Back for good 02

 フォート・デトリックでの仕事は特に問題なく終わった。最終日、久し振りに赤毛の男を脅した。フォート・デトリックと政権の秘密を俺に守っておいて欲しいなら、と言えば大抵の無理は通る。案の定、今回も「早く死ね」という言葉が付随した上で成功した。
「ドクター・キリコは今日から3日間、つまり来週月曜日までフォート・デトリックで仕事をしている。はい復唱」
「クロオ・ハザマの早漏旦那は来週月曜日までワシントンで浮気をしている。ほら言った」
「早漏じゃないし俺は独身だ、浮気もしない。正しく言えるまで何回練習させてやってもいいんだぜ、早く済ませるんだな」
「うるさいな。ワシントンにいるんでしょ、何するか知らない振りしておいてあげるからさっさと消えちゃってよ。車の手配でもしてあげようか? イサクア地区に難病の末期の人がいるもんね」
「そこまで調べてあるならいい子にしてろ、後で小遣いをくれてやる。ハードキャンディを買うといい」
「Fxxk! ミカエルにくれてやれ、ゲイはあいつだ!」
 勃起した男性器を揶揄するスラングを投げられたグラディスは本気で怒り、この時代ではおそらく国家機密に近い英国の特殊部隊隊長の性的嗜好を漏洩した。あいつそうなのか、そうか、へえ、まあそういう雰囲気があるっちゃああるな、と思わずキリコが驚くと、そうだよ、本当は言っちゃいけないけど言っちゃったからもう知らない、あの人ストレートゲイだよ、とグラディスが投げやりに言った。
「本題に入ろう、ゲイはどうでもいい。僕に近付かなければ」
「ミカエルにも選ぶ権利をくれてやれよ」
「彼には何の権利も認めたくない。――ドクターの本業に口を出さないってのが契約約款にあるから、それはまあいいんだけど。本業中はデルタから警備を出せないから気を付けてね。ドクターの本業、まだうちの国じゃどこの州でも違法だから関われないんだよ」
「まだ?」
「あと10年もすれば州法が通る見込み」
「――それでも10年か」
 自らが信じる正道が法的に認められるまでの年月の長さを考え、思わずキリコは唇を歪める。それを見てグラディスが笑った。
「その口の歪め方、先生とそっくり」
「まさか」
「まじで。馬鹿夫婦は馬鹿同士似て来るんだね」
「うるさい赤毛だ。さっさと車を手配しろ、俺はもう行く」
「赤毛って言うな。――発信、ドクター・キリコに車を。うちの警備はいらない。ああ、そうだ、発信機はちょっと多めにつけておいて」
 ハンバーガーのチーズを多めに載せて、とでも言いたげな軽い口調で無線のインカムに話しかけるグラディスを殴りたい衝動を抑えながら、キリコは日本へ帰るまでの日数を計算した。
 安楽死の仕事の後、自分が感情を、人間への愛を全て失う時間がある。持ち得る全ての愛を患者に与えるからだ。じきに思い出すことができるが、それなりに時間がかかる。帰国の日をはっきりとBJや乾物屋に伝えなかったのはそのせいだった。
 ふと思い出し、ワシントンに到着してから付けていた指輪を外す。仕事の内容として衛生上の問題がないということと、実際問題の女除けのために、フォート・デトリックの仕事の時には常に指につけることにしていた。
 タイを緩めて引き出したネックレスに通し、また襟の下へしまってタイを締め直す。
「それ、先生とお揃いの指輪?」
「まあな」
「プライベートな質問、してもいい?」
 グラディスが珍しく、年齢相応の若い青年の顔で口を開く。どうせ指輪のことで俺とクロオをからかいたいんだろう、若い奴にはよくあることだと予想しながらキリコは頷いた。
「答えないかもしれないが、どうぞ」
「先生と二人でしてるとこ、見たことないんだけど。報告書の写真にも写ってたことないし」
「この指輪を買ってからあいつと一緒におまえに会ったことがない。それと、俺たちを常に調査していることを形だけでもいいから隠したらどうだ」
「そんなのCIAの仕事だもん、僕は上がって来た情報を給料の責任範囲内で見てるだけ。――何で二人でしないの。仕事以外でも駄目な理由って何?」
「理由」
「うん」
「なるほど」
 キリコは言葉を探す。答えてやる義理はなかったが、答えない理由もない。そして言葉を見つけた時、ああそうか、そうだな、と今まで気付いていなかったことを実感した。
「辛いんだろうな」
「え?」
「指にあることに慣れると、辛いと思わないか」
「どういう意味で?」
 この年上の男は何を言っているのだろう――そんな顔をするグラディスを初めて見たことにも気付き、キリコは思わず笑いたくなる。
「どんな理由でもいつかは別れる。生あるうちか、それとも死か。それでも必ずだ。――その時、指にあることに慣れていたらきっと辛いだろう」
 それから、ああ、そうだ、そうなんだろうな、俺はきっとそうなんだ、と思いながら言った。
「永遠の宣誓ってのは、その慣れに覚悟を決めることなんだろうな」
 あの女の指輪をまた思い出した。それからふとグラディスを見る。普段の生意気な表情はなく、年上の男の言っていることを理解できていない若い青年の顔がそこにあった。BJよりも年下の青年に言うことではなかったと思い、つい自嘲する。
「そういうおまえさんはどうなんだ」
「え、何?」
「プライベートな質問だが。そういう相手は?」
「今のとこいないなあ。いらないし。――でも顔と身体がユリちゃんで、性格がピノコちゃんみたいな女の子がいれば全力で口説く」
「贅沢すぎる。そんな女がどこにいる」
 呆れ顔を隠せなかった。どう考えても世界最高の女だ。そんなの分かってるよ、と笑うグラディスの無線に、キリコの車が用意できたという連絡が入った。今連れて行くと返事をし、グラディスは無線を切る。それから言った。
「先生もそういう理由なわけ?」
「――いや、違うと思うが」
 仕事のこともあるし、何よりお嬢ちゃんが――そう言おうとしたキリコを遮るかのように、若い青年が「なあんだ」と小生意気に笑った。
「ドクターが臆病なだけなんじゃないの」
 キリコは数秒その笑顔を見つめた後、こいつは本当に性格が悪いと改めて思ってから、「言ってろ、ガキ」と年上の男性として相応しい台詞を吐いておいた。
 瞬間的に沸き上がりかけた焦燥感は忘れておくことにした。セルフコントロールが得意でよかった、と思った。


 おおむね予定通りに仕事と感情整理を終え、日本に帰った翌日の朝、家からBJに電話をした。昼前にはBJが家に来て、天才無免許医を知る他人にはとても見せられないような甘え方で束縛する。キリコは当然その束縛を受け入れ、存分に甘やかし、言いたくない仕事のために嘘をついた詫びに変えた。
 だが時間が経つにつれ、BJの表情が曇ることが多くなる。無理に笑う回数が増えた。気付かないほど愚かではなかったし、その理由に思い至らないほど残酷になりきれなかった男は、心の中で自分を罵りながら「ごめんね」と言った。
 ソファに並んで座り、身体を寄せて手を握る。BJはおとなしく話を待った。
「仕事のことは謝らない。でも言わなかったことは謝る。ごめん」
 隠し切れなかったのだ。だが気付かれた理由が分からない。グラディスがわざわざBJに言うはずがないし、他の理由も思いつかない。ただBJが気付いたことだけは分かった。
「――私でも無理だった?」
「俺はそう思った。だから紹介しなかった。――おまえの手が及ぶなら、俺は必ず連絡していたよ」
 嘘ではなかった。キリコの診立てでBJの神の指があれば救えると確信し、かつ患者が望むのであればいつもそうしている。これは二人がふたりになる前からの奇妙な関係だった。
「そっか」
「うん。ごめん」
「ううん。――ごめん」
 BJは首を横に振る。どうしておまえが謝るんだとキリコが言う前に、女は自分を責める声で言った。
「そばにいなくてごめん。仕事の後は辛いのに。ふたりでいればよかった。教えてくれればわたしもワシントンに行ったのに」
「――神よ」
 神への感嘆を通じて、何よりも愛しい女への感謝を呟いて抱き寄せる。BJもしがみつくように男を抱き返した。額を寄せては何度も唇を重ね、男が一人でいたかった、女がふたりでいたかった時間を埋めていく。
 安楽死の仕事の後、キリコが一人でいたがることはBJ自身よく知っていた。その理由も分かっている。患者へ捧げたすべての愛を取り戻すため、そして感情を整理するためだ。
 その時間、決して自分にはひとかけらも愛情が向けられないことも理解しているし、幾度も経験している。そのたびに泣きたくなるほど辛い思いをする。それでも自分がそばにいれば、キリコが一人でいる時よりもずっと早く感情の整理を終え、患者以外への誰かへの愛情を思い出せることもよく知っていた。
「ふたりでいれば、確かにそうだ。でもおまえが辛いのも知ってる。知ってるのに一緒にいてくれなんて言えないよ」
「わたしは辛くないから」
 感情の整理を終えたキリコに愛情を向けられた時、それまでの辛さが嘘のように消える。それを説明した。ずっと一緒にいるんだから、と言った。
「ずっと一緒にいるんだから、分かって欲しい。わたしは大丈夫だし、キリコが一人でいる時間が長い方が辛い」
 必死と言ってもいいほど懸命に理解を求めるBJを見て、愛しさが募らないはずがない。だからと言って分かったよ、今度からそうしようとはとても言えなかった。それを見抜いたBJが目に涙を浮かべ、首を横に振る。何度も振る。
「わたしがそうしたい。――わたし以外に誰ができる?」
 もしも俺が売れない小説家なら――キリコは思った。もしも俺が売れない小説家なら、今の感情をどう表現するんだろう。雷に打たれた、とでも書くんだろうか。でもそうじゃない。そんなものじゃない。
 身体の奥底、もしかすると身体の中ですらない、それでも確かに俺の中のどこかから、凄まじい熱量の愛おしさが沸き上がって、駆け足の波打ち際のように、俺の存在すべてに満ちていく。静かに、それでも信じられない速度で、ほんの一瞬で。
「キリコはわたしをとても大事にしてくれる。嬉しい。――でも、わたしだってキリコを大事にしてるんだから。お願いだから分かって欲しい」
 普段聡明な女にしては珍しく、必死で言葉を探しながら言う姿は只々愛しいとしか言いようがない。感謝と愛情を伝えようと口を開こうとしたキリコは驚いた。自分も言葉を探そうとしていると気付いたからだった。
 ふと思い出す。指輪を渡した時のことだ。あの時、自分はろくなことを言えなかった。もっと気障なことを言って女を喜ばせてやりたかったのに、言えたのは野暮ったい、使い古された言葉だけだった。
 だが今もその言葉が言いたくなった。それが最も自分の感情を伝える力を持っているのではないかと思う。ああ、言おう――そう思った時だった。
「愛してる」
 何てことだ。思わず呟きそうになってしまった。先にBJに言われるとは。だがそれで言っても良いのだと分かる。だから言った。
「ありがとう。――愛してるよ」
 抱き締めたのか、抱き着いて来たのか、どちらが先かは分からない。そんな瞬間を何度も感じるようになったのはいつからだったろうか。
 まるで特別のように思える瞬間が、実は特別な瞬間ではないと知っている。それはキリコもBJも同様だ。世界中の人々の多くが、長い歴史の中で、あるいは今この瞬間、二人の時間を特別のように思いながらありふれた愛の言葉を交わし合っている。
 だが二人にとって特別であることは間違いではなく、そして世界の二人にとっても同様であることも間違いない。
 俺たちはつまらないふたりだ。そう思う。無免許の天才外科医であろうと、死神であろうと、短い言葉の前ではありふれたつまらないふたりでしかいられない。愛していると言って抱き合うだけの、どこにでもいるありふれたふたりにしかなれはしない。
 誰でもそうだ。強く思った。――誰でも。俺も。クロオも。他の誰かも。
 ドクターが臆病なだけなんじゃないの。若い青年の正直な言葉を思い出した。ネックレスの先に収まる小さなリングの意味を、きっと俺だけが誰よりも恐れているのだと認め、だが沸き上がりかけた焦燥感にはまた気付かない振りをした。
 だからかもしれない。あの女を思い出した。結婚指輪をしたまま客を取ろうとする女。
 行かなければ。強く思った。


 あの女に会いに行くと言ってもBJは嫉妬しなかった。元々予定通りだと分かっているし、キリコが彼女を性的な目で見るはずがないと理解している。既に患者になった相手に、死神はどこまでも誠実だった。誠実すぎて傍で見ている者が辛くなることがあるほどに。
「俺がいない間、商店街に行ったか?」
「一度だけ。ピノコの買い出しに」
「ふうん」
 それ以上、彼女についての話はひとつも出なかった。する必要もなかった。彼女はキリコの患者で、BJには関係のない症例だった。
 翌日の昼前、崖の上の家にBJを送り届け、ピノコに土産を渡してから、キリコは早々に出掛けることにした。もっとゆっくりして行けばいいのに、とピノコが言ってくれたことが嬉しかった。
「ドクター!」
 いつものコインパーキングに車を停めて降りるなり、配達帰りの肉屋の店主に声をかけられた。キリコは驚かず、ああ、と答えておいた。パーキングに車を入れる前に気付いていたのだ。
「一人かい? 先生は?」
「家にいる。あいつが診たら何百万だ」
「そうか、そりゃそうだ。だったらちょっと、悪いんだけど、乾物屋に行ってくれないか」
「ああ、挨拶くらいはするつもりだったが――」
「そうじゃなくて、その、あの女がね。毎日ドクターを探して顔を出すんだよ」
「予想通りだが、予想より少し重症だな」
 眉をひそめて煙草を咥え、キリコは煙と共に溜息を吐き出す。乾物屋へ向かう前に首元から指輪を出し、指にはめた。患者の前では付けないことにしているが、あの女が相手なら話は別だと思った。
「珍しい。しておいた方がいいね、女除けになるだろう」
 肉屋の主人がしたり顔で言う。キリコは僅かに笑うに留めておいた。逆だよ、という言葉は飲み込んだ。
 乾物屋へ歩く間、事情を知る商店街の店主や店員たちが寄越す視線をひしひしと感じた。これだけであの女が目立つ真似をしていたことが分かる。だがそれはキリコの予想通りと言えば予想通りでもあった。
「ごめん下さい」
「やあ、ドクター。お帰り」
 店先に現れたキリコを見た乾物屋の店主は、彼からすれば遠い海外から帰った男に相好を崩す。お帰りと言われるのも妙な気分だと思いながら、キリコは彼と奥にいた店主の妻に会釈した。
「仕事は無事に終わったのか」
「お陰様で」
 土産を買えばよかったかもしれないと不意に気付いたが、それはまだやり過ぎかもしれないと思い直す。ここはBJの生活圏内であって、自分はあくまでBJの恋人という立場に過ぎなかった。密接な社会に入り込むためにはまた違う立場になる必要があるはずだ。臆病なだけなんじゃないの。青年の言葉を思い出し、すぐに忘れる振りをした。
「早速で失礼ですが、話を。どうでしたか」
「毎日来てるよ。ドクターを探してる」
「なるほど。誰か彼女を買った人は?」
「いいや、いないよ。誰にも声をかけちゃいなかった」
 予想通りだ。キリコは頷き、話の先を待つ。
「ドクターがうちに長居したのを知ってたらしくてな、一日二回は顔を出すんだ」
「ご迷惑を」
「毎日ひとつは何かしら買って行くから、別にいいんだがね」
「買うんですか?」
「一応な」
「何を買いますか?」
「何を?」
「毎日買っても種類は少ないはずです。もしかすると一種類」
 店主は驚き顔を隠しもせず、まじまじとキリコを見た。それから深く息を吐き、すげえもんだ、と呟く。
「いつも昆布の佃煮をね。これだ、食べてみるかい」
「Not for me」
 遠慮しておきます、と思わず母国語で呟く。大抵の日本食は好んで食べるが、これはあまり好きではなかった。
「え?」
「いえ、頂いたことがあるので結構」
「そうかい。――それにしても、流石だなあ。分かるもんなんだな。先生が言った通りだ」
「クロオが何か?」
「『キリコは彼女の行動を大体想像できるはずだから、彼女が何か買ったら教えてあげて』ってな」
「そうですか」
 ピノコと買い出しに来たと言っていた日のことだろう。乾物屋と話をしておいてくれたようだ。手間が省けて助かった。
「他に何か言っていましたか」
「先生が?」
「ええ」
「言っていいのかい」
「ぜひ」
「『彼女を買ったら教えて』」
 キリコは苦笑した。BJらしい言い方だと思った。下世話な想像をしてにやつく老爺に肩を竦める。
「下手なことができませんね」
「する必要なんかあるもんかい。今日は指輪をしてるくせに。あの女の誘いを完全に突っぱねるためだろう?」
「まあ、ええ」
 曖昧な返答をし、キリコは店を出ることにする。目立つ場所で少し時間を潰す必要がありそうだ。あの女に声をかけさせる必要があった。そしてその光景を周囲に見せる必要も。
 喫茶店の窓際の席でコーヒーでも――そう思って歩き出した時、商店の人々が緊張した空気を感じた。事情を知らない買い物客たちの間を縫うように歩いて来た彼女がキリコを見付けた瞬間だった。
「あなたに声をかけようと思ったんじゃないですよ」
 女は先手を打つかのように言いながら、それでもキリコの前に立つ。見上げて来る女の顔はやはり整っていて、それだけにやつれた色が痛々しかった。
「乾物屋さんに行こうと思ったんです」
「私を探すためにね」
「違いますよ」
「そう。ではさようなら」
 敢えて素っ気なく言い、キリコは軽く手を挙げて歩き出す。途端に女が息を呑み、そして「待って」と言った。指輪を見た、とキリコは確信した。
「何か」
「結婚してるんですか?」
「あなたに何の関係が?」
「だから私を買わなかったんですか?」
 女がやや声を荒げた。商店の視線が痛いほど集中した。女も視線に気付き、だが抑えられないというように頬を紅潮させ、もう一度言った。
「結婚してるから私を買わなかったんですか?」
「買って欲しいんですか?」
「買う気もないくせにからかわないで下さい!」
「買いますよ」
 本気で言った。女がぽかんと口を開け、キリコを見つめた後、いやに嬉しそうに笑ってみせた。キリコも作った笑顔を貼り付けた。
「近くにホテルがあるの。そこでいいですか」
「構いませんよ」
「あなたみたいに立派な人が行くようなホテルじゃないんですけど、他になくて」
「ドアが閉まればどこでもいい」
「面白いこと言うんですね」
 女は上機嫌に笑い、こっち、と指で道を示して歩き出した。その手に相変わらず指輪があることを確認し、キリコは彼女の後を追う。集中する視線が突き刺さるようなものに変わり、親切な人間が多い商店街で良かったよ、と彼女の後姿を見ながら思ったのだった。
 たちの悪い人間が多い場所なら、彼女はとうの昔に酷い目に遭わされていただろう。


 電話が鳴った。予想通りの時間だ。BJは溜息をつき、出ようとしたピノコを制して受話器を取った。乾物屋の老爺が言いにくそうに用件を話してくれた。
 うん、うん、と相槌を打つBJの指がくるくると受話器のコードを巻き取る光景と、気のせいか下がっていく室温に、ピノコは「絶対ろくな話じゃないのよさ」と呟いてテラスへ逃げた。
 コードが千切れる寸前まで巻き取り、BJは静かに言った。
「爺さん、彼女の住所、どこだか分かる? 旦那と住んでるんだよね?」


 セックスのために作られた安くて品のないホテルに入り、日本のは初めてだな、とキリコは内心で呟いた。
 女を買ったことがないわけではない。義理で買うこともあれば、BJとふたりになる前は人肌が欲しくて望んで買ったこともある。どの女も手慣れたもので、部屋に入れば男をバスルームに押し込み、それから服を脱いでビジネスセックスの準備をするものだった。
「あ、ごめんなさい、シャワーを――どうしましょう、使います?」
 先に下着姿になったこの女は慣れていない。売春を始めて日が浅いことがよく分かる上に、あまり上客を捕まえたことがないことも見て取れる。運がよかったんだ――キリコは心底思った。この女は運がよかった。
「ケツ持ちは誰だ?」
「――え」
 ドアに寄り掛かったまま煙草を咥えて言った男に、女は初めて緊張した顔を見せた。先程までの紳士的な言葉は消え、ひとつだけの青い瞳が射貫くように自分を見ていることに気付く。
「誰って……あの、私ひとりでこういうことをしているから、誰も」
「馬鹿言え。できるわけがないだろう。どんな場所でも身体を売る女はケツ持ちがつく」
「いないんです、本当に」
「ふうん」
「それで、この仕事を始めたばかりの頃は怖い目にも遭ったんですけど――」
「乱暴な客にでも?」
 本当に運がよかったな、とキリコは思う。後始末をしてくれる存在もなく個人で売春をしている女は、どんな国でも酷い目に遭うものだ。料金を踏み倒されるだけなら御の字、最悪の場合は死んでも誰も気にしない。
「そうです。泣き寝入りするしかなくって」
「馬鹿が」
 細く、長く煙を吐き出し、キリコは鼻で笑って言った。女は傷付いたように、だが怯えた目でキリコを見る。
「だからあの商店街に来たのか。あそこなら親切な人間が多いし、危ない目に遭うことも少ないだろう。おまえを警察に通報することすら躊躇ってくれるような連中だからな」
「警察って――」
「連中の人がいいことを利用して、馬鹿な真似しやがって。俺の女の地元を荒らすなよ。あいつが気を使って娘を連れて来にくくなった」
「あなた――あの、そういう態度ならお金はいらないし、私、帰ります。そこをどいて」
「馬鹿言え。俺はおまえを買ったんだ。時間内は好きにするぜ」
「そこをどいて」
「どうして俺がおまえの言うことを聞くと思うんだ?」
「どいて!」
 女は悲鳴混じりに叫んだ。全身を震わせ、目の前の男が自分に暴力を振るうことを予感し、恐怖に顔を歪ませる。震えて怯える姿を数秒眺めた後、キリコは煙草を踏み消し、ドアに寄り掛かって静かに言った。
「ドアが閉まればどこでもいいって言っただろう。覚えておけ。外国じゃ『どこでやっても売春婦の末路なんざ変わらねえよ』って意味だ」
「やめて」
 言葉の意味を察した女は後ずさりする。品のないベッドの縁に躓き、どさりとマットの上に尻餅をついて絶望した。目の前の外国人の男が今にも襲い掛かり、暴力を振るわれるのだと確信した。
 だがキリコは動かなかった。軽く息を吐いた後、また静かな声で、そして穏やかに言った。
「懲りましたか」
「……え」
「この辺りで客を取る前に酷い目に遭ったなら、セックスをすればどんな男でも優しくしてくれるわけではないとは知っていたでしょう。私なら優しくすると思いましたか」
 女は答えなかった。目を見開き、キリコを見詰めるだけだ。だがやがて唇が震え、じわりと浮かんだ涙がやつれた頬を伝った。それから小さな声で、ごめんなさい、と言った。
「あなた、女の人と小さな女の子と買い物に来ていて」
 声をかけられた日のことだ、とキリコは判断した。女は震える声で続けた。その震えは後悔からのものだと、溢れる涙と痛々しい表情が教えていた。
「とても優しく見えて。だから。――だから、ごめんなさい」
「続けて」
「ごめんなさい。――どうしても、だから、きっと、あなたは優しいって」
 あなたに会いたかった、だから毎日探した、買って欲しかった。女は言った。
「今日、指輪をしているのを見て嬉しかった」
「どうして?」
「奥さんがいるなら、女の人に優しくする振りをしてくれる人が多いから」
 本当に運のいい女だ――キリコは溜息を押し隠した。なまじ美人だったからということも功を奏していたのだろう。確かに妻帯者が女を買う時、習性か、それとも妻へのうしろめたさからか、買った相手に優しくすることが多いと聞く。だが売春婦の前では欲を優先させる男もごまんといる。この女は後者に遭遇することが少なかったのだろう。
 指輪をした本当の意図に、そこまで深い意味はなかった。単に所帯持ち同士の後ろめたさで心理的な親密度を増すことができるだろうと思っていただけだ。
 だが意図せぬ効果があったことは確かだ。キリコは自分の手回しを自画自賛する。二度目に声をかけられた時に確信していた。あの時、優しい言葉をかけられることを期待した女に冷たくした。その途端、一瞬とはいえ、この女は期待外れの様子を見せた。だからこそ俺に執着するだろう――キリコはそう予想し、そしてそれは正しかった。
 身体を売りながら優しくしてくれる男を探していた。だからキリコはこの女を自分の患者だと思ったのだ。歪んだ感情で売春にはそぐわない地域で客を探す。それだけで異常だった。
 そして商店街の人々も漠然と気付いていたことは間違いない。だからこそ肉屋の主人の妻はすぐに「ドクターが診るのか」と問い、他の人々もキリコが戻るまで警察を呼ぼうとしなかった。
「身体を売らなければ探せないとでも?」
「夫がいるんだもの」
「むしろ、それで売春をする理由は?」
「今は夫が病気で働けなくて、だからうちは貧乏で――」
 俺がいなかった間、あなたは客を取っていなかったはずだ、金がない人間がすることじゃない――だがそれを言うことはなかった。今はこの女が話すべき時間だった。
「でも夫の病院代が必要だし、でも私は誰かに優しくして欲しくて」
「ご主人は優しくない?」
「え?」
 女が顔を上げ、キリコを見た。何を言われたのか分からないといわんばかりのその表情に、ここではこれ以上話しても無駄だ、とキリコは結論付けた。
「これ以上ここで話しても意味がない。服を着なさい。取り敢えず出ましょう」
 他にドアが閉まる場所で話をしましょう、と言うと、女は泣いた顔を歪めた。笑ったのだった。


 都心の自分の医院は遠すぎる。かと言ってこの辺りで患者のプライバシーを守れるような場所に心当たりがない。BJの家を借りるかと考えながらホテルを出て、取り敢えず車に乗せるために商店街のコインパーキングへ向かう。
 途中、店の人々がショーケース越しに視線を送って来た。あからさまに顔を歪め、キリコが女を買ったことに嫌悪感を示す者もいる。だが数人はそうでもなく、むしろ心配そうに眺めていた。店先に出ていた乾物屋の主人は肩を竦めた。
 そしてキリコは「神よ」と思わず呟く。隣にいた女は息を呑む。
 肉屋のショーケースに無作法に寄り掛かり、営業妨害よろしく、いかにも不機嫌な顔をした黒尽くめの女が立っていれば当然だ。店主と妻はBJとキリコを交互に見やり、絶望の顔を隠そうともしなかった。ここは先手だ、とキリコは決める。
「マフィン、話は後だ。俺が何をしたか分かってるはずだろう」
「何をしたか?」
 BJの眉が跳ね上がる。神よ、とキリコは口の中でもう一度呟いた。
「話をしただけです!」
 女が叫んだ。これは予想外だった。キリコは瞬時に冷静さを取り戻して横目で彼女を見る。誤魔化そうとしているわけではなく、必死で誠実に、誘ってしまった男のパートナーに説明をしようとする顔だった。
「何もしてないんです。元々、声をかけたのは私で――」
「――あなたが持ち掛けたの!? 彼にわたしがいるって知らないわけじゃないくせに!」
 この瞬間、キリコは口を出すことをやめた。今は何を言っても無駄だと判断した。商店街中の視線が集中しようとも、今はBJと女だけが話すべきだった。
「この人は私を心配してくれたんです。だから二人で話ができる場所に行くために、嘘をついて――」
「話を逸らさないで。あなたが持ち掛けたんでしょう。応じる男より誘う女の方がどうかしてる!」
「だから――ご主人は話を聞いてくれて――」
「誰がそんなことを信じるって!? 馬鹿にしてる!? 大体あなた、結婚してるんでしょう! どんな事情があるのか知らないけど、おかしいと思わない!?」
 ヒステリックに捲し立てるBJに対抗できるのは妹くらいのものだった、とキリコはいやに冷静に思い出す。女はBJの金属的な迫力に押され、ろくに説明することができない。
「あの、ごめんなさい、でも本当に」
「こんな場所じゃ御免だし、あなたの家に行かせてもらう。――旦那さんにも話をするべきよ!」
 キリコは素早く予定を立て直した。ヒステリックに喚き散らすBJのその宣言に、女の顔から表情が消えたことを確認した。BJもそれに気付き、大きく息を吐いて、それきり喚き散らすことをやめた。混乱の色を纏った沈黙が周囲を支配する。
 やがて女が言った。
「昆布の佃煮を、買って行ってもいいですか」
 主人が好きなんです。彼女はそれきり、一言も話さなくなった。
 BJは唇を噛み、それからキリコに目配せをしてコートの裾を翻し、既に知っている彼女の自宅アパートへ向かって歩き出した。


 古いアパートの階段は音を立てて軋み、BJに大学時代を思い出させた。無言で先を行く女が案内した部屋は日当たりが悪く、ただでさえ安い家賃を想像させるアパートの中でも、おそらく最も安い部屋だと知らしめた。
 BJとキリコは無言で靴を脱ぎ、部屋に入る。途端に鼻腔をくすぐる香りを気にしないようにした。不快な香りではなかったが、今はあまり意識したくなかった。
 入ってすぐに台所があった。ほとんど使われている形跡がない。錆びたシンクには、封が開いていない昆布の佃煮が無造作にいくつも積み重ねられていた。女は手にしていた新しい昆布の佃煮をその上に投げるように置いた。キリコは気付かない振りをした。
 キッチンの向こうには閉じられた襖がある。
「夫が寝ているんです。病気なの。ここで話をして下さい」
「話すのはあなたよ」
 BJが女を見ずに言った。見たくないのだ、とキリコは知った。ここに来るまでにどれほど感情を乱されただろうと考えるだけで可哀想になった。だが、BJがいなければこのアパートに足を踏み入れるまでに数日の時間が必要だったとも分かっていた。だからBJに感謝するしかなかった。
「話すと言っても――開き直るわけじゃなくって、本当に、何もしてないんです。ご主人は私の話を聞いてくれただけなんです」
「そう。だったらキリコともっと話すといいわ。私はご主人に挨拶させてもらうから」
「待って下さい、具合が悪いの。起こさないで」
「起こすわよ。説教してやりたい」
「どうしてそんなこと!」
「病気だからって妻に売春させるような男、いくら何でもおかしいでしょう」
 不意に女の表情が消えた。だが次の瞬間、BJが訝しむ前に憎悪に歪んだそれに成り代わり、女は金切り声を上げていた。
「彼の悪口を言わないでよ!」
 同時にキリコは動き、女が渾身の力で突き飛ばしたBJを抱き止める。本気でよろけたBJは腕の中に倒れ込み、もう、と小さく呟いた。
「俺が話す。外に出てていい」
 出ていろ、とも、出ていてくれ、とも言わなかった。ここにいたければいてもいい。だがいたくなければ出て行っていい。そう伝えた。嫉妬に振り回される女に言うべき台詞ではなかったが、振り回されているはずの女は妙に冷静に「いるよ」と言った。キリコは無言で腕に力を込め、BJへの感謝を伝えた。
「あんたに何が分かるのよ! 医者でしょう、うちと違ってお金あるんでしょう! 何よ、金持ちで格好いい旦那がいて優しいじゃない! あんたみたいな女に何が分かるのよ!」
「やめなさい、彼女は関係ない。私と話すんだ。私とご主人と、三人で」
「話せないわよ!」
「どうして?」
「当たり前よ!」
「どうして?」
「だって、――……だって、……え……」
 女の表情が揺れる。もはや落ち着きを失ったままの女は忙しく表情を動かし続けた。だって、だってと何度も呟き、周囲を見渡し、シンクの佃煮の山を眺め、それからBJを見る。
「だって」
 最後にゆっくりとキリコを見た。
「だって、……だって」
 キリコは女を見る。女はひとつだけの青い瞳に映る自分の姿を見る。やがて唇が震え、震えは全身に広がり、やがて、うそ、と呟いた。
「うそ、……嘘……!」
「何が?」
「嘘よ……!」
「何が?」
 女は絶叫した。泣きながら叫んだ。
「嘘よ! 何もないわよ! 何も!」
「何かあったのでしょうね」
「何か――何か? 何か! そう! あの人、優しいのよ!」
「だから」
 キリコは言った。腕の中のBJが強くしがみついたことを知り、抱く腕にまた力を込めた。
「だから優しい男を探したのですね」
 BJの力がまた強くなった。男の胸に顔を埋め、聞きたくない、見たくないとでも言うかのように強くしがみつく。キリコは腕に力を入れずにはいられなかった。今は患者だけに向き合うべきだと分かっていても、どうしても腕の中の存在を意識から追い出すことができなかった。
「優しいのよ」
「そうですか」
「お金がないの」
「どうして?」
「だって、あの人、病気で働けなくて」
「そうですか」
「病院に行くお金がないんだもの」
 BJがゆっくりと、この上なく緩慢にキリコの腕から抜け出した。そして女を見る。キリコはBJを見る。そして、ごめん、と愛する女へ呟いた。BJは答えず、小さな声で女に言った。
「なかったんだ?」
 ヒステリックな女言葉を演じることをやめ、素のままのBJがそこにいた。医者ですらなく、ただ、ひとりの女として、ひとりの女の前に立っていた。乾物屋の老爺に電話を受けた時から続けていた演技は治療のためのものだった。否、キリコの治療のサポートのためだった。
「ないのよ。お金がないの。診てもらえないし、薬だって買えない」
「辛かったね」
「辛いのよ」
「お金がなくて、病院に行けないんじゃない。行けなかった。辛かったね」
「行けないのよ」
「違う」
 BJが首を横に振る。まるで自分が辛い目に遭っているかのような顔で。もういい――キリコは言おうとした。もういい、俺の患者だ。だがBJは言った。
「もう辛くない。あなたは今、哀しくて、寂しいんだ」
 心療内科としては誤った言い方だ。キリコは思った。自分には決してできない、そしてBJも医者としてなら決してできない言葉の選択だった。
「そんなに痩せて、やつれてしまうくらい、哀しくて、寂しいんだ」
 女はBJを見詰める。唇が戦慄いた。声が出る前にまた涙が溢れた。嘘よ、と呟いた。だがそれは思い出した声だった。
「嘘よ」
 現実を思い出した。
 そして現実を知らしめる死神が動き、閉ざされていた襖を静かに開けた。
「嘘だって言ってよ」
 祭壇と呼ぶにはあまりにも質素で粗末な台に置かれた遺影と、その前で燃え尽きた線香が、いつの間にか傾いた夕日に照らされていた。


 乾物屋の店主夫妻が彼女を暫く預かると申し出てくれた。女は泣きながら周囲に詫び、キリコの潔白を証明するために必死で説明した。キリコを疑った人々はばつの悪い顔し、疑わなかった人々は胸を撫で下ろした。
「おまえが来ると思ってなかった。助かったよ」
「もっと感謝しろ、早漏」
「違う」
 崖の上の家に向かう車の中、助手席のBJは憮然としながら主張する。それから煙草を咥え、シートにだらしなくもたれかかって深く吸った。
「旦那が死んで寂しくて、旦那みたいに優しくしてくれる男を探してたってこと?」
「そういうことだ。売春は金がなくて病院に行けない旦那が死んだ時の心的外傷だよ」
「じゃあ、旦那が生きてる間は売春しなかったってことか」
「そこまでは知らない」
 していなかっただろう、とキリコは思った。ホテルでの商売慣れしない態度を見れば分かることだった。
「金がなくて、ねえ」
 高額な報酬を常とする医者は溜息を煙に混ぜる。
「高額医療補償制度、知らなかったのかな」
「俺も詳しくは知らないから何とも」
「日本の皆保険の有難みってやつ。医療費が一定金額を超えたら国から返還されるんだよ。先に手続きしておけば最初から払わなくていい」
「どんな天国だよ。日本で治療したがる外国人が多いのも理解できる」
「でもあれ、病院側も積極的に教えてないからなあ。知ってる人だけ受けられるって感じで。あの夫婦、知らなかったのかもしれない。――これからは教えて行こうって動きもあるらしいから、こういうケースが減るとは思うけどね」
 私の知ったこっちゃないけどね、と呟いて、無免許医は新しい煙草を咥えた。吸い過ぎだとキリコは思ったが、今は言わないことにした。BJがあの女の姿に少なからず衝撃を受けたことは分かっていた。
「どうしてそれ、してるの」
 不意にBJが言った。指輪のことだとキリコが気付くまで数秒かかったが、やがて「ああ」と答えた。
 その方が話をしやすいと思って――そう言おうとした。だが言わなかった。若い青年の言葉と、そしてあの遺影を思い出した。
 あの男はどんな気持ちだったのだろう。そう思った。死に行く人などどれほど見たか、どれほど送り出したか分からない。それでもこんなことを考えたことはなかった。考えないようにしていたのかもしれないと気付いた。
 どんな気持ちだったのだろう。死を意識した時、愛する女をひとり残して行かねばならないと知った時、指にあるリングをどんな気持ちで見詰めたのだろうか。
 そしてあの女は、自分の指のリングをどんな気持ちで――
 指にあることに慣れていたら。その意味を失ったら。その愛情の対象を失ったら。もしも――自分がクロオ・ハザマを失ったら。
 クロオ・ハザマが自分を失ったら。
 その時、耐えることができるのだろうか。自分ではない。自分かもしれない。だが何よりも、愛する女が耐えることができるのだろうか。
 俺が死んだらどうする。問いは簡単だ。だが女はその問だけで泣き出すだろう。そんな未来が予想できる程度には、この女を愛している。
 “ドクターが臆病なだけなんじゃないの”
 ああ、そうだろう。俺は臆病だ。
 俺が死んで、その時に、指輪を見てどれほどこいつが――
「したかったんだよ」
 泣かないうちに。
「たまにはいいだろ。お嬢ちゃんの前では外すさ」
 泣かないうちに。まだ俺が生きている間だけでも。
 おまえが泣かない間に。
「だったら」
 ぷう、と音が聞こえてもおかしくないほど可愛らしく、BJが頬を膨らませた。
「わたしも指にしておけばよかった」
 あまりにも可愛くて、キリコは自分が運転中であることを呪った。可愛い、キスしたい、と正直に言えば、次の信号が赤だったらね、とBJが唇を尖らせた。
「明日はホタルイカをもう一回買いに行くからキリコが運転。下ごしらえしてね。竜宮そうめん、また作って」
「またかよ。そりゃ患者に会いに行くから構わないが」
「もう旬が終わっちゃうし、でも最後に食べたいし。魚屋が彼女とキリコのこと疑ってる連中の中にいたから、ちょっと嫌味いっておまけしてもらおう」
「それは重要だ。交渉は頼んだ」
「任せろ、モグリ外科医の交渉術を味わわせてやる」
「おお、怖」
 身を震わせる振りをして笑う。BJも笑った後、急に何かを思い出したようにシートベルトを外す。こら、とキリコが叱る前にいそいそとリボンタイとブラウスの襟を緩め、ネックレスから指輪を外して指にはめた。
「家に着くまで」
「――次の信号が赤じゃなかったら路肩に停めるぞ。キスさせろよ」
 可愛くて目眩がしそうだ。言われたBJは嬉しそうに笑った。
 次が赤信号でありますように、と臆病な男は自分の指輪を眺めて願った。

 俺は臆病だ。
 だから迷っている。
 いつかの別れを迎えた時、この指にある小さなリングの重みに耐えられるのか。
 俺の愛する女が耐えられるのか。
 俺は臆病だ。

 愛している。
 俺の最後の女だ。

 だからこそ迷い続けるのだ。
 愛し続けて良いのだろうかと。