万葉恋歌 01



信貴山の城の使用人はよく躾られている。
無駄なことは言わない。無駄なことはしない。
主に命じられたこと以外には興味も持たない。そも、興味を持ってもいけない。
だから雨の夜に突然、正門の前に紅い被衣を頭から垂らしたずぶ濡れの女が現れ、黙って城内に歩み去っても、門番の兵は身動きひとつしない。その女が自ら声を発さぬ限り、男は関わってはいけない、と城主にきつく言われていたからだ。
女が城内に入ると、決められた侍女数人だけが平伏して出迎えた。城主に長く仕える彼女たちは、この女の正しい名も知らない。だが城に現れた時には、他の全ての仕事よりもこの女の世話を最優先で行なうようにと命じられていた。
女は何も言わない。侍女頭が丁寧に、ずぶぬれの被衣を脱がせた。それから女の白い手を取り、湯殿へ導く。どれほど雨の中を歩いたのか、女の手は冷え切っていた。
湯殿で女は何ひとつ自ら行なうことはない。着物を脱ぐことも、身体を洗わせることも当然のようだった。当然、という顔すらしていない。天女のように美しい顔には何ひとつ表情がなかった。
充分に温まった頃を見計らい、侍女が湯殿から女を出す。
糠で磨いた肌の滑らかさに、同性ながら漏れそうになる嘆息を抑えつつ、侍女たちは女に新しい着物を着せた。
城主が以前に用意しておいた、蒼の打掛を纏わせる。
女が来た時にしか使われない部屋に通し、髪に甘い香を焚きしめ終わる頃、城主の訪いが侍女頭に伝えられた。侍女たちは手早く、だが音ひとつ立てずに道具類を片付け、女に平伏した後、主が現れる前にその部屋を辞した。
「やあ」
部屋に現れた久秀は小袖に袴だけの姿だった。髪を結わずに降ろしている。普段のこの女の前では決して許されない格好だが、今は何の反応も示されなかった。
「綺麗にしてもらったね。よく似合うよ」
返事もしない女の隣に座り、躊躇うことなく手を取る。髪から香り経つ普段よりも甘い香りに深い笑みを零した。
それから久秀は取り止めもないことを話す。挨拶すらしていない。
女は特段、反応を示さない。どんな話も黙っているだけだ。
だが時間が経つにつれ、部屋の中を見渡したり、久秀の話で興味のある事柄になると僅かに目を向けたりと、徐々に小さな反応を見せ始める。
やがて袂で口を隠し、ふぁ、と小さく欠伸をした。この城に到着してから初めての人間らしい動作だった。
久秀は笑う。
「どれだけ歩いたのだね」
女は答えない。ただ眠そうに目をこする。まるで子供のような仕草で。
「歩いて雨に濡れて、風呂で温まれば眠くもなるだろう。もう休むといい」
雨が強くなっていた。こうなる前に到着できて幸いだったな、と久秀は女を臥所に導きながら思った。
既に述べられていた夜具に女はさっさと横たわってしまった。打掛から腕を抜こうともしない。久秀は「だらしがないね」と口だけで言い、既に眠りかけている女の打掛を丁寧に脱がせてやることに時間を費やした。間着はそのまま、柔らかく作られた布団をかけてやる。
久秀が眠るにはまだ早かったが、隣に述べられた床に入り、目を閉じる。明日の朝には女が自分の臥所に潜り込んで眠っているであろうことを予測しながら。
雨の音と、女の寝息が心地良い。
少しばかり冷えて来たな、と思った。明け方には相当冷え込むだろう。


甘い香りにくすぐられて目が覚めた。雨の音と寝息が柔らかく聴こえて来る。腕の中の重みに、夜中に一度目覚めた女が自分の臥所どころか腕の中にまで入り込んで来たのだと知った。気づかなかったとは、自分も随分眠り込んでいたものだ。
髪から薫る甘い香りを楽しみながら、艶のあるその髪に指を通す。
しばらく続けるうちに、久秀もまた眠ってしまった。
次に目覚めた時、女は既にいなかった。寝間を出て、いつものように好きな場所にいるのだろう。この城に来ると、彼女はいつもそういうことをする。使用人たちももう慣れ、彼女に極力声をかけたりすることはないが、どこかへ行けばさりげなく居場所を確認し、危険がないように心配りをしていた。
今朝は厨房にいる、と朝の支度を手伝いに来た侍女が伝えた。
「握り飯を、おひとつ。厨房で半分ほど召し上がって、その後は何をなさるでもなく、召し上がるでもなく、土間の上がりにお座りあそばしておられます」
「ああ、暇なだけだね」
着替えを終え、厨房へ向かう。日頃は足を踏み入れない場所だが、女がそこにいるのなら顔を出す。政務の時以外はこの女のそばにいるようにしていた。
厨房の者たちは主家の朝食のために忙しく立ち働いていた。土間の上がりの隅に蒼い打掛姿の女がいる。土間に足袋も履かぬ裸足を下ろして座り、前かがみで膝に頬杖を着いて いる格好だ。その横には齧りかけの握り飯と、梅干を丸ごと入れた白湯があった。白湯は既に冷めてしまっているようだった。
忙しい使用人たちは、女の存在を必要以上に気にしない。ここの者たちも躾が行き届いている。
「吉姫、おはよう」
女がこの城に着いて初めて、久秀は彼女の名を呼んだ。その名は決して間違いではないし、むしろ正しい。だが彼女をこの名で呼ぶのは、おそらくこの世で自分だけだと知っていた。
きつひめ、と呼ばれた吉は返事をしない。ぼうっとした顔つきで厨房を眺めている。
「もうすぐ朝餉が出来る。あちらで私と待とう。おいで」
まるで幼女に話しかけるかのようだ。普段の吉ならば烈火の如く怒るか鼻で笑うか。だが今は何も言わない。おとなしく久秀に着いて歩き出した。
朝の膳はすぐに運ばれた。普段より少し柔らかめに焚かれた米に根菜の汁、焼いた魚が供される。どれも質の良いもので、この時代にしては少々贅沢だろう。
吉の膳には小さな白玉団子の皿があった。吉は団子だけを食べ、あとは箸をつけず、さっさと箸を置いて朝の食事の間を出て行ってしまった。
「子供なら、親に叱られているところだよ」
久秀は僅かに笑い、自分の膳を片づけにかかる。
朝食の後、使用人が吉の場所を小声で伝えに来た。中廊下から雨の中庭を眺め下ろしているが、侍女頭がいくら言っても足袋を履かず、裸足でいるということだった。
「今日の雨では冷えてしまうね。雪になるかもしれないのに」
「お風邪を召されるやもしれませぬ」
明け方から急に冷え込んでいる。自慢の中庭に雪が積もればさぞ美しくなるだろう。雨にけぶる姿も乙なものだが、雪はそれを上回る。
だが、久秀は知っている。彼女は雪がとても嫌いだ。
「雪が降るかもしれないよ、と」
「は」
「そう、姫に言ってみるといい。そうすれば足袋を履くよ」
「かしこまりました」
使用人は侍女頭に伝えるため、すぐさま音もなく消える。
久秀が急ぎの政務を終えた頃、足袋を履いた吉は自分の部屋で畳に腹這いになり、足を宙にぶらつかせ、絵巻物を眺めていた。久秀がこの部屋にいつも置かせているものだった。
楽しそうという風情でもなく、相変わらず表情がない。
「信貴山絵巻か。もっと綺麗なものを見たらどうだね」
文化的には信貴山絵巻には相当な価値があるが、久秀は敢えて吉の手元からそれを取り上げた。無論、騒々しい音など立てず、静かに優しく。
「以前来た時に見ていたのは源氏物語ではなかったかな」
女性が好むとされる代表的な絵巻物だ。普段の吉なら興味すら示さないものだった。だが今、久秀が目の前に置くと、とりあえずといった風情で絵巻に目を落とす。
そのうち興が乗ったのか、右手で絵巻を巻きながら、平安時代の恋物語を眺め始めた。久秀は笑みを深くする。もうしばらくすれば草子にも手を出すだろう。普段読まないような、深窓の姫が好む仮名草子を。
半刻ほど眺めた後、吉はまたふらりと立ち上がって部屋を出る。吉の隣で別の本を読んでいた久秀は絵巻を片づけ、吉が居場所を決めるまで待つ。雨だから城の外には行かないだろうと分かっていた。城内ならば安全だ。久秀が吉を害そうと思わぬ限り。
次の居場所は世話をする侍女たちにとって、やや迷惑な場所だった。吉は冷たい雨の降る中、中庭の池の縁に立ったのだ。侍女頭が慌てて傘を差す。吉は黙って池を見ていた。久秀はその姿を濡れ縁から眺める。天女のような美貌の女が、雨にけぶる美しい庭に立つ光景を独り占めできる贅沢に暫し浸った。
吉がふと、傘を差す侍女頭を振り返る。唇が僅かに動いた。
「寒い?」
この城に着いて初めての声だった。侍女頭はようやくこの姫が声を思い出したのだと知る。いつも声を出すまでに時間のかかる姫だということはよく分かっていた。
「お寒うございますか、姫様。お部屋が暖まっておりまする」
「ぬしが、寒い?」
「──わたくしめのことなど、お気になさいますな。恐れ入りまする」
本音を言えば寒くてたまらない。だが職務に忠実な侍女頭は、そう答える留めておいた。嘘をつかず、さりとて、世話をするべき姫の邪魔をすることもなく。
「寒いのは、いや」
「さようでございますか。お風邪を召しては大事にござります」
「ぬしは、寒い?」
侍女は微笑んでみせた。この姫が何を言いたいのか、分かったような気がした。
「寒うございまする」
「部屋は暖かいの」
「さようでございます。──お入りあそばしませ。わたくしもご一緒しとうござりまする」
「ん」
過去にも幾度かこんなことがあった、と侍女頭は思い出す。この姫は何ひとつ、自分では決定しない。何も決めさせてはいけない、健康に関すること以外は急かしてはいけない、と、主である久秀にも重々言われていた。
侍女頭に導かれて歩く吉を濡れ縁で飽きもせず眺め、久秀は満足していた。ここでしか有り得ない吉の姿を、すべて自分だけが見ている。魔王がただの女に──否、人生から切り捨てたはずの本来の姿に立ち戻り、頼りない、知恵も覗わせない言動を見ることが、何よりも楽しかった。
「寒かったかね」
濡れ縁に上がった吉を殊更に優しい声で出迎える。
「どこの部屋も暖かいよ。絵巻の続きを見ようか」


吉はそれからも、傍から見れば知恵の足りない女のようなことばかりをしていた。とはいえ誰かに大きな迷惑をかけるでもなく、久秀が何かを言えば大体のことには黙って従う。侍女頭が言うことにもあまり反抗することはなかった。もっとも、意に添わぬことを言われれば、反抗どころか反応もしないだけの話だった。
侍女たちからすれば、この姫は好意的に迎えるべき存在だった。本名も身分も知らないものの、粗相が許されない相手であることは重々承知している。そのような女の世話を任されることは重責ではあるが名誉でもあり、また、彼女が城を発てば久秀が休暇と褒美をくれるのだ。
何より、この姫は手がかからない。ふいとどこかへ行き、その場所によっては多少の難儀はあるが、極度に困らせる我儘も言わず、むしろほとんど要求をしない。
久秀が政務で傍らにいられない時、侍女たちが話をしたり楽を奏でたりと、吉を楽しませようとする。それも与えられた役目だった。吉は大方それを素直に見たり聴いたりしているものの、あまり反応を示さない。だが座を立たぬ限り、つまらないというわけではない、と侍女たちは理解していた。
だが一度、吉が酷い癇癪を起こした。
侍女のひとりが笛を吹いた時だった。彼女は稀に訪れるこの姫のため、密かに笛を練習していたのだ。その努力は吉への好意によるものであったし、他の侍女たちも姫が喜ぶのではないかと期待していた。
だが吉がこの城では珍しく、妙に大きな声を出した。
「いや」
大きく、そして鋭い声だった。よく躾けられた侍女たちも咄嗟に反応できない。久秀の信頼厚い侍女頭でさえも瞬時に対応できなかった。
「笛はいや」
頬を紅潮させ、身体を震わせている。こんな状態の吉を見るのは誰もが初めてだった。
「いや。下がりたも。──下がりや! 見とうない!」
傍に置かれていた菓子の盆を掴み、笛の侍女に向かって投げつけた。乗っていた色とりどりの可愛らしい菓子と黒塗りの盆が侍女に直撃し、女たちはさすがに悲鳴を上げる。
「申し訳ございません、存じませんでした。お静まりあそばして」
侍女頭が慌てて、だが静かに声をかける。笛を出した侍女は理由が分からないながらも、とにかくこの場から退出しなければならないと察し、自らの未来が閉ざされたことを嘆きながら足早に部屋を出た。他の侍女たちもそれぞれの役目を果たすために動く。
「いらぬもの! いや!」
「ええ、ええ、いやなものはもうございませぬ。笛がお嫌いであらせられましたの。存じませぬで、申し訳もござりませぬ」
だが吉の癇癪は治まらない。新たに用意された菓子の盆を引っ繰り返し、侍女頭にいや、いらぬ、と喚き続ける。侍女頭は辛抱強く相手を続け、吉の癇癪にいちいち頷き、それでも吉が八つ当たりの暴力を振るわないことに気づいた。
「これはどうした騒ぎだね」
混乱を極めた女たちの部屋には相応しくない、鷹揚な、そしてどこか笑いを含んだ声が通る。久秀だった。侍女たちは一斉に平伏し、吉は肩で息をして唇を噛む。
吉の様子に久秀は微笑んだ。この女が癇癪を起こす姿は過去に何度も見ているものの、この城で起こす時が最も愚かで醜く、そして可愛らしいと思った。
吉の隣に座り、手を取る。感情の昂ぶりが体温をも昂ぶらせたのか、吉のてのひらが汗で濡れていた。
「笛が嫌なのだって?」
「いや」
「長い付き合いだがね。そんなことは初めて聞いたよ」
「いや。──いや!」
「ああ、分かった、分かった。大きな声を出すものではないよ。この者たちは下がらせよう」
主の言葉が終わると同時に、侍女たちは音もなく、だが急いで部屋を下がる。救われた気分だった。やはり久秀が最もあの女の扱いには長けている。世話をしていれば主と謎の姫が男女の関係でないことは分かるが、久秀が吉を扱う時の態度は、まるで歳の離れた夫のようだとも思う。
笛の話にはもう触れず、吉の手を取ったまま、久秀は他愛のない話を始める。吉は落ち着きなく久秀の手を振り払い、感情のやり場のなさにまた肩で息をし、久秀の話を「やかまし」と泣きそうな声で何度も拒む。
そのたびに久秀は微笑む。愚かで醜く、そして可愛い女に。
ただの愚鈍で醜い女の、何と可愛いことであろうかと。
「甘い葛湯をもらおうか。こう寒い日、雨の音を聞きながら飲むのも美味なるものだよ」
久秀は吉を宥めながら微笑む。笛、という言葉の意味を思い出したためか、いつも以上に優しく吉に微笑んでやれたような気がした。

──さて、笛、ね。

唯一控えていた侍女頭によって葛湯が運ばれたが、久秀と共にいたくなかったのか、吉は葛湯に手をつけず、ふいとまた姿を消した。久秀は敢えて追わず、政務に戻る。また手のつけようのない事態になれば使用人が呼びに来るはずだ。


使用人が使う部屋に籠もり、笛を演奏した侍女は泣いていた。二度と重要な仕事は任せてもらえないだろうし、下手をすれば里へ帰される。この城はそういう場所だった。同僚たちは言葉少なく彼女を慰め、自らもいつか理由も分からぬままこのような末路を迎えるのだろうかと肝を冷していた。
一人の侍女が足音に気づき、襖を開ける。そして飛び上がるほど驚き、部屋にいる同僚たちに合図をした。侍女たちはその合図に気づいてやはり飛び上がらんばかりに驚いたが、泣いている侍女も含めて平伏する。
吉が現れたのであれば当然の反応だった。
「先の、笛の者」
一同は悲鳴を堪え、ますます深く頭を下げる。あの侍女が吉によって暇を与えられるのだろうと予想した。
笛の侍女が死力を振り絞り、はい、とか細い返事をする。頭を上げることはできなかった。
「大事ない?」
菓子の盆を投げつけたことを言っているのだ、とすぐに分かる者はなかった。しばらくの戸惑いの後、ようやく理解した笛の侍女は返事をする。
「ござりませぬ。姫様には大層な御無礼、申し訳もござりませぬ。どうぞどうぞ、ご勘弁下さりませ」
「癇の虫、許してたも」
「え」
唐突に与えられた吉の謝罪の言葉に、侍女たちは呆気に取られる。恐る恐る顔を上げた一人は、吉の顔を見、慌ててまた顔を伏せた。
常に無表情であるはずの美姫の顔に、深い後悔にも似た色が浮かんでいたからだった。見てはいけないものを見たような気すらしてしまった。
「暫しまた、よろしゅう」
そのまま、また吉はどこかへいなくなる。
嗚咽が響いた。笛の侍女のものだった。
同僚たちは安堵の息を吐き、その彼女を再び慰め、よかったわね、これでもう大丈夫ね、と声をかけて仕事に戻ることにする。
自らの癇癪を恥じ、使用人に謝る美姫に、誰もがまた好意を抱いた。