンダウンした。ことに例の少女は薄暗い中でもはっきりと分かるほどに青ざめ、自分のしたことを──キリコよりも余程正確に──理解する。
「そんなつもりじゃなかったんです。受け取ってもらえるだけでいいと思って」
「俺が大人として気を付けるべきだったんだと思う。これは俺のミスだ。きみが気にする必要はない」
これは本音だ。恋人が嫉妬深いことも確かだが、あれほどまでに怒るということは何か理由がある。そして少女が青ざめるほどの反省をしたとなると、これは明らかに自分が何かに対して理解が足りていない可能性が高い。
「とにかく帰りなさい、いいね」
彼女たちが家を離れる姿を確認してから、キリコはようやく家に戻る。すっかり日が暮れて暗い中、リビングに電気が点いていた。BJが移動したのだ。
「マフィン」
勝敗で言うなら負けでいい。とにかく今日のような日にいつまでも喧嘩をしていたいとは思わない。BJが機嫌を直すのであれば、他人にはとても見せられないような姿でも、とことんまで機嫌を取ろうと思った。
そしてリビングに行き、今日何度目かの頭痛を覚える。自分で自分に頭痛薬を処方するべきか、あるいはいっそ心を落ち着ける薬の方が良いかもしれないとまで思った。
水飲み皿で水を舐めるマダムの猫の背を撫でながら床に座り込んだBJが、コーヒーテーブルの上の花束を完全に無視し、あまつさえ女子高生の手作りチョコレートが入った袋を手にしてしげしげと眺めている姿を見れば、頭痛を覚えるなと言う方が無理なのだ。
「マフィン」
「うん」
「正直に言わせてくれ」
「うん」
「俺には分からないんだ」
「分からない、と」
「俺が何か悪いことをしたのは分かる。でもその何かが何なのか分からない。──まだ怒るな、ちょっと待て」
明らかに怒気を滲ませた恋人に、形振り構わず猶予を求める。BJは大きく息を吐いて立ち上がり、握り潰しかけたチョコレートの袋をそっとコーヒーテーブルに置いた。そこにあった薔薇の花束を見て、不意に唇を尖らせる。可愛いな、と思いながらもキリコは言った。
「必要なら教えてくれよ」
「何が分からないって?」
「おまえが怒る理由だ。俺が何かをやらかしたのかは分かる、でもその何かが分からない、ってまた言うのは許せよ。ただ、言ってくれなきゃ分からないこともあるんだよ」
水分補給を終えた猫が満足げに顔を洗い、しかし揉め事は御免だよと言わんばかりにその場を立ち去る。猫は気楽だ、とキリコは思わざるを得なかった。
「教えてくれよ。俺はどんな悪いことをした?」
「どうして分からないのかが分からない」
「それは説明しようがない」
「何が分からないわけ?」
言葉を間違えれば更に怒る。理不尽な状況には慣れたキリコでも、敢えて怒らせたいわけではない。注意深く言葉を探し、だがどうしても見付けられなかった。ええい、ままよ、と開き直って思ったことを口にした。
「おまえが嫉妬している理由が全く分からない」
「──この無神経の早漏死神!」
案の定と言えば案の定、BJは酷い言葉で激高した。手元に何かがあれば投げ付けて来たはずだ。花束と少女のチョコレートの袋、猫の皿を投げなかったことは称賛に値した。
だがそれでも憤懣やる方ないことは分かり、キリコは長丁場を覚悟する。BJに喚かせるだけ喚かせた方が良い。大抵の喧嘩はBJの気が済むまで喚かせ、その後に話し合いに持ち込めば短時間で終わる。
だが今日はそうもいかないようだ、と深い溜息をついてセルフコントロールに努めるはめになった。
「キリコがやったことって、浮気と一緒なんだけど!?」
「──はぁ?」
あまりにも唐突な物言いに、キリコは心底呆れた声を出してしまう。途端にBJの眉がまた跳ね上がり、怒りのボルテージが上がった事実を告げた。
「浮気じゃないってわけ!?」
「当たり前だ。何を言ってるんだ」
「じゃあ本気ってこと?」
「あんな子供に?」
「はぐらかすな!」
「──本気も何も、普通のことじゃないか」
「何が普通? キリコの世界じゃ普通ってこと?」
「そういうことだ。これは普通のことだし、おまえがどうして怒っているのかが分からないって、俺はさっきから言ってるよな?」
「最低!」
ヒステリー極まりない声で叫び、BJは立ち上がった。地団太を踏まないことが不思議なほどに激高し、怒りで真っ赤になった顔でキリコに言葉を投げ付ける。
「わたしがここにいる必要がないってことなんだけど!」
「俺はそう思わない、ここにいて欲しいよ」
キリコとて感情が乱れている。だがここで自分が怒れば収拾が付かない。半ば必死で感情の発露を抑え、とにかく恋人の言い分を理解しようと努めた。
さあいくらでも怒鳴れ、俺はスルーする、じゃなくて、真摯に受け止める。そう思うキリコの前で、BJは不意に大きく息を吐き、ソファにどさりと座り込んで、コーヒーテーブルの花束を睨んだ。キリコは溜息を押し殺す。この花束をもっと──いわゆる女性が好きそうな空間を作って、もったいぶって渡したかったのに。自分も大概気障だと思うが、恋人がそれを照れながらも喜ぶと知っているからこそ用意したのだ。それがどうしてこんなことに、と思わずにはいられなかった。
「たまに思うんだけど」
「うん?」
「キリコって、わたしのこと好きじゃない」
「──そんなわけあるか、何言ってるんだ」
心外もいいところだ。仕事のことはともかく、他の時間はほぼBJに関わることに捧げていると言っても過言ではない。無論それが負担ではなく、むしろ幸福だからこそ選択している行動だ。自己満足と言われればそれまでだが、流石にこの言い分には納得できなかった。
「だったらどうしてこんなことができるんだ」
「こんなこと? おまえはこんなことで怒ってるのか?」
「怒らない女がいたら紹介して欲しいくらい!」
「俺が説明できないことならユリに訊けばいいんじゃないか」
「最低! ──最低! 何なの、どこまで最低なわけ!?」
キリコとしては本気で言ったのだが、BJは更に怒る。最低と言われた男は頭痛を通り越して目眩を覚えそうだった。全くもって会話が成立していない。だがそこは心療内科もお手の物、有能な死神が顔を出す。これはひとつカウンセリングに導いて──そう思った瞬間だった。
「カウンセリングなんかいらねえからな、藪医者」
「──だったらさっさと話せよ、クソビッチ」
理不尽を投げ付ける女でありながら有能な医者として見抜いた天才を相手に、キリコは全てを放棄した。キリコとて人間だ、限界と言うものはある。ここまで正面切って拒否されるのなら、仕事でもない限り向き合う努力をするべきだとは思わなかった。
それでもどこかで冷静な自分が「好きに言わせておけ、こいつはそれでちょうどいい」と言っている。哀しいかな、支離滅裂に怒り狂うBJには慣れているのだ。
「女子高生にチョコレートをもらう神経が分からない。しかも手作りの」
「そうかよ。俺は問題ないと思ったね」
「じゃあそれでいいかもね」
「話を終わりにするなら宣言しろよ。こっちは付き合ってやろうって言うんだ」
「そういう言い方しなくてもいいじゃない」
「だったら理由を説明しろよ。俺が何をどう間違えたか」
こう言えば流石に説明するだろう。男が本気で不愉快になったことも理解しているはずだし、それに対して意見を言っても構わない関係であることはBJも理解できているはずだ。
だがキリコの予想に反し、BJはぐっと言葉に詰まる顔をして黙り込んだ。思わずキリコは不審を抱く。
「何なんだ、おまえ。いくら何でも──」
「キリコは」
「うん?」
キリコの言を遮って、BJが話し始めた。不愉快であることは確かだが、キリコは取り敢えず聞くことにする。自分に非があると言うBJの言い分を聞いておいても悪くはないはずだ。
「キリコは、わたしのこと好きじゃない」
「──話が戻ってる。そんなわけがないし、好きでもない女にこんな真似はしない」
ひけらかしたくはなかったが、分かりやすい材料ではある。コーヒーテーブルの上の薔薇の花束を示すと、BJはしばらくそれを眺めた後、それでもきつい口調で言った。
「わたしが好きなら絶対にしないことをしたくせに?」
「俺が何をした? 予想はできてるよ、あの女子高生に菓子をもらったことだろう?」
「薔薇もあげたくせに」
「返礼だ。日本人だってするだろう」
「そこでわたしが日本人ってことが関係する? それが嫌だ、意味が分からない」
「もらったものに対する礼は日本人の方がうるさいんじゃないか? とにかく俺は俺の常識で返礼しただけだし、それが理解できないなら怒る前に説明するべきだ」
「わたしだって自分でびっくりしてるくらいだから、説明なんて難しい」
「何に驚いてるんだよ」
「キリコが無神経すぎることにびっくりして、わたしのことなんて好きじゃないんだって分かったのに、死にたいと思うより怒りたいって思ったこと!」
頭痛。またもや頭痛だ。キリコはやや本気でこめかみを抑えた。この言い分は到底理解できない。だが「死にたいと思うより怒りたい」と言う点に本気で安堵したこともまた確かだ。BJの劣等感や希死念慮は時として洒落にならない。これなら今日は安心だ、まだリカバリーが易い、と思えた。
「俺の何が無神経だ? いいか、さっきから結局堂々巡りだ。俺の何に腹を立てたか、何に対して嫉妬したか言わないなら、いつまでも問題は解決しないし、俺だっていい加減不愉快だぞ」
「何で分からないかが分からない!」
「説明しないことが俺には分からない。俺がおまえを好きじゃない? 笑わせようったって無駄だ、全く面白くないし間違ってる」
「大嫌い!」
「言ってろよ、俺は好きだね!」
「嘘ばっかり!」
「嘘だと思う理由を言ってみろ!」
また様子を見に来た猫が「下僕ども、雰囲気悪すぎるんじゃねえ?」とばかりに小さくにゃあと鳴き、ソファに座るBJの肩に乗ってその頬に顔をすり付けた。それでBJは僅かに落ち着き、猫を撫でてしばらく感情を整えようとする。キリコも乱れた感情を収めるため、猫がいることも忘れ、コーヒーテーブルに置いた煙草を取ろうとした。
煙草の箱の横にあのチョコレートの袋があり、邪魔だったので横にずらそうと手に取る。途端に猫が「ばかやろう」と言うように一声鳴いてBJから飛び降り、BJの素早い動きで振り落とされる被害を免れた。
だがキリコはあまりにも素早く、チョコレートの袋を取り上げられたことに唖然とするはめになる。唖然としながらも、流石にこれは嫉妬が過ぎるのではないかと思う。BJは激高を抑えるためか唇を噛み締め、泣きそうな顔でその袋を花束の横に置き直した。投げ捨てないよう精一杯努力したことが分かる置き方で、キリコは本気で唖然とする以外にできることがなかった。
「──違うよ、どかそうとしただけで──」
辛うじて真実だけを言う。BJが嫉妬深いことはよく知っているし、その嫉妬深さの裏を返せば、それは恋愛への不安感に他ならないこともよく知っている。だがここまでの態度を見たことがなかった。
真っ赤なまま泣きそうな──自己嫌悪だった──顔のBJを数秒眺め、それからキリコは小さく頷く。仕方ない、と思った。
「捨てよう」
「……何を」
「それ。捨てよう。その方がいい」
喧嘩の原因に関係すると言うのなら、取り敢えずBJの目の前から消した方がいい。短絡的と言えば短絡的だが、ひとつの策であることは確かだった。理由はどうあれ、嫉妬の対象になるのであれば──だがすぐに、これは失策だったとキリコは悟る。そして極限までうんざりした。
「──どうしてそんなことが言えるのか分からない!」
本気でまた怒ったBJに、もはやキリコはお手上げだった。じゃあどうしろって言うんだ、と言う前に、もう、もう、とBJが困り切った泣き声を漏らす。自分でもどうしたらいいか分からない、そんな声だ。いつもなら抱き寄せてごめんねと言って、キスをして少し話を聞くべきタイミングだった。だが今はキリコ自身も何ひとつ理解できず、それが正しい行動かどうかに自信が持てなかった。
「勘弁してくれよ」
自分でも情けないと思うほど、心底うんざりした声を出してしまった。それがBJのような女を不安にさせることは分かっていたが、今ばかりはどうしてもコントロールできなかった。案の定、男の反応に自己嫌悪と不安を抱いたBJは半分泣きながら唇を噛み、立ち上がってキッチンへ逃げてしまう。
「にゃあ」
猫がキリコに向かって一声鳴き、BJを追った。しっかりしろよと猫に言われたような気がして、キリコは深い溜息を煙草の煙に隠してしまうことにした。薔薇の花束の影にあるチョコレートの袋の居心地が悪そうだと思った。
時計を見ると19時だった。一日を諦めるにはまだ早い時間だが、本来なら二人だけで蕩けるような夜を過ごすために指を絡め合い始める頃だったはずなのに、どうしてこうなった、と28本の薔薇の花を眺めて溜息をつく。
普段の喧嘩なら、気が済むまで話し合って、あるいは怒鳴り合ってから少し時間を置き、互いに頭が冷えてから話をする。だがそれは原因がはっきりしている場合ばかりだった。こんな喧嘩はしたことがない。
BJが嫉妬している。それは分かる。菓子をもらったことに対して面白くない感情を抱いている。それも分かる。だがここまで怒ることなのかと言えば──
落ち着いたら少し話し合おうと決め、取り敢えず薔薇を活けてしまうことにした。けちのついた花を持ち帰らせる気にはなれなかったし、かと言って花を捨てるのも気分が悪い。