久し振りに夜、ふらりと外へ出た。部屋着にしているややオーバーサイズのジーンズとシャツの上にランチコートを羽織り、冷えた空気を楽しみながら歩いていたら、あっさりと警察官に声をかけられた。
「日本語は分かりますか?」
「分かりますよ」
「どこの国の人? パスポートか在留カードは持っていますか?」
「ここに」
一切抵抗せずに在留カードを見せる。
「こんな時間に何を?」
「散歩に。眠れなくて」
「なるほど。──ああ、あの家の人か。いつも花が綺麗な」
在留カードの住所を見た警察官は納得したようだった。だがキリコはやや警戒する。この警察官への警戒ではない。外から見えない造りの庭の花を知っているということは、警邏中に覗かれていたということだ。少し気を付けておこうと思った。
「失礼ですが、お仕事は何を?」
「医者ですよ。──日本ではカウンセリングの専門です。完全紹介制のね」
仕事に誇りを持ってはいるが、大っぴらに本来の専門を言うことはやめておく。この時代、日本ではまだ安楽死が認められていない。
「確認のためにもうひとつ失礼。日本の医師免許は?」
「持っています。問い合わせてもらえれば確認できると思いますよ」
嘘ではない。日本に拠点を置くと決めた年、外国籍の医師が国内で活動するための医師予備試験を受け、れっきとした日本の医師免許を獲得している。その話を可愛い女にした時、わたし持ってないのに何でキリコは2個も持ってんの、いいもん、いらないもん、と頬を膨らませたことを思い出した。ひどく可愛かった。
他にもいくつかの質問を丁寧な口調でされた後、職務質問は完了した。返された在留カードをしまい、もう行って良いかと確認する。警察官は頷いた。
「男性でも遅い時間は気を付けて。日本の治安は悪くないけど、やっぱり夜はちょっと」
「ありがとう」
日本の警察官は親切だと思いながら、作った笑顔で彼に礼を言い、また歩き出した。
冷えた空気を楽しみたかったが、何となく空気が汚されてしまったような気がした。夜空と空間を独り占めしたかったのだと気付いた。独り占めなどできるはずがないのに、夜の世界はなぜか人間を勘違いをさせようとすることがある。
削がれた気を取り戻したいと思ったわけでもない。だが何となく家に帰るのも癪で、静かな空間を歩いた。閑静な地域の人々は既に眠りについている時間だ。
癪ではあったが、あまり遅くまでうろつく姿をまた見咎められたら面倒だとも思い至り、少し離れた自動販売機で煙草を買って帰ることにした。それで気を済ませろよ、きっと帰ってからの一服が美味いぜ、と自分に言った。自分の機嫌を取ることは珍しくない。セルフコントロールの一環だ。
途中で猫に会った。会った、と言うのも変な話かもしれないが、キリコが良く知っている猫だった。
「おまえさん、また外に出たのか。帰り道は分かるのか?」
自宅近くの金持ちマダムの愛猫だ。どこかの誰かの愛妾だと聞いたこともあるが興味がなかった。たまに家を抜け出してしまう猫をひどく可愛がっていることは知っている。その猫がなぜか、死神の家を気に入ったことも。
にゃあ、と猫は鳴いてみせた。それから尻尾を振り、キリコをじっと見上げる。俺はこの目を知っているぞ、と思った。
知っている。BJが甘えたい時に見せる目だ。
「今日は俺の家に泊まれ。こんな時間じゃマダムのチャイムを鳴らすわけにいかないんでね」
「にゃあん」
もちろんそのつもりだよと言いたげにもう一声鳴き、猫は差し出された腕に機嫌よく収まった。
「煙草を買ってから帰るぞ」
「にゃあ」
いちいち返事をする猫が賢いと思う。普段は勝手に入り込み、勝手に昼寝をするような猫だが、なぜかBJがいる時ばかりに訪れる。そして二人(?)揃って眠り込むことも少なくない。きっと二人は友達なんだろう、と思うことにしていた。今や死神宅には猫の専用トイレが用意されていた。
「あいつは今日いないからな」
「にゃ」
「明日の朝一番で送ってやる、いい子にしてろ」
「にゃ」
聞き分けの良い猫は返事をし、ごろごろと喉を鳴らしてキリコに甘えた。機嫌がいい時のあいつみたいだ、と猫を可愛く思った。抱いているうちに猫の体温で身体が温かくなって来たこともありがたかった。冬の夜の空気は澄んでいるような気がして好きだが、寒いことも確かだった。
──帰宅は明日か。明後日には電話が来るかな。
仕事で北海道に行っているBJの帰宅は、予定通りなら明日の夜になる。家に帰り、一人にしていた愛娘をたっぷり可愛がる時間を過ごした後に電話を掛けて来るだろう。
「にゃあん」
「どうした」
「にゃぐ」
可愛らしい声を聴かせてから喉を鳴らし、顔をすり寄せてくる猫が可愛い。そしてあざといとキリコは断ずる。自分が可愛い生き物だと知っているからこその行動に違いない。けしからん、と思いながら、つい腕の中の猫の喉を撫でてやってしまった。してやったりと猫は喜んで喉をまた鳴らした。
「おまえさんはあざといな」
「にゃあ」
「そうやって人の世界で生きて行くんだな。賢いもんだ」
「にゃあ」
「あいつもそういうところがあるんだよなあ」
「にゃあ」
BJの営業を見るにつけそう思う。相手が権力者の場合なら男女問わず効果覿面だ。さりとて色めいた性的な営業方法ではなく、あくまで「権力者が喜びそうな日本人の女」の顔を作る。「ひとが喜びそうな猫」と同じようなものだ。
そんな女を可愛がりたい権力者は、営業だと知りながら、まさにBJを猫可愛がりする。だがその可愛がり方に常識外れのレベルの医療で返礼するのだから、しっかりとビジネスが成り立っているわけだ。
目当ての自動販売機で煙草を買う。ついでにBJの煙草も買った。どうせ数日中には泊まりに来るはずだ。寝室に置いておけば喜ぶだろう。
猫はおとなしく、そして悠々と死神の腕を占領したまま、夜の空間を移動する。途中でまたあの警察官に会った。近所の猫で、一晩預かるつもりですよ、と言うと、彼は笑ってまた「気を付けて」と言ってくれた。
自宅の門をくぐると、猫が勝手知ったる花だらけの庭を見て嬉しそうににゃあと鳴いた。庭に放してやろうかと思ったが、また遠出されたらマダムが可哀想だ。明日まで室内に監禁することにした。
家に入った途端、空気の異変を感じ取る。仕事柄どうしてもこういった勘は鋭くなってしまう。だが警戒する異変ではないとすぐに分かった。
それでも不思議で、首を傾げながらドアを閉め、猫を放した。猫は尻尾を機嫌よく振りながら歩いて行った。
煙草の外装フィルムを剥がしながらリビングへ行く。先に猫が入り込んでいた。予想通りの人物がそこにいたが、予想外の姿だった。
「にゃあ」
「寝てるのか」
「にゃあ」
ソファに転がり、BJが眠り込んでいる。普段この家に来た時にはすぐに脱ぐコートが上にかけられていた。これは眠るつもり、あるいは休むつもりで横になったのだろう。寝室に行けばよかったのにと思いながら自分のコートをコートハンガーにかける。
「マフィン?」
とはいえ、今ここにBJがいることがイレギュラーだと理解している。本来なら飛行機の到着は明日、もし早い便で帰って来ていたとしても、崖の上の家に先に帰るはずなのだから。あの子より先にあなたに会いたくて、と言うような女でもないことは分かっているし、そんな女を愛した記憶はない。よって何かあったと結論付けるしかない。
「マフィン、どうした」
言いながら屈み、寝顔を見る。すぐに断定した。体調不良だ。
医者の目で改めて顔色を見る。脈を取ると速かった。
猫も何かを察したのか、おとなしくソファの下からBJを見上げていた。キリコは猫に「貧血だよ」と言った。するとBJが僅かに呻いて目を開けた。具合が悪いことは明白なのに、キリコに嬉しそうに笑ってみせる。会えて嬉しいと笑顔で伝えた恋人に、俺もだよ、とキリコも無言で笑い返した。
「貧血だな。何かあったのか」
「早い便が取れたから急いで帰って来たんだ」
「うん」
「それで疲れちゃって。結局これじゃ最初の便にしておいた方がよかった」
「寝てないのか?」
「うん。飛行機の中で少し寝ればいいかと思ったんだけど、機内で病人が出ちゃって。5歳の子がイレウスだった」
「手術に?」
「うん」
「なるほど、それじゃ寝られないな」
無免許でも骨の髄まで医者だ。その状態であれば見捨てるはずもない。子供の身体、しかも飛行機の中での短時間での緊急手術とは恐れ入るばかりだった。
「機内で安定したから引き継ぎして、家に帰るつもりだったんだけど。そこでこのざま。危ないから空港に車置いてタクシーでここまで来ちゃった」
「ああ、羽田だったのか。それならこっちの方が近いな」
ホテルを取れば良かったのにとは言わなかった。ホテルを手配する気力すらなく、どうにかタクシーに乗ったことは見れば分かる。お疲れ、と言って頬を撫でてキスをした。
「にゃあ」
「あれ」
恋人の慰撫で精神的な回復をしたBJは、行儀よく待っていた猫にようやく気付いて微笑みかける。
「マダムの猫? また来たの?」
「散歩中に拾ったんだ。明日の朝返しに行く。──おまえさんの友達は具合が良くない。遊ぶのは遠慮しろ」
「にゃあ」
いやに不満そうな声だったのは気のせいかな、とキリコは思った。BJが「ごめんね」と猫に言った。
「鉄剤は? 飲めそうか?」
「ちょっと無理、気持ち悪い」
「注射にするか。待ってろ」
ソファの周りをうろうろと歩き始めた猫を避けるように立ち上がり、BJが決して入らない診察室へ目的の薬剤を取りに行く。
「こら」
リビングに戻ると、聞き分けの悪い猫が友達の足元に乗り上げて丸くなっていた。BJが笑った。
「あったかい。爪先、冷えてたから気持ちいいよ」
「──気が付かなくて悪かった。ごめん」
「ううん」
「猫の方が気が利くな」
気付かなかった反省を踏まえて猫を見ると、猫がフフンと鼻を鳴らしたような気がした。きっと気のせいだとキリコは思った。
即効性のある注射をし、湯冷ましを用意してやる。ようやく起き上がったBJは、それでもまだ目眩がすると呟いて、湯冷ましを少し飲んでからまた横になろうとした。
「ベッドで寝ろ。服も替えて。それじゃ苦しいだろう」
「うん」
「にゃあ」
「おまえさんは家の中で好きにしろ。トイレは前に教えたところだ、分かってるな」
「にゃあ」
「よし、お休みの時間だ」
キリコの宣言と同時に猫はソファから飛び降り、だがそこに座ってじっとBJを見上げる。BJは笑った。
「寝たら治るから、そうしたら遊ぼうね」
「にゃあ」
歩けるか、とキリコが訊いた。歩けない、とBJは明らかに嘘をついて甘えた。嘘を見抜いた男は恋人を甘やかすことにして、その身体を抱き上げてやった。
寝室へ歩く死神とその恋人の足元に、猫がなぜかぴたりと添うように、だが邪魔することなくついて来る。ちゃっかりと寝室へ入り込み、こら、出て行け、とキリコに言われても涼しい顔で室内をうろつく。仕方なく放っておき、キリコは先にBJに着替えをさせた。
二人でベッドに入ってお休みのキスをする頃、キリコは猫を追い出すことをすっかり諦めた。当然のようにベッドに飛び乗り、BJの足元で丸くなる愛らしい姿を見れば降参だ。
あったかい、とBJが笑った。それならいいさ、とキリコも笑った。
猫は静かに、だが得意げに、丸まった姿のまま、尻尾を得意げに揺らしてみせたのだった。
「お休み」
偶然にも同時に言って、それが嬉しくて二人で笑い合ってから、もう一度お休みのキスをして、身体を寄せて目を閉じた。