侍女たちの表情が明るい。政務を終えて戻った久秀はそれに気づき、面白いとすら思った。侍女頭から簡単な報告を受けていたが、まさか吉が侍女に謝罪に行くなどとは思ってもみなかった。久秀としてはあの侍女を里に帰すつもりであったのだが、そんなことをすれば吉が別の癇癪を起こすことが分かった。
それから数日、吉は徐々に侍女たちと気軽に口を利くようになった。この城に来ればいつもそうだった。最初の数日は言葉を発することすら億劫で、とにかく好きなことばかり、そして深窓の姫に相応しいことばかりをする。久秀もそれを全て受け入れる。やがて吉にしか分からない「何か」の時が訪れると、ようやく周囲の者に意識を向けるようになるのだ。
今回は笛のせいで少しばかり周囲の者──現実を見据える機会が早かったが、たまには仕方のないことだと誰もが思っていた。
そして現実に意識を向けた吉は、今までとは打って変わって快活な様子を見せる。
侍女だけを傍に置き、女が好む話題に笑い、他愛もない噂話に興じる。久秀でさえ中に入れない、女独特の盛り上がりを楽しんでいることは明白だった。
誰が魔王と信じるだろうか。屈強な男たちを支配下に置き、神がかった戦を繰り返しては名政を成し遂げ、戦乱の親となったあの魔王だと、この姿を見て誰が信じるだろう。
いつの頃からこんなことを続けているだろうか、と久秀は思い出し、ふとおかしくなる。
初めて吉がただ一人で現れた日も雨だった。
今にも雪に変わりそうな氷雨の中、吉は門番兵に「弾正を」とだけ言いつけた。
久秀は驚愕しつつも城に招き入れ、今の侍女頭に吉の世話を命じた。
何もお話しにならず、何も召し上がらず、と侍女頭は心配顔で久秀に報告した。
だが翌日、吉は今のような行動を始めた。
それで久秀は全てを理解したのだ。
ならば好きにすれば良い、と思った。
この城にいる限りは安全を保障しよう。
常に強く美しいあの女が、他では決して見せない姿を醜いと思えることが楽しくてたまらなかった。
侍女たちが吉を喜ばせるため、次々と明るい恋の歌を詠んでいる。古い歌をそらんじる者もあれば、自分の経験を詠む者もいる。吉は楽しそうに笑い、それはどういうこと、と経験を詠んだ侍女に意地の悪い質問を投げかけてはからかい、部屋は嬌声に包まれる。
吉の様子を見に部屋の前まで行った久秀は、さすがに入れないな、と独りごちて笑いながら政務へ戻った。
「歌、か。いつだったかな。藤の花見の会だったか」
政務の途中だと言うのに、珍しく久秀が別のことを言い出す。補佐の政務官が首を傾げた。久秀は彼に笑いかける。
「ほら、たまたま──私が開いた歌会に、奥州の筆頭とその右目殿が参加したことがあっただろう?」
「そんなこともございましたな。筆頭殿たちは本当に偶然、お近くにお忍びで起こしであられたような」
「そう、──そうだ。そうだな。滅多にないことだ、無理を言ってご参加頂いたのだった」
そうだ、と久秀はまた呟いた。
「そうだ、あの時だったな」
「何か、お案じなことでも」
「いや、あの時にね。笛を吹いただろう。右目殿が」
そしてまた、久秀は言う。
いつだったかな。
「いつだったかな。信長公がひとつきほど、奥州へご旅行なされたことがあっただろう。光秀殿やごく一部の側近しか知らされておらず、城は大変な騒ぎになっていたようだが。私も後から聞かされたのだがね」
「はあ……」
「瑣末なことであれど、思い出すと気になるものだな」
久秀は笑う。楽しくて仕方ない。
もしそうであれば、と思った。
もしそうであれば、
何と醜い女なのだろう、と、思った。
「弾正様、急ぎの御文が」
急ぎと言われても久秀は動じなかった。鷹揚に頷き、差し出された文を取る。
内容は分かっていた。いつもの通りだ。
立ち上がり、部屋を出た。
「まあ、それでは姫様、何ぞお詠み下さいましな」
散々からかわれた侍女が、意趣返しとばかりに吉に言っている声が聞こえる。吉がこんな遣り取りを気軽に許すとは、ここでの吉を知らない者は仰天するばかりだろう。女たちの笑い声がさざめく部屋の前で久秀は含み笑う。
吉が何か言っている。
襖を開けることは待った。
「巧く詠んだら、何をくれるの」
「ま、姫様、それは」
褒美を与えるのは吉のはずだ。女たちは一斉に笑い、久秀はその中に吉の声があることを知り、醜い声だよ、と呟いた。
「古い歌で、堪忍」
「まあ、何でございましょう」
醜い声だよ。
久秀は呟く。
だが、もうそれも──終わりだよ。
「君を思ひ 吾が恋ひまくは あらたまの 立つ月ごとに 避くる日もあらじ 」
あなたを慕うわたしの心は
いくら月日が変わろうとも
苦しみが薄れるという日があるはずもない
「笛が」
吉が静かに、静かに言った。吉が詠んだ古い歌と、その笛という言葉に、侍女たちは言葉を失う。
「お上手なの」
「どなたさまが」
辛うじて侍女頭が口を開いた。
吉の声は穏やかなままだった。
「旦那様」
久秀は心から、醜い女だ、と思う。
そして今、何よりもいとおしく感じた。
──それも、きみだ。
「吉姫、ご機嫌はいかがだね」
襖を開ける。平伏する侍女たちには構わず、立ったまま吉に告げた。
「明日、迎えに来るそうだ。したいことがあれば今のうちにやりたまえ」
翌朝、吉は城を発った。
城で着ていた蒼の打掛を捨て、文と共に届けられた紅の打掛を纏って。
侍女たちは別れを惜しむことも許されない。
何より、昨日までのどこか不安定な「姫様」ではなかった。この城を発つ時だけ彼女たちに見せる、近寄り難い威圧感と威厳を持つ、支配者の顔だった。
迎えの者もいつも通りだ。城のほとんどの者は知らなかったが、光秀という名だった。
「卿も難儀だね。毎回ご苦労なことだ」
吉の仕度が終わるまで、久秀が光秀の相手をする。
「そうでもありませんよ」
光秀は涼しい顔で答えた。
「この数日程度で、第六天魔王がまたお心を確となされるのであらば、大した難儀でもありません」
「──なるほど、なるほど」
久秀はつい、含み笑う。この男の一途なまでの感情が心地良かったのだ。
「ここ最近、やはり多少ならずのいくさ続きでありましたからね。お心もお疲れでいらしたご様子で」
「なるほど」
吉がこの城へただ一人で来る意味を、この男もよく知っている。
この場所で、確実に安全が保障された場所で──
乱世の親とならなければ、
織田家の跡取りとして産まれなければ、
せめて織田家に自分よりも賢き男児がいれば、
女として過ごしていたであろう人生を経験するのだ。
「いつだったかな」
「さて?」
「あの、藤の花見の歌会だよ。笛の名手がいただろう?」
「──ああ」
光秀がにこりと笑った。女が見れば陶然としてしまうであろう、あの美しい顔で。
だが久秀は見逃さない。この男のこんな笑顔は、何かの感情の動きを隠す時のものだと知っている。
「奥州の、竜の右目殿のことですね。確かに素晴らしい笛でした。あのような武人がよもや──」
「そして、いつだったかな」
男の言葉を遮り、久秀は話す。
「信長公が極秘で奥州へご旅行なされたのは。いつだっただろうか。忘れてしまったのだ、お教え願えまいか」
美しい顔立ちの男は黙る。仄かに血のにおいが立ち上ったような気がして、久秀は含み笑う。そのにおいで知った。
吉が笛をあれだけ嫌がった理由。
吉が詠んだ古い歌の真の意味。
「言うなれば」
光秀を見据え、声を出して笑いたくなる衝動を堪えながらゆっくりと言った。
「ぬばたまの 夜渡る月に あらませば 家なる妹に 逢ひて来まし──と、言うところだろうかね」
我が身が夜空の月であれば
お前に会いに行き 帰ることが出来るのに
「……古い歌ですね。おさすがでいらっしゃる」
また男の顔に浮かんだ笑みと立ち上る血のにおいに、ああ、この男は今、私を殺したくてならないのだろうな、と久秀はまた笑い出したくなった。
「私は見たことがないのだが、ね」
「何をですか」
「奥州の月。大層見事と聞くよ」
今度こそ光秀は黙った。
今度こそ久秀は声を出して笑った。
「つまらないな。卿がそれでは、な」
吉の仕度が終わった、と使用人が告げに来た。
久秀は立ち上がる。
これからあの見事な美姫を見送る。束の間の休暇を楽しんだのか、それとも──
「姫」
吉の部屋へ入り、声をかける。紅い打掛が美しかった。
そして──あれほど醜いと思っていた吉が、何よりも美しいと思った。
「やはり、きみは美しいね」
「黙りやれ。光秀はもう参ったかえ」
言葉も元に戻っていた。久秀は深く微笑んだ。
そう、これもきみの姿だよ。
私はこちらの方が美しいとは思うがね。
あの彼もこちらのきみを慕っているのだろうね。
だが、あの彼は分かっていないようだ。
「無論。あちらで待ちくたびれているよ」
「あれはどれほど待たせても、わらわが現れれば笑うてみせる愚か者ぞ」
「それほどきみを慕っているのだ、袖にしすぎるものではないよ」
「あァ、いや、いや。気味の悪い。あれはなァ」
吉は言う。
わらわなぞ慕っておらぬ。
あれが慕っておるのは──第六天魔王だけよ。
その言葉に、久秀は微笑んだ。
「瑣末なことだよ」
吉がちらりと久秀を見る。その目は支配者のものだったが、どこかに違う色があった。
瑣末ではないのに、と言いたいのだろうか──久秀は思う。
だが口にしたのは違うことだった。
「また、いつでもおいで。新しい打掛を用意しておこう。──蒼の、ね」
普段、きみが着ない色を、ね。
「姫」
「何だえ」
「すべて」
蒼の打掛を着るきみも
私の寝床に子供のように入り込むきみも
城の中を気ままに歩き回るきみも
好きな甘いものしか箸をつけないきみも
誰かを慕って苦しむ愚かなきみも
血を纏い 戦乱の親として 私には分からぬ何かを目指す美しいきみも
あの彼は分かっていないようではあるけれど
「すべて、きみだよ」
──私はきみの全てを醜く思い、美しく思い、いとしく思う。
「きみが求めるものを、知りたいものだな」
吉はしばらく久秀を見つめていたが、やがて──鼻で笑ってみせた。
「からっぽの男が、ようも贅沢を申すわ。欲しいものを見極めてから参りや」
「からっぽ? 私がかね?」
「ふん。──御免なんしえ」
予想外の切り返しに思わず眉を顰めた久秀に流し目と挨拶を送り、吉は裾裁きも鮮やかに部屋を出て行った。
「欲しいものを、見極めて──か」
妙なことを言う女だ、と、久秀は独りごちる。
ほんの一瞬、胸の奥に生まれた焦燥感には気づかない振りをした。
「奥州の月」
──見たいものだな。
呟き、吉を見送るため、紅い打掛の後をゆっくりと追った。