rain out



本来なら聞き流し、部下に確認させる程度の話だった。それでもふと気になることがあった。だから自ら足を運んだのだ。
情報収集を担当する部下には、自分が行きましょうかと心配顔で言われたが、今回ばかりはそれを断った。
旅装に扮し、白い息を吐きながら、いまだ雪の残る街道を歩く。
街道とは名ばかりで、ここを通る者は滅多になかった。地元の村人すら少し離れた場所に住んでいる。だからこそ、小十郎のような目的で歩く者には好都合だった。
脇には増水した川が流れていた。連日の雨で流れも速くなっている。甚大な被害が出るほどではないが、稀に氾濫を起こす川だった。
今日も今日とて天気は良くない。春の前の長い雨がまた降るのだろう。この時期の雨は冬の最後の寒気を纏い、酷く冷たくなるのが常だった。
この道の先には最上領がある。城下まで足を踏み入れるか否か、小十郎はいまだに迷っていた。
国境沿いの村よりも、城下の方が情報を手に入れやすい。人の数が違う。だが旅装とはいえ、この時期に他国へ足を踏み入れる者は目立つ。特に小十郎は自分の長身と風貌が殊更に目立ちやすいことを自覚していた。
さて、どうするか。考えている間にも歩みは進む。
そして不意に、頬に冷たい粒が当たった。弾けて垂れるそれを溜息をついて拭う。雨が降り出したのだ。遠くではごろごろと、大質量の何かを転がすような音まで聞こえる。空はご丁寧に雷までも準備しているらしい。
「勘弁してくれ」
強く厄介な雨になると予感し、誰にともなく呟いてしまった。この街道は所々に屋根のついた小休憩所があったはずだと思い出す。雨が酷くなる前に辿り着くことを願い、半ば走るように歩みを進めた。
一刻も進まないうちに休憩所に辿り着いた。雨が本降りになっていたため、小十郎は本気で有難いと思う。
粗末な木の長椅子しかないが、冬の雪の重さを警戒し、屋根と後ろ壁はしっかりした造りだった。強い雨でも凌げるだろう。
街道から少し離れた場所には本格的な避難所の小屋があるが、雨と川の様子を見て動くか否かを決めることにした。
息を吐き、濡れてしまった胴服を脱ぐ。小袖はまだそこまで濡れていなかった。袴の裾は跳ね上げた水と土で汚れていたが、これは諦めるしかない。徒歩の旅装であれば当然だった。
そこで初めて気づく。
長椅子の端に誰かが座っていた。屋根と後ろ壁、そして天候のせいで顔はよく見えない。
だが、女だということは分かった。どこかの武家の女なのか、身分に相応しく外出用の打掛を頭から被っている。暗い中でも僅かに光る刺繍の糸の色が、質のいい打掛だと教えた。雨のせいで気温が下がっている。防寒を考えれば打掛を外せないのだろう。
こんななりをしているのならそこそこ良家の子女、もしくは奥方だ。

小十郎は唇を噛んだ。

本来ならば一人でこんな場所にいるはずがない。必ず供がいる。だが気配を探っても、近くには誰もいなかった。
小十郎は無言で女とは反対側の端に腰掛ける。
雨の音が強くなった。雷も僅かずつ近付いている。目の前の川が濁り、ますます流れを速くし、雨の音に負けないほどの轟音を立て始めていた。
「一人のとこ、すまねえな」
女は答えない。小十郎は続けた。この女が聴いていることは分かっていた。
「せめて雷が過ぎるまで、ここにいていいか」
雷はまだ遠い。少し長い時間になるかもしれない。
奥州で伊達を気取るなら、「婦人が見知らぬ男に怯えないように」、こういう時は冷たい雨に濡れることを覚悟で次の小休憩所を目指すべきだと分かっている。そして他の時ならそうしている。
今は、しないと決めた。否、決めるまでもなく当然だと思っていた。
暫しの沈黙の後、女が小さな声で打掛の下から答える。
「雨が熄む、まで」
「……そうするか」
それきり二人は黙る。
心臓が痛い、と、小十郎は不意に思った。
さあさあと降る雨の雫が屋根に当たり、不規則に鈍い音を刻む。
何も話さなかった。旅先の小休憩所で出会った同士などそんなものだ。ましてや武家の男と女、初対面で親しく話すものでもない。
だがやがて、小十郎は口を開く。当然のように。
「濡れなかったか」
「少し」
女の答えは短い。そうか、と小十郎は呟くように返した。
「どこへ行くんだ」
答えはなかった。小十郎はまた、そうか、と呟く。誰かが聞けば妙な会話だと思ったかもしれないが、小十郎にはこれで充分だった。
それから小十郎は他愛もない質問をする。女は答えたり、答えなかったりを繰り返した。答えたのかもしれないが、屋根に当たる雨粒の音が女の声を掻き消していた。
やがて長い沈黙が降りる。聞こえるのは雨と川の水の流れの音、近付く雷の音ばかりだ。どこかで落雷が起きていた。
雨脚が強まり、外から跳ねた雨粒が小十郎と女の足元を濡らす。
心臓が痛い──小十郎はそう思った。心臓が痛い。胸を誰かに鷲掴みにされているような感覚。強い鼓動が雨の音よりも大きく、身体の内側から響き渡っている。
「俺と」
小十郎は遂に呻く。女の反応に絶望感すら感じていた。
「話すのは、不愉快か」
瞬間、女は首を激しく横に振る。何度も振る。小十郎は驚く。こんな反応をされるとは考えてもいなかった。
女は相変わらず頭から垂らしている打掛の端をぎゅうと握った。驚くほど白い指だった。

何も変わっていない指だった。

「嫌じゃねえのか」
今度は頷く姿に、小十郎は苦笑した。胸の痛みが僅かに治まったような気がした。
女が喋らないと感じ、再び口を開く。
「長い雨だ。熄んだら春が来る」
厚い雨雲に覆われた空を見上げる。
「雪も溶ける。空気も水も、綺麗なもんだ。見たことあるか」
女はゆっくりと首を横に振った。小十郎は奥州の春の景色を話した。
雪解けの水の冷たさと清らかさ、城下の桜、花見の賑わい。
長い冬を終えた人々の喜び。
そこにこの女がいないことを、不意に寂しく思う。
寂しさに一瞬負けて言葉を途切れさせた小十郎に、女はやはり何も言わなかった。
強い雨と川の音、雷が二人から言葉を奪っているわけではない。それでも小十郎は言葉が見つからなかった。女が何か話せばいいのに、とまで思った。
「なあ、お前」
その呼び方は他武家の子女に対して、余りに無礼なものだった。
だが気にすることもなかった。
この女が怒るとは思わなかったから。
「雨が熄んだら」

俺と、来い。

その言葉を言うことはできず、そのまま、また小十郎は黙り込んだ。
言えるはずもないのだ。この言葉だけは言えない。
長椅子の端と端、手を伸ばしきらなくても容易に触れられる。
手を伸ばせばいいだけだ。
伸ばせなかった。伸ばしてはならないと分かっていた。
大した距離ではないはずなのに、感じる遠さは何なのだろう。
足元が冷たい。跳ねた雨が容赦なく爪先から体温を奪って行く。厚手の小袖も下着も、迫り来る寒気にじわりじわりと敗北を喫し始めていた。
不意に気づく。そして己の迂闊さを呪った。女に気を取られすぎていた。
目の前の川がいつの間にか酷く増水している。濁流となって決壊するほどではないだろうが、確実にこの場所まで水が来ることが予想された。踝程度までの水位だとしても、身動きが取れなくなる。移動できるうちに避難小屋へ逃げるべきだろうか。
水位をよく見ておいた方がよさそうだ。濡れることを覚悟で少し川辺まで行っておこう、と腰を上げ、濡れた胴服を閉口しつつ纏って屋根の下を出る。たちまち強い雨が小十郎を打った。
その時だった。
「……お前」
「まだ」
「濡れる、戻れ」
女が小十郎を追うように──明らかに追ったのだ──屋根の下を出て、雨に濡れるのも構わず、その小袖を強く引いたのだ。
叩きつけるような雨が二人を瞬く間ににずぶ濡れにしてしまう。女が被った質のいい打掛も、それを纏う女の艶やかな髪も、白い肌も。
「まだ、熄んでいないではないの」
女の声は震えていた。雨の冷たさのせいではなかった。
何を言えばいいのか分からず、小十郎は言葉に詰まる。
女は言った。この女を知る者なら驚くであろうほど、縋る声で。
「雨が熄むまで、いなさると、仰ったではないの!」
その声は小十郎を抉った。まるであの日の声だった。あまりにも苦痛で、意識的に心の奥底に封じていたあの声と言葉を今、鮮明に思い出す。

──最後まで、夫婦だと、仰ったではないの!

頭の中で鳴る音は警鐘だ。やめろ、と軍師の自分が鳴らす警鐘だ。
分かっている。それが正しいことだ。
ただ、雨の日に同じ場所で雨宿りをした女だと思って忘れることが正しいことだ。
それでも──自分は愚かだ。
これほどまでに愚かだと思ってもみなかった。
雨の中、忘れるべき妻をかたく抱き締めた愚かな己を、冷徹な軍師の己が苦々しく、侮蔑の瞳で見ていた。
「ゆき」
名を呼ぶ。本当の名ではないと知っている。記憶を失っていた妻に小十郎が与えた名前だ。それでも、小十郎はその名しか知らない。妻の本当の身分も何もかも、その名で呼んでいる限り、小十郎には関係なかった。
腕の中で妻がかぶりを振る。その名前ではないと言いたいのか。あの、本当の名を呼べと言うのだろうか。それは嫌だと小十郎は思う。雨の冷たさで色を失い始めた妻の唇が動いた。
「吉」
きつ、と言った。それが妻の名前なのだと、小十郎は初めて知った。あの誰もが知る本当の名前ではなく、だがこれも本当の名前なのだと知った。
雷鳴と大粒の雨の中、ただ、吉をかたく抱き締めた。俺は愚かだ。心底思いながら、小十郎はただ、たとえようもない幸福感に浸っていた。
確実に別れが待つと分かっていても、束の間の幸福感に溺れることを止められなかった。




避難所になっている小屋には誰もいなかった。元々人が滅多に通らない街道の避難所で、そして最近の雨では更に人は減る。着物も髪の毛も何もかもから雫が滴り落ち、体温が奪われた吉の歯の根が鳴っていた。小十郎も冷え切っていたが、鍛え方が女とは違う。
雨水の滴る胴服と袴を土間に投げ、小十郎は小袖一枚で板の間へ上がった。囲炉裏に火を起こし、避難して来た者が自由に使える乾いた布を吉に渡したが、焼け石に水のようなものだ。炭が焼けるまで火鉢が使えないことも痛手だった。
「来い」
低く言い、土間の上がり框で濡れた髪を拭いていた吉の腕を掴む。
氷よりも尚冷たい肌に、初めて吉と出会った日を思い出した。
あの日も、この女は冷え切っていた。
──俺は愚かだ。
自嘲しながら吉を抱いた。寝具も何もない、どこかで雨漏りの音まで聞こえる粗末な場所で、冷え切った互いの身体の奥底から熱を引き出すように抱いた。
吉が、そして自分の身分では本来考えられない場所だ。まるで下々の者が時間に追われるように、慌てて情を交わすかのごとくだった。
あの日のことを思い出すことすら厭わしい。だが、あの日々のことを思い出すだけでいとおしい。
日々の中、不意に思い出すのは別れの瞬間ばかりだった。あの時はああするしかなかった。気づかなければよかった、知らぬままであればよかったと何度思ったことか。
否、気づいても、知ってしまっても、知らぬ振りを貫けばよかったのだと何度思ったことか。
思い出すたびに例えられないほどの焦燥感、後悔、女々しい自分への自嘲、ともすれば吐き気にまで襲われていた。誰にも言うことはなかった。事情を知る政宗にすら、言ってはならないことだと分かっていた。
振り払うように強く吉を抱く。最後まで夫婦だと誓った女を抱くことに没頭する。衝動が止まらなかった。過去の後悔と甘い記憶、吉の喘ぎに煽られ、喉に噛み付きさえした。吉は悲鳴を上げるが、小十郎にやめろとは言わない。痛みを与える男に縋り、喘ぎ、小十郎を呼んだ。あの日々のように呼ぶ。──おまえさま。
ただの女として夫と過ごした日々を取り戻すかのように、何度も呼んだ。小十郎もただ、きつ、と呼ぶことしかできなかった。
あの日々に思ったことを、小十郎はまた強く思う。

──ただの、女だ。

夫を気にし、夫が微笑めば喜び、夫を心配し、夫を頼る、甘えるのが少しばかり下手なただの女だった。あの日々の吉は確かにそうだった。
いつも笑っていた。だから小十郎もいつもより笑っていたかもしれない。
いとしいと、確かに思う日々だった。
それを無理矢理、たとえ正当な理由があったとしても、本来の場所へと戻した。戻さねばならなかった。
ただの女であってはならない場所──日の本を掌中に収める寸前の覇者であるべき場所へ戻さねばならなかった。

政宗の言葉を思い出す。あの後、一度だけ政宗が「ゆき」について言ったことがあった。


お前にとっちゃ普通の奥さんだろうけどな。
奥州にとっちゃ爆弾だった。
拉致ったって口実で、奥州が包囲されかねなかった。

すまねえ。
小十郎。

お前の奥さん、守ってやれなくて、すまねえ。

「お前が」奥さんを尾張に帰すって提案しなけりゃ、
俺、情にほだされて、奥さんを奥州に置いとけって言っちまったと思う。

奥州を守ってくれて、有難うな。

すまねえ。
有難うな。


ようやく火勢を増した囲炉裏の横で、腕の中に吉を収める。
奥州を守るために手放した妻を抱き締めていた。
出会わなければよかったのだと思ったこともある。
出会ってしまった。魔王でも何でもない、ただの女に。
いとしく思った。夫婦になった。
何が過ちで、どこから間違えていたのか、それは比類なき頭脳を持つと言われる小十郎自身ですら分からなかった。
吉は分かっているのだろうか。不意にそんなことを思う。だが問う気にはなれなかった。
「きつ」
「ん」
「もう一回、呼べよ」
「ん?」
「おまえさま、って。言ってくれねえか」
吉が微笑む。あの日と同じように。
「──おまえさま」
蕩けるような甘い声に、小十郎はまたいとしさが募る。こんな声を他に聴ける者はいない、自分だけだということがなぜか分かる。
「さっき、何で何も喋らなかったんだ」
雷鳴が遠のいている。雨音だけが激しかった。夜通し降るのだろうか。降り続けろ、と小十郎は願った。何日でも、なればいっそ永遠にでも。
「さっき?」
「ああ」
「おまえさまが、お話しあらしゃって」
「ああ」
「……聴いていたかったのだもの」
思わず小十郎は言葉に詰まる。
「……お前、それは」
反則だ、と思った。
余りにも可愛いと思わせる、ある意味、禁じ手だろうと。
「俺だって、そうだ」

お前の声が聴きたかった。

小十郎がそう言うと、吉は小十郎の胸元に頬を擦り付けて抱き着いて来る。小十郎もまた抱き締め返した。
雨は熄まない。いつか熄むと分かっていても、永遠に熄むなと願う雨だった。
濡れた着物を囲炉裏で乾かし、火鉢を起こす。
それから時間の過ぎるままに話をする。乾くまで着るものもなかったが、肌を寄せていればいいと吉が言った。小十郎にも異論はなかった。
政治の話は何もしなかった。敢えて避けた。互いの勢力が敵対していないとはいえ、この時代、いつどうなるか分からない。少しでも哀しい可能性があるのならば、今は口に乗せたくはなかった。
少しずつ、雨が弱くなっている。気づいた吉が夫に身体を摺り寄せる。小十郎も無言で妻を抱き締めた。
「雪が、いや」
吉は嫌いという言葉を遣わない。いや、と言う。それはあの日々の中、小十郎も理解していた。
「雪が?」
「いや。熄むのが、いや」
「──そうか」
理由は問わなかった。分かるような気がしたからだ。
あの日、雪が熄んだら山を降りようと言ったのは小十郎だった。
「でも」
「ああ」
「雨も。もう、いや」
何も返すことができなかった。
ただ強く抱き締めるしか、してやれることがない自分を呪った。