rain out 02



夜通し降り続いた雨は、朝方には霧雨に変わっていた。示し合わせたわけでもなく、二人は一睡もしなかった。眠りたくなかった。目覚めた時に雨が熄んでいたらと思うと眠れなかった。
昨日は厚い雲に覆われていた空から、僅かに陽光が差している。明り取りの窓から差し込む弱い光に、どちらからともなく肌を合わせる。額を寄せ、唇を何度も合わせた。
だがそれも、確実な終わりが来る。
小屋の外に複数の気配を感じた。具足の音もする。愛刀を引き寄せる小十郎の手に、吉がそっと手を重ねた。小十郎も分かっていた。
「まだ」
吉が呻くように声を漏らす。
「熄んでおらぬ」
「──そうだな」
小屋の扉の前で具足の音は止まった。だが小屋を囲まれたことも分かっていた。
小十郎は立ち上がり、乾いた小袖と袴を身に着ける。誰かが見れば驚いたかもしれない。──吉が着付けを手伝ったのだから。
その仕草に小十郎は微笑した。初めてだな、と言うと、吉は含み笑い、自らも小袖を纏った。
扉が激しく叩かれた。粗末な扉を壊してもおかしくないほどの強さだった。
「開けませい! 中を改める! 開けませい!」
吉を囲炉裏の傍へ戻らせて土間へ降り、小十郎はまだ少し湿っている草履を引っ掛けて扉の前に立つ。
「名乗られよ」
小十郎の声が響いた。朗々たる声が扉の向こうから返って来るとは予想していなかった男たちが驚いた気配を感じる。
「先に名乗ろう。奥州筆頭が右目、片倉小十郎である。中を改めるとは如何なる所存か」
扉の向こうで複数の囁き声が聞こえた。どうするか迷っていることが手に取るように分かる。小十郎は黙って待ち、吉は手櫛で髪を梳いていた。
やがて一人が声を上げる。
「最上義光公が配下の者でござる。さるやんごとなき御方のお迎えに上がった次第。無礼はお詫び申上げるゆえ、何卒、中に踏み入る御許可願い申し上げたい」
この男たちは夜通し、あの雨の中、姿を消した客人を探し回っていたのだろう。もしかするとあの光秀も、と小十郎は思う。思い出したい男ではなかった。
「確かに最上と申したか」
ここに最上の兵が来たことに驚きもしなかった。分かっていたことだ。
「さようでござる」
だからこそ、小十郎は自らこの地へ赴いたのだから。
最上義光が尾張の魔王と三河の葵の男に取り入ろうとし、自領で大々的な茶会を開く。最上にしては思い切ったことをするものだ、と聞いた者は囁き合っていた。
そうだ。
だからこそ、自ら──
「──確かに、お前たちが探している相手はここにいる」
「まことでござるか!」
「嘘を言って何になる」
「い、如何なることにて──」
「たまたま会った雨宿り先で川が溢れるところだった。その前にここまで連れて来た」
「それはかたじけのうござる。して、その、何も──その、なかったのでござろうか」
つまり、小十郎が客人に手を出したのではないかと危惧している。当然のことだろうな、と小十郎は思った。客人が旅先で犯されたとなれば、彼らが責任を問われる。ましてや相手が相手だ。
「俺は妻しか抱かねえ。安心しろ」
嘘は何ひとつ言っていない。背後で吉が僅かに笑った声が聞こえた。兵たちも露骨に安堵していた。
この先はわざとゆっくりと言葉を紡いだ。
「安心しろ。お前たちには何の咎もねえだろう。──奥州の地に具足を纏った最上の兵が無断で足を踏み入れ、竜の右目にかち合ったとしてもな」
扉の向こうで動揺の気配があった。小十郎が政宗に上奏すれば政治問題になるという事実に思い至ったのだ。
小十郎は殊更に静かに言う。
「俺が忘れりゃ、問題はねえ。互いに賢い雉は嫌いじゃねえだろう」
兵たちは返事をしない。できないのだ。小十郎は尚も続けた。
「この雨の中、お前ら、大事な客人を歩かせるつもりか」
そして言った。
全ての思いを込めて言った。
「熄むまで待ってろ」
返事を聞かず、草履を脱ぎ捨て、囲炉裏の傍へ上がる。身支度を整える妻の手を取り、言った。
「支度なんざ後でいい」
「おまえさま」
「まだ、熄んでねえ。だから」

傍にいろ。

囁くように告げられたその言葉に、吉は黙り、ただ頷いただけだった。




一時ほどして雨が熄んだ。
冷たい霧雨の中、待ち続けていた最上兵たちは安堵の溜息を吐く。雲の隙間から差し込む光が束となり、地上を暖め始めていた。
再び扉を叩こうと、雨宿りをしていた木の陰から出る。
前に立ったその時、何の前触れもなく扉が開いた。慌てて隊列を組み、竜の右目に侮られないように背を伸ばす。
だが思わず驚愕の声を上げるところだった。
出て来たのは片倉小十郎ではなかったのだ。
紅い打掛を頭から垂らした女がいた。
「よう参った」
噂に聞く冷徹な声が与えられる。
彼らは言葉も出ず、出来得る限りの最速でぬかるんだ地に膝をつき、平伏した。
「うぬらの迎えが遅うて、斯様な目に遭うたわ」
「まこと、申し訳ござりませぬ!」
「ささと動きやれ。狐の髭も萎れる頃合ぞ」
「只今、馬を参らせます!」
木陰に繋いでおいた馬を引きに、一人の兵が走る。すぐに馬は用意され、後は乗るばかりとなった。
「恐れ多きことながら、それがしが御身を馬上に差し上げます御許可賜れましょうか!」
女の旅装で馬の鞍に上がるのは難しい。兵の一人が震えを隠した声で申し出る。
だが女が言った。
「右目。乗せい」
最上兵たちははっとして、一言も発さずに扉の前にいた男を見る。
男は僅かに女の背中に目礼した。それが最上兵の手前だからだと知る者は二人だけだった。
小十郎は女を抱き上げる。
驚くほど、軽い。
「鐙に、足を」
「是」
動いた弾みに手が触れ合う。
小さな手だと思った。
この軽い身体で、この小さな手で──小十郎は思う。

──お前は、どれほどのものを背負っているのか。

馬に乗った女を見上げる。
美しい女だった。雨上がりの天から現れた天女のように美しい女だった。
だが、思った。

こんな女は。
知らねえ。

「右目」
女が言った。
小十郎を見ぬままに。
「世話になった。礼を申す」

小十郎は黙って目を伏せる。
そして慇懃に頭を下げた。

織田上総介信長へ。




囲炉裏の火を消し、簡単な掃除をする。使った者が掃除をするのが礼儀だった。
今日のことは政宗に報告すべきか、帰る道々で考えれば良いと思った。
目的は果たされた。
果たされる確率は恐ろしく低かったはずなのに。
肌を寄せ合い、話したことを思い出す。

──お前に会えるんじゃねえかと思って、来た。情報収集の役目は口実だったんだ。

そう言うと妻は驚いた顔をし、そして次に笑い出した。

──ああ、おかし。

本当に嬉しそうに、楽しそうに、妻は笑っていた。

──同じことを考えて、抜け出して参ったのだえ。

「ったく」
土間の掃除を終え、旅装を整える。帰りはどこかで馬を都合することにしよう。あまり長く政宗のもとを離れているわけにはいかない。
「振り回される下っ端どもの迷惑も考えねえで、仕方ねえ奴だ」
小屋の外に出、空を見上げる。
雨上がりの空は澄み渡っていた。また、春が来るまでは繰り返される雨が降るのだろうか。
陽光の眩しさに目をすがめ、溜息をつく。
「俺まで、雨が嫌いになりそうだ」

扉を固く閉め、歩き出す。
主君のもとへ帰るために。